「どうして安倍首相が独走できる日本になったのか?」ーそれを哲学します。
白樺派、志賀直哉の朝日新聞への投書は、さすがに「小説の神様」の文章ですが(生原稿のコピーをお見せします)、一度ならず敗退した2月11の建国記念日を佐藤栄作首相は、執念で実現しました。これが今日の安倍イズムと同じ「国体思想」による行為です(安倍晋三の祖父・岸の実弟が佐藤)。安倍自民党の思想とは、わたしたち日本人の恥部と言えます。
みなで深い理解=了解をつくります。
以下は、二年前の2月11日に書いたものです。
「恋知」第一章 の (2) です。
(2) 「建国!?記念日」に
幕末にはじめて黒船を間近に見た日本人は、西洋文明の高さに驚愕あるいは感動したと言われますが、このショックは、欧米の進んだ文明がどこからくるのかを考えさせました。
伊藤博文は憲法を研究するためにヨーロッパに行き、宗教がなければ憲法をつくっても意味がないことを知りますが、わが国にはキリスト教のような強い宗教=一神教がないので、その代わりとして、幕末に武士たちが心酔した尊王思想(日本は神国であり天皇は現人神)を用い、皇室を利用して天皇を神とする新宗教をつくることを思いつきます。
「憲法を制定するにあたっては基軸を定めなければならず、それはヨーロッパでは宗教であるが、日本では基軸となるべき宗教がない。わが国において基軸とすべきは独り皇室あるのみ。」と伊藤博文は1888年(明治21年)に枢密院で演説しています。翌年には、「将来、いかなる事変に遭遇するも天皇は、上元首の位を保ち、決して主権は民衆に移らない。」と府県会の議長たちに説示しました。
彼は、神の前の平等という欧米の民主主義に倣って、天皇の前の平等という日本的民主主義をつくったのですが、尊王思想をバックボーンとした「天皇教」を創作したことで、日本はアジアで唯一の資本主義国となり、天皇の恩寵(おんちょう・上からの恵み)として一定の民主化にも成功しました。
伊藤博文・明治天皇所持の写真
このように日本の近代化は、キリスト教思想のかわりに天皇教思想を用いて遂行されました。憲法制定による人権と民主主義の政治と資本主義経済という『近代化』には強い宗教が不可欠であることを見抜いた伊藤博文の慧眼が、わが国を歴史上例をみないスピードで近代国家へと押し上げたと言えるでしょう。しかし、天皇教思想はまた、戦争や植民地政策の正当化と、わたしたち日本人に世界にも稀な「精神の負債」(哲学の貧困)をつくり出し、現在に至るも個人の生の輝きを奪う「不幸」を生み続けています。
明治前半期までは国民の過半数の支持を得ていた自由民権運動は、伊藤博文、山県有朋(やまがたありとも)、桂太郎らにより明治天皇を中核とする保守政治の敵とされ、「民権運動の息の根を止める」という根絶やし戦略により潰されました。個々人の自立、一人ひとりのかけがえのない人生という考え方は後景に追いやられ、「公=天皇=国家」のためを当然とする国体思想で全国民は一つにされたのです。その意味では天皇教とは竹内芳郎(よしろう)さんの言う通り、日本的集団同調主義の別名だと考えられます。
皇軍将校がオーストラリアの 飛行士を切る瞬間ー日本兵撮影・ライフ社所有
このような考え方は、今日の保守政治家にも引き継がれています。もし太平洋戦争による敗北がなければ、天皇教者たちによる保守政治は今日までそのまま続いていたわけですが、現代の保守主義をかかげる政治家も思想の本質は同じで【国体思想】(多様な人々の自由対話によりつくられる政治=社会契約に基づく近代民主主義を嫌い、天皇制を中心とする日本というあるべき姿の枠内に個々人を位置付かせるという国家主義。従ってその枠外の人間は非国民となる)なのです。戦前との違いはハードかソフトかだけです。
では、明治政府作成の新興宗教と言うべき『天皇教』とはいかなるものなのか、それを「靖国神社」の理論的重鎮である小堀桂一郎さん(東京大学名誉教授)に聞いてみましょう。
「靖國神社の誕生は、官軍(天皇側の軍)の東征軍(江戸を征伐する軍)の陣中慰霊祭からはじまったのです。
慶応四年(1868年)5月、まだ京都にあった新政府の行政官である太政官府からの布告で、嘉永六年(1853年)のペリー来航以来の「殉教者」の霊を祀ることが書かれています。「殉教者」とは「皇運の挽回」のために尽力した志士たちのことで、その霊魂を「合祀」するという考えです。またこの布告には、合祀されるのは、今度の兵乱のために斃れた者たちだけではなく、今後も皇室のため、すなわち国家のために身を捧げた者である、と明示されています。
靖國神社は、陣中の一時的な招魂祭にとどまることなく、王政復古、【神武創業の昔に還る】という明治維新の精神に基づいてお社(やしろ)を建立した点に特徴があります。・・靖國神社の本殿は、あくまでも当時の官軍、つまり新政府の為に命を落とした人達をおまつりするお社である、という考えで出発したのであり、それは非常に意味のあることだと思うのです。日本の国家経営の大本は、「忠義」という徳ですが、この「忠」というのは、「私」というものを「公」(天皇)のために捧げて、ついに命までも捧げて「公」を守るという精神です。この「忠」という精神こそが日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力にあたるだろうと思います。・・その意味で靖國神社の御祭神は、国家的な立場で考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。」
平積で売られている パンフレット・300円
以上の小堀桂一郎さんの解説(靖国神社売店の最前列にあるパンフレット『靖国神社を考える』より)で「天皇教」とは「靖国思想」と同義であることがよく分かります。
なお、ここで、【神武創業の昔に還る】と言われている神武天皇とは、初代天皇とされる架空の人物ですが、その伝説は以下の通りです。
「日本書紀、古事記によると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年~前585年)は日向(宮崎)地方から、瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族に阻まれたため、南下して熊野に回りました。そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定しました。そして、紀元前660年の1月1日に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました」
〔奈良県橿原(かしはら)市のホームページより〕。 神武の在位は75年間、126歳の長寿で、弥生時代前期の人ということになります。
伝説上の初代天皇・神武ー明治天皇に似せて描かせた
時間・歴史をも天皇教に合致させるというのが「紀元節」ですが、明治5年(1872年)に、神武天皇が即位したとされる2月11日(太陽暦換算)を紀元節の祝日とし、西暦より660年も古いことを誇りました。世界の中心は日本の天皇である。という思想は、田辺元(天皇制は宇宙の原理と合致する)や西田幾太郎(国体は、皇室を中心にリズミカルに統一されてきた)という戦前を代表する哲学教授たちが主張し広められましたが、紀元節と共に戦後は一旦は廃止されました。しかし、1967年に多くの反対を押し切って佐藤自民党内閣は2月11日を建国記念の日として祝日とし、「紀元節」復活に道をつけました。ここには、自民党など保守派政治家の根深い「天皇教」への思いがあらわれていますが、これは「靖国神社」を敬愛することと軸を一にしているのです。
自民党は、現『日本国憲法』を廃棄して新たな憲法をつくることを「党の約束」としています。それは、彼らが天皇教を引きずる国体思想から抜けられないことをあらわしています。安倍首相は、自著『美しい国へ』で「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタペストリーで、日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と述べていますが、これは、《人間存在の対等性に基づき、互いの自由を承認し合うことでつくられるルール社会》という近代民主主義の原則とは明らかに矛盾します。
「歴史的に天皇が中心の時代があった」というのではなく、市民社会が成立した後の現代もなお「天皇制が国の根幹である」としたのでは、「おじさん、勝手に言ってれば~~」の世界でしかありませんが、どうも「哲学の貧困」のわが国では、このような国体思想が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)してしまうので危険です。
なお、ここで注意しなければならないのは、明治からの天皇制とは、伊藤博文が中心となってつくった近代天皇制=天皇教のことであり、それ以前の日本の歴史・伝統とは大きく異なるということです。
明治政府は、皇室独自の儀式に拠る「皇室神道」と「神社神道」を直結させて新たな政治神道=国家神道をつくったのですが、これは、日本古来の八百万の神=「多神教」を、天皇を現人神とする「一神教」に変えてしまい、祭司にすぎなかった天皇が現人神(あらひとがみ)となったのですから、ビックリ仰天!というほかありません。敵・味方の区別なく祀るという神道の教義も、味方だけを祀ると変更。なんとも強引な宗教改革ですが、これを官僚政府が政治権力を用いて徹底させたのですから驚きです。いまなお、わたしたち日本人が「私」からはじまる思想を恐れ、既成の枠組みに縛られて主観性の知を育てられずに受験知や事実学だけを貯め込み、また「餅は餅屋」と小さく固まってしまう生き方になるのも頷(うなず)けます。北朝鮮の比ではありません。支配者は将軍ではなく現人神だったのですから。
昭和天皇の裕仁・1945年敗戦時、マッカーサーと並んだ写真の一部
誰もが知る通り、太平洋戦争での敗戦により、一旦はこの天皇教は明確に否定されました。1946年に天皇の裕仁は、「天皇を現人神とし、日本民族を他の民族に優越するものというのは誤り」とし、天皇は人間であるとするいわゆる「人間宣言」を出しましたが、こんな珍妙な宣言をせざるをえないまでにわが日本人の意識は深く犯されてきたわけです。
皇室の祭祀と政治を直結させていた天皇の祭祀大権は、『日本国憲法』の誕生により否定され、皇室祭祀は完全に天皇家の【私事】となりました。第5条―天皇は国政に関する権能を有しない。第20条―国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
けれども、天皇家と国家とを結びつけることで日本国は成立すると考える保守的な政治家は、「天皇の男系DNAを守れ!」との言に象徴されるように敗戦による大改革を反故(ほご)にすることに激しい情熱を燃やし、既成事実の積み重ねにより成し崩し的に天皇教を復活させようとしてきたのです。
いまに至る戦後の有力政治家の大部分は、戦前の権力者たちの子孫ですが、それにしても、敗戦による新しい日本を「戦後レジーム(体制)」と否定的に捉え、これを終わらせることを最大の使命だとする首相が現れるまでになったのですから、先祖返りもいいところです。
では、次に、天皇教は私たち日本人にどのように作用しているかを書きましょう。
国の近代化のために、キリスト教のかわりに天皇教を用いたことは、 「私」を消去してしまい、底しれぬ「精神の不幸」からの脱出を困難にしている、とわたしは見ていますが、聖書に象徴される豊かな内容をもつキリスト教とは逆に、まったく内容のない宗教である天皇教(教典すらなく、型・儀式だけがある)は、日本人の無意識領域までも犯しているために、これを顕在化させるのはなかなか大変です。
武田康弘
(3)に続く。