今日、初めて市販の白髪染めを使った。
遺伝的に若い頃から白髪が生えはじめ、10年位前あたりから、年4回くらい美容院で染めるようになった。
経済的に二進も三進もいかない状況と、半死の心を抱えている日々に、身なりを構う余裕が全く無くなってしまい、5ヶ月何もしないで過ごした。
家人と経済面で口論したこともある。
ようやく今日、白髪染めを買う気持ちになった、家人が、白髪染めをしてくれるという約束を取り付けて。
午後、二人で準備をして、いよいよ白髪染め開始。
仕様書をよく見ながら、慣れない手つきで薬剤を髪に付けていく。
塗り斑のないように、丁寧に、注意深く。
薬剤を洗い流し、シャンプーで洗髪するのも手伝ってくれた。
仕上がりは、初めて毛染めをしたにしては、まずまずの出来。
次回は、もっと上手くやると意気込んでいた。
家人は、ケチな性分だ。
そうにしても、ただのケチではないという。
自分の手で何か出来ることがあれば、工夫と労力で埋め合わせをするのを厭わない。
さすがに、かなりいい加減な性格の自分でも、家人のケチさに辟易しないわけではない。
それでも、ただ口うるさいばかりで何もしないよりは、筋が通っているので、家人のポリシーを否定できようか。
今日の白髪染め、こんなこと自分でしろと言い放たれたらそれでお終いだ。
そうはしないで、せっせとかいがいしくやってくれた家人の行為は、これも愛の表れかもしれないと思った。
当の家人も、毛染めをしながら「愛だよ、愛」と言いながらやっていたが。
吝嗇ゆえの消極的な行為ではないだろう。
つまらなく、面倒くさいことだもの、何も手を貸す必要はなく、配偶者が白髪頭でいてもさしあたって困ることは一つもないのだ。
だから、やはり「愛」なのだと思う。
思えば、半年前の自分は、ただ息をしているだけの動く骸・ゾンビそのものだった。
子供がいなかったら、本当の骸になっていたかもしれない。
同じ空間に、誰かがいるのさえ辛かった。
家族であってさえも。
全てから逃れるように、他者と接点を持たない為に本を貪り読んだ。
この時、食事の支度や後片付けと洗濯を、家人がかなりしてくれていた。
異様な状態だったに違いない。
現在が、全くなんでもないかといったら、そうはいえない。
ただ、あのときに比べたら、生きた心をいくらか取り戻している。
こうやって、文章を書くことが出来るんだもの。
無理をすれば、どうにか何かは書けるんだから。
それも、家人の「愛」があったから、子供の「愛」があったから。
日々、家族・知人の小さな愛に囲まれて暮らしている。
この「小さな愛」がなくては、明日を生きる希望を持てるのだろうか。
「小さな愛」の大切さを知って、そこから他者を思いやる「大きな愛」に育っていくのだと思う。
しかし、密接に個人と強い繋がりを持つ「小さな愛」は、時として「大きな愛」を阻む巨大な障壁になる。
それは、「小さな愛」を理不尽に奪われたとき、「憎しみ」が生まれるからだ。
世界のいたるところで、「小さな愛」は傷つけられ奪われ、「憎しみ」が増殖している。
「大きな愛」は、各地で市民権を剥奪されているだろう。
人間は、不完全な生き物だ。
「小さな愛」が傷つけられてもなお、「大きな愛」を持ち続けるには弱い心を持っている。
いまさら、過去に生まれた「憎しみ」を綺麗さっぱりと葬り去ることは、非常に困難だろう。
自分の身に置き換えて想像してみる。
理性で分かっていても、いざその立場になると正直「憎しみ」に囚われてしまうのではないか。
「憎しみ」は、増えはしても無くなりはしない、忘れることは出来ないから。
だが、「大きな愛」なくしては、「小さい愛」を育み守ることも出来ない。
他者を思いやり幸せを願うことで、人間世界が少しでも暮らしやすくしなければ、「小さな愛」の存在も危うくなる。
誰しも分かるこの「大きな愛」と「小さな愛」の関係を、どうか大切にして、地球に生きとし生けるもの、その運命の尽きるときまで、「愛」で満たしていけたらと、夢のような世界を夢想するのだ。
遺伝的に若い頃から白髪が生えはじめ、10年位前あたりから、年4回くらい美容院で染めるようになった。
経済的に二進も三進もいかない状況と、半死の心を抱えている日々に、身なりを構う余裕が全く無くなってしまい、5ヶ月何もしないで過ごした。
家人と経済面で口論したこともある。
ようやく今日、白髪染めを買う気持ちになった、家人が、白髪染めをしてくれるという約束を取り付けて。
午後、二人で準備をして、いよいよ白髪染め開始。
仕様書をよく見ながら、慣れない手つきで薬剤を髪に付けていく。
塗り斑のないように、丁寧に、注意深く。
薬剤を洗い流し、シャンプーで洗髪するのも手伝ってくれた。
仕上がりは、初めて毛染めをしたにしては、まずまずの出来。
次回は、もっと上手くやると意気込んでいた。
家人は、ケチな性分だ。
そうにしても、ただのケチではないという。
自分の手で何か出来ることがあれば、工夫と労力で埋め合わせをするのを厭わない。
さすがに、かなりいい加減な性格の自分でも、家人のケチさに辟易しないわけではない。
それでも、ただ口うるさいばかりで何もしないよりは、筋が通っているので、家人のポリシーを否定できようか。
今日の白髪染め、こんなこと自分でしろと言い放たれたらそれでお終いだ。
そうはしないで、せっせとかいがいしくやってくれた家人の行為は、これも愛の表れかもしれないと思った。
当の家人も、毛染めをしながら「愛だよ、愛」と言いながらやっていたが。
吝嗇ゆえの消極的な行為ではないだろう。
つまらなく、面倒くさいことだもの、何も手を貸す必要はなく、配偶者が白髪頭でいてもさしあたって困ることは一つもないのだ。
だから、やはり「愛」なのだと思う。
思えば、半年前の自分は、ただ息をしているだけの動く骸・ゾンビそのものだった。
子供がいなかったら、本当の骸になっていたかもしれない。
同じ空間に、誰かがいるのさえ辛かった。
家族であってさえも。
全てから逃れるように、他者と接点を持たない為に本を貪り読んだ。
この時、食事の支度や後片付けと洗濯を、家人がかなりしてくれていた。
異様な状態だったに違いない。
現在が、全くなんでもないかといったら、そうはいえない。
ただ、あのときに比べたら、生きた心をいくらか取り戻している。
こうやって、文章を書くことが出来るんだもの。
無理をすれば、どうにか何かは書けるんだから。
それも、家人の「愛」があったから、子供の「愛」があったから。
日々、家族・知人の小さな愛に囲まれて暮らしている。
この「小さな愛」がなくては、明日を生きる希望を持てるのだろうか。
「小さな愛」の大切さを知って、そこから他者を思いやる「大きな愛」に育っていくのだと思う。
しかし、密接に個人と強い繋がりを持つ「小さな愛」は、時として「大きな愛」を阻む巨大な障壁になる。
それは、「小さな愛」を理不尽に奪われたとき、「憎しみ」が生まれるからだ。
世界のいたるところで、「小さな愛」は傷つけられ奪われ、「憎しみ」が増殖している。
「大きな愛」は、各地で市民権を剥奪されているだろう。
人間は、不完全な生き物だ。
「小さな愛」が傷つけられてもなお、「大きな愛」を持ち続けるには弱い心を持っている。
いまさら、過去に生まれた「憎しみ」を綺麗さっぱりと葬り去ることは、非常に困難だろう。
自分の身に置き換えて想像してみる。
理性で分かっていても、いざその立場になると正直「憎しみ」に囚われてしまうのではないか。
「憎しみ」は、増えはしても無くなりはしない、忘れることは出来ないから。
だが、「大きな愛」なくしては、「小さい愛」を育み守ることも出来ない。
他者を思いやり幸せを願うことで、人間世界が少しでも暮らしやすくしなければ、「小さな愛」の存在も危うくなる。
誰しも分かるこの「大きな愛」と「小さな愛」の関係を、どうか大切にして、地球に生きとし生けるもの、その運命の尽きるときまで、「愛」で満たしていけたらと、夢のような世界を夢想するのだ。