rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

小説で読んだ光景を、今日目の当たりにした。

2011-01-16 23:46:40 | 本たち


昨夜、雪が降った。
今季初で、積雪5cmくらいか。
それでも、子供にとっては、冬の楽しいイベント。
朝起きて、あたり一面雪景色を知るなり、大喜びに外へ飛び出した。
少しして、何をやって遊んでいるのかと外を見ると、道路の坂を使ったそり遊び。
危ないが、こんな日は車が通ることもなく、見通しも悪くないので、そのままにし、カメラを持って外へ出た。

どこから見つけたのか、プラスチック製のお尻に当て股の間から出る丸い取っ手を掴み固定する簡易そりで、坂を滑り降りている。
小さい人と中くらいの人は、飽きることなく何回も滑り降りては上がるそり遊びを、繰り返し楽しんでいる。
その様子を見ていて、最近なにかでこんな光景を見た気がすると、思い浮かんだ。
そうだ、本で読んだ場面にどことなく似ている。
プラスチックのそりが同じなのだ。

池澤夏樹の短編集「きみのためのバラ」の一編「ヘルシンキ」。
子供が夢中で、プラスチックのそり遊びを飽きることなく続ける描写がある。
キーンと射すように冷たい風と雪化粧した景色、枯れ木、鮮やかな青いプラスチック製のそり、繰り返されるそり遊び。
違うのは、子供を取り巻く家庭のあり方だ。

幸いにも小さい人たちには、無邪気に甘えられる家族がある。
安心して過ごせる家庭がある。

幼いうちから、人は絶対的孤独を生きていくことを、知らされる必要はない。
時間と経験が、それを教えてくれ、それと友に生きていく術を学ばせてくれるから。
たとえ時間と経験を経た者でも、絶対的孤独を知るときは、言いようのない不安に陥るものだ。
それならなおさら、幼き者は手厚い庇護に値する。
子供のうちの幸福な糧は、人の心の土台となるもの。

しかし、どうなのだろう、絶対的孤独を肯定して他者の存在と尊厳を認め、互いに互いを侵略しないで適度な距離を保ち生きていくのと、絶対的孤独を認識しないまたは否定して、他者と自分は思考と感情を共有し融合できると信じて生きていくのと、どちらが人にとって最良なのか。
人の考え方によって、どの場合もあるのだ。
ただ、絶対的孤独がいつも我々の隣人であることは、頭の隅に置いておく事は悪くない。

そうしないと、「ヘルシンキ」のロシア人妻とその間に生まれた子供の父親のように、ひたすらうろたえ困惑することになるだろうから。

今日の小さい人たちのそり遊びは、小説の世界に引き戻してくれたようだった。