思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

東京地方裁判所の登石郁朗裁判長は、罷免すべきです。

2011-09-30 | 社会批評


自白もない、証拠もない。
しかし、有罪。

このような判決は、明らかな憲法違反ですから、
主権者である国民は、憲法に反する判決を出した裁判官を罷免する権利をもちます。
われわれは、政治家や裁判官などの公務員に対して、『憲法』の遵守と擁護義務を負わせていますが(第99条)、それは近代民主主義国家における立憲主義の原則です。

上記の判決をしたのは、東京地方裁判所の登石郁朗裁判長です。
わたしたち主権者は、民主主義社会を守るために、登石郁朗裁判長の罷免を求めなければならないと思います。
ほんらいこのような独善的な判決をする裁判官は、国会の弾劾裁判所で裁くべきですが、この問題を政争の具として矮小化しているようでは、悪しき裁判官を野放しにする事態を招き、大変に危険です。

以下は、昨日(9月28日)の日刊ゲンダイですが、登石郁朗裁判長の驚くべき歪みが明らかにされています。公正・公平とは対極の主観主義による判決の数々に、背筋が凍ります。

【法廷が混乱、どよめくことも】

小沢元秘書3人に有罪を言い渡した東京地裁の登石郁朗裁判長(57)には、司法関係者からも「この裁判長は何を考えているんだ」「検察が描いたシナリオの丸のみじゃないか」と疑問の声が噴出している。

だが、そもそも登石裁判長の判断が「おかしいんじゃないの?」と言われたのは今回が初めてではない。実は西松事件裁判で手詰まりとなった検察が強行した「訴因変更」の一件にも、登石裁判長は関わっていた。

「大久保被告の裁判で、検察側証人に証言を翻されて慌てた検察は、西松事件に陸山会の政治資金収支報告書虚偽記載をくっつけて、2本立てにする訴因変更を行いました。

公判前整理手続きを終えた裁判の訴因変更は、判例では認められていない禁じ手です。そんな検察の“後出しジャンケン”を認める決定を下したのが登石裁判長でした。当然、弁護側は最高裁に特別抗告したが、これを棄却した古田佑紀裁判長は、かつて最高検次長検事だった元検察の大幹部。

今回の裁判は、ハナから検察と裁判所が持ちつ持たれつ、ナアナアの関係で進められたようなものです」(司法関係者)

登石裁判長は、東京都出身。1985年に判事補となり、札幌地裁判事や司法研修所教官などを経て、06年から東京地裁判事を務めている。が、過去に手がけた裁判にも批判の声は出ていた。

「東京地検で07年、異動前の検事が強制わいせつ被害に遭った女性の告訴取り下げ書を偽造し、不起訴にした事件があった。この捏造検事の裁判で、登石裁判長は『精神的に不安定だった』などの事情を酌量し、執行猶予を付けたのです。

今から思えば、一連の検察不祥事の走りで、司法の根幹を揺るがす大事件でしたが、このときも『検察に甘すぎるのでは』との指摘が出たものです」(司法ジャーナリスト)

06年に法大で学生運動を行った参加者らが一斉に逮捕された事件の裁判では、抗議する被告人らを次々と退廷させ、弁護人から「史上最低の裁判長だ」とも言われた。

一方、08年にお台場でフィリピン人女性が殺害された事件の裁判では、過去にも女性を殺害したことのある被告に対し、無期懲役(求刑は死刑)を言い渡した。「矯正の可能性がないとは言い切れない」という理由だが、遺体をバラバラにして洗濯機で洗い、トイレに流した殺人鬼だっただけに、法廷がどよめいた。

何かと不可解な判決の多い裁判長である。
(以上、「日刊ゲンダイ」をコピー)


武田康弘
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「人事を尽くして天命に遊ぶ」――小沢一郎・石川和祐 対談

2011-09-30 | 書評

以下は、石川議員の著書『悪党 小沢一郎に仕えて』の第3部「対談」での小沢一郎議員の言葉ですが、正鵠を射るものですので、ご紹介します。


「マスコミは日本人の悪いところの典型なんだ」(小沢)
―まさしくその通りですよね。至言とさえ言えましょう。

「いまの震災を例にすると、マスコミを含めてバカみたいに、やれ挙国一致だ、やれいま政権を変えるのはどうだ、ってアホみたいな議論をしている。欧米では違うんだよ。危機だからこそ強力な政権とリーダーをつくらなければならないっちゅうのが彼らの考え方だよ。丸くなって、談合ばかりしていたって解決しねえんだよ。原発事故にしたって誰も責任をとらない。誰が責任者なのか、誰が決めているのか。わけがわからない。・・・(だから)ゆでガエルみたいな日本人になる。」(小沢)

「おお、そういや、この言葉が好きで机に取っておいたんだ。
――『人事を尽くして天命に遊ぶ』。
「天命を待つ」「天命に従う」が普通の言葉なんだよ。これは自分で自分に期待感がこもるだろ。自分にいいように天命が回ってくりゃいい、と。
「天命に遊ぶ」ってのは、確か戦前の左翼が言ったんだよ。だからあまり言うなと忠告する人もいるけど、オレは最高に気にいっているんだ。」(小沢)

「スケベ根性を起こしちゃダメだっつってんだよ。人事を尽くすことが大事。それぞれの立場、職責で全力を尽くせば世の中はよくなるんだよ。見え透いた根性を起こすからみなおかしくなるんだよ。」(小沢)

「お前(石川議員)もまだまだだな。いまの民主党の欠陥は、俗に言う「雑巾がけ」、基礎的な鍛錬、基礎的な勉強をしないで偉くなっちゃったヤツばかりなんだよ。・・基礎的な修業を積み、経験を積み、知識を積む(ことで)、こういう時はこう、ああいう時はこうと、自分の価値判断基準、政策判断の基準っつうのが自然と作られてくる。」(小沢)

まさしく、何事でも、
どのような勉強、研究、活動でも、
基礎鍛錬・繰り返し・土台・足腰固めこそ一番必要。基礎こそすべて。


武田康弘


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石川議員、頑張れ!国会議員は超党派で応援すべきです。ー恐るべき裁判官の詐術

2011-09-27 | 社会批評

この一年間の『週刊朝日』をはじめ各種情報を見る限り、石川議員は無実だと思われます。

検察庁による意図的な捜査と起訴を追認した昨日の判決(検察からの証拠の一部を認めないという裁判所の判断は、実は、政治家を有罪にするには証拠はいらないという恐るべき司法独裁=【官治主義】の更なる徹底を可能とする詐術です)は、官僚主義と闘う政治家に対する司法権力を用いた弾圧であることは明白でしょう。

民主主義を守り発展させるためには、国会議員は超党派で【密室権力】(人事も組織のありようも司法官僚が見えないところで自由に決める)となっている司法行政にメスを入れ、石川議員らへの憲法違反の判決(自白も証拠もないが有罪)を批判すべきです。

小沢議員を追い落とすための政争の具として昨日の憲法違反の判決を利用しようというのでは、政治活動の自由に依拠する民主制社会の実現はますます遠ざかります。官僚支配の体制を強めるに過ぎない言動は、民主制国家の政治家として極めて不適切なものなのです。

官僚主義を守るために編まれた司法の詐術に騙されているようでは、情けないというほかありません。いま何より必要なのは、国会議員のみなさんの覚醒です。


武田康弘

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明らかに憲法に反する判決―証拠はなくとも裁判官の心証で有罪

2011-09-26 | 社会批評

石川氏と小沢秘書たちの帳簿の書き方の問題で、有罪判決。
証拠はなくとも有罪にできる、と言う裁判官には開いた口が塞がらない。

状況が怪しいと検察官が睨めば、起訴する。
状況が怪しいと裁判官が思えば、有罪とする
恐ろしい国だ。

この「神」となった司法権力を変えるには、主権者であるわたしたち市民の力を集結する以外にはないが、なかなか難しい。

民主主義における権力は、他のどの体制における権力よりも強大なために、一度狂い出すと、その修正=改革には膨大な時間と労力がかかる。

日本の司法が民主的良識から離れて「法曹界の密室権力」に陥ってから長い時間が経過しているので、膿を出し健全化するのは容易ではない。

為政者・裁判官・その他の公務員は、『日本国憲法』を守る義務があるのだが、「そんなの関係ない」と言わんばかり。

『日本国憲法』

第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

第38条  何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

自白もなく(採用されず)、証拠もない。
しかし、状況から見て怪しいと思うので、裁判官がストーリーをつくり、有罪とする。
検察に目を付けられたら一巻のおしまい。裁判官は検察官の味方(というより司法人事を司る法務省は検察官に支配されている)。これでは、独裁国家のデタラメ裁判と同じだ。まさに司法の自殺行為という他ない。

わたしは、民知の哲学者として以上のように断言する。


武田康弘
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『オットー・クレンペラー』 初のドイツ語による伝記の邦訳―みすず書房刊

2011-09-26 | 書評


わたしの最も敬愛する指揮者、オットー・クレンペラーの伝記が出版されました。
本格的なクレンペラーの伝記は、ヘイワースによる二巻の大著(英語)がありましたが、この度は、生誕地のドイツからです。

2010年にドイツで著された本書は、「書簡や同時代人の証言などの膨大な新資料に基づき、錯綜した人間像に迫る」と言われますが、巨人クレンペラーの新たな魅力があらわされていると思いますので、読むのが楽しみです。

アマゾンで発売前に予約し、昨日届きました。

エーファ・ヴァイスヴァイラー著 明石正紀訳
『オット―・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』
2011年9月21日発行 みすず書房 4600円+税



武田康弘
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アメリカ・無実(冤罪)と言われるトロイ・デービス死刑囚に刑執行!

2011-09-22 | 社会批評

以下は、毎日新聞です。


<米国>有名死刑囚に刑執行 一貫し冤罪訴え、国内外で批判
毎日新聞 9月22日(木)18時41分配信


刑務所で姉のマルチナ・コレアさんと面会したトロイ・デービス死刑囚=コレアさん提供
 米南部ジョージア州で21日深夜、米国で最も有名な死刑囚の一人だった黒人男性、トロイ・デービス死刑囚(42)に対する死刑が執行された。事件発生以来、一貫して冤罪(えんざい)を訴え、無実の可能性が指摘される中での刑執行に、国内外から批判や反発が強まっている。

 デービス死刑囚は89年8月、同州サバナのファストフード店の駐車場で、白人の男性警官を射殺した疑いで逮捕された。同州には公的弁護制度がなく、デービス死刑囚は弁護士なしで出廷し、死刑判決を受けた。

 ところがその後、支援団体の調査などで、当時の現場は暗く、犯行目撃が難しかったことなどが明らかになり、目撃者9人のうち7人が証言を変えたり撤回したりした。ロイター通信によると、警察の証言強要を訴える目撃者もおり、デービス死刑囚の犯行を裏付ける物的証拠はない。

 刑執行日はこれまでに3度設定されたが、カーター元大統領やローマ法王ベネディクト16世、南アフリカのツツ元大主教ら国際的な著名人や、米国の黒人団体を中心に多くの市民団体が反対、執行が延期されてきた。連邦最高裁は09年、公判やり直しを命じたが、地裁は翌10年、「評決を覆す必要はない」と、退けた。

 AP通信などによると、21日には同州刑務所前に市民ら約700人が集結し、執行反対の声を上げたほか、首都ワシントンやフランス・パリでも反対集会が開かれた。100万人の署名を集めた国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)のメンバーは「ジョージア州は、政府の生殺与奪権が信用できないことをまさに示している」と評した。

 連邦最高裁は21日深夜、弁護側の死刑執行停止請求を棄却。米メディアによると、デービス死刑囚は執行直前、立ち会った被害者家族に対し「事件は私のせいではない。私は銃を持っていなかったし、殺していない。私は無実だ」と述べたという。その後、薬物注射によって死刑が執行された。弁護士は「今夜、ジョージア州は無実の男性をリンチ(私刑)した」と批判した。

 また、殺された警官の妻は執行後、「(死刑になっても)何の喜びもない。デービス死刑囚の家族に祈りたい。今度は彼らが私たちの痛みを知る番だから」と話した。【服部正法、ニューヨーク山科武司】



日本もアメリカに追随していたのでは、未来は拓けません。無実の可能性のある人(今回は無実の可能性が極めて高いと言われている)に死刑を執行するのは、最悪の国家です。

司法に携わる人は、【人権と民主主義の原理】を明晰に自覚する作業が誰よりも必要です。この作業を日常化しなければ、形式善により人間を殺すという悪は避けられません。通常の犯罪として行われる殺人行為とは次元を異にする最も酷い悪が、国家権力による冤罪=合法化された殺人処刑であることを心に深く刻まなければいけません。

上記の死刑判決は、『合衆国憲法』修正第6条に反して行われたものであることは明白です(「被告人は、嫌疑の性質と原因を告知され、自己に不利益な証人に対決し、自己に有利な証人を強制的な令状により喚問してもらい、弁護のために弁護士の補助を受ける権利を有する」)。

わが国でも、連続する冤罪事件(検察庁による犯罪)と惰性的な裁判(悪しき役人根性がもたらす形式主義の司法)によるデタラメな裁判が相次いでいます。『日本国憲法』を守るという最低限の義務を果たさないようでは、司法の自殺行為というほかありません。憲法第38条の3「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」


武田康弘





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一体、NHKの誰がどういう意図で「不公平」な報道をしているのでしょうか?

2011-09-21 | 社会批評

ほんとうに不思議なことですが、民主主義社会であるはずのわたしたちの国で、統制国家のような報道が行われています。

マスコミ人は、「正義」という意識・「自立」する精神・ジャーナリストとしての「誇り」を持たず、ただ日々の自身の安泰のために生きるのでしょうか?

一昨日、「さようなら原発」という5万人大集会が行われたとのことですが(写真で見ると明治公園を人が溢れ出しています)、この驚くほど大規模な集会とデモをNHKは報道しませんでした。『東京新聞』は一面に写真付きで記事を載せていますが(「こちら特報部」にも二面にわたって報道)他の新聞はどうなのでしょうか。

他国の集会やデモは繰り返し報道するのに、自国については大規模なものでも報道しないという放送局を「公共放送」と呼べるのでしょうか?

共産党による規制のある中国と同じような報道には、ほんとうにガッカリです。「自由」や「民主」が飾り言葉に過ぎないようでは、民主主義社会ではありませんね。やはり今でも天皇現人神の「国家」!?(笑)。


武田康弘
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個人の自由は、共同性をつくる前提です。

2011-09-21 | 社会思想

個人の自由を奪う権利は誰にもありません。
法律に反する言動、または、他者が嫌がる非常識な言動をするのでない限り、個人の自由は最大限に尊重されなければなりません。

人間の対等性に基づく自由は、公共性をつくり拓くための前提です。
対等な権利をもった個人が、互いの自由を認め合うという基本的約束事を踏まえた上でつくるルール社会が、近代の民主主義社会です。

特定の組織や団体がもつ力によって個人の自由が奪われることがあってはなりません。これは原理中の原理です。したがって、先に書いたライフガードの言動は、【根源ルール】(民主制社会の基本原理)に反するものです。

以上はあまりに当然の話ですが、戦後66年が経過した今日、この基本中の基本である「社会や公共について考え・語り・判断するための前提」が不明瞭になっています。そこから、さまざまな混乱が生じ、人間性の抑圧が起きるのです。 元検事の郷原信郎さんが指摘する『遵法主義』という歪みも、この前提が失われていることに起因します。
(☆郷原信郎著の『思考停止社会ー「遵守」に蝕まれる日本』 (講談社現代新書) は、日本人みなに読んでほしい本です。)

相互に助け合う社会・補助し合う社会は、個々人の自由を前提にしなければ、集団抑圧社会へと転化してしまいます。対等性に基づく自由こそが、民主的な相互性を生みだす条件なのです。集団性(昆虫社会)と共同性(人間社会)は根本的に異なることを知らなければなりません。


武田康弘

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「ライフガード」という名の管理趣味の学生たちーひどく迷惑です。

2011-09-18 | 社会批評

昨日のブログに式根島での写真を載せましたので、話題ついでに「ライフガード」という名の学生集団について書きます。

自然の海を楽しむこどもたちの「キャンプ&ダイビンブ」(武田康弘主催)は、今年で35年が経ちましたが(1980年から10年間は月刊『マリンダイビング』誌に掲載)、何時のころからかキャンプ場前の美しい大浦湾にはライフガードの監視塔が建ち、プールの監視員と同様の「注意」をマイクで流す事態となりました。

今年などは、湾内に少し波があるので「遊泳注意」ということでしたが、こどもたちと共に海に入る私に、子どもと引率者の人数、氏名、住所、団体名まで聞き、メモするありさま。
「いいかい、わたしはね、君たちが生まれる前からこの海で泳ぎ、ダイビングをし、教えてきているのだよ。一体どんな権利があって、こういう管理をするのかね。越権行為だよ。」
と言い、追い払いましたが、
彼らのわがもの顔、他者への無遠慮な物言いと管理、自分の判断の強要。マイクで大声を出し命令することが「正しい」と思う勘違い。よいことをしているという思い込み、静かな自然の海を壊す鈍感・・・・
毎年、毎年、わたしは憤っています。

島の役場や観光協会は、どうしてこういう愚かな行為を許すのでしょうか?

わざわざ長い船旅で島まで来る人は、人為的に管理された海水浴場を求めてはいません。大自然を求めているのです。手つかずの海を求めているのです。プールの監視員のような「ライフガード」は、ほんとうに迷惑です。


わたしは、こどもたちを自然の海で遊ばせたいので、誰も来ない(ライフガードがいない・笑)岩場の海に連れていき、そこでダイビングや磯遊び楽しんでいます。

もし、どうしてもライフガードがやりたい学生がいるなら、特定の場所(式根島で言えば、遠浅の石白湾)を海水浴場に指定して、そこだけでやるべき(許可すべき)です。


武田康弘

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なぜ半ズボンが消えたのか? 不愉快な半長ズボンばかり。

2011-09-18 | 社会批評


わたしは、30何年か前に買った半ズボン(テニス用 SERGIO TACCHINI)を今もはいていますが、新しいのを買おうとしても、どこにも売っていません。
なぜ、つくらなくなったのか?不思議です。

テニス用も中途半端な長さのパンツしかなく、膝にマトワリつきスッキリしません。ボテボテしている半長パンツはカッコ悪いと思いますが、今の若い人はよいと思うのでしょうか?

スポーツウエアのメーカーへの要望ですが、ぜひ、来年は写真のようなきちんとした半ズボンをつくってほしいと思います。暑い夏、半ズボンは一番快適で、気持も引き締まります。

写真は、今年8月の式根島・神引山ですが、女の子たちは慣れない一眼レフで撮る小6の男の子を怪訝な顔で見ています。



武田康弘
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ジュ・トゥ・ヴー(サティ:歌曲集)ーわたしの愛聴盤

2011-09-16 | 趣味

CD化されて13年、わたしの愛聴盤です。

エスプリに満ちたサティの歌曲は、なんとも楽しく、いつもウキウキ。
これをかけると、踊り出してしまいます。自然とおどけた動作が出るのです。

歌詞対訳もついています。

ステットナーによるCDの表紙絵画(水彩)も伸びやかで楽しく綺麗なので、飾っています。


武田康弘
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『朝鮮人暴動に対する理解』(日本政府批判) 石橋湛山の普遍的思想

2011-09-14 | 社会思想

わが国は、1910年「日韓合併条約」により、朝鮮を「天皇による直轄地」としました(条約には「韓国一切の統治権を日本国天皇陛下に譲与」とある)、これに伴い朝鮮語による授業を廃止し言語も日本語に同化させました。
この日本の天皇陛下による支配に抗して、1919年の3月1日に三一独立運動が起こりますが、デモに参加した市民に対して日本の警察と軍隊は無差別に銃を乱射して多数を殺害したのでした。

これは近代史の常識ですが、いまだにこの日本政府による朝鮮支配(天皇陛下が治める直轄地)を美化しようする愚か者がいるのには呆れる他ありません。石原慎太郎東京都知事をはじめわが国の守旧派(明治政府がつくった「近代天皇制」に郷愁をもつ国家主義者)は、ネットウヨクと同レベルに過ぎない自身の歪んだ歴史認識・歴史観を至急改める必要があるはずです。

この日韓併合の1910年には、同人誌『白樺』が刊行されます。1914年に我孫子に移り住んだ柳宗悦・兼子は、1920年からは韓国人を励ますために繰り返し朝鮮にわたり、日韓の民間交流をつくりだしました。1919年の三一独立運動に際しては、1920年に『朝鮮人を想う』を読売新聞と東亜日報他に連載しますが発行禁止となります。そこでは「虐げる側である(日本)は、虐げられる側(朝鮮)よりも死の終わりに近い」とまで書かれ、日本政府による朝鮮人弾圧・支配を厳しく批判しています。

この柳の朝鮮擁護の主張は当時では極めて珍しく他には吉野作造がいるくらいだと言われますが、戦後に第55代総理大臣となる石橋湛山は、早くも1919年の5月に『東洋経済』の「社説」に極めて優れた文章を発表しています。プラグマティズムの哲学者・田中王道の薫陶を受けた哲学徒湛山の面目躍如と言えます。ぜひ、お読み下さい。

『朝鮮人暴動に対する理解』(東洋経済・社説)1919年5月15日

「・・・およそいかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。インド・エジプトの英国に対する反感は年と共に高まり、アイルランドの独立運動は今日に至っていよいよ強烈さを加えてきたではないか。朝鮮人も一民族である。彼らは彼らの特殊なる言語をもっている。多年彼らの独立の歴史をもっている。哀心から日本の属国たるを喜ぶ朝鮮人はおそらく一人もなかろう。故に朝鮮人は結局その独立を回復するまで、我が統治に対して反抗を継続するのは勿論、しかも朝鮮人の知識の発達、自覚の増進に比例して、その反抗はいよいよ強烈さを加えるに相違ない。これを個人の場合について考えれば、直ぐに分かることだ。おそらく何人といえども、自己意識のある限り、他人の保護管理の下に生活するのでは、その他の一切の要求が遺憾なく満たし得られても、決して満足はせぬ。何となれば、自己は自己によって支配せられぬ限り、真の意味において生活はないからである。自己なき所にはいかなる善美をも意味を成さぬ。民族の生活もまた同様である。故に朝鮮人は日本の統治の下にいかなる善政に浴しても、決して満足すべきはずはない。故に彼らは彼らの独立自治を得るまでは断じて反抗を止めるものではない。問題の根本はここに横たわる。」(岩波文庫・『石橋湛山評論集』87-88ページ「鮮人」という記述は分かりにくいので「朝鮮人」にしました)


武田康弘

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ソニーα用 ツァイス・ゾナー135mmF1.8

2011-09-10 | 趣味

2008年6月に購入し、3年以上使ってきました。レポートします。
ゾナー135mmF1.8は、デジタル時代にツァイスが放った超ド級の中望遠レンズですが、凛として立つ描写には、ただ脱帽するほかありません。
階調の幅が広くなだらかに明暗が変化することで得られる立体感、コントラストがよく極めてシャープなのに硬さがまったくない画像は、目の悦楽です。
ツァイスは、かつてコンタックスRTS用の135mmF2という大口径レンズを5群5枚でつくるという「離れ業」でカメラ業界を唖然とさせましたが、今回は8群11枚という贅沢なレンズ構成で、データ上の解像力とMTFも共にベスト。
透明感やヌケのよさはそのままに、開放から素晴らしい切れ味で、レンズ設計の進歩に唸らされます。対象の本質を赤裸々に暴くような精密描写ですが、実物よりも品位が高いと思わせる描写はツァイスの独壇場です。白が純白に写る美しさ!
単に技術的に最高というのではなく、対象をどのように見たいかーどのように写るレンズをつくるかという理念が明白で確固としているために、他に代えがたい優れた個性を持つのです。
わたしの友人をはじめ多くの方がこのレンズで撮った写真を見てソニーαに乗り換えましたが、ゾナー135mmF1.8はデジタル処理の時代でも「写真はレンズで決まる」を実証したと言えます。色純度が高く、【品位に優れる】とはどういうことかを分からせてくれる写りです。
恐るべきツァイス財団。

武田康弘
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皇族とは神々の一族!? 悠仁さま5歳

2011-09-06 | 社会思想

戦前の日本(1945年の敗戦まで)では、『大日本帝国憲法』の下、天皇は国家の主権者で陸海軍の統帥権をもち、現人神(生きている神)として遇せられていました。

したがって、その一族は、特別な人間(創造神の末裔)とされたので、彼らを呼ぶ時は、皇族のみの特別な敬語が用いられたのです。

ところがわが国は、中国大陸への侵略(陸軍の陰謀で張作霖を暗殺)から始まる15年戦争の結果、最後は第二次世界大戦での無条件降伏(ポツダム宣言受諾)に追い込まれ、天皇現人神という国家宗教(靖国思想)に基づく政治体制(山県有朋や伊藤博文らの明治の保守政治家がつくったもの)は終焉を迎えました。

日本の再出発は、戦前は抑圧されていた日本の民間人7人(「憲法研究会」)による憲法草案をもとに、GHQの力により主権在民の近代民主主義憲法が制定されたところに始まります。「天皇は儀礼を司るのみで主権は国民にある」とする象徴天皇制案は、7人の一人、杉森孝次郎(早稲田大学教授で、第55代総理大臣の石橋湛山と共に、プラグマティズムの哲学者・田中王道に学んだ)と言われます。

ところが、昭和天皇裕仁(ヒロヒト)が死去した際に、マスコミは「崩御」なる言葉(天皇の死に対してしか使えない特別な敬語)を用い、天皇現人神の戦前に戻ったかのような異常な空気を生みだしましたが、それと同じく、その一族に対しても、愛子さま、あるいは、悠仁さまと呼び、幼児にも敬語を用いています。

『日本国憲法』では、天皇の象徴という地位は、主権者である日本国民の総意に基づくと規定され(第1条)、主権者であるわれわれの意思に主体があるとされているのです。私たちは、年間170-180億円もの税金を用いて天皇一家を支えていますが(天皇家が個人的に使うのは6億円程度)、その家族に対して特別の敬語を用いて遇さなければならないのは、なんとも奇妙な話です。

近代市民社会(近代民主主義社会)の常識に照らせば、呼び名は、愛子ちゃん、悠仁ちゃんであり、「さま」は非常識です。さらに言えば、海外の王室の来日に際しても、お客様である相手側の人間には、「さん」づけ(ダイアナさん・・)で、自国の側の人間には「さま」づけ。もう、国語のテストなら完全に×ですよ(笑)。もしも、いまだに天皇は神、皇族は神々の一族という意識が抜けないのなら、愚かどころか論外でしかありません。宮内庁に勤務するお役人さん、新聞記者やテレビ局の方、少しは進歩してください。いまは21世紀の近代市民社会なのですから。いまさらですが、主権は天皇ではなくわれわれ一人ひとりの国民にあるのです。

なお、よろしければ、7年前に書いた『皇族の人権と市民精神の涵養』もご覧下さい(これは三部作の最後ですが『靖国神社と君が代』『日本の政治家は国という言葉の意味も知らない』も併せてお読み頂ければ幸いです)。


武田康弘

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考え方・生き方・勉強仕方の「よい」とは何か、の追求がないと深い闇から抜けられません。

2011-09-05 | 恋知(哲学)

わたしは、こどもたちの勉強をみることを中心にして生活していますので(大学生や社会人クラスの授業もしていますが)、こどもたちが素直に表す価値意識や親の本音と日常的に「お付き合い」しています。

そこで何十年間もずっと感じてきたことですが、

大人がこどもに求めるものが【技術知】でしかないことです。「パターン知」を身につけさせるのが頭(知)の教育だと思っていて、
何がほんとうか?を求めて「考え方・生き方」を考えるという一番大事な生の土台については、追求がないのです。
各人が元来もつ個人性のさまざまな「よさ」を豊かに拓き、人間が人間として生きる上で一番大事などのように生きるかという「主観性」の世界を開発する努力がない、というよりも、そのことがどれほど必要・大切かの認識がないのです。広い意味(ほんとうの意味)での哲学がないのです。

そのために、知的ということの価値がとても小さくなり、勉強は受験勉強へと貶められてしまいますが、それが「悪」であるという認識もありません。豊かな知的世界は消えうせ、序列という愚劣な想念だけが支配しています(いわゆる「東大病」という集団的精神疾患)。暗記とパターン知だけで、自分の具体的経験を踏まえて自分で考える知がありません。哲学までも本の読解と哲学史の知識でしかなくなっています。これはほんとうに恐ろしい事態です。

わたしは、参議院事務局企画調整室の発行する『立法と調査』(別冊2008.11)に依頼されて「キャリアシステムを支える歪んだ想念」という論文を執筆しましたが、そこでは、わたしの言葉である【客観学】と【主観性の知】という概念を用いて、日本の知的教育の問題点を簡明に記しました。その一部を以下に写します。

 「読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。
 従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。」(P.51)


知に対する見方・態度の酷い歪み(客観神話)こそ、わが国の最大・最深の問題であり、あらゆる困難や不毛な対立はそこから出てくることを知らなければ問題解決の可能性はないのです。
各自が「主観性の知」を豊かする努力を始めましょう。序列意識と権威主義はそのための最大の障害です。ありのままの「私」の意識をよく見つめ、そこから一歩ずつ歩む。あせらず、ゆっくりと、でなければ豊かな知と世界は開けません。


武田康弘

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