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ブラジル移民の先駆者:平野運平の足跡(スケッチ&コメント)

2011-03-20 10:08:57 | スケッチ



ブラジル移民の先駆者:平野運平の足跡

江嵜企画代表・Ken



日伯協会のお世話をしている同窓のTさんから案内があり、午後2時からブラジル移民の先駆者、平野運平について、ブラジリア大学、根川幸雄准教授の話を聞いた。この日は、たまたま、朝9時から猪熊佳子山科教室があり、神戸、山科、神戸と往来する忙しい一日となった。

東北関東大震災で犠牲になられた方に黙とうを捧げた後、講演が始まった。会場の神戸山手にある海外移住と文化の交流センター大ホールに集まった大勢のブラジルファンが、質疑応答時間含め約2時間の講演を堪能した。いつものように会場の様子をスケッチした。

講師の根川先生は、たまたま今回の東北の地震発生の時刻に仙台でブラジル日系移民の研究調査中だった。帰路バスに閉じ込められ、郡山の避難所で3日過した。不便な郡山での避難所生活のあいだ、改めて平野運平の足跡を読み直した。原始林開拓過程で、ブラジル移民をマラリアが襲った。多くの犠牲者が出た。干ばつと特にバッタの被害は甚大だった。日系ブラジル人に対する差別、偏見にも見舞われた。平野運平自身もマラリアで志半ばで34歳でなくなった。

彼の遺志は後続の移民たちに受け継がれ、コーヒー、綿花の栽培へ拡大、成功をおさめた。これは平野運平が乏しい資金をかき集め、土地を購入したことが大きい。コーヒー耕地労働者は教育の機会がなかった。借地農家は寺子屋式教育が受けられた。同じ日系ブラジル人の中でも、「平野植民地」以外の日系ブラジル人に間では争いが絶えなかったと言われる。

ブラジル日系移民は、特に子弟の教育に力を入れた。1917年に旭小学校を開校、翌18年に日本人会を発足した。31年に、平野の没後、後進が31年に高等科を開設、33年には、7代目校長に平川照正氏が就任、日本語とポルトガル語の授業を始めた。「平野植民地」が生んだ人の中には、畑中仙太郎がいる。彼は「昼行燈」と言われながら、終生移民保護に努めた。彼の息子の畑中タダオは、1955年、ブラジル初の地方自治体首長(バストス市長)になった。

平野運平はブラジルに理想郷を作る夢があった。平野の死後も彼の遺志をついだ後継者が数々の苦難を乗り切った。今回地震に遭われた東北のみなさんの姿に重ね合わせた。東北の皆さんも、必ず苦難を乗り切って行かれるに違いないと話された言葉が特に印象に残った。

日系移民の当時の様子は文庫本の「輝ける青き空の下で」(北杜夫著)に詳しい。会場で回覧された。平野運平の足跡は「平野廿五周年史」に詳しい。「平野廿五年史」によれば、「第二世教育の為め植民地全経費の八割を傾倒した」というくだりがある。いかに日系ブラジル人が後進の教育に力を入れたかが伺えると根川先生は話を終えた。

根川先生はもともとブラジルには一切関心がなかったそうだ。それが今、ブラジルの檻子になっておられる。日本滞在が延びているが近々ブラジルに戻り研究生活を続けられる。日本とブラジルのかけ橋として益々のご活躍を期待したい。(了)


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