思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

部活ー朝から練習を当然として受け入れる日本人は、異常というほかないでしょう。

2018-09-26 | 教育

 部活動をしている子(ほぼ全員)は、毎日朝練もあり、6時前に起きていますが、日本の学校の拘束時間は、世界一長く、帰りも夏場は7時ころになります。
そもそも同じ運動競技を毎日毎日、朝夕やり続けるのは、成長期の健全な心身の発達を阻害します。見事なほどおバカです。

 遅く学校から帰り、いったんやすんで食事をし、それから家庭学習をすれば、10時前には寝れません。中学生で、せいぜい7時間程度の(6時間の子もいる)睡眠しかできませんが、それでは、脳細胞は完全に疲労が取れず、頭脳が全開して自分で考えるという作用は、働きません。ただ、教えられることを受動的にこなす頭になるのです。疑問をもち質問するには、脳の余裕が必要ですが、それができないのです。この受動知のチャンピョンが東大生ですから、本質を穿つ思考力とは無縁の知識のパッチワークを知力だとします。人間の堕落です。

 日本の中学生の自由時間のない生活の強要は、オリジナル性に乏しく、紋切型の人間を育てるには最適のもので、中学校は、集団同調する生き方をつくる育成機関です。みながこういう異常なシステムに飲み込まれて、それを当然として受容し、批判できないのは、実に恐ろしいことです。

 余裕のない人は、受動性だけの惰性態に陥るより他に生きる術をもちませんが、その異常性に気付かないのです。昆虫人間化がすすみます。いま何よりも必要なのは、自分の頭で考えることです。自分の意思をもち、それを貫く姿勢です。強要や誘導を跳ね返すパワーです。それを生み出し支えるのが恋知です。



武田康弘

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大人のいうことは聞かなくてはいけない」 あれれ?  愛され信頼される存在へ。

2018-09-23 | 教育

 5才の孫のことばですが、誰かに言われた=吹き込まれた言葉であることは確かです。

 わたし自身は、幼いころから父は対話相手でしたっから、なにがほんとうか、なにがよいか・悪いか、という【内容】の話で、「大人の言うことだから云々」という【形式】で黙らせるという「悪しき文化」(儒教的な封建道徳)とは無縁でした。
 
母とは幼稚園生のころから「言い合い」をして、よき口喧嘩相手(笑)でしたが、「お母さんの言うことだから聞きなさい」という類のことは言われませんでした。

 問題とすべきは、中身・内容であり、目上とか目下ということではありません。旧来の歪んだ道徳では、人間性のよさ=魅力は開花せず、「型ハマリの意固地な人間」を生んでしまいます。公共に向けて開かれた実存ではなく、日本人の多くに見られる中身での対話・議論のできない「自閉的に孤塁を守る」のみの人になってしまいます。ただの組織人か、自閉か、どちらにせよ不毛です。

 自分の頭で考え、判断する人に育つためには、内容で話し、内容を聞くことが前提であり、不可欠です。古い日本の常識(ブッダやソクラテスの自由対話による内的秩序の形成ではなく、孔子(儒教)の影響による封建的な上下道徳と国学による自閉思想)を超える努力がなければ、狭い精神世界で生きることで人生を終えてしまいますが、その不幸に気付くことすらないのではあまりに哀しいです。仲間主義であり家族主義であり、井の中の蛙。

 いま皆がすべきことは、内容で話し、内容で生きることです。あいさつことばの延長程度の会話しかできない自分自身の生き方(存在仕方)を変えるためには、形式を整えればいい(旧態の常識に縛られているのでそれしか生きる術がない)という想念に支えられた生き方の不幸を深く明晰に自覚し反省することでしょう。人間味あふれる豊かな人間になるためには、ふだんの努力が必要なはずです。

 よき=魅力的な存在か否か、それを測るのは簡単です。こどもの評価です。それは恐ろしほど的確です。こどもは言葉ではごまかせません。あなたがどのような存在かを全身で察知します。楽しさ・よろこびが広がる人・開放的・解放的な人であるか、よき考えをもち、よき人生を歩んでいるか否か。それが赤裸々に問われるのです。こどもに信頼され、愛されることの少ない人は、自分を変えていかないといけません。幼子の目で自分の存在仕方を見つめてみる作業以上に大切なことはないでしょう。



武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間が神だなんて、日本って、狂ってたよね。」 小学5年生の男の子

2018-08-30 | 教育


小学5年生の男の子が、戦前の日本の歴史を知り、

「人間が神だなんて、日本って、狂ってたよね」

といいました。

ほんとうにその通りですが、

そういう狂った思想を教えていた戦前の先生、それを強要していた官僚と政治家たち安倍首相が最も敬愛するという祖父の岸信介はその中心者)。

 彼らは、その天皇主義の狂った思想(国家神道=靖国思想=国体思想)を反省したのでしょうか。もう大多数が死去していますが、死ぬ前に、悔い改めたのでしょうか? まだ生きている人は、どう考えているのでしょうか?

また、そういう「狂っている」思想の戦前の権力者の子や孫がたくさん政治家になっていますが、彼らは、小学生の言う真実を受け止め、健全な思想に変わったのでしょうか。どうも全然そうではなく、「戦前思想」を反省するどころか、「狂っている」思想に郷愁を抱いているようです。首相以下、閣僚はほぼ全員、狂っている思想の「日本会議」(ウヨク団体)のメンバーです。

 

日本という国は、どこまでおかしい国なのでしょう。いつになったら精神の病気は治るのでしょう。小学生の理性は健全ですが、権力者の思想の不健全には言葉もない。

 

※上の昭和天皇の裕仁の顔を見てください。この表情に「神」を感じる人がいるとはとても思えませんし、人間的な豊かさ・大きさ・優しさも感じないでしょう。無表情で、つくられた顔でしかなく、人間的なよさ・美しさも神をイメージさせる神々しさもまるでありませんね。焦点の定まらない目は死んでします。

武田康弘

------------------------------------------------

 

以下は、友人の深谷 志寿さんのコメント(「私はキリスト教は嫌いです」に対して)です。

「日本は一神教ではないのに明治以降は戦争をやりまくっておりました。しかも、日清戦争も、日露戦争も、太平洋戦争も、どれも宣戦布告無しの卑怯な奇襲攻撃で戦争を始めています ( ̄▽ ̄;)。つまり、戦争を始めるのに一神教も、多神教も、アニミズムも、無神論も、全く関係ないということですよ。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 深谷さんのコメントは、明らかな間違いですので、以下にご説明します。


 明治維新政府は、日本が戦争が出来る体制をつくるために、仏教を排して、国家神道=靖国思想(天皇を絶対=神とする疑似一神教)をつくりました。

 伊藤博文の慧眼(困)です。富国強兵は、国民全体をひとつにしないと出来ない、そのためには、欧米の強さの秘密=絶対神の信仰が必要で、仏教という神のない平和主義ではそれは不可能なので、皇室を利用して天皇を現人神とするという強烈な国家宗教をつくる必要がある(吉田松陰先生から学んだ水戸学+後期国学による)と考えたのでした。

 その伊藤の思惑撮り、天皇から恩寵として臣民に与える憲法=欽定憲法を四人で極秘裏につくり、天皇という名を利用して超国家主義の政治をすすめ、日清日露戦争を行い、韓国を植民地とすることに成功したのでした。

 個々人の内面世界=実存としての生を徹底的に抑圧(教育で天皇を崇める滅私奉公を叩きこむ)することができたのは、天皇教という強烈な一神教(しかも「禁じ手」の人間を神とする=オウム教がこれを真似た)によります。

 これ以上戦争を続けるならば、「日本全土を壊滅させる」「その準備は整えた」とする世界の歴史に例のない強烈な『ポツダム宣言』が出されたのは、どれほど負けても負けを認めない「天皇という絶対神を信奉する神国・.日本」に業を煮やしたからでした。受諾しなさい=「遅延は一切認めない」と書かれていたにも関わらず、首相の鈴木貫太郎も外務省も皇軍もみなこれを無視したために、広島に原爆が落とされ、ついで長崎(全部で13発が用意され順次各都市に)にとなったのです。

 もはや誰の目にも日本全土は原爆で壊滅となった時点で、ようやく負けを認めたのです(これを天皇のご聖断というのですから世界の笑いものです)。

 人間を神とするとんでもない一神教なくしては、日本の超がつく連続戦争政策(日清、日露、第一次世界大戦、シベリア出兵=ロシアへの干渉で日本は最後までしつこくやり続けた、満州事変=昭和天皇が関東軍に栄誉を与えたことで拡大し、対米戦争まで14年間の戦争)を続けることは不可能でした。

「上官の命令は天皇の命令と思え!」


武田康弘

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アインシュタインの脳!「東大生は頭がよい」という日本の基準では、彼は、落ちこぼれの脳に過ぎません。

2018-08-25 | 教育

 

 先日、NHKのテレビで、アインシュタインの脳という番組をやっていました。なんと、脳を切って、世界のあちこちの研究者(所)が持っているのだそうです。

 なんとも気持ちが悪くなる番組でしたが、

 アルバート・アインシュタインは、【受験成績がよく、そのトップになる人は頭が優れている】、というわが国の物差しで言えば、ただの落ちこぼれに過ぎません。

 いまある既存の勉学システムに乗った脳、いまる既存問題の正解への到達時間が早い脳、いまある既存の関心事や目的に敵った脳、要するに既成の勉強や学問の枠内で優れた従順脳】がよい、というのが、東大病ー東大教の人たち(日本人の大多数!)の判断です。

 アインシュタインは、規則だらけの小学校が大嫌いで、スポーツも大嫌い。妹のマヤやその友達と遊んでいました。ギムナジウムに入っても自分のすきな数学や物理学などの他は勉強はせず、成績は中の下。ノイローゼの診断書を書いてもらい休学届を出し、結局は中退しています。翌年に別のギムナジウムに入学し、大学はチューリッヒ工業大学に進学しましたが、講義をさぼって図書館にこもることが多く、教授たちからは、怠け者と見られていました。大学卒業後は就職に困り、家庭教師をしましたが、子どもを自由にさせ過ぎるというので、すぐにクビになりました。

 伝手を頼って特許局に入ろうとし、紹介状を書いてもらいますが、採用試験の成績が悪くて落ちました。翌年、再度挑戦して、ようやく特許局審議官のいすにすわることができましたが、役所の仕事は大嫌いで「役所なんて俗物の修道院だ」というのが口癖でした。ここでの仕事の合間に数学や物理学の家庭教師をし、教え子の大学生と共に人間の価値、生きる意味を考え、宇宙の謎を考え続けたのでした。役所に入って5年目の26歳のとき(1905年)、光速度は超えられず、光速度に近い運動では、質量不変の法則は成立しないという結論に達し、特殊相対性理論を発表したのでした。

 こういうわけで、こどもの頃から優しい両親やおじさんに囲まれ、知的好奇心を刺激され、母のピアノに癒されて、自分が納得するまで考えるこどもだったアインシュタインですが、学生時代に彼のことを天才だと思った友人も先生も一人もいませんでした。

 受験塾で、自分の興味や関心とは無縁の受験勉強をし(させられ)、東大に入る【従順脳】と、天才アシンシュタインの脳は、元から異なるのです。もちろん、ユーモアに溢れたその人間性も、です。

 東大病ー東大教の超がつくおバカ国家の日本も、そろそろ目を覚ますべきです。

 

武田康弘

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

43年目の式根島キャンプ&ダイビング~~素敵な写真をアップ。今年は中国シュタイナー学校のこどもたち。

2018-08-01 | 教育

まったく全てが異例ずくめの43年目の式根島キャンプ&ダイビングは、三倍の密度で、とっても充実でした。

今年は、文化・教育事業にも精力的に取り組むエリアカザン(株)社長の瀬部さんの熱い思いを受けて、中国シュタイナー学校の生徒たち22名+引率者や指導者10名、総勢32名が、式根島の海を堪能しました。

写真をfbにアップしましたので、ぜひ、ご覧ください。撮影は、わたしと染谷裕太君(エーゲ海・アテネから帰国して翌日に式根島へ)


写真は、全部で100枚近くあります。6項目に分けました。クリックですべて見られます。



最初のアップ (クリックしてください)  



風景編(クリックしてください)

 

子供たち編ー1 (クリックしてください)

 子供たち編ー2 (クリックしてください)



恒例のおすもうゴッコ(笑)(クリックしてください)




お礼ー感謝です。(クリックしてください)

 武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

火星は、明日でなくとも当分大きさは変わりません。ぜひ、望遠鏡で見てみてください。

2018-07-30 | 教育

火星が明日、最接近。

今年は2003年以来の大接近の年ですが、1週間くらいでは大きさの違いは分かりません視直径が約24秒ですが、コンマ以下の変化)。当分の間、観望の好機です。

テレビの報道は、「明日に大接近」というだけの伝え方なので、誤解をうみます。

8月下旬でもまだ視直径は21秒程度ですので、夏休み中はずっと観望の好機が続きます。実際に望遠鏡で見るのと写真は全く異なる世界です。光を反射鏡(ないしレンズ)で集めて直接そのエネルギーを感じる=見るのはとても貴重な体験です。ぜひ、ご覧ください。

自動代替テキストはありません。

写真は、2年2か月前の中接近の時に
白樺教育館の口径21㎝反射望遠鏡で撮影。


武田康弘

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こどもたちを預かる学校の対応の遅さ・鈍さには呆れます。まるで役人のごとし。命が奪われる現状に深い哀しみと強い憤りを覚えます。

2018-07-19 | 教育

こんなに暑い日に、運動場〇〇周とか、体育館にみなを集めて集会やら運動やら。

日本の学校の意味不明の行為には、評する言葉もありません。

こどもたちへの対応は、何よりも臨機応変とか当意即妙の言動が求められるのに、

現実はもそのアベコベ.動きが鈍くて、こどもたちが重症になったり死んだりしないとそ何も変えない。

まるで、役人・官僚たちのよう。

子どもたちのを預かる者として、遅さ;鈍さという役人の特性は、最もダメなもの。

教師には、しなやかさ、柔軟性、ダイナミックさ、自由さ・・誰よりも人間らしいが必要なのに、ミニ官僚でしかない教師では、こどもを預かる資格がない。こどもを預かる者は、机上の空論ー情報マシーンー言葉と数字の辻褄合わせではダメ。人間として生きよ!

式根島キャンプでの一コマ。
元気で、すばらしい笑顔のこどもたちと、レストラン・サンバレーの梅田さん


武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熱中症ーー炎天下で長時間遊ばせても、42年間ゼロです。秘訣は?(拡散希望)

2018-07-18 | 教育
 
 
 

 わたしは、真夏の式根島でちびっこキャンプ&ダイビングを42年間続けてきました。4泊5日です。
 また、太陽が照りつける中、一日中サイクリングで遊び回るなど行事もいろいろしてきました。でも、一人も熱中症にはなりません。他の病気になる子もいません。

 先天的に身体の弱い子、生まれつき心臓に欠陥のある子もハードな真夏のキャンプに参加してきましたが、体調がよくなる子はいても、悪くなる子は一人もいませんでした。
...
 なぜでしょうか?

 まず一番は、管理主義ではないことです。自由でのびのび楽しい状況をつくるからです。おとなたち(親や教師)のあーだ、こーだ、こうしろ、ああしろという言葉=精神=雰囲気を、タケセンパワーでみんな消去するからです。こどもたちは、力が抜けて心からリラックス。心配事や嫌な事は忘れます。そうすると、不思議なほど元気になります。

 次に無理はけっしてさせないことです。こどもの様子・体調をだまって見ています。こどもを管理する対象ではなく、愛すべき存在として見ていますから、細かな変化ー表情の曇りなどが自然と感じ知れます。

「やすむときは日影でね~」「ずっと日に当たっていると後でタイヘンだよ~」 とアドバイスをしたり、おいしく水分補給におやつも。
心にも身体にも負担がかからないように、楽しく気分よくなる状況をつくります。また、帽子と頭をびしょびしょに濡らすーときどき水道をみつけてまた濡らす(濡らしたタオルを帽子の下にすると長持ち)は、必要です。



 いまの管理社会ではこどももおとなも楽しくありません。意味充実のよろこびとは逆に、いちいち全部決めて、うるさい、うるさい。ほんとに心の底から生き生き嬉しくの世界がありません。管理ではなく自由こそが安全をつくるのですー
それをわたしは40年以上の時間をかけて証明してきました。

 わたしの考えのもとでは、みなが目を丸くするほどガンガン好き放題暴れても(笑)、ぞうだからこそ、病人がでません。それどころか、土や泥を触ると手がひどく腫れてしまうアレルギーの子(手袋をして遊んでいた)も、奥多摩の沢に入り、素手で土遊びをしても全然平気でしたし(その時から病が治ってしまいました!)、毎日薬がかかせないひどい喘息病の子もキャンプで5日間も薬を飲むのを忘れてもなんともありませんでしたし、ハードな運動を禁止されていた心臓病の子もキャンプで毎日みなと遊びましたが、顔色もよくなり元気になりました、まあ挙げたらキリがないですが、熱中症もその他の病気も42年間、ただの一人も出ていません。

 こどもの病気は、大人の意識がもたらす人災です。

 なんといううるさい社会なのでしょうか、こどもではなく、大のおとなもみな病気になります。精神疾患者であふれますし、体調不良者であふれます。みんな「おバカ」ですね。

 いまの世の中は、無前提で愛することー心身全体での愛がとても少なく、その代わりに管理があります。『底なしの低能文化』といえます。わたしの正しさは、42年間のオリジナルな実践が証明しています。豊かな愛のない人、いかめしい顔、硬直した顔、つまらない顔、無表情の人が、子育てや教育ができるはずがありません。よい人生とは無縁です。

 そういう意味でも「病は気から」といえます。笑い声・はしゃぎ声。たのしくうれしい気持ちが心身の健康をつくるのです。他者攻撃や陰口ではなく、自他への無条件の愛こそすべてです。
 
 
武田康弘
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の底なしに愚かな知的教育=東大生は頭がいい!(笑)う~~ん。拡散希望

2018-06-26 | 教育

 わが日本とは「集団ヒステリー」の国ではないでしょうか。
すべての価値意識が一本で、片道通行、特高(変換ミスだが意味ありげ)特攻隊の精神です。

 どうでもよい暗記テストの勝者=がり勉君が頭がいい!?と言われます。
このバカバカしさを明晰に認識している人はとても少なく、「東大生は頭がいい」と信じ込んでいるようです。

 わたしは、彼らを教え、また東大教授の幾人かとお付き合いをしてきましたが、意味論=本質論のレベルで頭がいい人など誰もいませんでした。情報収集と整理・パターン暗記は得意です。しかし、それらはみなAIで可能な領域の話でしかありません。彼らのもつ論理は、見事なほどみな「形式論理」でしかないのです。しかし、彼らは、それが弁証法的で立体的な論理ではないこと、ほんとうに現実的で意味のある論理になっていないことに全く無自覚です。却って、形式論理の固い枠組みを保持して緻密化する自分の思考を、「優れている」とさえ思い込んでいるのですから言葉がありません。

 そのようなタイプの頭脳を崇拝するのでは、国は滅びてしまいます。数学科を出て司法試験に合格した破格の元検事・郷原信郎さん(東大卒なのに例外的な頭脳・笑)はわたしと意見があいますが、「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)という本で形式論理に過ぎない官僚やマスコミ人たちへの根源的な批判をしています。

 ほとんどの場合、事実学をため込んでいくと固くて使えない頭になりますが、その融通の利かないダメな頭脳の持ち主を「エリート」としてしまう国は、愚かで救いがありません。臨機応変や当意即妙という世界とは無縁です。規制枠の中だけで考え、生きるのです。

 日本の基準で言えば、近代西洋哲学の祖・デカルトは怠け者・変わり者でしかないですし、近代民主制のアイデア=社会契約論のルソーは、不良の恋愛小説家でしかありません。20世紀最大の天才といわれるアインシュタインは落第生の落ちこぼれに過ぎません。日本人の場合でも、小説の神様と言われた志賀直哉は、学習院で親友の武者小路実篤と成績ビリを争い二度も落第しています(ただし当時は、文科ならば学習院から東大へは無試験で全員進学できましたので、二人とも東大です・中退)。世界で一番知られている作曲家の武満徹は普通高校卒で音楽教育は受けていません(唯一の師の清瀬保二も独学です)。小沢征爾は、斎藤秀雄の私塾のような短大(桐朋大学の一教室を間借りした桐朋短大)の卒です。

 人間管理主義(その根は「形式論理」という頭の構造にあります)の息詰まるような現状を変えるには、知的教育のありようを根本的に変えることが必要ですが、駅前進学塾がはやり、東大○○名合格がセールスポイントになるのでは、これを変えるのは至難です。
(※なお、今盛んに歪な形式論理を振り回すのがネットウヨク(リベラルな人を指して「反日」と言う)と呼ばれる安倍政権支持のグループです)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 以前に参議院調査室から依頼されて書いた論説文から、その一部分を以下に載せます。

 わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。
また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。

 人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。

 明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。

 現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです

 読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。

 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます

※全文はクリックで出ます。




武田康弘

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胸を締め付けられ、怒りが湧き起こる。幼子のけなげさと、躾と称する大人による子どもへの抑圧・体罰

2018-06-07 | 教育

以下は、東京新聞一面です。2018年6月7日朝刊

 


言葉がない。あまりにも哀しい。

 

このような悲劇の背後には、こどもは、「おどけ・いたずら・悪さ・ふざけ」(これが健全な証)などを経て、段々と成長するもの、という原理を知らない歪なニッポン主義の教育思想があります。幼稚園児に教育勅語を暗唱させ「礼儀正しく!?」させる教育を「すばらしい!」と礼賛した安倍明恵さんやその夫である首相、自民党文教族や有力議員たちの想念であり思想です。

狂った思想による教育改革が安倍政権のもとで進んでいます。安倍晋三の親友でウヨク思想家の八木秀次(麗澤大学教授)は、厳しい「躾」の強化=愛国主義教育の推進=子どもの人権否定という路線で、政府の教育改革をすすめる中心者の一人ですが、子を親の所有物のように見て、躾と称して子どもを抑圧する(国連の「こどもの人権」条約違反)ことが日本では日常茶飯事で、ふつうに行われています。ボディーランゲージやスキンシップを基本にした広義の対話によるのではなく、大人の意思を叩きこむ。

死亡事件にまでなってはじめて取り上げられますが、ソフト化した形で、同じ思想による子育て・教育が蔓延しています。

それは、政府の思想(戦前回帰のウヨク思想=八木秀次の主張する、日本をダメにしたのは人権思想であり、とりわけ子どもと女性の人権である」「個人というのは不毛な概念であり、家族の一員、国家の一員という自覚を植え付けるのが教育である」)が背後にあるからと言えるでしょう。森友の教育勅語暗唱の幼児教育を礼賛しいた安倍夫妻や自民党議員たちの所業により、誰もが知る通りです。

戦前の「明治維新による天皇政治」の狂気性、警察や検察による自由の弾圧や拷問や殺人、非国民という言葉での人権無視と個人の思想の抑圧、それを背後にした戦争政策への反省はなく(安倍首相は戦前の思想と行為の日本への批判は一度もしない)、逆に戦後民主主義への批判だけを行う異様・異常な状況が続きますが、そういう精神風土を背景にして、幼子やこどもたち(中学生の世界に例をみない長時間拘束の部活動は象徴)の受難は今日も続きます。

しかし、はじめから「自由」を奪われていると、豚が飼育小屋で十分な餌を与えられ、小屋の中で好きに動ければ文句がないように(笑・嘆)、やがて、大きな自由を奪われていることに慣れ、それでよいと思い込むまでになります。「精神の自由」とはどういうことかさえ分からない人間に育ち、それを再生産するオトナになるのです。上位者にはまことに都合のよいニッポン人の出来上がりですが、人間はほんらいそういう存在ではありませんから、必ず、オゾマシイ出来事が起きます。全部パーになりるでしょう。

--------------------------------

 おどけ・ふざけ・いらずら・悪さもして、親を手こずらせる「子どもらしい子ども」をではなく、親や教師の言う通りの「いい子」でいることを要求する子育てや教育は、

 『教育勅語』を暗唱させられ、ビシッと躾の行き届いた森友の幼稚園児を見て、「すばらしい子どもたち」「理想的な教育」と絶賛した安倍首相夫人の明恵さんや、教育勅語を礼賛した多くの自民党議員の思想とピタリと符合しています。

 今回の事件に限らず、幼少期→こども時代における教育を「躾」と称してして厳しくすることが多くなってきましたが(死にまでは至らしめなくとも)、なぜそういう傾向が強くなってきたのかといえば、「子どもの特性」を認めず、早くから躾けることが正しい、大人の言う通りにするのが正しい、という復古的な思想の蔓延が、大きな原因の一つです。

 第一次安倍内閣で、安倍首相は教育改革を最大の柱と位置付けて「教育基本法」の改定をしましたが(その改定には公明党の故山下栄一さんが強く反対しましたが、押し切られてしまいました・参議院行政監視委員長室で彼から直接聞きました)、その改革の方向性は、『こどもの人権』を守るのとは逆に、個よりも国家を優先させる思想によっています(それは、自著「美しい国へ」改訂版は「新しい国へ」-内容はほとんど同じーに記載されています)。

 こういう痛ましい出来事は、たまたま偶然に発生したのではないのです。それはこの種の事件が頻繁に起きることで明らかですが、ありのままのこどものありようを認め、肯定し、愛するところから出発せず、「あるべき」姿や型を生身のこどもたちに押し付ける教育に深因があるといえます。たとえ、政治的には野党支持者であっても、受験主義に代表されるように子どもを鋳型にはめるのをよしとする人も大勢いますから、保守主義者だけの問題とはいえません。

 ただし、安倍内閣に集う人の多くは、「日本会議」に所属しているのでもわかるように、上記の【復古的な教育思想】の持ち主であり支持者であることは確かですから、一連の「こどもの人権」軽視のできごとへの【思想的責任】があるのは明白といえます。思想の責任は、暗黙のうちに具体的事象を支配しますから、極めて重たいのです。


武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

部活という名のスポーツ競技のために学校があるー頭がかなりおかしいニッポン人

2018-05-27 | 教育

 

勝ち負け、記録、部活、競技のために学校がある、それをはやす頭の軽いマスコミ人が大手を振るうクニは、どこでしょうか(笑)

ここまでみんなで狂えば怖くない、が進めば、何を言っても言葉が届きそうもありませんが、

お教えしましょう。学校は、学習のために、知識の習得や 思考力の鍛錬や 知的対話の練習のためにあるのです。それが主目的なのです。

スポーツ競技のためにあるのではありません。学校でのスポーツ遊びは、ほんらいリフレッシュのためです。

そんなに競技が大切で毎日ガチンコでやらせたいなら、スポーツ競技養成所をつくればよいのです。やりたい人は、そこに通うのです。

なんのために学校に行くの? 何のために大学進学するの? 名前がほしいだけ、それが真実の国は、必ず滅びると思います。

ニッポン人、みんなで狂えば怖くない、満点大笑いの国家のようです。吐き気をもよおします。

 

武田康弘の体験談

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母親による子どもの精神的虐待が蔓延。自己感情の絶対化は、おぞましい不幸の再生産。

2018-05-02 | 教育

 親、とくに母親による子どもの精神的虐待が蔓延しています。当の親は、自分の好き嫌いの感情を絶対化して、自分の都合でこどもの精神の自由を奪っていることに罪悪感を感じません。平然として日々精神的虐待を続けますが、それを躾とか教育という言葉で正当化するのですから怖ろしい。

 具体的に書くとキリがないので今はやめておきますが、女性のもつ負の面を自覚しないと、不幸を再生産してしまいます。

 男性(夫)の方は、普遍性の豊かな理念を示すことができないことが多いのですが、それは、しっかり自分の頭で考える生活を送れていないことと、女性(妻)の機嫌が悪くなるのを恐れて何も言えないことの双方が、原因していて、悪しき状況を変えられません。女のご機嫌とりと女性の人権の尊重とはまるで異なり、しっかり内容ある話をして批判しないのは、逆に人として女性を尊重していない証拠です(女体のエロスにしか興味がない)。闘うべきは断固として闘わない男は男ではありません。

 子育て・教育において、どのような人間を育てるのか、という「考え」がない日本では、本質的な意味では単なる惰性(進歩なし)か、目先の利害損得、世間のやりかたや価値観に従うだけの「劣った」ものに留まります。家庭も学校も同じです。

 こどもの心や頭の歪みや癖を直すのは大切なことで、それがなければ優れた個性の発露はあり得ませんが、それとは逆に、普遍的な真善美への追求なしに、親の感情や思いで子どもに言うことをきかすのは、怖ろしい虐待、精神あるいは魂の殺人行為であることを自覚しないと、お先真っ暗です。深く愚かで酷く怖ろしい。親の感情でしかないものが「よい」となれば、すべてお終いです。こどもの思いを尊重しない子育ては、つまらない顔をした不幸な日本人を再生産するだけです。

 親であるあなた、あなたの顔はよろこびの多い顔ですか?自他を幸せにする顔ですか?ご自分の表情を鏡でよく見てほしいものです。反省なき人生、自分に居直る人生、人を悪者にする人生は、失敗した人生でしかなく哀れです。
 
いま日本に一番必要なことは、大人が虚心に鏡に写った自分の顔を見ることでしょう。豊かさ、伸びやかさ、楽しさ、よろこびの表情が見えますか。



武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愛国心の育成とは、道徳を破壊してしまう教育なのです。

2018-04-06 | 教育

道徳を可能とする条件は、自分以外のものへの想いを馳せる心があるか否かです。

他者を愛する心のない自分への愛は、エゴイズムに陥るだけのことですが、

他国を愛する心のない自国への愛は、おぞましい思想と生き方をつくるだけです。

愛国心を育てるという教育は、道徳としては不成立なのです。

自分の国を愛することが道徳となる条件は、他国を愛する心があることです。

それは、自分を愛することが道徳となるには、他者への愛が不可欠なことと同じです。

こういう基本を押さえないと、戦前の愛国主義と同じ思想教育にしかなりません。

政府と文部科学省の人々は、人間とは何かというフィロソフィー(存在論)を知らなければなりません。

そういう努力のない道徳教育ほど危険なものはないのです。

 
武田康弘

------------------------------

 

明治維新がつくった精神は、エゴイズムです.今年で150年.

 

2018-02-11 | 恋知(哲学)

 


対米戦争を決定した二人
=岸信介(安倍晋三の祖父)と東条英機
「戦前思想」(天皇現人神という国家エゴ
イズム)の政治家の代表者。


 何がよいのか、ほんとうなのか、と問うことなしに、
自己の利害損得、家族の利害損得、所属する組織や団体(学校・会社・役所・組合・サークルなど)の利害損得、自国の利害損得、に固執して、「閉じた」世界に生きれば、それはエゴイズムです。

 個人エゴイズム、家族エゴイズム、組織エゴイズム、国家エゴイズム。

 明治政府の富国強兵政策は、一人ひとりの私の欲望を愛国主義のもとに国家への欲望として統一し、滅私奉公を合言葉にしましたが、これは、広く世界に開かれた関心・興味・欲望ではなく、日本に閉じた関心・興味・欲望でした。
 日本国家という概念は、あくまで言葉=概念ですから、それを目に見えるものとする必要が、天皇とその家族=皇室でした。日本を象徴する特別な人間・家族を置くことで、国体という概念を子どもにも分からせようとする政策で、小学1年生から天皇像を毎日拝ませ、日本国への忠義の心=愛国心を養ったわけです。

 「閉じている」というのがエゴですが、個人のエゴを開かせるのではなく、閉じたまま国家レベルに拡大するのが「国家エゴイズム」です。明治以降、よく「日本に哲学なし」といわれるのは、私を開いて、普遍性のある「よい」を探求する営みがなく、私を国へと拡大して利害損得を求める日本のありようが必然的に生みだす精神です。

 だから、公(おおやけ)と呼ばれる国家(天皇や皇族はそれを象徴する役割を担わされている)と、閉じた私(エゴ)はセットですし、
開かれた私(普遍性を目がけるわたし)と公共性(市民みなのという意識がつくる社会性)はセットです。

 私を活かさないと(開かれた私でないと)公共性はつくれませんし、逆に、公共性を生むためには、開かれた私である必要があります。

 後者を現実のもとのするには、幼いころより自分で考え・意見をもてるようにする子育てが必要です。自分が何かをした、どこかに行ったという「事実」ではなく、自分はどう思い、いかに考えるか、それをどのように語るか、という「意味」充実の世界がつくれないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。

 戦前の国家エゴイズムは、戦後は個人エゴイズムになりましたが、このエゴイズムの不毛性からの脱却は、これからの最重要な課題と思います。
明治維新の深く大きな負の遺産を清算しないと、日本の未来が開けませんし、一人ひとりの幸福はつくれないでしょう。



 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東大?官僚?金メダル!?超がつく単純人間の集合=ニッポンは、儀式・形式主義の忖度文化に沈みます。

2018-03-31 | 教育


忖度文化ではない超自立パワーの二人(笑)
芸を仕込まれたアシカではありません(笑)

昼間テレビを見ると、おそろしいまでに単線的な価値意識の披歴に吐き気をもよおします。

なんでも答える博識が偉い? 
天才!?というので見ていると暗記マシーンのこどもが登場! 
あげくに、東大生を天才と言う始末(笑)

いまの芸能人が支配する日本のテレビが示す基準で言えば、クイズはできず、博識でもなく、高校は落第し、大学入試も失敗した(数学の才能ありで特別に拾われた)アインシュタインのような人は、「大したことないおじさん」にしかなりませんね(笑)

知的好奇心に富み創造力に優れた頭(自立した精神)は、受験知頭(パターン知と暗記の忖度精神)とは二律背反であることさえ弁えぬようでは話になりませんが、単なる「事実学」の累積が学問と信じるニッポンは、本質学・意味論とは無縁の知で溢れます。おそらく本質学(論)と言っても何を言われているのか分からぬ人が大多数でしょう。

どうしてここまで堕ちたのか。

こういう「優秀」人間!ばかリでは、仰々しい儀式をありがたがり、上位者に従う「忖度文化」を自ら生きるよりほかの生き方は不可能です。一人ひとりの個人がもつ価値以上の価値はないという民主的公共社会の思想の原理を知らず、ただ組織や団体(最大のものが国とされる)が暗黙のうちに示す価値に合わせるのでは、人間にはよろこびが得られず、輝かず、艶は消え、精神は死んでしまいます。

わたしの存在、わたしがここに存在することが価値であるという不動の出発点を失って、外なる絶対=一番を求めるのは、底なしの愚か者の行為です。いまは、国全体が狂気に陥っていくように思えますが、凝りもせず、再び戦前の天皇陛下万歳の忖度文化へ、では酷すぎる話です。いつまで明治政府のつくった「天皇教」=「外なる一番文化」=「忖度文化」を続けるのでしょうか。

生き方=考え方の革命が必須です。「民主的倫理に基づく実存としての生」を追求することがよき生の基盤であり、はじめの一歩ですが、まだ「はじめの一歩」が歩みだせません。



武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週休2日、平日2時間=中高の運動部活指針―スポーツ庁   大きく前進を評価します。

2018-03-13 | 教育

ようやく異常としか言いようのない部活動が改善される見通しです。
わたしは、30年以上もの間、さまざまな場面で訴え続けてきましたが、ようやく文科省が動きました。
とても残念ですが、わが国の場合、上からの指令がないと、身近なことすら改善しないことが多く、自治ができません。

 

 週休2日、平日2時間=中高の運動部活指針―スポーツ庁

3/13(火) 17:50配信

時事通信

 スポーツ庁の有識者会議は13日、中学や高校の運動部の活動時間について、週2日以上の休養日を設け、平日は約2時間以内とする指針をまとめた。

 生徒のけが防止や顧問教員の負担を減らすのが目的。指針は、長期的に地域のスポーツクラブと連携するなど学校単位にとどまらない活動を進めることも求めている。

 部活動は指導に当たる教員の多忙化の一因となっているほか、生徒のけがのリスクなどが問題になっている。このため指針は、学期中に平日と土日に各1日、週2日以上の休養日を設定。練習時間は長くても平日約2時間、休日は約3時間にとどめるとしている。

 実効性を持たせるため、自治体や校長に対し、活動時間に関する方針を定めるよう要請骨子段階では中学のみを対象としていたが、高校についても原則適用する。

 また、競技志向の部活だけでなく、友達と楽しく体を動かすレクリエーション型の活動や、少子化の進展により単独校でチームを組めない場合の複数校合同部設置など、生徒のニーズを踏まえた活動の充実を提案。持続可能な部活動の運営に向け、学校と地域のスポーツクラブとの連携、融合を進めるなど新たな環境整備も盛り込んだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする