rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

アンリ・マティス、哲学する色彩

2011-01-15 23:14:27 | アート
ギュスターブ・モローの愛弟子、アンリ・マティスとオディロン・ルドン。
マティスとルドンは、終生手紙を交わす友情を結んでいた。
どちらも、絵の求道者であった。
画家というものは、皆至高の世界を夢見て追い求める者達だが。

今日の「美の巨人たち」は、マティスの「ブルーヌード」。

自分がマティスに出会ったのは、学習百科事典の小さな図版の「ダンス」だった。
それから、1981年の「マティス展」で、総合的な作品群を見た。
印象は、ピカソより難解。
鮮やかな色をたくさん使っていても、デフォルメされた形を描いていても、クールなのだ。
クールすぎて、見るものとの間に次元の隔たりを感じさせる。
名画といわれる「ダンス」や「ばら色の裸婦」を見て、良さを分からなかった自分に少なからずショックを受けたのを覚えている。

それから、マティスに引け目を抱くようになった。
マティスの絵を目にするたびに、彼の絵を考えた。
月日が流れ、今では・・・久々に「ブルーヌード」を見て、すっきりと美しく感じた。
よく考え抜かれた構図、流れに沿った切り紙の配置、色のコントラストの加減、全てがあるべきところにあり、小気味よい。
とても肯定的な絵画だ。

いままた、1981年の「マティス展」カタログを開いてみる。
「ダンス」や「ばら色の裸婦」、「カスバの門」、「夢 1940」が、自分に語りかけてくるのを感じた。
色彩も形も線も、みな影響しあい補完しあう。
それらが同時に居合わせれば、互いを損なうことなく秩序を保たなくてはいけない。
マティスの絵は、それ自体が細部でもあり全体でもあると、やっと少し理解できたように思った。

港町ニューリン、イギリス・コーンウォール地方

2011-01-15 01:49:47 | 街たち
小ぢんまりとした港町ニューリン。
その南にある小さい街マウゼル。
どちらも、古より人々の営みが続いてる。
石造りの家に細い路地が、大切に守り使い継がれる。
ここには、どっしりと落ち着きのある文化が、根付き生きているのだ。

立ち並ぶ家は、港から小高い丘へ向かって斜面にお行儀よく段を作っている。
人は、坂道を、入り組んだ路地を使って生活する。
街自体がコンパクトだから、日常の用は、徒歩で足りるにしても、不便を不便と捉えない懐の深さがあるのだろう。

利便さを追い、道路を拡張整備して、アスファルトで舗装すると、いずこも同じ街並みに行き着く。
大都市や新興都市の表情が、大量生産でできた既製品のように、画一化される一因だ。

建物にしても、建造し易い無機質なコンクリートは、地域ごとに産出する石や木材を使ったものと、ただそれだけで見た目の差が大きく違う。
巨大高層建築には、鉄筋コンクリート素材は不可欠だ。
しかし、地方の小都市は、地域色と何よりゆとりのある建物なくして、豊かな文化とやすらぎの生活環境を得られないし、その役割を果たせない。
多様性は、生き物の存続に不可欠だから。

自然界では、多種多様な互いの存在が互いを補完しあい、人界においては、つまるところアイデンティティーの確保に欠かせない。
人は、自我が強い生き物だ。
全てが均一な世界では、自我を持つものは生きられない。
自我は、異分子として排除され、または自滅するだろう。

いまのところ、全世界の均一化はまだ成されていないが、もしかすると、特別なノスタルジーのサンプルとして存在する一部の街(たとえばニューリンやマウゼル)を除き、どこも一様な街に変えられるかもしれない。
特権階級=支配階級の楽しみとしての街と、一般人のための町。
荒唐無稽なSFみたいだが、あながち笑っていられない代一歩が今現在としたら、思い当たる節が・・・

カメラが捕らえたマウゼルにいた猫たちは、悠然と暮らしていた。
狡猾なカモメが子育てを、人家の軒先でする。
人にも猫やカモメにも優しい街を見て、言い知れぬノスタルジーを感じたならば、何かが敏感に反応している証かも。