湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番

2016年09月01日 | ヴォーン・ウィリアムズ
◎作曲家指揮ロンドン・フィル(SOMM)1952/9/3プロムスlive・CD

驚異的な発見である。戦中戦後、その爪あとを癒すかのような曲想に当時の指揮者たちがさかんにとり上げた中での作曲家本人による指揮記録だ(初演も作曲家本人により1943/6/24プロムスで行われている)。RVWの素直で幻想極まる3番と技巧追求が老いの諦念の中に昇華された9番の作風の狭間に両方の長所を備えた作品として、代表作にも数えられるこの曲はソロを除けば難しいところは殆どなく、それだけに演奏陣の思い入れと指揮解釈の幅の出し方・・・とくに和声的な作品だけに「響き」の追求・・・が問われる。極度に録音が悪く楽章によって状態に差があるのはおいておいて、作曲家としての「描きたかった実像」、そこに合唱指揮者としても定評のあった演奏家としての力量が存分に反映され、ロンドン・フィルもボールトとのもの以上の集中力を発揮してきわめて精度の高い演奏を行っている。雰囲気的に演奏陣に並みならぬ思いいれがあるのは感じられる。やはり3楽章のダイナミズムに尽きるだろうが録音の貧弱さが音響音量のバランスを伝わらなくしている終楽章を除けば他の楽章も素晴らしい。RVWの音響の整え方は理想的だろう。ボールトの方法論は正しく、ドイツ的な重心の低い安定した響きを求めていたようである。但し録音ゆえわかりにくいが弦楽器を中心として透明感ある見通しいい響きにはなっており、合唱指揮者ならではの特質が感じられる。テンポ取りにおいては現代のものでは聴けない大きなうねるような起伏がつけられている。ライヴならではかもしれないがボールトよりもよほど感情的であり、だがバルビのように全体のフォルムが崩れるようなカンタービレはなく自然である。旋律線が和声から乖離するようなこともなく不分化であり、とにかく非常にこなれている。作曲家だからといえばそれまでだが、これは規範となる解釈だと思う。ある時期までボールトに非常に近しかったのも出自がドイツ系の作曲家への師事から始まっているがゆえのものであるし、今現在和声に重点が置かれ客観的な整え方をして透明感を強調する場合が多いのは途中でのラヴェルへの師事に着目した解釈であろうが、その両方をバランスよく取り入れた演奏というのは余り聴かない。「民謡臭いブラームス」でも「重厚なラヴェル」でもない、ここには「RVW」がある。旧い録音雑音まみれの録音に抵抗がなければ聴いて損は無い。終楽章のあの高みに昇りつめるような明るさが録音で損なわれ少し不完全燃焼気味でもあるし、拍手もカットされているが、◎。

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