自分の手が動かなくなることなど想定外だったけど、ある日突然激しい痛みに襲われた。しばらくすると元に戻ったけれど、自分の身体は既にあちこち支障が出ているということに気づく。
長年当たり前のようにやってきた掃除も・・・。
息子たちは気づいているだろうか。息子たちが顔をそろえて無事と元気を確認したお正月、親の衰えは隠すべきが義務かも知れない。
「新100線 No.67」
蓋つきの平べったい缶の中に、線と言われれば確かに線状の物が入っている(固定されている)。
閉じられた空間の中に帯状の金属が納まっているのは、入れたというより切断面のない持続した過程の一端が、円形の小さな空間に閉じ込められているという風である。
100というのは、当然《数多》という意味だと思うが、数多なものが凝縮しているという図かもしれない。
線は命あるかぎり永遠に続いていくものと思うが、その切り取られた部分は秘かなる想い出(喜怒哀楽の具体性は黙している)ではないか。蓋をあければ在り、締めれば消失を余儀なくされる、ごく個人的な、しかし誰にもあり得る過去の時空/経験である。
(写真は横須賀美術館『若林奮VALLEYS』より)
丘の幻惑
ひとかけづつきれいにひかりながら
そらから雪はしづんでくる
電しんばしらの影や藍靛や
ぎらぎらの丘の照りかへし
☆究めると現れる枠(物の骨組みや囲み)
説(話)を伝え、営(こしらえる)。
哀しい精(魂)を救うのは照(あまねく光が当たる=平等)である。
こういう助手の勤めがきみにとってあまりうれしくないことは、よくわかっている。一方、おれにとっては、きみをむりやりに助手にすることは、どんな恐怖も吹っとばすほどの無上のたのしみなんだ。
☆脳の概念がきみにとってうれしくないことはよく分かる。恐怖心に追い込み、強制的に助手(脳の概念)にすることは、全くの冗談でしかない。