25日のブログ『直接経験とイマジネーションによる哲学を(自分の知のありようを変える)』は、内田卓志さんとのメール対話ですが、一応の完結を見ましたので、『新たな哲学への跳躍ー「民知」への価値転換』と題して、全文をブログにします。ぜひご覧下さい。コメントもよろしく。
武田先生
ご主旨承知しました。
神野先生(「教育再生の条件 ― 経済学的考察」の著者)は東大の方でしたが、東大病患者ではないと思います。
いつも著書にはあったかい血が流れています。本当ですよ。
内田
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内田さん
はい、了解です。
ただし、①受験勉強を経て現在の自分があることに対しての自覚、②それをしてきたことで自分の知にはどのような問題があるかの分析、③マイナス面に対しての改善策、
以上の3点について、教育と人間についての考察をする人必ず取り組まなくてはならない。それがわたしの「強固な立場」です。
武田
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武田先生
「それがわたしの「強固な立場」です。」
長年、日本の悪しき官僚主義・権威主義・エリート主義
いわゆる東大病と闘ってきた先生のご主張ですので、しっかりと受け止めさせて頂きます。
下記①~③について考えさせられます。
さすがのご指摘と思います。私は東大にはまったくの無縁者ですが、自らも反省するところもあります。
ただ厳しいご指摘かもしれません。
①は出来ても②そして③へ至るのは相当に自覚を持たないと無理ですね。
考えてみれば、①~③について取り組まなければならないのは日本教育の悲劇です。そして韓国も中国、特に韓国は国を挙げて東大病患者を生み出しているように見えるのです。
寒くなりました。ご自愛下さい。
内田卓志
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内田さん
わたし自身、小学高学年のときから、受験的な勉強=丸暗記と特定のパターンを身につけて解答するやり方になんとも言えぬ気持ち悪さを感じてきました。点取り勉強には極めて不愉快な思いをし、それを疑いなくこなす級友には侮蔑の感情さえ抱いていました。
だからわたしは、小学5年生ころからは、自分の疑問や関心事について、能動的に自分で調べ、聞き、納得を得るような勉強をしてきたのです。本もさまざまな分野のものを読みました。
そういうわけで、、新しい教育をめがけて24歳のときに私塾をひらいた時には、かなりの自信を持っていました。
ところが、地域の小学生に「意味」を分明に教えようとすると、自分のもつ「優秀さ」は幻想に過ぎないことを悟ったのです。成績はあまりよくないが、疑問をもち聞いてくる子どもを前に、自分が「分かったつもり」でいたにすぎなかったことを知りました。受験的な知を越えようと努力し、それなりの成果をあげ、自信をもっていたわたしは、しかし、それが言語上ないし理論上の確信でしかなかったことを知ったのです。
ある考え・思想を学ぶこと=言語として明晰化することと、それを現実に自分が生きることの違いは、ほんとうに大きなもので、両者が次元を異にする世界であることを実感するには、言葉に逃げることが許されない厳しい現実に身を置かなければならないと思います。学校(小~大)内で先生をやっていては(地位が与えられ、生活が保障されている)、その覚醒はないでしょう。既存の知の中で「優秀」であるほど言語中心主義に囚われてしまうという事態はとても深刻な近・現代知の問題なのだ、わたしはそう思っています。
(1)直接経験とイマジネーションの力に基づいて、実際・現実を全体としてつかみ、その意味を会得することと、(2)言語次元で、書物の中で論理的な整合性を得ること、この両者の間の深淵を埋めるためには、自分を無にし、裸になる覚悟をし、それを実行しなければなりません。どのような理論も哲学も権威者の言も科学的知見も自身の履歴も何にも依拠せず、ひとり裸で立ち、そこから自分自身の経験(直接経験に基づき間接経験も含めて)を反省し、イメージ世界から言葉を浮かび上がらせる作業を始めるほかにありません。自分が知らずに身につけた固い知(言語に囚われた知)を溶解させるには、自覚的に「バカ」になる必要がある、それがわたしの強固な立場です。
武田
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武田先生
ご多忙中、ご丁寧かつ大変納得のいくご説明ありがとうございます。
正に先生の知は、現実社会での試行錯誤、挫折を繰り返しながら会得した知ですね。
私も漠然とですが考え続けていたことでした。しかし、先生のお話を聞いていて分かったことは、考えただけでは回答は無く、生活の場に先入観無く裸の個人で向き合わないと分からない問題ですね。
「ある考え・思想を学ぶこと=言語として明晰化することと、それを現実に自分が生きることの違いは、ほんとうに大きなもので、両者が次元を異にする世界であることを実感するには、言葉に逃げることが許されない厳しい現実に身を置かなければならないと思います。学校(小~大)内で先生をやっていては(地位が与えられ、生活が保障されている)、その覚醒はないでしょう。既存の知の中で「優秀」であるほど言語中心主義に囚われてしまうという事態はとても深刻な近・現代知の問題なのだ、わたしはそう思っています。」(武田)
大学の哲学者の話を聞くと言語でもって論理的には納得するのですが、それまでの世界なのです。そこから先、生活者が生きてきる世界、市井の民の世界とは違うし、言語的論理だけをもって「生」(生活)の世界を把握できることは無理だろうと思っています。純粋哲学者で「生」(生活)なんか興味が無いよ、と言うなら知のための知で良いでしょうが、公共哲学や社会哲学を標榜するならそういうわけには行きません。
「(1)直接経験とイマジネーションの力に基づいて、実際・現実を全体としてつかみ、その意味を会得することと、(2)言語次元で、書物の中で論理的な整合性を得ること、この両者の間の深淵を埋めるためには、自分を無にし、裸になる覚悟をし、それを実行しなければなりません」(武田)
「どのような理論も哲学も権威者の言も科学的知見も自身の履歴も何にも依拠せず、ひとり裸で立ち、そこから自分自身の経験(直接経験に基づき間接経験も含めて)を反省し、イメージ世界から言葉を浮かび上がらせる作業を始めるほかにありません。自分が知らずに身につけた固い知(言語に囚われた知)を溶解させるには、自覚的に「バカ」になる必要がある、それがわたしの強固な立場です。」(武田)
⇒(1)と(2)の作業こそ大困難なのです。特に東大病患者には。おそらく哲学が大学での個別研究から「街頭」へ出て行くためには、先生の思想及び実践が不可欠と考えます。少なくとも私が今まで出会った中で最も納得のいく思想です。こういうことは、大学の学者から聞いたことありません。何度も申し上げますが、純粋哲学は必要です。ただ武田先生のような思想と行動を行っている方は稀です。市井の民は、純粋哲学ではなく良く生きるための哲学を求めているはずです。そんな時、武田先生の存在は大変貴重に思います。
大学の哲学を民知へ翻訳するとでも言う作業は、大変力のいることです。正に価値の転換です。それはかつて親鸞が行ったようなことかもしれません。
内田
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内田さん
丁寧に読まれ、わたしの考えを高く評価して頂き、感謝です。さすがに親鸞と比較されると、恐れ多くて困惑しますが(笑)。
純粋哲学は、
ある種の人(不全感が強く、論理言語による自己救済を必要とする人)にとっては、必要でしょう。
しかし、
それ以外の人には不要です。
要・不要は、実存レベルの問題なのだと思います。
また、わたしは、「大学内哲学」を民知へと翻訳しているのではないのです。文筆家のものも、大学教師の言も、さまざまな人(付き合いのある人やこどもたちやテレビで話す人や新聞に書いている人や・・・)の言動の一つとして見、ヒントにし、刺激剤にしているに過ぎません。わたしの思想は、あくまでも直接経験の世界から立ち上げることが中心となっていて、わたし自身の具体的経験を基盤としています。どのような抽象も生々しい実際・現実に根をもっているのです。
武田
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武田先生
志は、親鸞聖人のごとく高いのですから困惑しないでくださいね。
さて、私の話し方が悪かったようです。哲学に大学の哲学も市井の哲学も本来無いはずなのです。ところがいつの間にか、哲学が専門化して大学だけで研究する対象となってしまいました。一部の仲間内だけで通用する言葉だけで交わり、知のための知となり「生活」の場で生きて働くものとはなっていません。
哲学にもいろんなスタイルがあるのかもしれませんが、哲学とはカント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーとかの難解なものを研究するという大学内の哲学だけだという固定概念を脱構築すること。
「あくまでも直接経験の世界から立ち上げることが中心となっていて、具体的経験を基盤としているのです。」(武田)という直接経験を基盤とする哲学・思想があるので、それは主観性の知に立脚した「民知」だということを市井の民へ紹介し、ともに考え対話するということ、正に価値の転換だと思うのです。
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内田さん
了解です。わたしもその通りだと思います。
その価値の転換こそが、現代においてよい思考・思想を生む為の基本条件である、それがわたしの揺ぎ無い信念です。
内田さんのとのメール対話は生産的ですね。
では、来年またお目にかかりましょう。
武田
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コメント
哲学って何? (荒井達夫)
2009-12-29 20:24:34
私は、もともと哲学に関心はなく、偶然、仕事の関係で公共哲学に深く関わることになった者ですが、内田さんと同じことを感じています。ただし、昔から哲学と言えば、物事の意味や価値について深く考えるものと、漠然と思っていましたので、そうではないという事実には、正直なところ、驚き、あきれています。
物事の意味や価値について深く考えることをしないから、「専門化して大学だけで研究する対象」にもなれたし、「一部の仲間内だけで通用する言葉だけで交わる」ことにもなったのではないでしょうか。
また、哲学が「「生活」の場で生きて働くもの」との強い自覚がなければ、物事の意味や価値について考えなくなるのも当然でしょう。現状は「難解で複雑怪奇な情報の集まり」に過ぎなくなっているように思います。
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みなの哲学=新しい哲学 (武田康弘=タケセン)
2009-12-30 10:38:16
「昔から哲学と言えば、物事の意味や価値について深く考えるものと、漠然と思っていましたので、そうではないという事実には、正直なところ、驚き、あきれています。』(荒井)
そうなのです。
現代の哲学は、一部の趣味人と大学職業人のための「村の言葉」に陥り、人間の生の意味と価値とは無縁になっています。
自分勝手に造語し、仲間内だけでやりとりする衒学趣味のサークルに過ぎませんから、すでに死んでいると言えます。
物事・事象の「意味と価値」を考えること、それは必ず、自分・人間の生の意味と価値をどのように見、どのように創るのか、に結びつくわけで、それがほんとうの哲学(意味論としての知=民知=恋知)です。
ほんとうの哲学とは、皆の哲学であり、21世紀の新しい哲学だと言えます。それは、日常の言葉(一次言語)で考え・語り合うのです。
民主主義がどんな政治体制よりも強い理由は、あらゆる人・みなが関わるからですが、哲学をほんものにするのも同じです。
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当たり前過ぎる話 (荒井達夫)
2009-12-30 17:58:31
私は、特に政治社会の問題に関わる大学教師の方に対しては、現実の具体例を挙げながら、普通の大人が理解できる言葉で説明してもらうようにしています。これができなければ、現実社会では使い物にならない哲学オタクの議論ということになりますから。一般人には当たり前過ぎる話です。
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そうですよね。 (武田康弘=タケセン)
2009-12-31 20:48:16
従来の哲学=特別な知としての哲学を否定する哲学でなければダメだ、というわたしの主張を「当たり前過ぎる話」と見る荒井さんのコメント、素晴らしい!ですね。2009年のシメにふさわしいーーー。
来年はさらに進展するでしょう。