rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

サン=テグジュペリ「夜間飛行」

2011-05-14 23:43:43 | 本たち
「夜間飛行」と聞くと、切なさを孕んだロマンを感じる。
確か、香水の名前でゲランの「夜間飛行」があったはずだ。
調べてみると、ゲランの調香師ジャック・ゲランは、サン=テグジュペリの親友だ。
郵便飛行事業がまだ黎明期で、命がけの仕事に従事しているサン=テグジュペリの体験を下に創作された「夜間飛行」の出版と両面の功績を賞賛して、香水の調香と命名をしたという。
かつて、その香水を着けていたときがあったが、甘さだけではない清涼感と蠱惑的な香りが複雑に絡み合う、奥の深い香水だった。

サン=テグジュペリは、その生涯を飛行機と共に終えた。
「夜間飛行」に出てくる飛行士ファビアンも、夜の闇と四方を前代未聞のサイクロンに阻まれてその命を落とした。
見えないということは、それだけで人に恐怖をもたらす。
レーダーもなければ、今ほど通信技術も発達していないときに、夜の空を飛行することは狂気の沙汰であっただろう。
しかし、新しい時代を見越しての飛行機の活用法を模索のうちに、郵便飛行事業があった。
飛行機の性能と飛距離がそれほどない時代、中継基地を確保し燃料補給と飛行確認は重要だった。
そして何よりも、夜に飛び出していく強い意志が。
人は怠惰な偽善者だ。
不可能かと思える未来の目的の為には、この人の性質が一番の大敵である。
だから、冷徹な支配人リヴィエールは、人としての善な感情を包み隠して、全てを承知の上で目的遂行に邁進する。
でも、彼だけではなかったのだ。
命をかけて夜の闇に飛ぶ飛行士たちも、彼らを引き止める地上の安楽から抜け出し、大いなる目的を成す為に、超人的意志を持つことが重要なのだと理解していた。
ともすれば、非人道的ととられる個人の幸せや慰めを無視することを、あえて行わなければ成しえない物事が存在するのを、人は忘れている。
もちろん、悪用されればとんでもない結果を生みもするが、全てには相容れない両面、つまり諸刃の剣であって、善の為だけに使う人の道徳心にかかっているのは、言うまでもない。

この本を読んでいて、今の世界、とりわけ日本に、このリヴィエールと飛行士たちが必要とされていると、はたと思い至った。
先の未来を確保する為には、非常・非道とも思える手を打って行かなければならないのだろうかと。
小手先の誤魔化しで時勢を乗り切れるほど、今の事態は甘くはない。
そして、その痛みに耐えなければ、自分たちの子孫を滅ぼしかねないことを、はっきりと認識しなければならないだろう。
覚悟と選択は、全ての個人に委ねられている。

堅牢な城壁に囲まれた街、中国・松潘

2011-05-14 00:21:26 | 街たち
四川省の省都・成都からきたへおよそ350キロ北の街、松潘(しょうはん)。
西を険しい天然の要害、三方を堅牢な城壁で囲んだ山岳地帯に造られた、もとはチベット族の街だったのが、今では回族・チャン族・漢民族も加わり、4つの民族が共存している。
地理的要因もあると思うが、醜悪な近代化がおこなわれていなく、伝統家屋やその範囲を逸脱しない建物で街並が造られ、中国の往時をしのばせる。
そこでの時間は、ゆっくりと人の歩く歩調に似て流れ、現代の利便性を享受してはいないように見受けられたが、深い豊かさを湛えていた。

回族の歌好きな女性の経営する食堂の定番メニューに涼粉という、松潘では何百年も前から食べられていた麺のような物がある。
確か、えんどう豆のでんぷん粉で作る、プルプルつるつるとした葛餅を麺状にしたものに、ニンニク・紹興酒・味精(味の素)・醤油・ラー油などで作ったたれをかけて、刻みネギをのせて食べるといっていた。
この店主の夫は、裏手にある社交場の喫茶でお茶を飲み、多く集まっているその他の男たちは麻雀に何時間も興じているとは、男の楽園といった風情だ。
夫が遊んでいてもおおらかに笑い仕事に戻る女店主に、あくせく共働きをして心身を疲弊させ、それでも消費行動に勤しみ、さらに自らを追い詰めていく我々消費大国の住民は、ちっとも幸せそうな顔をしていないだろうと諭されたような気がした。

この松潘のあたりに、黄龍という秘境で景勝地がある。
標高3500メートルの高所に、3400以上の湖沼が段々に連なり、エメラルブルーの水を湛えた景観は、圧倒的美しさを誇っている。
同じく中国の九寨溝や、トルコのヒエラポリス-パムッカレのように、奇跡のような造形美をみせてくれる。
あの、透き通るエメラルドブルーの水に、取り込まれたい誘惑を感じるのは、自分だけなのだろうか?

東の観陽門をでて、川に架かる吊り橋を渡った側には、古い庶民の家並みがある。
94歳のかくしゃくとした老人が、庭から山を眺めていた。
本家本元、仙人のようであった。
山の頂には、西門が聳え立ち、三国時代以前からの戦の名残を留めていた。
チャン族は、そのに四門のむこうに広がる山に古来住んでいるという。
彼らの先祖は、蜀の一員となって、漢民族の侵攻を食い止めようと剣を振るったらしく、「三国志」のファンであるものは心躍ってしまうのだ。

いまでは、民族の隔てなく婚姻を結んだり仲良く共存しているというが、かつての遺恨は消え失せたのだろうか。
厳しい環境に暮らすもの同士、助け合わないといけないだろうが、チベット族に漢民族の娘が嫁入りをして融和が図られたエピソードがあるにしても、まだ疑念が残る。
それとも、ここは幸運な珍しい例なのだろうか。

分厚く高い壁に囲まれたこの街は、幾多の戦を潜り抜けてきたのか、その壁が全てを物語る。
人の争いの為に造られ、そして人の争いを見続けてきた壁、本当に人は和解し争いをしないものになれるのだろうか?
しかし、壁は、沈黙を守り、これからも人々を見守っていくだけ。
もし、壁の思念を感知できたならば、我々の進むべき道をどう指し示してくれるのか、あるいは、人は変わることが出来なく、ただ愚かに死に向かうだけの者と憐憫の目で見られてしまうのか、恐ろしい。