思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

手賀沼の蓮ー真夏の白日夢のよう。

2017-07-31 | その他

猛烈な暑さの中のハスの花です。
手賀沼遊歩道の熱射などものともせずに~(人間の方ー私が、の意味)。
ハスは、真夏のカンカン照りの泥の中で、美しい花を咲かせています。
うん、実に強い、強く美しい!!

フェイスブックをご覧ください。

 
 
 
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わたしたち日本人は、「会社人」と「社会人」が根本的に異なるものであることを知りません。

2017-07-30 | 教育

 われわれ日本人は、学校や会社などの一員になることと、公共性を持つこと=社会人になることとは根本的に異なることを知らない人が多すぎます。

 学校を出て定年まで会社に勤めることは、会社人間=組織人間ではあっても、社会人とは無縁であり、公共性とは無関係なのです。

 あるグループ、仲間、組織、団体の一員として「立派」に生きることは、【組織人の人生】であり、【社会人の人生】ではありません。

 では、どうすれば社会人(公共人)になれるのでしょうか。

 まず、絶対の前提は、私が感じ、想い、考えるという個人意識につき、それを明晰化する作業です。誰かさんの言う通りではなく、私はどう感じ、なにを想い、どのように考えるか、その「私の世界」をつくる営みが弱いと、他者の自我を了解することは不可能ですので、公共性を獲得する「はじめの一歩」が歩みだせません。

 皆とガヤガヤ集うこと、仲間と遊ぶこと、会社の一員として利益共同体の中を生きること、町内会の役員を引き受けること・・・・・をいくらしても、「私の世界」の弱い人は、ただ団子になるだけです。異なるものとしての互いの存在を認め合い、そこからよろこびの得られる人間関係・開かれた公共世界を生みだすこと イコール 「優れた社会性」は得られません。

 「私の世界」をつくることではじめて了解できる「他者の自我」の了解は、実に面白く、ダイナミックで、活力に富む「社会」を生む条件です。

 あの人、変わってるわね~、おかしいんじゃない。自己主張なんかして、目立つわよね。
というのとは反対に、自分と異なる、変わってる、そうだからこそ発展する、そうだからこ停滞を破れる、そうだからこそ大きな世界を拓ける、そうだからこそ新たなよろこびがやってくる、とするのが、公共性=社会性であり、そういう態度で生きられる人になってはじめて【社会人】なのです。

  日本人は、会社人(組織人)としてのみ一生を終わり、社会人にはなれないまま死にゆく!?であっては、不幸で哀しいと思います。個人も社会も生き生きしません。どんより停滞です。

 

 次に、絶対の前提の後、何を考え、何をするか。

 それは、わたしたちの生きる社会の構造=仕組みをしることです。
 
 いまは、天皇主権の明治憲法下にある日本ではなく、主権者を市民・国民とする民主政社会ですから、デモクラシー(demos+cracy)=民衆による支配=自治政治の意味、思想とシステムについて、しっかり知ることが求められます。

  主権者を市民・国民とする社会においては、その基本となる考え方と知識がなければ、とうてい「社会人」にはなれませんが、その教育は、家庭でも学校でも極めて不十分なのが現状です。

  小学生から、順を踏んで、自分たちの学校生活のありようを自分で考え、議論し、決める、という実地教育は、絶対に欠かせない要件ですが、ほとんどなされていません。先生の言う通り!(哀)というテイタラクです。自由な討論と皆で決定という土台と共に政治の仕組みを学ぶことがないと、民主政治=自治政治は不可能です。

 

 どうでしょうか。
わが日本では、社会人=公共人になる二つの条件、前提である個人性=「私の世界」の獲得と、必須であるはずのデモクラシーの教育(小学校~大学院)の両方ともとても貧弱です。なかにはこの「貧弱」をよいことのように思い込む人さえいますから、明治維新政府がつくった国体思想=靖国思想の負の遺産の大きさに目眩がします。このままではわが日本人は、永遠に社会人になれそうにありません。変えていきましょう!!

 まずは、一番大事な子育てから。

(☆以上は、昨日の大学クラスの授業から、その一部です)


武田康弘

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「安倍政治から目をそらさせろ!」「北朝鮮ミサイル脅威=シェルター準備を!」ー自民党二階幹事長

2017-07-29 | 社会批評

北朝鮮が、日本を標的にミサイルを撃ち、戦争を仕掛ける可能性は、ゼロです。

まったく無意味だからです。

アメリカが国際法上禁じられている先制攻撃を行わない限り、絶対にあり得ません。

アメリカ軍が攻撃をすれば、当然、北は反撃し、日本の米軍基地及び米軍と全く同一行動の日本に対する攻撃はあり得ます。

そもそも北朝鮮が核やミサイルの開発をしているのは、自国を攻撃させないためです。アメリカ軍、韓国、日本に包囲されている状況が、自国防衛にはそれしかないと思い込ませています。北朝鮮と国交がないのは、世界193カ国中、アメリカ、日本など26カ国のみですから、余計にです。

ともあれ、アメリカが先制攻撃をしないのに、北朝鮮側からミサイル攻撃を仕掛けるというのは、マンガ以下の妄想にすぎません。

自民党もそれは百も承知ですが、安倍自民党への逆風の中、自民党支配を貫くためには、ミサイル脅威を煽って、シェルターが!!!とぶち上げることが必要だ、ということです。

自民党政権維持にとり、「北朝鮮の脅威!」はなくてはならぬものです。マスコミが飛びつきそうな「シェルターを!」「金はいくらかかってもいい」「国民の命がかかっている」という具合に喧伝する。
相変わらず、自民党は太くてズルくて、事を利用して金儲け、さすが長年の政権与党です。お人よしの方は、はい、右えならへ、で、やっぱり自民党~~~

われわれも少し賢くなりましょう。いつまで戦前の支配者の子孫の好き勝手では哀しいですし、民主政治は後退するばかりです。


武田康弘

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「女性の人権意識が戦後の日本をダメにした。」ー安倍首相の中心ブレーン=八木秀次麗澤大学教授

2017-07-28 | 社会批評

 安倍首相の長年の親友で、首相の諮問機関「教育再生実行会議」の委員(2015年まで)や皇室問題の審議委員を務めているのが、八木秀次という麗澤大学教授ですが、彼は、「反人権宣言」(ちくま新書)を出して、「人権」という欧米出自の思想に従う必要はない、人権という言葉に怯えず、われわれは日本人の常識に戻るべきと書きます。

  とりわけ女性と子どもの人権という思想が、戦後の日本をダメにした元凶であると言います。フェミニズムとは「人間をカタツムリのような雌雄同体とする思想」であると言います。

 北欧の国、とりわけ高福祉国のスウェーデンは、非行と悪が蔓延する「終わっている国」であり、個人の自立を謳う欧米思想の敗北だと書きます。人権思想は国家をダメにする元凶だということが繰り返し語られ、明治の「天皇中心の国家主義」(今の天皇の明仁さんが嫌う思想)の正しさが強調されます。日本会議というウヨク団体と同じですが、自民党議員の大多数は、この日本会議のメンバーです。

 同じ敗戦国のドイツでは、このような戦前思想は、民主主義を破壊するものとして許されていません。取り締まりの対象ですが、日本は、無条件降伏という大敗北をした後も、引き続き戦前の政治支配者が首相など要職につき政治の中心となっていますので、異様な思想が、復活してしまいます。全面戦争の敗北時の支配者とその一族が、敗戦後も中心者であり続けるというのは、長い人類の歴史に例を見ないことですが、こういう事態を許してしまう国民ではほんとうに情けないとしか言えません。

 安倍首相ー安倍内閣が、海外から、右翼ではなく、極右政権と評されるのは、その思想の異常性ゆえなのです。目を覚まし、まっすぐ前を見ないと、と思います。

 

 ※碩学で世界の良心と言われる言語学者のチョムスキーさんのイギリス王立国際問題研究所での講演もぜひご覧ください。


武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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無視、虐め、暴力、抑圧、あらゆる人間的不幸の根源には、「性」への歪んだ見方と抑圧があります。夏目祭子さんを推薦。

2017-07-27 | 学芸

 なぜ、これほどまでに性=身体的な愛が歪められ、貶められてしまったのか。

 以下は、もう20年近く前(1998年10月15日)のわたしの文章(『私のエクリチュール』26ページ)です。

 性を罪悪視するような歪んだ思想は、おぞましい異常な性をつくり出す原因です。人間にとって「性」-もちろん、性とは、単なる射精行為(男性側)をさすのではなく、視線の共有や握手、赤ちゃんを抱っこしたり、ほおずりしたり・・・・という身体的愛のすべてだがーは、何よりも必要とされるものです。人間が、個人としても社会人としても健全に生きていくための第一条件は、性のよろこび・充実です。子供にとっては、話を聞いてもらったり、描いたものを見てもらうことを含むスキンシップが、大人にとっては、さらに性愛を含む触れ合いが求められます。

 こうした広義の性の充足があると、個人は、集団に依存しないで精神的に自立することが可能になります。独裁的な人物や封建制の強い社会が、例外なく、性を罪悪視し、抑圧することの理由がここにあります。たとえ女性であっても、自分の思うとおりに他者を、とりわけ子どもを操作操縦しようとする人は、「ネクロフィリア」(固定したもの死んだものしか愛せず、規則主義で固く、生き生きとした自由な存在への嫌悪感をもつ危険な精神疾患)なのです。彼女たちの不幸な心は、自分の性的欲望を素直に認めようとしない自己欺瞞がもたらすものでしょう。

  広義の性のよろこび=充足をもてないようにすれば、個人は不安的になり、頼れそうな人物・強く大きな集団・権威的なるものに隷属して生きることになります。ある特定の傾向に人間を閉じ込めるためには、まず第一に性を(身体的な愛)を抑圧する必要があります。性を罪悪視し、いやらしいものとする想念やイデオロギーは、そこから生じるのです。人間の自然性・本性の否定は、暴力やサド・マゾのような異常異様な性を生みだしてしまいます。

  こうした人間存在の原事実を明晰に自覚することが、よき優れた生のための出発点です、美しさや悦びに溢れた豊かな性(広義の性)のイマジネーションをもてない固くこわばった心が、規則づくめで機械的な管理社会=生きるよろこびの少ない灰色の世界を再生産しているのです。(武田康弘)


 なお、この後10年ほどしてから、夏目祭子さんの性に関する著作が出ましたが、極めて優れた論考で、若い人のみならず年配者にもお勧めです。彼女の本は、「世界史」や更には「経済学」にも影響を及ぼす優れた考察=本質論で、必読本です。読まれると、目から鱗、となるでしょう。

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善とは何か。フィロソフィーの善と宗教の善は、まるで異なります。

2017-07-27 | 学芸

ソクラテスのいう善美のイデアの追求の「善」=「よい」は、
宗教でいう善とはまるで異なります。

では、フィロソフィーの「よい」とはなにか、
それは、『白樺教育館』の玄関に掲げてありますが、以下です。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 最高のイデア(理念)とされる【よい】の意味について。


女性と対話するソクラテス
(レリーフ制作は紀元前2世紀)

 恋知(哲学)でいう【よい】とは、かたまじめな善(ぜん)のことではありません。

生き生きとしていること・輝いていること・しなやかなこと・瑞々(みずみず)しいこと・溌剌(はつらつ)としてること・高揚感のあること・囚われのないこと・愉快なこと・・・ を言います。

 「まじめ」ということも、学校や官の世界でいう「真面目」、厳禁の精神・既成秩序に盲従する「真面目」ではありません。ソクラテスとプラトンのいうまじめとは、恋愛におけるまじめ=真剣と同じです。興味のある方は、世界文学最高の古典の一つと言われる『饗宴』(プラトンによるソクラテスの対話編)をお読みください。アカデメイアの主祭神は、エロースの神です。善美をめがける動力源は、エロースの力とされます。宗教との根本的違いです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

必然の神・アナンケを打ち破ったのが恋愛の神・エロースであったというギリシャ神話は、とても示唆に富むエピソードです。
規律・掟を絶対とする「厳禁の精神」のアナンケの支配下では神々の争いが絶えませんでしたが、
性愛を司るエロース神が、厳禁のアナンケを打ち破ったことで、調和=平和が訪れたのです。

 

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加計学園疑惑=最大の当事者を参考人とすることを拒否ー「黒です」と自己証言している自民党。

2017-07-26 | 社会批評

証人喚問を衆参両院で同じ日に行う、という前代未聞の篭池さんへの扱いを決め、実行した自民党は、

加計学園問題では、当事者である加計さんをただの参考人質疑に呼ぶことさえ拒否しましたが、

これは、自ら「安倍官邸は黒です」と証言しているのと同じです。

肝心かなめのところは、藪の中にしておく、ということです。

インチキ劇でしかありませんので、

支持率は限りなく落ちていくでしょう。

政治への信頼は限りなくゼロに近づきます。

 

武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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「佳子様が、おことばをお述べになった」(NHKニュース)おかしな敬語に気持ちが悪くなりました。

2017-07-25 | 社会批評

ノーベル賞受賞者も、人間国宝も、大企業の経営者も、総理大臣も、みな人間として対等なので、「さん」付けです。

敬語でも「お話しになった」であり、「おことば」とは言われません。

皇族とは、他の人間とは異なる存在なのでしょうか。

わたしの(あなたの)税金で豊かな暮らしてる一族ゆえに、特別な敬語で遇されるのでしょうか。

日本には平等はないーー平等とはお題目に過ぎないというテレビが強調する現実は、なんとも気持ちが悪いものです。

水戸学に基づき吉田松陰の弟子・伊藤博文らがつくった天皇現人神(国体思想=靖国思想)という思想は、戦後廃棄され、『人間宣言』で「神」から人間に変わったはずではないでしょうか。

皇族の人たちも、ふつうに扱われ、人権が認められる生活を望んでいるように思いますが、違いますか。

再度「人間宣言」ー今度は、平等と対等を謳う、が必要のようです。

しっかりしようよ、わが日本人。

 

武田康弘

 



 

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在野の哲学者!?アカデミズム内に哲学者はいるのでしょうか。

2017-07-23 | 学芸

おおもとから考える、既存の意味=表層的な意味を打ち破って考える、幼児の心と目を持ち続けるのが「哲学者」(フィロソファー=恋知者)だとすると、

大学内に哲学者はいるのでしょうか? いるのは「哲学科教授」ですが、立派に身分を保障され、銀行口座に毎月お金が振り込まれる人がフィロソファー=恋知者になるのは、🐪が針の穴を通るより難しいのではないかと思います。

ソクラテスはむろんのこと、近代西ヨーロッパの哲学(キリスト教化された哲学)の開祖であるデカルトも、近代民主政をつくる見事なアイデア(社会契約論)を出したルソーも、みな在野の哲学者であり、大学教授ではありません。強固なシステム内の存在は、フィロソフィー=恋知の実践をするフィロソファー=恋知者にはなれませんので、哲学者とはイコール在野の哲学者のこと、と思います。

ルソー(職業は恋愛小説家)に、「在野の」という形容詞句をつける? 在野の哲学者のルソー(笑)

カントからはじまりヘーゲルに至る大学内哲学は、遅れたドイツでのみ可能でしたが、それは自ら哲学の敗北宣言を出したハイデガー(ナチ党員でヒトラーの思想を支えた)により終焉を迎えました。

大学という安全地帯では、生きた哲学=恋知は不可能で、未来を拓くフィロソフィーの営みは、在野でしかできません。それはソクラテス(職業は石工)の昔からのこと。


武田康弘

☆恋知とは何か。

 

 

 

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米海軍の責任ーイージス艦半分沈没の事件。米CNNが報道 (東京新聞)

2017-07-22 | 社会批評

最終報告はまだですが、イージス艦と貨物船の衝突事件は、イージス艦側の責任であることが濃厚になりました。

日本でもそうですが、軍関係との事件では、ほとんどの場合、軍側(自衛隊側)に責任があります。何のために誰のために誰のお金で仕事をしているのか、呆れます。

警察や軍という実力部隊は、一般公務員以上に、国民サービスマンであるという意識を持たなければなりませんが、どうも教育がおかしいようです。

 

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ブッダ思想の核心とは何か。

2017-07-20 | 学芸

  いま、「恋知の会」では、授業の一部として『ブッダと親鸞』をしていますが、そのまとめです。

 

 ブッダの遺教(遺言としての教え)は、自帰依ー法帰依です。

自分自身を拠り所=灯として生き、権威や権力に頭を下げない、ということです。

自分の内心の声と普遍性のある考え方に帰依し、世俗の力や価値に流されないことです。

これは、日本の封建時代からいまに続く道徳である「忠」=上位者への恭順とは正反対です。

世間の価値に合わせて生きる集団同調とは根本的に異なります。

自分自身の自由と責任によって生きることです。



 同じことを表現を変えて、みな「天上天下唯我独尊」(天の上でも下でもただ我ひとり尊い)ともいいます。ほんらい、だれもがみなこの上なく尊い存在である、というわけですが、これは、最も優れた人間存在論であり、民主主義を支える究極の思想と言えます。

 

 また、ブッダの悟りとは、縁によりすべては起きるという「縁起の法」に目覚めたことです。

 老病死に惑う人間とその存在理由、宇宙開闢も社会の成立も、「神」の存在とそこから派生する物語を信じることではなく、すべては誰もはかることのできない縁により起こることの深い自覚です。縁起の法とは、キリスト教圏の言葉では無神論とも重なりますが、はじめから神という概念を必要としていないので、わざわざ無神論と言うのもおかしいでしょう。

 

ブッダの思想の深さや大きさは、儀式化した寺などで伝えられるようなものではなく、一人ひとりの回心により会得できるもの、とわたしは思います。

(※インドのブッダの思想は、同じ中央アジアから分かれた印欧語族のギリシャのソクラテスと根本は重なりますが、キリスト教という一神教とは原理がまるで異なります。)

 

武田康弘

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中国政府の人権無視(憤)しかし、日本政府も恐ろしいー冤罪で死刑=以前、日本テレビで放映(政権の国家犯罪)

2017-07-16 | 社会批評

 

外国の恐ろしい人権侵害は、よく報道され、みなが知っていますが、わが国の恐ろしい人権侵害は、あまり報道されません。

最近では沖縄で基地反対運動のリーダーに対する警察と検察のひどい人権侵害で、世界中から大きな批判を浴び、半年以上牢屋に入れられヒドイ状態に置かれていた山城さんは、ようやく解放されました。
マンションのポストに共産党市議会議員の報告書ビラを入れただけで、何カ月も牢屋に入れられた僧侶の方もいましたが、こういう例は、月刊「冤罪ファイル」に山のようにあり、日本という国の実態を知ると、まるで警察国家であり、人権と民主主義はどこにあるのかと、呆れますし、公共的憤りを持ちます。検察庁と裁判所もそれに加担して同一歩調なのですから、どこが民主国家だ!というほかありません。

著しい例は、冤罪による死刑で、罪のない人が、政権の都合で死刑執行された恐ろしい国家犯罪を、以前に偶然夜中の日本テレビで見て、強い憤りを覚えました。
以下に再録しますが、なぜNHKなどは、こういう国家犯罪の事件を報道しないのでしょうか。人権とは無縁の放送局ばかりなら、国が腐り、朽ちていきます。


 

昨夜の日本テレビ  冤罪で久間三千年さんの死刑執行!麻生自民党政府による国家犯罪

2013-07-29 | 社会批評

昨夜遅くの日本テレビ、録画していま見ましたが、
 
福岡県で20年以上前に起きた小学生殺害事件の容疑者が2008年に死刑執行された事件は、驚くべき=恐るべきものであることが分かり、背筋が寒くなりました。
 
本人は一貫として無罪を主張、DNA鑑定も、血液型も間違いであることを筑波大学の本田教授が証言。警察の見込み捜査に合わせた「科学警察のインチキぶり」には呆れますし、テレビ局の情報開示に応じない(真っ黒に塗りつぶして「公開」!)法務省は、まさに独裁国家なみ。DNA鑑定写真は、切り取って改ざんしていることまで明らかになっていますが、すでに死刑は執行されてしまいました。
 
 
警察、検察、裁判所、こういうところに勤める人間(全員ではありませんが)は、人間としての感情世界をもたない機械人であることが分かりますし、理性(=総合判断能力)を持たないイビツな頭脳の持ち主であることもよく分かります。
 
司法関係者は、弁護士以外は人権感覚ゼロであること分かる番組でしたが、冤罪を引き起こしてもそれを認めないし、冤罪の動かぬ証拠が出ても誰も処分すらされないでそのまま出世していく官僚世界は底の底まで腐っていますし、彼らと共同した麻生自民党政府の責任は重大です。無実の人の命を死刑により奪うとは、言語に絶する悪行です。


公共的怒りと憤りが湧き上がります。
 
 
 武田


以下は、検索で見つけた2010年の「杉並からの情報発信」のブログですが、詳しく説明されていますので、転写します。

 

菅家さんを犯人にでっちあげた関係者と久間三千年さんを死刑にした関係者とは誰なのか?

2010-03-28 14:35:54 | 政治・社会

 

「足利事件」の菅家さんはついに無罪判決を勝ち取りました。これは単なる「冤罪」事件ではなく「国家権力」による「司法犯罪」だと思います。

日本では起訴された容疑者の99.8%が有罪となる世界に類のない「検察・裁判所一体司法」であり、警察、検察、裁判所の最終利害は一致しているのです。無実の人間がいくら無実を訴えたとしても、一度彼らが敷いた路線を覆すことは不可能なのです。

今回の菅家さんの無罪は、菅家さんご自身の無実を晴らす不屈の執念と菅家さんを献身的に支えた支援者の皆さんとあきらめないで最後まで果敢に戦った弁護士さんたちの努力が奇跡的に「再審」の固い門を開かせたのです。

「足利事件」の菅家さんは生きていたので「再審無罪」を勝ち取りましたが、同じ時期に同じような状況で逮捕・起訴され死刑判決を受け死刑確定後わずか2年で死刑執行された「飯塚事件」の久間三千年さんは、「政治権力」と「司法権力」によって合法的に殺されたのだと思います。

以下の記事をお読みくださりよろしければ情報拡散をお願いします。

■ 「足利事件」で菅家さんを犯人にでっちあげた関係者と「飯塚事件」で久間三千年さんを死刑にした関係者とは誰なのか?

「足利事件」の菅家利和さんは3月26日宇都宮地裁の再審判決で無罪を勝ち取りました。

宇都宮地裁の3裁判官が異例の謝罪をしたからといって菅家さんへの人権侵害と17年半もの刑務所暮らしの苦しみを回復することはできません。

菅家さんを犯人にでっちあげた関係者の実名を公表し彼ら一人一人の「責任」を明確にして相応の「刑罰」と「損害賠償」を課すべきです。

▼「足利事件」で菅家さんを犯人にでっちあげた関係者

① 誤認逮捕し自白を強要した栃木県警担当刑事:

  橋本文夫刑事(警視に昇進)、芳村武夫刑事(警視に昇進)、寺崎巡査部長、茂串清警部補、手塚一郎警部補、福島康敏県警技官など

② 誤ったDNA鑑定結果を出して有罪判決を引き出した警察庁科学警察研究所の担当官:向山明孝氏、坂井活子氏

③ 自白強要して起訴した栃木地検の検事:森川検事(現在公証人役場公証人)

④ 一審の精神鑑定で菅家さんが代償性小児性愛者であると証言した精神科医:福島章上智大教授

⑤ 事実調べを一切行わず現地調査もしないで1993年7月7日無期懲役の判決を出した宇都宮地方裁判所裁判官:久保眞人裁判長。東京高裁に出世したのち2004年6月依願退官 (2010年3月30日加筆訂正)

⑥1996年に控訴を棄却した東京高等裁判所裁判官:高木俊夫裁判長。2001年11月定年退官し中央大学法科大学院教授に就任。

⑦2000年に菅家さんの無期懲役刑を確定させた最高裁第二小法廷裁判官:亀山継夫氏裁判長、北川弘治裁判官。亀山継夫裁判長は2004年2月に退官し東海大学法科大学院教授に就任。

⑧「再審請求」を5年間も放置したあげく却下した宇都宮地裁判事:池本寿美子裁判官 (現在宇都宮地方裁判所部総括、宇都宮家庭裁判所部総括)

⑨「推定有罪」報道を繰り返し菅家さんを「犯人」に仕立てたマスコミ:ほとんどすべての大手マスコミ(詳しい検証が必要)

(「足利事件年表」より引用 http://www.watv.ne.jp/~askgjkn/nenn.htm)

<この日の朝、読売・朝日・毎日3紙が、朝刊の全国版に大きく「DNA鑑定一致。容疑者事情聴取」と先行報道。地元紙の下野新聞や、東京新聞、産経新聞等には事前に情報が伝わらなかった。また上記3大紙でも地元記者には同様に情報が伝わらなかった。

警察庁が情報を特定の報道機関にリークしたとしか考えられない。>

▼ 「飯塚事件」で久間三千年さんを死刑にした関係者

「足利事件」とほぼ同時期の1992年に福岡県飯塚市でおきた2名の女児殺害事件いわゆる「飯塚事件」で久間三千年さんが逮捕され、一貫して容疑を否認していたにもかかわらずDNA鑑定が決め手となり2006年9月に最高裁で死刑が確定し2年後の2008年10月に福岡刑務所で死刑を執行されました。

もし久間三千年さんが死刑を執行されずに今もご存命であれば、菅家さんと同じく再審請求が認められ同じように「再審無罪」になった可能性は100%です。

なぜ当時の麻生首相と森英介法務大臣は死刑確定後わずか2年の久間三千年さんを死刑にしたのでしょうか?

麻生首相は地元の飯塚市でおきた忌まわしい事件を早く消し去りたかったのでしょうか?

なぜ捜査段階でも裁判段階でも一貫して無実を訴えていた久間三千年死刑囚を急いで死刑にしたのでしょうか?

なぜ「再審請求」準備中の久間三千年死刑囚を死刑にしたのでしょうか?

考えられる唯一の理由は以下の通りです。

麻生太郎首相と森英介法務大臣と法務省高官は、「足利事件」の菅家さんの「再審請求」が受理され再審裁判の中で当時のDNA鑑定の信頼性が否定されて菅谷さんが「再審無罪」になることを確信していたと思われます。

もしも久間三千年さんが死刑囚として「再審請求」を出せば菅家さんに続いて「再審無罪」が出て、しかも菅谷さんの「無期懲役」よりもはるかに重い「死刑判決」が誤りだったことが白日のもとに暴かれることが分かっていたのです。

麻生政権にとって足利事件に続いて「飯塚事件」でも、警察・検察・裁判所のでたらめさが暴露され世論の批判にさらされれば政権運営に重大な支障が生じ、警察・検察・裁判所全体に対す国民の信頼が失墜する重大な危機があったのです。

死刑確定後2年という異例の速さで、無罪を訴え「再審請求」を準備していた久間三千年さんを死刑にしたのは、「再審請求」を阻止して「再審無罪」を出させないための「明確な口封じ」であり、麻生政権による「政治権力」と「司法権力」が一体となった犯した「国家犯罪」そのものだと思います。

鳩山民主党政権はただちに国会内に「飯塚事件真相究明委員会」を設置して、麻生太郎首相、森英介法務大臣、法務省高官などの当時の関係者全員を証人喚問して真相を究明すべきです。

【関連記事】「足利事件」と「飯塚事件」を結ぶ黒い線

 http: //blog.goo.ne.jp/yampr7/e/c18a8b2156cb9bb01643ffc878946612

【関連twitter】 「アカウント名chateaux1000」
http://twitter.com/chateaux1000


(終わり)

 

 

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競争、競い合い、勝負、勝ち負け、いつまでレベルの低い人生を続けるのでしょう。

2017-07-15 | 恋知(哲学)

飛翔する想像力
深い心
情感の濃やかさ
豊かな精神世界
面白く楽しい人間性
学校価値や権威ではなく、
自分からはじまる囚われのない意識
強張(こわば)りとは無縁の自由闊達な言動。

概念主義=範疇(はんちゅう)主義、あるいは規則主義、
既成の価値意識に縛られたツマラナイ人間性から脱して、豊かで自由な生き方を日々創造したいもの。

競争、競い合い、勝負、勝ち負けーーー他者と張り合い、他者承認に怯える人生では、わたしが生きたことになりません。それではわたしの生はあまりに可哀想。
テレビや本やネットの情報に占脳=染脳されて日々を過ごし一生を終わるのはなく、自分として生きる。自己信頼以上に大切なものはありません。

他者に優越しようともがいているあなた、目を覚せ! 沈思して心の声を聴こう。シーッ!黙って、独りにならないと何も見えません。他者の言葉に反応するのではなく、内奥の言葉に従うのです。遠くを見つめ、自己の一点に集中して。


武田康弘

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競技はなし、わたしの楽しいスポーツ人生~~~。とってもお勧めです。

2017-07-14 | 教育

競技は身体に悪く、心にも悪いな~というのは、わたしの長年の体験からくる実感です。

スポーツとは、英語の語源は、気晴らし、息抜き、楽しみ、という意味ですので、わたしは、スポーツ大好きですが、競技はまったくしません。遊びで競争(というレベルではないですが)することはあります。強いですよ(笑)。

自分が楽しい、気分いい、快適、面白い、でやってます。名前も付けられないようなスポーツですし、遊びです。それでも、腕立て伏せは連続100回は軽いです。幼児より内臓疾患を抱えていましたので、疲れることはしません。徹底したマイペースで、人とは競いません。

でも65歳までなんとか!?生きていますし、いまも、若者より全身力(押し相撲)があるのですから驚きです。

秘訣は、スポーツを生活に!ということかな。気晴らし、息抜き、楽しみで身体を動かす、競技はやらない、他人に影響されないことが大切と思います。

毎日毎日、朝から練習で、夕方遅くまでも練習の部活動をしている中学生は、いろいろ故障の連続で、わたしの教室の子も、疲労骨折や腰痛での病院通いが続出です。どう見てもまちがってますよね。



※写真は、いま、手賀沼遊歩道の広場で、ストレッチと筋トレを軽くして帰ったところをかみさんがパチリ!頭をびしょびしょにして帽子を被り、1時間くらいですと熱射病になるどころか、健康ビンビンです。アーシングしながら楽しく運動をしています~~~

 

競わないことが最大のよいを生む。

武田康弘


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愛に乏しい愛のない人間=ウヨク国家主義者は、人間を不幸にし、国を亡ぼします。

2017-07-13 | 恋知(哲学)

 愛に欠けた人生を歩んできた可哀想な人が権力をもつと、恐ろしいウヨク国家主義者になります。
ネトウヨと呼ばれる安倍信者は、実に困った人たちだ、と思います。安倍晋三は、親の愛に飢えた悲しい少年時代を送りましたが、それが彼を独裁的政治家にしたのでしょう。
 
元官房長官でカミソリとあだなされた故・後藤田さんの「恐ろしい思想をもつ安倍君だけは総理にしてはいけない」は、見事に証明されています。


以下は、わたしの著作からです。

 
 

 第2章の(1)で、恋知を象徴する人物として、416年に暴徒と化したキリスト教徒に惨殺された天文学者・数学者でもあったヒュパティアをソクラテスと共に紹介し、「愛と理性に基づいて生きる恋知者の受難」と書きました。

 「愛情」と「理性」は、恋知者=豊かな人間性と共に生きる者の条件と言えるでしょうが、第一義的に求められるのは「愛情」です。さまざまな人間の感情、その中でもとりわけ「愛情」の豊かさがなければ、「理性」には意味がありません。愛情がない理性とは、根を切られた植物と同じで、すぐに枯れてしまいます。それは無意味どころではなく有害であり、人間の生を元から破壊します。「理性だけがある」というのはあり得ない想定で、人間の生にとっては根源矛盾です。

 わたしは、いま、「愛」ではなく「愛情」という言葉を使いましたが、それは、愛を理念的・抽象的なものとしてイメージしてほしくないからです。とりわけキリスト教でいう「愛」=agape(アガペー)と言われる神の愛、罪人である人間に対して神が恩寵として与える愛という考えとは異なります。愛情と呼ばれる感情は、まず、動物や赤ちゃんが可愛いという気持ちから生じるもので、理念でも要請でもありません。抑圧や過当な競争がないふつうの生活から自ずと生じる何よりも人間的な感情です。

 愛情、愛するという心と行為以上に重要なものはこの世には存在しないはずです。子どもや動物への愛、友人への愛、家族への愛、恋人への愛、そこから人間愛へ。豊かでイキイキとした愛の感情がなければ、生きる意味も生じません。もしも人が、そのような内的には生きる意味を持たない人生を続けなければならないとしたら、脳の奥深く(脳幹)にある爬虫類の戦闘脳に依拠して「競争原理」に従うほかありませんが、それでは自他の人間性を破壊する不幸に沈むだけです。

 愛とは、精神論ではありません。行為としては「可愛がる」ことと同じです。では、可愛がるとはどういうことか、あまりに易し過ぎるゆえに「分からない」=実際に出来ていないことが多いのを、わたしは長年にわたる子どもたちとの交流と父母との対話で感じています。とくに高学歴者の親ほど頭でっかち・理屈先行で、知らない=出来ていないのです。

 以下は、小学3年生の教科書(教育出版)に載っている『のらねこ』(三木卓著)からです。

 

「はははあん。そうだったったのか。」合点がいったリョウは言います。

「ねえ。きみ、もしかして、かわいがられるって、どういうことか知らないんじゃない。」

「知ってるわけないだろ。どこでも売ってないし。」
のらねこは、ぶすっとして言います。

「きみ、母さんは。」

「母さんなんて・・・・・。」

「ああ、やっぱりそうだったのか。かわいがるっていうのは、そばまで行って、相手にさわってあげたり、だいてあげたり、なでであげたりすることなんだよ。」

「へえ、そんなことするのか。で、そんなこと、なぜするのか。」

「ああ、それも知らないのか。かわいがってもらうと、とても気持ちがいいし、うれしくなるんだよ。」

・・・・・・・・・・・



 言うまでもなく、愛とは、まず始めは、可愛いという想いから生じる身体的行為であり、それは、どのような愛であれ、その絶対的基盤です。それが不足すれば、後は何をしようと虚妄です。

 教科書に触れましたので、次に、子育て・教育の原理を簡明に記した白樺教育館・ソクラテス教室の基本文書をご紹介します。

 お母様、お父様、すでにご経験の通り、子育て・教育の基本とは、文字通りの触れ合い=だっこしたり、おんぶしたり、頬ずりしたり、ふざけあったり、また、心のこもった視線や感情の豊かな抑揚のある言葉で接すること、一言で言えば、心身全体による愛です。 

 いうまでもなく、理屈以前の愉しい触れ合いがなければ、健全な心をもつ人間は育ちません。愛情とは、心身全体によるもので、子どもが自分を心底「肯定」できるのは、全身で愛されているという実感のみです。愛されて育つ子は、他者をよく受け入れ・愛することができます。

 もしも、子どもを「言葉」だけで教育できると思っている方がおられるなら、それは明らかに間違いです。子どもが著しい適応障害を起こすのは、「理性」の不足によるのではなく「愛」の不足によるからです。心身全体による愛は、人間のさまざまな営みを「よい」ものにするための基本条件なのです。


 武田康弘

 

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