◎ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(DA:CD-R)?live
これはロックコンサートである。ミュンシュはボーカルでありオケはバンドだ。全楽章から比較的長時間収録されているが、まさにライヴ!といった感じ。私は恐らくミュンシュの悲愴でこれが一番好きである。荒削りであるべきなのだ。チャイコは彫刻し尽した完成品を提示するような楽曲は書いていない。ミュンシュは本番ではわりとぎゅっとまとまった演奏をやる・・・力強く説得力を主張するもどこかマンネリズムのにおいがする。だがここではミュンシュは感情を抑えない。3楽章の怒涛が一番の聞き物で、ミュンシュは感情の高ぶりのままアッチェランドして平気で終わらせる。これが凄い。実演ではここまでやらない。あけすけに下品な声をあげ調子外れの歌をうたい(一緒に収録されているラヴェルやダンディでは音を間違ったりしている)、怒号を飛ばしたかと思えば落涙の果てに落ちるような雰囲気を醸す。だが1、4楽章に聴かれるように女々しいのは嫌いなのだ。しゃがれた低音の声を張って訛りのある言葉を、でもよく通る言葉をはなつ。実にはっきりしている。実に人間的で、ああ、バンスタは・・・この土壌の上に。ミトプーとは音楽的には似ているが性格的には恐らく違う、バンスタはミュンシュのほうに近い。
これは本当に、悲愴は確かにミュンシュの得意とする曲目であったが、1,3楽章は今生まれ出ずる音楽として素晴らしいし、4楽章は通常のリハーサルがじっくり聞け解釈をよく理解できる。感情に任せた終盤のテンポ設定、指示ぶりが凄い。まるで悲愴という名の芝居を聴いているようだ。心臓が止まりにかかる末尾ではヘロヘロな声を出してみせ、ミスティッシモと囁く。かといったら大声をあげ、nine after ”Naporeon”、指揮台を何度も大きく踏み鳴らしながら、デモーニッシュな声を最後まで振り絞る・・・千両役者はもちろんミュンシュである。声だけだとピーター・ガブリエルに似てるが振る舞いも似ている。
2楽章は僅かしかないがミュンシュにはワルツはどうでもいい。それにしても指示のはっきりした強烈な指揮者だ。だが怒りではない、団員に笑わせるだけの、逆説的にそれだけの威厳がある。ヤマカズ先生・・・◎にさせてほしい。録音は悪いが低音はよく出ている。ボストンの強烈な音!50年代の放送録音と思われる。チェレプニン、ラヴェル、ダンディとともに収録。
(参考)ミュンシュの悲愴チャイコフスキー:交響曲第6番ボストン交響楽団 ミュンシュ(シャルル)BMG JAPANこのアイテムの詳細を見る |
そして終わったら完璧な静寂が欲しいのに・・・
俺はね、いまだに分からないのだ。
なぜ拍手するのか。
ご苦労さんと言いたいのなら無音を保てと言いたい。
オケが引っ込むまで呼吸するなと言いたい。
それが出来ないのなら聴きに来るなと大声で叫びたい。
私、この曲だいぶ後まで3から4はアタッカだと思ってました。二、三回弾いたはずなのに。
トスカニーニのライヴで、怒涛のような終結に拍手がまきおこっているのがありましたが、あれだけ凄いと起こって当然かと思いました。
ミュンシュのリハ、そんなに凄いんですね。BSOとのスタジオ録音、私は好きです。
調子のいい音で調子の乗って拍手しているだけの行為。
本来倍管でもってもアタッカで入る事が必要なのだ。
と言うか客なんかいない方が良いのだ。
演奏の邪魔でしかない。
絶対的な緊張感で持って弾かなければならない4楽章の冒頭に拍手の余韻は要らない。
最高なのは無人のホールだ。
よく響くし。
本当に客なんてイラネ。
途中までしか出来ないけどね。
本番では出来ないからせめて自己満足でやろうって事でやったなぁ~
最高の4楽章の入りが出来たのを思い出した。
惜しいね・・・
なかなか思う通りに出来ないね。
あえぐような切れ切れな旋律の合間に無音状態必要なのに咳とか聞こえる。
でもまぁ結局はそう言う事をさせてしまうのは演奏する側の問題なんだろうな。
身動きひとつ出来ないような演奏をしないといけないのだ。
ましてや音がやむのを待って拍手してやろうなんて考えを持つことをやめさせるような演奏が必要なんだ。
全ては技量不足か・・・