「人権」、まことしやかに言われているが、自由資本主義・民主主義のまやかしの言葉のように思えてきた。
「人権」が国際的に認知されて、60年が経った。
しかし、それが普及しているかというと、いまだに悲しむべき状況だ。
人権には、「個人の権利」と「最大多数の最大幸福」という、どうしても相容れないものを内包している。
社会を秩序を持って治めていくには、「最大多数の最大幸福」を優先させる必要がある。
そうなると、「個人の権利」または「少数派の権利」を尊重する余地がなくなっていくのだ。
だが、どうも近頃「最大多数の最大幸福」の原理が歪められているように感じるのだ。
「利権」の亡者共が、己が幸福のためにこれを悪用しているきらいがある。
世界のいたるところで。
人の品性、善なる心は、いったいどこへいってしまったのか。
尊厳を踏みにじられ、貧困にあえぎ、生きる希望をもぎ取られた人々が、地上に這いつくばっている。
かたや、何を思ったか「個人の権利」を唐突に取り上げて、「人権」が侵害されているとヒステリックにわめきだす輩がいる。
たしかに、「最大多数の最大幸福」の陰に隠れてしまう「個人の権利」を取り上げて、「最大多数の最大幸福」を得るために泣いている人もいて、人はそのことを忘れたり認識しなかったりするから、その犠牲の上にある幸福に感謝せよと諭すのは大切だ。
それでも、胡散臭く思われるのは、極端な例を挙げて権利を侵害されているであろうグレーゾーンの人たちの目をそらしているようにみえるからだ。
知らず知らずのうちに、心が疲弊すると、状況を客観しできなくなり、不当さに対して声を上げることも出来なくなる。
かなり危機的事態が、世界で、日本で進行しているにしても、不完全な「人権」にあって、どう社会を構成維持すればよいのか、誰も明確な答え、指針を示せはしないのだろう。
混迷の時代の最中のことである。
「人権」が国際的に認知されて、60年が経った。
しかし、それが普及しているかというと、いまだに悲しむべき状況だ。
人権には、「個人の権利」と「最大多数の最大幸福」という、どうしても相容れないものを内包している。
社会を秩序を持って治めていくには、「最大多数の最大幸福」を優先させる必要がある。
そうなると、「個人の権利」または「少数派の権利」を尊重する余地がなくなっていくのだ。
だが、どうも近頃「最大多数の最大幸福」の原理が歪められているように感じるのだ。
「利権」の亡者共が、己が幸福のためにこれを悪用しているきらいがある。
世界のいたるところで。
人の品性、善なる心は、いったいどこへいってしまったのか。
尊厳を踏みにじられ、貧困にあえぎ、生きる希望をもぎ取られた人々が、地上に這いつくばっている。
かたや、何を思ったか「個人の権利」を唐突に取り上げて、「人権」が侵害されているとヒステリックにわめきだす輩がいる。
たしかに、「最大多数の最大幸福」の陰に隠れてしまう「個人の権利」を取り上げて、「最大多数の最大幸福」を得るために泣いている人もいて、人はそのことを忘れたり認識しなかったりするから、その犠牲の上にある幸福に感謝せよと諭すのは大切だ。
それでも、胡散臭く思われるのは、極端な例を挙げて権利を侵害されているであろうグレーゾーンの人たちの目をそらしているようにみえるからだ。
知らず知らずのうちに、心が疲弊すると、状況を客観しできなくなり、不当さに対して声を上げることも出来なくなる。
かなり危機的事態が、世界で、日本で進行しているにしても、不完全な「人権」にあって、どう社会を構成維持すればよいのか、誰も明確な答え、指針を示せはしないのだろう。
混迷の時代の最中のことである。