弦楽四重奏曲第2番
<ボロディンに飽きたとお嘆きの貴兄に。少々冗長なところもありますが、3楽章から4楽章への流れはボロディン的な響きの美しさを維持しながらも、構築的なドイツ音楽を取り入れた面白い聞き応えの曲になっております。また4楽章には少々モダンな響きも出現して、クーチカやチャイコフスキーの次の世代を予感させるところもあります。3楽章第2主題の儚げな夢幻の世界は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番2楽章を予感させる素晴らしいものです。”グラズノフ”は名前で損していますが元来「美しい」作曲家なのです!ビオラ・ソロも聞き物。あと、3~5番もそれぞれ個性的で、お勧めです。 >
○ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)CD
弦楽四重奏曲第4番
○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP
俗っぽい悲恋話を背景にしているとの伝説のある、グラズノフにしては珍しい一貫して晦渋な作品で、構造的な書法が目立つこともその印象を強くしている。交響曲第8番2楽章あたりの近代ロシア的な陰鬱さに通じる。グラズノフは形式音楽におけるスケルツォ楽章を、他の楽章との対比的なものとして完全に独立した異なる楽想により描くべきである、ということをどこかで公言していた記憶があるが(直接聞いたわけじゃない)、この曲においては3楽章がそうで、ボロディンふうの軽やかな楽想がチャイコフスキーふうの構造に昇華された妙に明るい民族的楽章となっているが、これを別とすれば他楽章はいずれも重厚な雰囲気を持ち、関連する動機や(頻繁に揺らぐけれども)ハーモニーを用いており、バッハやベートーヴェンの模倣といった古典回帰の傾向を強く打ち出している(ベートーヴェン指向は5番でより強くなる)。
グラズノフを強く印象付ける要素としてのポリフォニックな書法がここにきて全面に立ってくるのは特筆すべき点と言える。4本が重音でユニゾン主題を奏でる部分でのオルガン的な音響など余りグラズノフでは見かけないものも聴かれ(視覚から聴覚にシフトしてみた)、そういった作り込みがアンサンブル好きや演奏者サイドにとっては他の単純な室内楽に比べて魅力的になっているとも言えよう(「いえよう」と書かないところが、さるお方との違いを示しているのだ。・・・こういう「いちいち」な書き口、やっぱり読みづらい、やめたほうがいいです<誰に向かって?)。
かといって2、3番から離れて複雑になったわけでもない。終楽章など3番同様ファーストが弾きまくるだけの部分もある。寧ろその点更に円熟した技巧の投入された多彩且つ壮麗な5番が別の場所に頂点を築くわけだが、3番のように民族楽器表現の模倣に終始したり1、2番のようにボロディン的な世界を追求した、より単純で軽やかな作品とは一線を画していることは確か。タネーエフQがこの4,5番を録音演目に選んだ理由はなんとなくわかる。
で、演奏なのだが、やっぱりプロの室内楽士としては技術的な限界も感じる。裏板に響かない金属質で細い(でも柔らかい)音のファーストがどうにも私は好きではない。他のパートとの音響バランスが悪いのだ。予め設計上手を入れすぎているのではないかというところが気になるのは、この曲の録音が殆どショスタコーヴィチ四重奏団のものしかなかったからそれとの対比で、ということでもあるのだが、全般とにかく遅いし、1楽章で特に気になったのはやたらと音を切ってニュアンスを変え主題を際立たせようとしているところ。グラズノフはきちんと書いているのに、却ってわかりにくくしている。事前設計上冒頭のテンポを極端に落としコーダまでに徐々にアッチェルしていく、というやり方が両端楽章で聴かれるが、板についた表現になっていないので生硬さだけが印象として残り、ただでさえ上記のような余りよくない印象があるのに、更に下手な楽団であるかのような錯覚を覚えさせてしまう。
面白い。シシュロフもこんな4番はやらなかった。だが、3楽章においてもあまりの遅さに辟易としてしまった(ショスタコーヴィチ四重奏団が速過ぎるということなのだが冒頭に書いたグラズノフの主張からすれば緩徐楽章に挟まれたスケルツォの対比的な表現として正しいテンポだと思う)。
ファースト批判ばかりしているわけではなく、他の楽器も人工的な変化を人工的とわかるように入れており、同じようなものではある。痙攣ヴィブラートでちょっと民族的な音を出している場面もありこれはボロディンQとは異なるタネーエフQの個性だろう。ただショスタコーヴィチ四重奏団はもっと露骨に印象的にやっている。ミスの有る無しという子供みたいな観点からはショスタコーヴィチ四重奏団は最高音の音程を外すなどやらかしているところがあるがこれは左手を柔らかく使う奏法からくるものでもあろう。それに比べてタネーエフ弦楽四重奏団はミスが録音されていない。これは人によっては重要な点かもしれない。
弦楽四重奏曲第5番
<最近ショスタコーヴィチを聞き直している。久しく聞いていなかった「レニングラード」などに改めて感服したりなぞしている。緩徐楽章にブルックナーやマーラーのエコーが聴こえるたびに、ああ前の世代を否定する事により成り立っていた「モダニズム」の、「次の」世代なんだな、と思う。音楽院時代の師匠にして個人的恩人でもあるアレキサンダー・グラズノフは、ロシア五人組、とくにボロディン・リムスキー=コルサコフの継承者として約束された道を歩んだ。外来の音楽家や、チャイコフスキーらモスクワ音楽院の折衷派とも活発に交流したが、踏み外す事を許されぬ道はそのままペトログラド音楽院長へと続き、表向き闘争する側に回ることも許されなかった。結局作曲家としては殆ど忘れられることとなり(寧ろ指揮者だった)、困窮の亡命者という末路は「破滅」だったと言ってよいかと思う。
グラズノフの才能はどのみち限界に当たったのかもしれないが、最盛期までの流麗な佳曲の数々に触れるたび、時代の波に翻弄された帝政ロシアの「最後の波(byブラームス)」に同情する気を抑えられない。音楽的系統樹を切り倒す暴風~ゲンダイオンガク~への防波堤となったグラズノフは、ストラヴィンスキーやプロコフィエフという異能と対立する事もあったが、あくまで個人的趣味の上に留め、その才能についてははっきり認めていた。寧ろ自分の耳がロートルなのかもしれないという発言は、マーラーがシェーンベルクに語ったこととよく似ている。それゆえ「潰す方向」に動く事は決してなかった。ソヴィエト時代の権力的音楽家が真の才能を持った音楽家を押さえつける構図とは全く異なる。ショスタコーヴィチの才能はこの暖かな温床の上にすくすくと芽を伸ばした。程なく大輪の花が開く。そして半世紀以上にわたり花が付き続けた。世界中に種を撒いた。あの鉄の壁の向こうから、壁など無いかのように力強く響く音。音楽史の流れからいえばそれはとても先端のオンガクではなかった。だが現在20世紀が終わるにあたって、この世紀において最も才能に満ち溢れ、しかも真摯であった作曲家が誰かと考えてみると、DSCHの4文字が浮かんでくる(多様さを否定する無闇な順位付けなど意味の無いことだが)。オネゲルではないが伝統の「幹」がなかったなら「枝葉」など生える事は無い(これは新古典主義のことだったか、ショスタコーヴィチも新古典の流れ上にいる作曲家だ)。かといって枝葉を張らない幹は枯れ果てるだけなのだけれども。・・・
収集がつかなくなってしまいました。この曲はグラズノフの室内楽では最も良く書けているといわれる。交響曲のところでも書いたが、中央ヨーロッパ的な後期ロマン派音楽の枠組を総括したうえで、旋律と和声という「音楽の重要なファクター」についてだけロシア音楽を取り入れている。配合具合が独特のため個性的に聞こえるが、耳ざわりが悪くなる事は決してない。フーガに始まる1楽章は強い力を持ち、4番四重奏曲で試みられた古典音楽回帰の傾向が、より消化された形で魅力的な旋律群を飾っている。2楽章は典型的なロシア国民楽派のスケルツオであるが、テンポの遅い演奏で聞いてみるとブルックナーやマーラーの舞踊楽章を思わせる深刻な色をにおわせる。さらに8番交響曲の暗い幻想に繋がるような儚い3楽章は死に行く白鳥を思わせる味わいを持ち、祝祭的な終楽章は緊密な対位構造や複雑なポリフォニーによって、その長さを感じさせない程ヴァリエーションに富んだ内容を聞かせる。ブラームスからベートーヴェン果てはバッハまでも取り入れて、この秀逸な流れは昇華洗練されてショスタコーヴィチに確実に受け継がれている。ストラヴィンスキーですら初期にはグラズノフ的な曲を書いた。アマルガム作曲家であっても影響力は強い。手法の探求され尽くした時代の芸術のありようが、ここにも先駆的に示されている。(またいつかしっかり書きます。すいません中途半端でした)>2000記
◎ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)
○リリック四重奏団(meridian)
ダーティントン四重奏団(pearl)
~これらを聞き比べると余りの印象の違いに改めて「懐の深い曲」なのだなと思う。無論オーソリティのショスタコーヴィチQにかなうものはないと思うが、民族音楽的趣が少し苦手の場合は後者の演奏に触れるとよいと思う。ショスタコーヴィチQのヴァイオリンは独特のロシアスタイルで、折衷派グラズノフをおもいきり五人組の世界に引き戻すようだ。あやふやな音程感も左手の柔らかい演奏スタイル(コブシのきいた細かく沢山のヴィブラートをかけることにより、素朴だが艶やかな音色を出せる)上、仕方ない。単純な技術でいえばダーティントンのほうが上に聞こえるかもしれないが、この解釈は軽すぎる感もある。また生硬だ。リリックの終楽章は面白かった。
○レニングラード・フィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)(MELODIYA)LP
グラズノフの室内楽録音は長らくこれ一枚しかなかったが、それほど枚数がはかれなかったために、余り知られないまま今に至っているようである。同楽団はのちにタネーエフ四重奏団となった。技術的に確かに不安定なところがあり、意気軒昂とやってのけるショスタコーヴィチ四重奏団に比べれば聴き劣りするところもあるのだが、高めのピッチにスッキリしたテンポは現代的な印象も与える。細かいルバートはあるし縮緬ヴィブラートも特有のロマンチシズムを演出するのだが、あっさりしすぎと感じるのはとくに最初の二つの楽章だろう。内声部の仕組みがいまいち浮き立ってこずグラズノフの技巧的長所が聞き取りづらいのも難点だ。ただ、4番以降ベートーヴェンらの影響下に晦渋な構造性をしっかり盛り込むようになったグラズノフの、最もボリュームのある緻密なカルテットなだけに、いちいち細かく弾いていては重重になり胃がもたれてしまう。やや粗雑な演奏振りに反して聴き易さは感じた。白眉の三楽章ちょっと遅い四楽章と、ショスタコーヴィチ四重奏団より変わった感じで流れよく聴き終えられる。それにしても何故この曲がマイナーなのか理解できない。スマートな旋律の宝庫。○。
○シシュロフ四重奏団(melodiya)LP
~レニフィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)に続く録音で選集ボックスの一部になる。ショスタコーヴィチ四重奏団の録音に似ていて(音もよく似ている・・・シシュロ「ス」なのか??)、やや1stが弱いけれども、オーソドックスに聴ける印象。前半楽章はやや平凡か。三楽章が速くダイナミックで面白い。四楽章はよく揃っていて、これはほんとにショスタコ四重奏団にそっくりだ。技術的限界からか装飾音をごまかすような表現があるレニフィル四重奏団にくらべ、このグラズノフ屈指の名楽章の構造的魅力をよく引き出している(むこうはむこうで独特の解釈があり楽しめるが)。立派。○。
~この曲はLP初期にレニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(タネーエフ四重奏団)が録音しており、そのせいか番号付きの作品の中では古くから知られていたようである。同モノラル録音を私は聞いたことが無いが、このステレオ盤は恐らくそこからは相当にかけ離れたものであると思う。即ちすこぶる現代的であり、そつがなく、「いかにも新世代の演奏ぶり」なのだ。先入観を植えつけられず聞くことができるし、奏者の奏法解釈から殊更に民族性が煽られないぶん最初に入るのには適しているとも思える。実にそつがないのだ。綺麗だし、完璧。ただ・・・終わってみて、すれっからしは「何か足りない」と思ってしまう。少なくともショスタコーヴィチ四重奏団に比べて音のバリエーションや魅力が(民族性という観点において)足りない。グラ5から民族性を抜いたら単なるベートーヴェンである、というのは言いすぎかもしれないが、やや物足りなさを感じさせるのは事実だ。○にするのに躊躇はないが、ライヴで聞きたいかというとそんな気も起きない感じではある。いや、譜面は完璧に再現されてますよ。テンポ的にも遅くならず、完璧に。巧い。
○モスクワ放送弦楽四重奏団(MELODIA)
これこそスタンダードと呼びたい。スタイルは現代的で音もプロとしては普通(力強く金属質で私は苦手な音だが)、あっさり流れるように速い(とてつもなく速い)インテンポでパウゼもどんどんすっとばし、フレージングにも過度な思い入れがなくポルタメント皆無の教科書的な表現だ。しかし、非常に高度なテクニック(今まで聞いたどの演奏より抜きん出て上手い、ミスは1楽章末尾が速過ぎて聞こえなくなるところくらいだ)に裏付けされたこの異常な集中力、(繰り返しになるが)終始ものすごく速いテンポはグラズノフ円熟期のワンパターンで厚ぼったい書法のもたらす変な重量感を軽やかに取り去って、敷居を低くしている。逆に旋律の美しさが際立ってきて耳優しい。西欧古典を聞くような感じがするが、ベートーヴェンを意識したがっしりした曲調については、それほど意識的に強調してはいないふうである(アタックの付け方も普通だ)。そうとう手慣れたアンサンブルぶりでこのロシアの団体の経験値の高さに驚かされるが、解釈というより録音バランスの問題だろう、2楽章第二主題の展開でファーストが巧みに裏に入りセカンドと絶妙な高音ハーモニーを聞かせる(若い頃からグラズノフの得意とする方法で真骨頂だ)非常に美しいセンテンスにおいて、なぜかセカンドが引っ込みファーストが雄弁に「対旋律」を歌ってしまっている。意図だろうが違和感があった。まあ、このスピードの4楽章が聞けるだけでも価値は多大にある。このくらいまで速くないとダレますよ長丁場。総じて○。
<後記>何度も聞いていたらだんだんそんなに言うほど巧くない気がしてきた。4楽章後半とかテンポグダグダになりかけてるし、ロシア録音、とくにモスクワ放響やモスクワ・フィルの弦楽器にありがちな中音域の薄いばらけた音響(多分に録音のせいもあると思うが)に近いちょっと・・・なところもある。それも鑑みてやっぱり、○は妥当かな。
○リムスキー・コルサコフ四重奏団(ARS)CD
さらさら流れるような演奏で引っ掛かりは少ないが、内声部がよく聴こえる。この団体の中低弦の充実ぶりが伺え、グラズノフの書法の緻密さをじっくり味わえる。旋律主体の伸び縮みする演奏とは違う「アンサンブルの面白さ」が楽しめる演奏として特筆すべきだろう。2楽章のワルツなんかはグラズノフ四重奏団と同じような舞曲っぷりが何とも言えない香気を放ち、部分部分では特筆すべき解釈はある。終楽章はやや落ち着いているし恣意的過ぎる部分もあるものの、無難である。三楽章は余り印象に残らない。翻って長大な一楽章はとにかく速い。技術的に高いわけではないが技術的にバランスのとれた四人によって編み出された佳演と言えるだろう。ショスタコーヴィチ四重奏団よりもスタンダードと言っていいかも。
◎サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD
ここまで解釈を尽くした演奏もあるまい。一楽章はいくらなんでもやり過ぎの感が否めないが三楽章はここまでやらなければ伝わらないのだ、という真理を聞かせてくれる。ファーストだけが異常に雄弁で音はやや硬くけして無茶苦茶上手い団体ではないのだが、これは交響曲として書かれたものであると喝破したかのような、まるで往年の巨匠系指揮者のやっていたようにダイナミック、細かく大きな起伏の付けられた表現をしている。偶数楽章はもっと直線的演奏の方が合っているかもしれない、異論があってもいいが、スタイルを固持し一貫している。もう一つ文句をつけるならワルツ主題がワルツになっていない、でもこれは抽象音楽の表現としては正しい。とにかく同曲の録音史上最もやり過ぎた演奏であり、やり込んだ演奏であり、これ以上曲を理解した演奏もなかろう。◎。
~Ⅱ.
○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP
速い。かつこの演奏精度は素晴らしい。テンポが前のめりだがそれがグラズノフの畳み掛けるような書法とピタリとあっていて正統な演奏であると感じさせる。ワルツ主題はそれにも増して速くびっくりするが、音の切り方、アーティキュレーションの付け方が巧緻でなかなかに聴かせる。ワルツ主題が優雅に展開する場面で初めてオールドスタイルの甘い音が耳を安らがせる。ここは理想的な歌い方だった。ショスタコーヴィチ四重奏団も歌いまくるがそれとは違う、優雅で西欧的な洗練すら感じさせる。その後テンポが激しくコントラストを付けて変わり、慌ただしくもあるが、冒頭主題が戻るとかなり落ち着く。その後はうまくまとめている。これほど達者で洗練された団体だとはあのボロディン2番からは想像できなかった。○。新グラズノフ四重奏団とは違う団体です。
弦楽四重奏曲第6番
<近年再評価著しいマイナー作曲家のひとり、グラズノフの、これはもう末期に近い頃の作品である。室内楽ではこの後に第7番が作曲されているが、カルテット曲の中で良く評価されるのは 5番までで、この6、次いで7は殆ど対象にされない。それはこの100番台の作品群が、83番の交響曲第8番を頂点とした彼の作曲生活の蛇足とみなされているからかもしれない。事実、一時は湯水のように湧き出ていた彼の作品が、1905年にペテルブルク音楽院長に推されて以降、教職に専念する一方で極端に少なくなっていったことは否定できない。しかし、本当に膨大な楽識と技術に裏付けされた彼の叙情性は、これらの作品においてもなおその輝きを失っていない。サキソフォーン協奏曲のような新しい可能性を探る彼なりの「前衛性」は、失敗してはいるが、7番の終楽章にも(主に奇妙な終止部などにおいて)見うけられる。グラズノフに関しては、とてもここだけでは書き切れないものがある。ショスタコーヴィチの作品にも、おぼろげながら影響の痕跡が見える時があるが、この6番を聞いてもショスタコーヴィチを思わせるところが僅かある。異常に高度な作曲技術、美しい旋律とひびき、しつこさも苦にならない変奏部の巧みさ、これがこの曲から感じられることだ。終楽章の最後など、それまでの彼の室内楽には無いハッとするような感覚を受けるが、ここのみならず、初期のお定まりの技法からは想像もつかない広大な世界が展開されてゆき、聞く者を飽きさせない。楽想の「うねり」も凝縮されしかもスムーズにわれわれの感覚にうったえてくるものがある。とても「尽きた」作曲家のものとは思えないすばらしい作品である。ショスタコーヴィチ四重奏団も懸命に頑張っている。「グラズノフ世界」がこれほど濃密に展開された曲はあまりないだろう。(1992/9記) >
○ショスタコーヴィチ四重奏団(Melodiya)1975・CD
5つのノヴェレッテ
○サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD
ここまでやり切ったノヴェレッテも無いだろう。強いて言えば余りに壮大激烈にやっているがゆえ別の曲に聞こえてしまうのが難点か。サンクトペテルブルクの弦楽の伝統的なフレージング、ヴィヴラートのかけ方、レガート気味にともするとスピッカートもベタ弾きしかねない、そういうところがもはや当然の前提として敢えてそのスタイルから外れ、抽象度を増しているところもあると思う。各曲の最後のダイナミックな収め方は民族音楽を通して保守的な弦楽四重奏曲という形式を壊すようなグラズノフのまだ意気軒昂としたところをよく押さえて出色だ。○。
~Ⅰ、Ⅱ
○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP
タネーエフ弦楽四重奏団が、この他弦楽四重奏曲第4,5番を録音しているところまでは確認している。「スペイン風」と「オリエンタレ」の二曲のみで後者はまさに民族音楽を西欧楽器によって「再現」すべく構成された、グラズノフの民族主義的側面の真骨頂をみせる舞踏音楽。ゆえに3番「スラヴ」同様西欧的な見地からのアンサンブルの楽しみは少ない。ドヴォルザークの作品群をこのての弦楽四重奏曲の頂点とすれば、余りに単純化され民謡側に寄り過ぎたものとなっている。
演奏者に要求されるものは特殊で、3番「スラヴ」にも言えることなのだが、旋律楽器はあくまでこれが、農村の祭りにて広場で催される踊りの伴奏として演奏される楽曲である、という前提から外れてはならない。リズムや和声においては、特殊ではあるが国民楽派特有のマンネリズムの同じ範疇にいるものの、純音楽として室内で演奏されるべく緻密に作られたチャイコフスキーのような音楽ではなく、野外で、残響の無い世界に響かせるために、旋律は鋭く痙攣するような音でダンサーにグルーヴを提供し、開放弦を含む重音による旋律など特に構造的な世界から解き放たれた単なる民族音楽を演じていく。伴奏はあくまで伴奏に徹することを強いられるが、舞踏音楽としての弾けるようなリズム表現を要求され、テンポ維持含めその役割は重要で、スコアの再現としての「単なる音形(パターン)の繰り返し」にはならない。
そういうところからこの演奏を見ると、一曲目においてすらそうなのだが、ファーストが甘い。タネーエフQの他の盤、例えばドビュッシーもそうだが、だらしなく拡散的な表現、にもかかわらずボロディンQを模倣したようなやや冷たい音色で変に生硬に縦を揃えようとするきらいがあり(他三本は揃っているのに)、自由ではないのに自由になってしまうといった、浅い感じが否めない。一般にタネーエフQは民族的な表現に優れているように認識されているのかもしれないが、クラシック楽器で民族的表現を完璧にこなすには技術的な部分というのは重要だ。バルトークとまでは言わないまでも特殊な弾き方があり、特殊なヴィブラートがあり、微妙なボウイングがあり、それらは先ずは正統な表現をなしてから加えていく要素であり、この楽団の場合、伴奏楽器のリズムは完璧なのに、旋律楽器が土臭さを演じているのではなく、計らずも出てしまうのが気になる。基本洗練を目としているけれど垢抜けない、そういうところが見えてしまう。うーむ。半端だ。ショスタコーヴィチ四重奏団、シシュロフのほうに一長があるように思う。あ、こんな短い曲だけでこう判断することはできないけど。単品で言えば佳演。
今は日本語では「ノヴェレット」と表記していることが多い。
~Ⅰ.スペイン風
○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP
どこがスペイン風なんじゃと百年以上にわたって言われてきたであろう曲だが、低弦のピチカートにのせてリズミカルな旋律を奏でればなんとなくスペイン風、でいいのだ。グラズノフはそんなノリで中世風とか色々おかしな題名を付けている。これはグラズノフの室内楽でも著名な組曲の一曲目で、若書きということを置いておけば至極凡庸な民族音楽である。伝説的なグラズノフ四重奏団の私のSPはロシアで輸出用に作られたもののようでレーベル名も不確かだ。回転数がやや遅めに設定されているようで、78だと非常に速くびっくりしてしまう。だがそこを考慮しても勢いがあることには変わりはない。オールドスタイルの奏法は目立たず、それより精度と覇気、この2点に目を見張る。現代でも通用するだろう。短いのに聴き応えがあった。録音も良い。○。
~Ⅱ.オリエンターレ
○プロ・アルテ四重奏団(ANDANTE/HMV)1933/12/11・CD
民族音楽的な曲(弦楽四重奏曲第3番「スラヴ」の世界)であり、4本はしっかり自分が民族楽器を奏でている
のだと自覚して挑むべき曲である。独特の旋律の美しさにはボロディンのような華やかさは無いがブラームスや
チャイコの憂愁が感じられる。いい曲。演奏は熱い。
~Ⅱ、Ⅲ
◯アンドルフィ四重奏団(disque a aiguille)SP
録音年代は古い模様だが、オリエンタレからは技巧派で、軽やかなアンサンブルをこうじる演奏スタイルがききとれる。現代的というか、フランス風というか、ロシアの演奏ではないことはたしかだ。間奏曲ではポルタメントも出てきてさすがに古臭さは否めないが、これがまた何とも言えない音色で、派手さはないが印象に残る。どこのパートが突出するでもなく、アンサンブルとしてよくできた団体だと思う。ボロディンふうの音響なのにドビュッシーふうに聴こえるのがいい。◯。
~Ⅲ.ワルツ
○ヴィルトゥオーゾ四重奏団(HMV)SP
サロン的な小品でこれだけ単独でアンコールピースとされることもある(この小品集自体「余り埋め」で抜粋されることが多い)。グラズノフ独特のハーモニーや旋律線の癖、ボロディン的マンネリズムが割と薄い曲ではあるのだが、ロシア人の「ウィーンへの憧れ」を上手に取り出し、仄かな感傷性を浮き彫りにした、英国人らしい上品な客観性のある演奏となっている。やはり上手いのかなあ。SPは高音の伸びがどうしても聴こえづらいので、高音を多用するボロディン的な曲ではマイナスなのだが、簡潔な曲なのでそこは想像力で十分。○。
<ボロディンに飽きたとお嘆きの貴兄に。少々冗長なところもありますが、3楽章から4楽章への流れはボロディン的な響きの美しさを維持しながらも、構築的なドイツ音楽を取り入れた面白い聞き応えの曲になっております。また4楽章には少々モダンな響きも出現して、クーチカやチャイコフスキーの次の世代を予感させるところもあります。3楽章第2主題の儚げな夢幻の世界は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番2楽章を予感させる素晴らしいものです。”グラズノフ”は名前で損していますが元来「美しい」作曲家なのです!ビオラ・ソロも聞き物。あと、3~5番もそれぞれ個性的で、お勧めです。 >
○ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)CD
弦楽四重奏曲第4番
○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP
俗っぽい悲恋話を背景にしているとの伝説のある、グラズノフにしては珍しい一貫して晦渋な作品で、構造的な書法が目立つこともその印象を強くしている。交響曲第8番2楽章あたりの近代ロシア的な陰鬱さに通じる。グラズノフは形式音楽におけるスケルツォ楽章を、他の楽章との対比的なものとして完全に独立した異なる楽想により描くべきである、ということをどこかで公言していた記憶があるが(直接聞いたわけじゃない)、この曲においては3楽章がそうで、ボロディンふうの軽やかな楽想がチャイコフスキーふうの構造に昇華された妙に明るい民族的楽章となっているが、これを別とすれば他楽章はいずれも重厚な雰囲気を持ち、関連する動機や(頻繁に揺らぐけれども)ハーモニーを用いており、バッハやベートーヴェンの模倣といった古典回帰の傾向を強く打ち出している(ベートーヴェン指向は5番でより強くなる)。
グラズノフを強く印象付ける要素としてのポリフォニックな書法がここにきて全面に立ってくるのは特筆すべき点と言える。4本が重音でユニゾン主題を奏でる部分でのオルガン的な音響など余りグラズノフでは見かけないものも聴かれ(視覚から聴覚にシフトしてみた)、そういった作り込みがアンサンブル好きや演奏者サイドにとっては他の単純な室内楽に比べて魅力的になっているとも言えよう(「いえよう」と書かないところが、さるお方との違いを示しているのだ。・・・こういう「いちいち」な書き口、やっぱり読みづらい、やめたほうがいいです<誰に向かって?)。
かといって2、3番から離れて複雑になったわけでもない。終楽章など3番同様ファーストが弾きまくるだけの部分もある。寧ろその点更に円熟した技巧の投入された多彩且つ壮麗な5番が別の場所に頂点を築くわけだが、3番のように民族楽器表現の模倣に終始したり1、2番のようにボロディン的な世界を追求した、より単純で軽やかな作品とは一線を画していることは確か。タネーエフQがこの4,5番を録音演目に選んだ理由はなんとなくわかる。
で、演奏なのだが、やっぱりプロの室内楽士としては技術的な限界も感じる。裏板に響かない金属質で細い(でも柔らかい)音のファーストがどうにも私は好きではない。他のパートとの音響バランスが悪いのだ。予め設計上手を入れすぎているのではないかというところが気になるのは、この曲の録音が殆どショスタコーヴィチ四重奏団のものしかなかったからそれとの対比で、ということでもあるのだが、全般とにかく遅いし、1楽章で特に気になったのはやたらと音を切ってニュアンスを変え主題を際立たせようとしているところ。グラズノフはきちんと書いているのに、却ってわかりにくくしている。事前設計上冒頭のテンポを極端に落としコーダまでに徐々にアッチェルしていく、というやり方が両端楽章で聴かれるが、板についた表現になっていないので生硬さだけが印象として残り、ただでさえ上記のような余りよくない印象があるのに、更に下手な楽団であるかのような錯覚を覚えさせてしまう。
面白い。シシュロフもこんな4番はやらなかった。だが、3楽章においてもあまりの遅さに辟易としてしまった(ショスタコーヴィチ四重奏団が速過ぎるということなのだが冒頭に書いたグラズノフの主張からすれば緩徐楽章に挟まれたスケルツォの対比的な表現として正しいテンポだと思う)。
ファースト批判ばかりしているわけではなく、他の楽器も人工的な変化を人工的とわかるように入れており、同じようなものではある。痙攣ヴィブラートでちょっと民族的な音を出している場面もありこれはボロディンQとは異なるタネーエフQの個性だろう。ただショスタコーヴィチ四重奏団はもっと露骨に印象的にやっている。ミスの有る無しという子供みたいな観点からはショスタコーヴィチ四重奏団は最高音の音程を外すなどやらかしているところがあるがこれは左手を柔らかく使う奏法からくるものでもあろう。それに比べてタネーエフ弦楽四重奏団はミスが録音されていない。これは人によっては重要な点かもしれない。
弦楽四重奏曲第5番
<最近ショスタコーヴィチを聞き直している。久しく聞いていなかった「レニングラード」などに改めて感服したりなぞしている。緩徐楽章にブルックナーやマーラーのエコーが聴こえるたびに、ああ前の世代を否定する事により成り立っていた「モダニズム」の、「次の」世代なんだな、と思う。音楽院時代の師匠にして個人的恩人でもあるアレキサンダー・グラズノフは、ロシア五人組、とくにボロディン・リムスキー=コルサコフの継承者として約束された道を歩んだ。外来の音楽家や、チャイコフスキーらモスクワ音楽院の折衷派とも活発に交流したが、踏み外す事を許されぬ道はそのままペトログラド音楽院長へと続き、表向き闘争する側に回ることも許されなかった。結局作曲家としては殆ど忘れられることとなり(寧ろ指揮者だった)、困窮の亡命者という末路は「破滅」だったと言ってよいかと思う。
グラズノフの才能はどのみち限界に当たったのかもしれないが、最盛期までの流麗な佳曲の数々に触れるたび、時代の波に翻弄された帝政ロシアの「最後の波(byブラームス)」に同情する気を抑えられない。音楽的系統樹を切り倒す暴風~ゲンダイオンガク~への防波堤となったグラズノフは、ストラヴィンスキーやプロコフィエフという異能と対立する事もあったが、あくまで個人的趣味の上に留め、その才能についてははっきり認めていた。寧ろ自分の耳がロートルなのかもしれないという発言は、マーラーがシェーンベルクに語ったこととよく似ている。それゆえ「潰す方向」に動く事は決してなかった。ソヴィエト時代の権力的音楽家が真の才能を持った音楽家を押さえつける構図とは全く異なる。ショスタコーヴィチの才能はこの暖かな温床の上にすくすくと芽を伸ばした。程なく大輪の花が開く。そして半世紀以上にわたり花が付き続けた。世界中に種を撒いた。あの鉄の壁の向こうから、壁など無いかのように力強く響く音。音楽史の流れからいえばそれはとても先端のオンガクではなかった。だが現在20世紀が終わるにあたって、この世紀において最も才能に満ち溢れ、しかも真摯であった作曲家が誰かと考えてみると、DSCHの4文字が浮かんでくる(多様さを否定する無闇な順位付けなど意味の無いことだが)。オネゲルではないが伝統の「幹」がなかったなら「枝葉」など生える事は無い(これは新古典主義のことだったか、ショスタコーヴィチも新古典の流れ上にいる作曲家だ)。かといって枝葉を張らない幹は枯れ果てるだけなのだけれども。・・・
収集がつかなくなってしまいました。この曲はグラズノフの室内楽では最も良く書けているといわれる。交響曲のところでも書いたが、中央ヨーロッパ的な後期ロマン派音楽の枠組を総括したうえで、旋律と和声という「音楽の重要なファクター」についてだけロシア音楽を取り入れている。配合具合が独特のため個性的に聞こえるが、耳ざわりが悪くなる事は決してない。フーガに始まる1楽章は強い力を持ち、4番四重奏曲で試みられた古典音楽回帰の傾向が、より消化された形で魅力的な旋律群を飾っている。2楽章は典型的なロシア国民楽派のスケルツオであるが、テンポの遅い演奏で聞いてみるとブルックナーやマーラーの舞踊楽章を思わせる深刻な色をにおわせる。さらに8番交響曲の暗い幻想に繋がるような儚い3楽章は死に行く白鳥を思わせる味わいを持ち、祝祭的な終楽章は緊密な対位構造や複雑なポリフォニーによって、その長さを感じさせない程ヴァリエーションに富んだ内容を聞かせる。ブラームスからベートーヴェン果てはバッハまでも取り入れて、この秀逸な流れは昇華洗練されてショスタコーヴィチに確実に受け継がれている。ストラヴィンスキーですら初期にはグラズノフ的な曲を書いた。アマルガム作曲家であっても影響力は強い。手法の探求され尽くした時代の芸術のありようが、ここにも先駆的に示されている。(またいつかしっかり書きます。すいません中途半端でした)>2000記
◎ショスタコーヴィチ四重奏団(melodiya)
○リリック四重奏団(meridian)
ダーティントン四重奏団(pearl)
~これらを聞き比べると余りの印象の違いに改めて「懐の深い曲」なのだなと思う。無論オーソリティのショスタコーヴィチQにかなうものはないと思うが、民族音楽的趣が少し苦手の場合は後者の演奏に触れるとよいと思う。ショスタコーヴィチQのヴァイオリンは独特のロシアスタイルで、折衷派グラズノフをおもいきり五人組の世界に引き戻すようだ。あやふやな音程感も左手の柔らかい演奏スタイル(コブシのきいた細かく沢山のヴィブラートをかけることにより、素朴だが艶やかな音色を出せる)上、仕方ない。単純な技術でいえばダーティントンのほうが上に聞こえるかもしれないが、この解釈は軽すぎる感もある。また生硬だ。リリックの終楽章は面白かった。
○レニングラード・フィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)(MELODIYA)LP
グラズノフの室内楽録音は長らくこれ一枚しかなかったが、それほど枚数がはかれなかったために、余り知られないまま今に至っているようである。同楽団はのちにタネーエフ四重奏団となった。技術的に確かに不安定なところがあり、意気軒昂とやってのけるショスタコーヴィチ四重奏団に比べれば聴き劣りするところもあるのだが、高めのピッチにスッキリしたテンポは現代的な印象も与える。細かいルバートはあるし縮緬ヴィブラートも特有のロマンチシズムを演出するのだが、あっさりしすぎと感じるのはとくに最初の二つの楽章だろう。内声部の仕組みがいまいち浮き立ってこずグラズノフの技巧的長所が聞き取りづらいのも難点だ。ただ、4番以降ベートーヴェンらの影響下に晦渋な構造性をしっかり盛り込むようになったグラズノフの、最もボリュームのある緻密なカルテットなだけに、いちいち細かく弾いていては重重になり胃がもたれてしまう。やや粗雑な演奏振りに反して聴き易さは感じた。白眉の三楽章ちょっと遅い四楽章と、ショスタコーヴィチ四重奏団より変わった感じで流れよく聴き終えられる。それにしても何故この曲がマイナーなのか理解できない。スマートな旋律の宝庫。○。
○シシュロフ四重奏団(melodiya)LP
~レニフィル四重奏団(タネーエフ四重奏団)に続く録音で選集ボックスの一部になる。ショスタコーヴィチ四重奏団の録音に似ていて(音もよく似ている・・・シシュロ「ス」なのか??)、やや1stが弱いけれども、オーソドックスに聴ける印象。前半楽章はやや平凡か。三楽章が速くダイナミックで面白い。四楽章はよく揃っていて、これはほんとにショスタコ四重奏団にそっくりだ。技術的限界からか装飾音をごまかすような表現があるレニフィル四重奏団にくらべ、このグラズノフ屈指の名楽章の構造的魅力をよく引き出している(むこうはむこうで独特の解釈があり楽しめるが)。立派。○。
~この曲はLP初期にレニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(タネーエフ四重奏団)が録音しており、そのせいか番号付きの作品の中では古くから知られていたようである。同モノラル録音を私は聞いたことが無いが、このステレオ盤は恐らくそこからは相当にかけ離れたものであると思う。即ちすこぶる現代的であり、そつがなく、「いかにも新世代の演奏ぶり」なのだ。先入観を植えつけられず聞くことができるし、奏者の奏法解釈から殊更に民族性が煽られないぶん最初に入るのには適しているとも思える。実にそつがないのだ。綺麗だし、完璧。ただ・・・終わってみて、すれっからしは「何か足りない」と思ってしまう。少なくともショスタコーヴィチ四重奏団に比べて音のバリエーションや魅力が(民族性という観点において)足りない。グラ5から民族性を抜いたら単なるベートーヴェンである、というのは言いすぎかもしれないが、やや物足りなさを感じさせるのは事実だ。○にするのに躊躇はないが、ライヴで聞きたいかというとそんな気も起きない感じではある。いや、譜面は完璧に再現されてますよ。テンポ的にも遅くならず、完璧に。巧い。
○モスクワ放送弦楽四重奏団(MELODIA)
これこそスタンダードと呼びたい。スタイルは現代的で音もプロとしては普通(力強く金属質で私は苦手な音だが)、あっさり流れるように速い(とてつもなく速い)インテンポでパウゼもどんどんすっとばし、フレージングにも過度な思い入れがなくポルタメント皆無の教科書的な表現だ。しかし、非常に高度なテクニック(今まで聞いたどの演奏より抜きん出て上手い、ミスは1楽章末尾が速過ぎて聞こえなくなるところくらいだ)に裏付けされたこの異常な集中力、(繰り返しになるが)終始ものすごく速いテンポはグラズノフ円熟期のワンパターンで厚ぼったい書法のもたらす変な重量感を軽やかに取り去って、敷居を低くしている。逆に旋律の美しさが際立ってきて耳優しい。西欧古典を聞くような感じがするが、ベートーヴェンを意識したがっしりした曲調については、それほど意識的に強調してはいないふうである(アタックの付け方も普通だ)。そうとう手慣れたアンサンブルぶりでこのロシアの団体の経験値の高さに驚かされるが、解釈というより録音バランスの問題だろう、2楽章第二主題の展開でファーストが巧みに裏に入りセカンドと絶妙な高音ハーモニーを聞かせる(若い頃からグラズノフの得意とする方法で真骨頂だ)非常に美しいセンテンスにおいて、なぜかセカンドが引っ込みファーストが雄弁に「対旋律」を歌ってしまっている。意図だろうが違和感があった。まあ、このスピードの4楽章が聞けるだけでも価値は多大にある。このくらいまで速くないとダレますよ長丁場。総じて○。
<後記>何度も聞いていたらだんだんそんなに言うほど巧くない気がしてきた。4楽章後半とかテンポグダグダになりかけてるし、ロシア録音、とくにモスクワ放響やモスクワ・フィルの弦楽器にありがちな中音域の薄いばらけた音響(多分に録音のせいもあると思うが)に近いちょっと・・・なところもある。それも鑑みてやっぱり、○は妥当かな。
○リムスキー・コルサコフ四重奏団(ARS)CD
さらさら流れるような演奏で引っ掛かりは少ないが、内声部がよく聴こえる。この団体の中低弦の充実ぶりが伺え、グラズノフの書法の緻密さをじっくり味わえる。旋律主体の伸び縮みする演奏とは違う「アンサンブルの面白さ」が楽しめる演奏として特筆すべきだろう。2楽章のワルツなんかはグラズノフ四重奏団と同じような舞曲っぷりが何とも言えない香気を放ち、部分部分では特筆すべき解釈はある。終楽章はやや落ち着いているし恣意的過ぎる部分もあるものの、無難である。三楽章は余り印象に残らない。翻って長大な一楽章はとにかく速い。技術的に高いわけではないが技術的にバランスのとれた四人によって編み出された佳演と言えるだろう。ショスタコーヴィチ四重奏団よりもスタンダードと言っていいかも。
◎サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD
ここまで解釈を尽くした演奏もあるまい。一楽章はいくらなんでもやり過ぎの感が否めないが三楽章はここまでやらなければ伝わらないのだ、という真理を聞かせてくれる。ファーストだけが異常に雄弁で音はやや硬くけして無茶苦茶上手い団体ではないのだが、これは交響曲として書かれたものであると喝破したかのような、まるで往年の巨匠系指揮者のやっていたようにダイナミック、細かく大きな起伏の付けられた表現をしている。偶数楽章はもっと直線的演奏の方が合っているかもしれない、異論があってもいいが、スタイルを固持し一貫している。もう一つ文句をつけるならワルツ主題がワルツになっていない、でもこれは抽象音楽の表現としては正しい。とにかく同曲の録音史上最もやり過ぎた演奏であり、やり込んだ演奏であり、これ以上曲を理解した演奏もなかろう。◎。
~Ⅱ.
○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP
速い。かつこの演奏精度は素晴らしい。テンポが前のめりだがそれがグラズノフの畳み掛けるような書法とピタリとあっていて正統な演奏であると感じさせる。ワルツ主題はそれにも増して速くびっくりするが、音の切り方、アーティキュレーションの付け方が巧緻でなかなかに聴かせる。ワルツ主題が優雅に展開する場面で初めてオールドスタイルの甘い音が耳を安らがせる。ここは理想的な歌い方だった。ショスタコーヴィチ四重奏団も歌いまくるがそれとは違う、優雅で西欧的な洗練すら感じさせる。その後テンポが激しくコントラストを付けて変わり、慌ただしくもあるが、冒頭主題が戻るとかなり落ち着く。その後はうまくまとめている。これほど達者で洗練された団体だとはあのボロディン2番からは想像できなかった。○。新グラズノフ四重奏団とは違う団体です。
弦楽四重奏曲第6番
<近年再評価著しいマイナー作曲家のひとり、グラズノフの、これはもう末期に近い頃の作品である。室内楽ではこの後に第7番が作曲されているが、カルテット曲の中で良く評価されるのは 5番までで、この6、次いで7は殆ど対象にされない。それはこの100番台の作品群が、83番の交響曲第8番を頂点とした彼の作曲生活の蛇足とみなされているからかもしれない。事実、一時は湯水のように湧き出ていた彼の作品が、1905年にペテルブルク音楽院長に推されて以降、教職に専念する一方で極端に少なくなっていったことは否定できない。しかし、本当に膨大な楽識と技術に裏付けされた彼の叙情性は、これらの作品においてもなおその輝きを失っていない。サキソフォーン協奏曲のような新しい可能性を探る彼なりの「前衛性」は、失敗してはいるが、7番の終楽章にも(主に奇妙な終止部などにおいて)見うけられる。グラズノフに関しては、とてもここだけでは書き切れないものがある。ショスタコーヴィチの作品にも、おぼろげながら影響の痕跡が見える時があるが、この6番を聞いてもショスタコーヴィチを思わせるところが僅かある。異常に高度な作曲技術、美しい旋律とひびき、しつこさも苦にならない変奏部の巧みさ、これがこの曲から感じられることだ。終楽章の最後など、それまでの彼の室内楽には無いハッとするような感覚を受けるが、ここのみならず、初期のお定まりの技法からは想像もつかない広大な世界が展開されてゆき、聞く者を飽きさせない。楽想の「うねり」も凝縮されしかもスムーズにわれわれの感覚にうったえてくるものがある。とても「尽きた」作曲家のものとは思えないすばらしい作品である。ショスタコーヴィチ四重奏団も懸命に頑張っている。「グラズノフ世界」がこれほど濃密に展開された曲はあまりないだろう。(1992/9記) >
○ショスタコーヴィチ四重奏団(Melodiya)1975・CD
5つのノヴェレッテ
○サンクトペテルブルク四重奏団(delos)CD
ここまでやり切ったノヴェレッテも無いだろう。強いて言えば余りに壮大激烈にやっているがゆえ別の曲に聞こえてしまうのが難点か。サンクトペテルブルクの弦楽の伝統的なフレージング、ヴィヴラートのかけ方、レガート気味にともするとスピッカートもベタ弾きしかねない、そういうところがもはや当然の前提として敢えてそのスタイルから外れ、抽象度を増しているところもあると思う。各曲の最後のダイナミックな収め方は民族音楽を通して保守的な弦楽四重奏曲という形式を壊すようなグラズノフのまだ意気軒昂としたところをよく押さえて出色だ。○。
~Ⅰ、Ⅱ
○タネーエフ四重奏団(melodiya)LP
タネーエフ弦楽四重奏団が、この他弦楽四重奏曲第4,5番を録音しているところまでは確認している。「スペイン風」と「オリエンタレ」の二曲のみで後者はまさに民族音楽を西欧楽器によって「再現」すべく構成された、グラズノフの民族主義的側面の真骨頂をみせる舞踏音楽。ゆえに3番「スラヴ」同様西欧的な見地からのアンサンブルの楽しみは少ない。ドヴォルザークの作品群をこのての弦楽四重奏曲の頂点とすれば、余りに単純化され民謡側に寄り過ぎたものとなっている。
演奏者に要求されるものは特殊で、3番「スラヴ」にも言えることなのだが、旋律楽器はあくまでこれが、農村の祭りにて広場で催される踊りの伴奏として演奏される楽曲である、という前提から外れてはならない。リズムや和声においては、特殊ではあるが国民楽派特有のマンネリズムの同じ範疇にいるものの、純音楽として室内で演奏されるべく緻密に作られたチャイコフスキーのような音楽ではなく、野外で、残響の無い世界に響かせるために、旋律は鋭く痙攣するような音でダンサーにグルーヴを提供し、開放弦を含む重音による旋律など特に構造的な世界から解き放たれた単なる民族音楽を演じていく。伴奏はあくまで伴奏に徹することを強いられるが、舞踏音楽としての弾けるようなリズム表現を要求され、テンポ維持含めその役割は重要で、スコアの再現としての「単なる音形(パターン)の繰り返し」にはならない。
そういうところからこの演奏を見ると、一曲目においてすらそうなのだが、ファーストが甘い。タネーエフQの他の盤、例えばドビュッシーもそうだが、だらしなく拡散的な表現、にもかかわらずボロディンQを模倣したようなやや冷たい音色で変に生硬に縦を揃えようとするきらいがあり(他三本は揃っているのに)、自由ではないのに自由になってしまうといった、浅い感じが否めない。一般にタネーエフQは民族的な表現に優れているように認識されているのかもしれないが、クラシック楽器で民族的表現を完璧にこなすには技術的な部分というのは重要だ。バルトークとまでは言わないまでも特殊な弾き方があり、特殊なヴィブラートがあり、微妙なボウイングがあり、それらは先ずは正統な表現をなしてから加えていく要素であり、この楽団の場合、伴奏楽器のリズムは完璧なのに、旋律楽器が土臭さを演じているのではなく、計らずも出てしまうのが気になる。基本洗練を目としているけれど垢抜けない、そういうところが見えてしまう。うーむ。半端だ。ショスタコーヴィチ四重奏団、シシュロフのほうに一長があるように思う。あ、こんな短い曲だけでこう判断することはできないけど。単品で言えば佳演。
今は日本語では「ノヴェレット」と表記していることが多い。
~Ⅰ.スペイン風
○グラズノフ四重奏団(MUStrust)1930年代?・SP
どこがスペイン風なんじゃと百年以上にわたって言われてきたであろう曲だが、低弦のピチカートにのせてリズミカルな旋律を奏でればなんとなくスペイン風、でいいのだ。グラズノフはそんなノリで中世風とか色々おかしな題名を付けている。これはグラズノフの室内楽でも著名な組曲の一曲目で、若書きということを置いておけば至極凡庸な民族音楽である。伝説的なグラズノフ四重奏団の私のSPはロシアで輸出用に作られたもののようでレーベル名も不確かだ。回転数がやや遅めに設定されているようで、78だと非常に速くびっくりしてしまう。だがそこを考慮しても勢いがあることには変わりはない。オールドスタイルの奏法は目立たず、それより精度と覇気、この2点に目を見張る。現代でも通用するだろう。短いのに聴き応えがあった。録音も良い。○。
~Ⅱ.オリエンターレ
○プロ・アルテ四重奏団(ANDANTE/HMV)1933/12/11・CD
民族音楽的な曲(弦楽四重奏曲第3番「スラヴ」の世界)であり、4本はしっかり自分が民族楽器を奏でている
のだと自覚して挑むべき曲である。独特の旋律の美しさにはボロディンのような華やかさは無いがブラームスや
チャイコの憂愁が感じられる。いい曲。演奏は熱い。
~Ⅱ、Ⅲ
◯アンドルフィ四重奏団(disque a aiguille)SP
録音年代は古い模様だが、オリエンタレからは技巧派で、軽やかなアンサンブルをこうじる演奏スタイルがききとれる。現代的というか、フランス風というか、ロシアの演奏ではないことはたしかだ。間奏曲ではポルタメントも出てきてさすがに古臭さは否めないが、これがまた何とも言えない音色で、派手さはないが印象に残る。どこのパートが突出するでもなく、アンサンブルとしてよくできた団体だと思う。ボロディンふうの音響なのにドビュッシーふうに聴こえるのがいい。◯。
~Ⅲ.ワルツ
○ヴィルトゥオーゾ四重奏団(HMV)SP
サロン的な小品でこれだけ単独でアンコールピースとされることもある(この小品集自体「余り埋め」で抜粋されることが多い)。グラズノフ独特のハーモニーや旋律線の癖、ボロディン的マンネリズムが割と薄い曲ではあるのだが、ロシア人の「ウィーンへの憧れ」を上手に取り出し、仄かな感傷性を浮き彫りにした、英国人らしい上品な客観性のある演奏となっている。やはり上手いのかなあ。SPは高音の伸びがどうしても聴こえづらいので、高音を多用するボロディン的な曲ではマイナスなのだが、簡潔な曲なのでそこは想像力で十分。○。