勇者乙の天路歴程
001『あの時のハンカチ』
買うんじゃなかったかな……
ほんの二秒ほど迷って、手に持ったサンダルをレジ袋に入れると、柱の横のゴミ箱に放り込み、下足の黒靴に履き替えた。
振り仰いだのは感傷からではない。
ただ、時間の確認をしたかったからだ。最寄り駅の電車は15分に一本しかなくて、タイミングを計らなくては、ホームで10分以上待つ羽目になってしまう。二階分の吹き抜けになった玄関ホールの時計は、柱の高い位置に掛けてあるので、間近で見るには振り仰がなくてはならんのだ。
思いがけずにせきあげてくるものがある。
時に行動や仕草は、それに見合った感情を呼び起こすものだ。
たとえば、胸のところで腕を組むと微妙に偉くなったというか対立的な気持ちになるし、組んだ手を、そのまま臍のあたりまで下ろすと、銀行の案内係りのように温順になる。それに笑顔を付け加えれば、ディズニーランドのキャストが務まりそうな気にさえなる。Vサインをすれば写真を撮りたくなるし、中指を立てれば、ちょっと凶暴な気持ちになる。
意識しないつもりだったが、どうも、この中村一郎は四十年を超える教師人生の終りに感傷を持っているようだ。
よし、正門を出たところで一度だけ振り返ろう。
昭和の東京オリンピックの年にできた校舎は古ぼけてはいるが、間口六間のの玄関は総ガラス張りで出入りの気分だけはいい。
タタタタタタタタタタタ
正門まで数メートルというところで、二重の意味で憶えのあるサンダルの音。玄関ロビーは広くて天井も高いので、遠慮のない速足でやってくると、意外に大きく響いてしまう。
「中村先生!」
振り向かざるを得ない。
「だいじょうぶですか?」
「いやあ、声をかけて下さればいいのに! いや、モタモタしていたわたしも悪いんですが(;'∀')」
「いや、すみません。入試やら年度末の業務でお忙しいでしょうし、講師の期限切れなだけですから」
「なにをおっしゃるんですか、先生の43年に渡る教師生活の千秋楽じゃないですかぁ!」
「いや、退職祝いは10年前にやって頂きましたし、再任用が終わった時も立派に送り出していただいて、いまはただの講師の任期切れです」
「……すみません、ご希望に添えず、こんな形でお見送りすることになって」
「いやいや、70歳を超えて、もう一回使ってくれっていう方が厚かましいんです。まあ、家にいてもゴロゴロするだけだし、ダメもとで希望出しただけですから。いや、年金もいよいよ満額支給。幽遊自適です。校長先生こそ、Pや教育委員会の締め付け、昔の比ではないです。どうぞ、ご健康に留意して、ほどほどに頑張ってください。教頭さんはじめ、みなさんいい人ですから、お任せになればいいんです。ほどよく力を抜かなきゃ、7・5・3ですからね」
「はい、平で7年、教頭5年、校長3年の余命なんですよね」
「アハハ、昭和時代の教訓ですがね、あ、いや、あんまり励ましにならないなあ(^_^;)。いや、この歳になっても、軽くて申し訳ありません」
「いえいえ、そのお歳で、まだまだ元気な、そのお姿だけで、わたしたち後続の者には励みです。あ、そうだ」
正門を出たところで、校長はポケットからハンカチを出した。
「すみません、42年前にお借りして、ずっとお返しできなくて」
あ…………!?
鮮やかに40年以上前の、封印したことさえ忘れてしまった記憶が蘇った。
「何度か、お返ししようと思って、でも、なかなか……」
「まだ、持っていたんだ」
「はい、このハンカチと先生の、あの時の言葉で頑張れたんです。先生、もう一度、あの言葉聞かせてください」
「あ、うん。ええと……明日は明日の風が吹く……」
「はい……それから?」
「えと……明日の風は、俺がいっしょに吹かれてやっから! がんばれ、光子! だったよな?」
「はい、あの時は『俺』でなくて『先生』でしたけど」
「あ……」
「で、手で頭をワシャワシャされて、嬉しかったです」
「そ、そうだったか(;'∀')」
両手に荷物を持っていてよかった。
教え子とは言え、来年には定年になろうかという校長の頭をッワシャワシャするわけにはいかない。
ペコリと一礼すると、原田光子は校長の顔に戻って、正門の内に戻って行った。
生徒が何人かこっち見てるし、今さら、振り返ることもできず、走らなければ電車に間に合わない時間になってしまっている。
まあ、ゆっくり行くとするかな……。
☆彡 主な登場人物
- 中村一郎 71歳の老教師
- 原田光子 中村の教え子で、定年前の校長