「にじいろジーン」で、イタリア・トスカーナ地方のフィレンツェと周辺の町ルッカとコッローディを旅していた。
まずは、フィレンツェ。
砂岩なのか薄赤茶の石造りの建物に、狭い石畳の路地、何か潤いのない乾いた街並み。
曇りや雨の日は、陰気な雰囲気がある。
美的景観を考慮して、それでなくとも間口の狭い店なのに、目だった看板などをつけていないため、いっそう地味な路地になっている。
もちろん、観光やショッピングの目抜き通りは、それなりに派手なディスプレーが施してある。
フィレンツェは、革製品の加工で有名。
腕のいい職人が、工房兼店舗を構えたりもしている。
世界的に有名なブランドでなくとも、質のよいシンプルで素敵な品物を作っている。
皮のほかにも、仕立て屋、金細工師、いろいろなクラフト系の職人など、職人の街でもある。
歴史も古く栄えた街(芸術・文学・金融・商業)なだけに、食も大いに発達した。
庶民も全体的に裕福で、肉の食べ方に心血を注いだのだろう、臓物料理トリッパのアレンジの仕方には、定評があるという。
臓物系は苦手だが、食べてみたくなるような料理が次々と紹介され、挑戦したくなるくらいだった。
以前フィレンツェを訪れたときは、ひどく暑い夏だった。
美術館は午前しか開いていないので、午後は教会で涼むか、公園のベンチで物思いに耽る、またはバルで冷えたビールを飲むくらいしかできなかった。
街中の路地を歩き回りたくとも、抱えた1.5リットルの水が一日持たない暑さでは、とても探検どころではなかったのだ。
フィレンツェから自動車で2時間ほどにあるという城壁に囲まれた街ルッカ。
中世にタイムスリップしたかのような古い街並み。
砂糖・ミルク・バターを入れない、干しぶどうの甘みで味付けした焼き菓子は、昔ながらの製法を守っていて、甘いワインと食べると味わい深いといっていた。
素朴だけれど、飽きないその焼き菓子も、心惹かれた。
ルッカよりかなりフィレンツェに近いコッローディという村は、「ピノキオ」の作者の母親の生誕地で、ピノキオのモニュメントや、世界中のピノキオ関連グッズを集め、町おこしをしていた。
ピノキオグッズを映しているとき、見覚えのあるピノキオがあった。
我が家にある2代目のピノキオの飾り物だ。
1代目は、小さいカラフルなマリオネットのピノキオだったが、子供たちのおもちゃとなってあえなくその体はばらばらに壊れ果ててしまった。
その後任として、マリオネットではないけれど、両腕と頭が回るピノキオがやってきて、今も飾り棚にぶら下がっている。
イタリアには、なんと多くの中世以来の建物を持つ街が存在していることだろう。
点々と散らばる街たちは、今では人類の宝になっている。
老朽化したところは、その面影を大切に残しながら修理し近代化して、使い続けていく。
これが本当の文化的豊かさなのではないだろうか。
残しやすい石造建築と、比較的少ない破壊的な天災などの条件があるにしても、価値を認め守っていこうとする気概の有無なのか。
そう、自分たちの文化に誇りを持てる気持ちが、何より大事なのだ。
極端に価値感を変えるのではなく、新しい価値観を見極めながら保持してきた価値観に折り合いをつけながら取り入れるべきではないか。
この、急激な価値変換は、日本のお家芸になっているようでは、本当の文化が育ち受け継ぐ土壌になく、独自の文化を過去のものにするにはあまりにも忍びない。
そう、おもいませんか?
まずは、フィレンツェ。
砂岩なのか薄赤茶の石造りの建物に、狭い石畳の路地、何か潤いのない乾いた街並み。
曇りや雨の日は、陰気な雰囲気がある。
美的景観を考慮して、それでなくとも間口の狭い店なのに、目だった看板などをつけていないため、いっそう地味な路地になっている。
もちろん、観光やショッピングの目抜き通りは、それなりに派手なディスプレーが施してある。
フィレンツェは、革製品の加工で有名。
腕のいい職人が、工房兼店舗を構えたりもしている。
世界的に有名なブランドでなくとも、質のよいシンプルで素敵な品物を作っている。
皮のほかにも、仕立て屋、金細工師、いろいろなクラフト系の職人など、職人の街でもある。
歴史も古く栄えた街(芸術・文学・金融・商業)なだけに、食も大いに発達した。
庶民も全体的に裕福で、肉の食べ方に心血を注いだのだろう、臓物料理トリッパのアレンジの仕方には、定評があるという。
臓物系は苦手だが、食べてみたくなるような料理が次々と紹介され、挑戦したくなるくらいだった。
以前フィレンツェを訪れたときは、ひどく暑い夏だった。
美術館は午前しか開いていないので、午後は教会で涼むか、公園のベンチで物思いに耽る、またはバルで冷えたビールを飲むくらいしかできなかった。
街中の路地を歩き回りたくとも、抱えた1.5リットルの水が一日持たない暑さでは、とても探検どころではなかったのだ。
フィレンツェから自動車で2時間ほどにあるという城壁に囲まれた街ルッカ。
中世にタイムスリップしたかのような古い街並み。
砂糖・ミルク・バターを入れない、干しぶどうの甘みで味付けした焼き菓子は、昔ながらの製法を守っていて、甘いワインと食べると味わい深いといっていた。
素朴だけれど、飽きないその焼き菓子も、心惹かれた。
ルッカよりかなりフィレンツェに近いコッローディという村は、「ピノキオ」の作者の母親の生誕地で、ピノキオのモニュメントや、世界中のピノキオ関連グッズを集め、町おこしをしていた。
ピノキオグッズを映しているとき、見覚えのあるピノキオがあった。
我が家にある2代目のピノキオの飾り物だ。
1代目は、小さいカラフルなマリオネットのピノキオだったが、子供たちのおもちゃとなってあえなくその体はばらばらに壊れ果ててしまった。
その後任として、マリオネットではないけれど、両腕と頭が回るピノキオがやってきて、今も飾り棚にぶら下がっている。
イタリアには、なんと多くの中世以来の建物を持つ街が存在していることだろう。
点々と散らばる街たちは、今では人類の宝になっている。
老朽化したところは、その面影を大切に残しながら修理し近代化して、使い続けていく。
これが本当の文化的豊かさなのではないだろうか。
残しやすい石造建築と、比較的少ない破壊的な天災などの条件があるにしても、価値を認め守っていこうとする気概の有無なのか。
そう、自分たちの文化に誇りを持てる気持ちが、何より大事なのだ。
極端に価値感を変えるのではなく、新しい価値観を見極めながら保持してきた価値観に折り合いをつけながら取り入れるべきではないか。
この、急激な価値変換は、日本のお家芸になっているようでは、本当の文化が育ち受け継ぐ土壌になく、独自の文化を過去のものにするにはあまりにも忍びない。
そう、おもいませんか?