りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

アンディ・ウォーホル。

2011-07-19 | Weblog
昨日の夜、アンディ・ウォーホルのドキュメント番組を視た。

番組は、ウォーホルの代表作「キャンベルスープ缶」の
創作過程やその作品に内在する“意味”の追求を中心に、
ウォーホル自身の創作の原点も探求してゆく番組構成で、
なかなか興味深かった。

僕がウォーホルと出会ったのはいくつの頃だったろうか。
10代・・・少なくとも中学生の頃にはすでに彼の作品は知って
いたように思う。
「マリリン」や「毛沢東」といった、肖像画をモチーフにした
あの一連の作品で知ったような記憶がある。

当たり前だが、当時はシルクスクリーン印刷はもちろん、まだ
「ポップ・アート」という概念さえも知らなかった。
しかしそんな無知な僕であったが、彼の作品を初めて観た時、
「お、カッコいい」と直感的に思ったことは紛れもない
事実だった。その時の衝動をあえて言葉に換えるとするならば、
それは明らかに「ポップ」という言葉以外には考えられない。

マイケル・ジャクソンやマドンナやブルース・スプリングスティーンと
いった音楽を聴き、スピルバーグの映画や「フラッシュダンス」や
「フットルース」といった映画音楽に観て、そんな大衆文化を輩出し
続けていたアメリカに心酔し、恋焦がれていた多感な10代のど真ん中の
僕だったから、今思えば、アメリカ型資本主義の大量消費文化をアートに
まで昇華させたウォーホルを観て何も感じない方が逆に不自然だった。

今、ウォーホルの作品を“アメリカ型資本主義の大量消費文化をアート
にまで昇華させた”と書いたが、昨日放送されたドキュメント番組では、
その世間一般の評価の奥底に、キリスト教への純心なまでの崇拝思想が
あることを推察していた。

なるほどね。

それが僕の感想だった。
いや、もっと正直に書けば・・・どうでもいいよ、そんなこと。
それが僕の本音だ。

彼の画集を見たり自伝も読んだりしたし、ホンモノの作品もこの目で
観たことがある。
広島現代美術館に常設されてある、あの「マリリン」を肉眼で初めて
観た時は、それこそ「フランダースの犬」の最終回のネロのように、
その場で死んでもいいような気持ちになった(笑)
でも、いまだに僕はウォーホルのことは何も分かっていないし、分からない。

アンディ・ウォーホルは、ポップ。

それだけで、僕には十分だ。
それだけで、僕には意味がある。
なぜなら、僕は大量消費文化が美徳とされた時代に生まれ育った子ども
なんだから。
だからこそ、今でも“広告のデザイン”という、大量消費文化のメイン
ストリームのようなフィールドで仕事をしているのだし。

下の写真は、僕が所有するウォーホルの作品。
20歳の時に買った「Cars」↓


ウォーホルの作品の中で最も好きな作品「自由の女神」↓


もちろん、双方ともポスターです(笑)
でもいつか、ホンモノを手に入れたいですね。いつか(笑)
コメント
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