りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

エネルギー。

2011-05-13 | Weblog
タレントの上原美優さんが亡くなった。

明るくて愛嬌があって頭の回転も早く、僕にとっては、
好きなタレントの一人だった。

ニュースによれば、自宅で自殺したという。

その第一報を耳にした時、「自殺」という言葉とテレビ越しに
いつも見ていた明るい彼女が、どうしても結びつかなかった。

時間が経つにつれて、少しずつ、真偽はどうかは別として、
彼女の公私の断片的な情報というかエピソードというか、
そういったことも耳に入りはじめた。

どうもテレビで見る彼女とは別に、深く悩んでいた彼女もいたようだ。

彼女は、24歳だった。
世間一般的には「24歳=若かすぎる」で済まされてしまうかもしれないが、
その年齢を考えて、少しだけ、彼女の気持ちがわかるような気がした。

自分の経験からでしか意見を述べられないが、
24歳というのは、実は非常に微妙で繊細な年齢だと思う。

24歳になれば、その大半の人は社会に出て働いている。
しかしそれがどんな職業であっても、まだ経験は浅い。知識も技術も引き出しも
年上の先輩や上司に比べればはるかに少ない。
精神的にも、まだ完全に大人になっていると言いがたい。
まだ10代の頃の余韻を少なからず引きずっている。
だが、それでも社会人の一人としての自覚や責務は、先輩後輩関係なく同じように
要求される。

プライベートに目を向ければ、両親はそろそろ還暦を迎えつつあり、大病をしたり、
定年退職を迎えたり、明らかに老いはじめているのが子どもにも分かりはじめる。
まだまだ未熟なのに、もう親には頼れない。

恋愛もしていた。
「きっと、君に出逢うために、俺は生まれてきたんだ」
そんな大いなる勘違いを引っ切りなしに繰り返しては、浮かれ、傷つき、また浮かれ・・・。

24歳の頃の僕は、そんなジレンマが螺旋階段のように続く状況の中で、自分の
ポジションが定ままらず、混乱しながら、ただただ必死に毎日を生きていたような
記憶がある。

だから、最近、僕はこう思う。
20代前半は、人間にとって「第3次成長期」なのかも知れない、と。

だから、ちょっとしたことに傷つき、引きずり、“死にたい”という衝動に駆られること
なんて日常茶飯事だった気がする。

そして、そんな思いになることは、40代の今でも、多分にある。

極端に言えば、1週間に一度くらい「俺、もう死んじゃおうかな・・・」と心の中で呟いている。
だが、それを実行に移したことは、当たり前だが一度もない。

それは、家族がいるから、とか、仕事があるから、とか、みんなが悲しむから、とか、
そんな理由ではない。

単に、怖いからだ。

どんな理由であっても、どんな方法であっても、何歳になってもやっぱり死ぬのは、怖い。
それだけだ。
この思いだけで、踏みとどまっているだけなのだ。

誤解を怖れずに言えば、僕は自殺する人を尊敬してしまう。
だって、そのとてつもない怖さを飛び越えて、それを実行しているのだから。
「自殺」いう行為は、それまで経験したどんな努力や苦労などと比較にならないほどの
エネルギーを使っているのだと思う。

しかし。

それだけのエネルギーがまだ身体の中にあったのならば、そのエネルギーをどうして「生きる」という
方向に使ってくれなかったのか?とも思ってしまう。

誰もがみんな、そうやって生きているのではないだろうか。
「自殺」も出来得るだけのエネルギーを、毎日「生きる」ために消費して生きているのではないだろうか。
必死に。踏ん張って。突っ走って。一所懸命に。

だから上原さんにも、少しだけ踏みとどまって、自分がこれから使おうとしているエネルギーの方向を、
もう一度考え直して欲しかった。

上原美優さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

コメント
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