続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『赤いモデル』

2015-05-18 06:42:55 | 美術ノート
 土の上の中途から靴の変容した足。足型の靴ではない、足であり、靴なのである。

 煉瓦の壁、草の一本も生えていない地面。荒れ地の上の足は痛いだろうし、血を見ること必至。(かもしれない)
 傷つけば血の出る生の足が、決して血を出すことのない死んだ獣の皮で造られた編み上げ靴に変容している。≪生と死≫の混在がここにある。生きているらしき足に、死んで鞣された加工品の靴の付着。

 有り得ない様相に、履くべき人の不在。矛盾が生々しい形態で提示されている。背景が大地や海でなく、煉瓦という閉塞からも暗いイメージはぬぐえない。拘束、あるいは苦役という屈従の空気感がある。少なくとも明るい開かれた未来(解放感)とは隔絶した世界である。

≪赤≫から覗くイメージは凄惨さを含んでいる、血を連想させるからである。もちろん白と赤では歓喜や祝福を想起させるがここでは土色の混濁色があるばかりで、陽気さの欠片すらうかがい知ることはできない。

 歩く機能を失った足、見せかけの足を有した靴・・・切断された足、これらすべてのイメージからは哀愁というよりも、鬱屈した死のイメージが浮かび上がる。


 人間としての条件を欠いた悲惨な足である。人間の人間による圧力下の足ではないか。流れる血は容易に想像できる。
 しかし凝視すると、反駁の精神・誇りに満ちた戦闘的な足にも見えてくる。疲れ果て衰弱した古い傷だらけの足(靴)ではないことは確かで新品なのである、無傷であれば流れる血もここにはない。

 ただこの屈辱には、確かに赤い血はおびただしく流れたであろうことは推測の範囲にある。足が生身の足ならば、足首から上の人間の本体は失われ、歩けない人としての存在が隠れている。


 在るものは、無いものを隠している。
 一滴の血も描かれていないこの作品には、おびただしい無念の血が流れているはずである。『赤いモデル』の沈黙は、静かなる反撃である。
(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

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