rock_et_nothing

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「煙草」嫌いだけれども、煙草にまつわる文化は否定しない。

2011-05-20 00:45:41 | 随想たち
家人は、煙草を吸う。
でも、家族のいるところでは、吸わない。
子供がいるのもあるが、家人の両親が吸わないからだ。
吸いたいときは、庭で吸うか家人の仕事部屋で吸っている。
昨年の煙草の値上げ時には、一番安いゴールデンバットにパイプの組み合わせで吸っていた。
そして、震災の影響で煙草の供給がストップし、今なお品薄状態が続き、頼みのゴールデンバットは、店頭から姿を消している。
大概ならここで煙草を止める方向に行くのだろうが、そこはしつこい変人の家人、巻き煙草に鞍替えをした。
巻き煙草、刻み煙草の葉を専用の紙で巻いて吸うのだが、一本分は多いらしく、煙管かパイプにつめてワンショット分の香りを楽しみたいと言い出した。
そこで、今日は、目星をつけていた変わった煙草をたくさん取り扱っている店に行って、刻み煙草と煙管の下調べをしてきた。
刻み煙草の種類が豊富な上に、葉巻もピンからキリまで取り揃えていて、西洋の煙草文化の奥行きの深さを垣間見たようで、喫煙の習慣のない自分も、憧れを抱いてしまった。
葉巻も、吸い口のついたスリムなものがあり、女性でも嗜む事が躊躇われないような物があることに驚いた。
煙草のフレーバーのバリエーションも、定番のバニラから、メンソール、コーヒー、チョコレート、チェリーなど様々。
それらが入っているパッケージのデザインも、凝っていて、コレクションしたくなるものが多い。
煙草は、嗜好品であり、大人の道楽の一種であるように思う。
今の主流のフィルターつき巻き煙草は、安易な為にどこでも吸いたい放題で、いささか低級な嗜好品といった感じが否めない。
パイプやキセルで煙草を吸うには、日頃から手入れを欠かせないし、煙草の葉を詰めてマッチを擦り火をつける儀式めいた作業をしなくてはならない。
だからこそ、その一服はかけがえのない楽しみになり、余裕をもたらし、道楽となりえる。
子供の頃、祖父が煙管やパイプをいくつも持っていて、よく覚えているのは象牙で出来たパイプだ。
両切りの煙草を感から取り出してパイプにつけ、マッチで煙草に火をつけて、ゆっくりとタバコを燻らせていた。
もちろん、煙草の煙は大嫌いで、そんな祖父を横目で見やりながら、煙のこないところへ避難したものだった。
確かに、健康に害を与えるだろうが、どこもここも喫煙を徹底排除に向かうのは、行き過ぎではないだろうか。
もう少し、おおらかに喫煙に市民権を持てせてもいいのでは。
子供、妊産婦、病人のいるところは、ご法度。
大勢の人の集まる密室なども、喫煙を避けるべきであろう。
だが、駅の屋外にあるホームの端の空気の流れのあるところまで、「公共の場」という括りで全面禁煙とは、神経質すぎよう。
そう、あのへそ曲がりで我の強い個人主義者のフランスでも、カフェのテラスが禁煙となったというのは、悪い冗談。
さしものフランスも、世界の流れ(アメリカ主義)には抗えなかったのか。
などと、煙草にまつわる文化芸術があったのも事実、それでなくとも肩身が狭くなった煙草なのだから、分煙と時と場所をわきまえるのを条件として、これ以上迫害しないのはいかがだろうか。
潔癖さは、ときとして狭量な暴君に変貌することもあるのだ。

 ミュシャ:ジョブ