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言葉は、文化。多様性の象徴。

2011-01-04 01:19:26 | 随想たち
「絶滅危機のブルトン語、フランスは多様性と向き合えるか」
この記事を、読んで思うこと。

ブルトン語は、フランスの北西のあるブルターニュ地方で話されていた言葉。
どちらかというと、イギリスのケルト人にルーツを持つ言語、そして文化だ。
17世紀に、フランスに統合されてから、ブルトン語の市民権は徐々に薄れ、世界第二次大戦以降、政府により弾圧に近い処遇を得、一気に衰退の憂き目にあった。
このような状況に追い込まれたのは、ブルトン語だけではない。
アルザス語も然り、コルシカやバスク、はたまた植民地などやそれによって得た領土で使われていた言葉も、フランス語至上主義の前に、なす術もなく絶滅の危機に瀕している。

困ったことに、「世界で一番美しい言葉」などともてはやされているから、なおさらフランス語至上主義に凝り固まるのだろう。
フランス語の美しさを真っ向から否定するつもりは、ない。

違う文化を持った人々を統治する手っ取り早い方法に、「言語の統制」は有効な手段だ。
異質なアイデンティティーを排除する術として。
また、マスコミなどを通じて「思考の均一化」、つまり洗脳も容易になる。

しかし、国を統治する既存勢力が、新参者たちへ同等の権利をおいそれと分けたりしないのは、いずこも同じ。
固有の言語を捨てるのに引き換えた条件が、いつも満たされるとは限らない。
それが、さまざまな軋轢を生み、国の不安材料になったりする。

そうこうするうちに、言語学者や文化人類学者が、気が付いたときには危機的状況に陥っている場合が多い。
貴重な人類の文化の一つが、失われることになってしまいかねない。

多様性は、権力者にとって邪魔者以外の何ものでもないのだろう。
何でも認めていては、いつまでたっても埒が明かない。
権力の本質は、野蛮なのだ。
「何でもあり」にしてしまっては、広い国土と数多の人々を束ねにくい。
全てを一対応型に当て嵌めていく必要がある。
その一環に、「言語の統制」となる。

文化・芸術の国フランス。
一見、寛容性に溢れる国かと思いきや、かなり偏狭的な面が見受けられる。
保守的。
だが、そんなのは、フランスに限ったことではない。
どこでも見られることなのだ。

グローバリズムが席巻する現在、自分たちの言葉や文化が失われてしまわないように、自信と誇りを持ち続けなくてはいけない。
かといって、狭量なナショナリズムに陥ってはならない。
寛容に、多様性を認め合うことが、これからまさに必要とされている姿勢であると、常々思うのであった。