思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

明治政府が行った「詐術」を自覚することが新たな出発点です。

2012-08-29 | 社会思想

長い日本の歴史において、ある一時期を除き天皇家が国家の中心にあったことはなく、天皇とは神主組合の代表者に過ぎませんでしたが、明治政府は、【天皇教】という新しい宗教をつくり、天皇を現人神(あらひとがみ)として神格化し、同時に現実政治における最高権威者にして国家の主権者とし、また軍隊の統帥権をも与えました。

明治政府は、近代国家に適した新宗教(天皇政府に味方した者の戦死者だけを祀る)の施設として明治2年に『東京招魂社』をつくり、これを10年後に『靖国神社』と改名し日本古来の宗教であるかのごとく装いましたが、それに留まらず、政府の宗教である靖国思想を従来の神道の上に置くという暴挙をも断行しました。

残念ながら今日までわが日本は、この種の「詐術」に基づく暴挙が横行し、常態となっています。

明治政府は、タイムマシンの現実化、古代の絶対王制を近代社会に蘇らせるという凄まじい【禁じ手】を用いて日本の資本主義化と形式的で儀礼的な民主主義化を成し遂げたわけですが、その現実次元における政府の中心思想が「脱亜入欧」でした。アジア蔑視はこの時から始まったのです。その延長が15年戦争時の「大東亜共栄圏」という思想ですが、アジアで唯一近代化を成し遂げた日本が中心となり、アジア全体を支配化に置くという構想でした。

このように戦前の日本国家は、明治政府が作成した詐術の上に構築されましたが、領土問題の根もそこにあります。明治政府の言動を正当化して「日本固有の・・・」を主張しても世界性、普遍性は得られないことを理解しないようでは、先行き真っ暗です。

われわれ日本人は、いま、明治維新後の日本のありようを見つめ、明治政府が行った驚くべき詐術から解放された目でわが日本のこれからの姿を考える必要があるはずです。「常識」となっている見方が、実は「近代天皇制国家」をつくるために明治政府が行った詐術に基づくものであることがいかに多いか、それを知ることなしには、人間性豊かな未来は拓けないはずです。

武田康弘

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尖閣(魚釣島)は、わが国の領土とは言えませんー歴史的には台湾に帰属

2012-08-28 | 社会批評

まず、確認しなければいけないのは、1870年代以前に、尖閣列島(魚釣島)が日本の領土であったことは一度もない、という単純な事実です。意見ではなく「事実」です。

この問題を考えるためには、
古代、中世からの歴史的な事実と、
明治政府の対応と、
1945年の無条件敗戦がもたらした事実について知る必要がありますが、
外務省国際情報局のトップを務め、防衛大学の教授を7年間務めた孫先享(まごさきうける)さんの書いた『日本の国境問題』-尖閣・竹島・北方領土(ちくま新書・760円)※を見れば明瞭です。

簡単にわが国の領土とはいえないことがよく分かります。公平に見れば、歴史的には台湾に帰属していたと見るのが妥当でしょう。

これを買い取ろうというのですから、石原慎太郎という人物には言葉もありません。わざわざ酷い摩擦を起こして得する人は誰もいません。自身のエゴ=権力欲を満足させるために地位と権力を用いる、民主制社会ではあってはならないことです。

論じる前に、まずは、知ることが必須です。

※尖閣列島(釣魚島)の歴史的背景については、58~72ページ
また、竹島(独島)については、144~152ページ。

 

武田康弘

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わが日本人の集団同調の狂気再び? 『維新の会』との全面対決が必要です

2012-08-27 | 社会批評

天皇現人神(てんのうあらひとがみ)の明治維新後の超保守主義にしろ、
15年戦争における「集団同調イズム」(天皇教の別名)にしろ、
残念なことに、わが国の近代政治史は、「民の民による民のための政府」ではなく、「権力者の権力者による権力者のための政府」によるものでした。

古くは、一向宗(親鸞思想)による自治社会をはじめ、多くの民主的な自治社会が存在したわが国は、明治政府のつくった「近代天皇制」という一元的なイデオロギーにより、主体者としての民が消去されてしまいました。

 いま再び、この明治の近代天皇制=国体思想に親近感をもつ国家主義者たちが、民主政治への検察よる介入が生んだ混乱に乗じて自分たちに都合のよい政府をつくろうとしていますが、これは極めて危険な事態で、恐ろしいことです。

主権者を天皇から国民へと転回させた戦後の「民主主義」を改良し発展させる方向ではなく、再び、政治的エリートとしての権力者が上から決定し、従わない者を排除するという日本式の集団同調社会(みんな一緒病)をつくることで「自らの野望」(=権力を好きに使う男の快感!)を果たそうとするのが彼らの隠れた目的であることは、そのウヨク的思想・体質=(天皇制的国家主義)を見れば疑いのないところです。

すでに石原都知事の下で行われている学校教育への露骨な介入(その象徴は、いま行われている裁判=弾圧に抗する元都立三鷹高校校長の土肥さんによる闘い)に現れているのと全く同様な、というよりも条例で教師を縛るという更に露骨な弾圧を強行(最高裁の判決にも従わない!)しているのが橋下大阪市長です。彼らの思想は、現代版の【劇画化したファシズム】と言う他ありませんが、このような想念をもつ人間が国政を支配したら、「人々の対等性を基盤とする民主制社会」=「自由を互いに認め合う人権思想に基づく社会」=「民主的倫理によるルール社会」は封じられてしまいます。

再び、権力者が方向性を与え、民はその思想(天皇制的国家主義)に従うという超保守主義への回帰ですが、わたしはファシズムを許しませんので、「維新の会」との全面対決をします。みなさん、ぜひ共に【民治主義】を現実のものとするべく闘いましょう!

求められるのは、【官治主義】(試験エリートによる支配)から【民治主義】(民主的倫理による人権ルール支配)への転回です。【完治主義】から【戯画的ファシズム】への転換ではありません。

 

武田康弘

 

 

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「カルメン」の革命―サイモン・ラトル、恐るべし。

2012-08-23 | 趣味

今日(8月22日)、HMVで先行予約しておいた最新録音のビゼー『カルメン』(CD2枚組・EU輸入盤)全曲が届きました。イギリス人のラトルがベルリンフィルを用いてフランス人が一番敬愛するビゼーの代表作『カルメン』を演奏!なんとも珍妙な取り合わせ。下手物の『カルメン』かな、と興味半分で購入しました。

今日は定休日。メールやコメントへの返信などをしながら聞き始めましたが、最初は、「ずいぶん大人しいカルメンだな、やはりベルリンフィルではフランス音楽は無理だよな」と思いつつ、そのまま流していました。

暫くして、あれっ、これは、全く新しい解釈によるラトル版『カルメン』なのだな、じっくりと落ち着いて音楽の内容を聴き取ることができる。プリマドンナのためのカルメンではないし、歌手のためのカルメンでさえない。かつての名盤、カラスとプレートルの華やかで情熱的で湧き立つようなオペラではなく、明瞭な主張をもつ音楽劇で、時代に挑戦した天才ビゼーのイデーに焦点をあてた革新的な演奏かもしれないという気がしてきました。

さらに聴き進むと、これはとんでもない『カルメン』で、革命だな、と確信するようになりました。全体は有機的に一体で、2時間30分の物語は、主人公のカルメンのためにあるのではなく、普遍的な「人間の物語」になっているのです。うーーん、やはりラトルは凄い!と感心しながら聴き進めましたが、時間がないので一枚目で終わりとしました。

 夜遅くなり、再び聴きましたが、2枚目はさらに素晴らしく、もう完全に虜になりました。終曲の4幕を聴きながら、これは、「人間とは何か」を追求した音楽による「哲学物語」のようだ。しかも、哲学書のような晦渋とは無縁で、分かりやすく面白い。ラトルの明確な理念は、ベルリンフィルの名技もあり、実にスムースに気持ち良く展開し、何度も痺れるような快感におそわれます。演奏と同質のクリアで美しい録音も特筆ものです。

聴き終えての感動は、ベートーベンの交響曲にも劣りません。『カルメン』というオペラには、これほど普遍的で深いメッセージがあったのだ! 素晴らしい音楽体験をして興奮で眠れずにこれを書いています。凄い曲!凄い演奏!なかなか眠れそうにありません。

武田康弘

 

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「国体思想」という妖怪

2012-08-22 | 社会思想

わたしたち生活者の自由対話によりつくられる一般意思の前に国家意思があるとする国体思想は、いまだに根強く残り、強権的政治家たちの行為を正当化させる日本流のナショナリズムを生んでいます。

無条件敗戦でも【国体護持】!? これだけは譲れない、と当時の日本の支配者たちは口を揃えて言いました。【国体】とは、天皇とその一族が現す国の「姿」であり、それが日本国である(安倍元首相のいう「天皇を中心とする長大な物語」)という観念のことですが、この神話は妖怪となって、21世紀の近代市民社会をも混乱に陥れています。

以下は、14年前(1998年11月19日)に書いた国体思想を説明する文章ですが、コピーします。

「国体思想とは、制度=システムでしかない〈state〉に、国土の概念を重ね合わせることで、国家にひとつの生き物のようなイメージをつくりだし(実体化させ)、一人ひとりの人間をその構成要素としてしまうイデオロギーである(そこでは、人々の合意の形成以前に「あるべき姿」が問答無用で決定されている)。
一言でいえば、国体とは、国家の物神崇拝(fetishism)が生み出した〈概念〉だ。元来、フェティシズムとは衣類などを性欲の対象とする〈異常性愛〉の意味だが、「国家のために!」などと言う輩は、国家システムそのものを欲望の対象にする異常者だと規定できよう。

 そうであれば合点がいく。日本の受験エリートたちは、自分の内的欲望を否定され、外的価値のみを追うように作られた競走馬でしかないために、自分が本当は何を欲しているかが分からない。生の土台が失われているために、何をなすべきかも出てこない。ただ勝つこと、無目的に、理由なく、勝つことしか志向できないこの「異常者」たちには心の悦びもない。このような人たちに、なぜ?の追求と、何のために?を考えて有意味な〈理念〉を構築していくことは全く不可能だ。彼らが追求することができるのは、ただ一つ、制度=システムそれ自体の維持である。」(武田康弘)

 

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37回キャンプ&ダイビングー手つかずの海で (制作・古林治)

2012-08-17 | 教育
 
37回目の『手つかずの自然の海でのキャンプ&ダイビング』 in式根島

 タケセンが24才(1976年)のときにはじめた『手つかずの自然の海でのキャンプ&ダイビング』は、今年で37回目(36年間)。
 タケセンもついに還暦・60才!!

 圧倒される大自然と子供たちの底なしのエネルギーを感じ取ってください。
(写真はタケセン&大学生クラスの西山裕天さん。)

もうチョイ大きい写真が見たい方はこちらをどうぞ=>PDFファイル(1,086KB)


37回目の『手つかずの自然の海でのキャンプ&ダイビング』
 
 

 ちなみに、下の写真は、その昔、タケセンが見つけた秘密の場所で、崖を降りて行かないとわからない場所にある、誰もが絶叫するような、とっても美しい自然満杯のビーチ。
 吹ノ江(ふきのえ)という名が付いていますが、昨年、山から迂回して降りられる小路がつくられるまでは、地元の人も陸から降りる道(入口のない藪の急坂で道とは言えません)を知らなかった場所です。ふつうは、船で海から行くか、引き潮の時に隣の湾から行くしかありませんでした。

 そういうわけで、この式根島キャンプ&ダイビングで体験するのは、いわゆる体験学習で知るような自然とはまったく異なります。本物の自然の中で子供たちは歓喜の数日間を過ごすのです。自分が一つの生命であることを生々しく実感する数日間!

 秘密のビーチ
秘密のビーチ
  秘密のビーチ
 
 お次はタケセンです。
子供たちの誰も還暦(60才)と思ってません。これを見れば、確かに・・・
 
還暦の?タケセン

 

ナイトダイビングに向かう、無敵のタケセン(笑)。

 タケセン_ナイトダイビング
 

 

 夢の式根よ、また来年。

 

☆以下は、参考資料、参考サイトです。

古林治


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再び、『天皇の玉音放送』―わたしと著者の小森陽一さんとの思わぬ共通性

2012-08-15 | 社会思想


2003年の8月15日に発売された『天皇の玉音放送』小森陽一著(五月書房刊・CD付き)を、わたしは一読して「よくぞ出した」と感心して40冊買い込み、白樺同人や鎌ヶ谷市公民館の「とわの会」の方々に購読してもらいました。税込2520円と高い本でしたので、八木書店にお願いして一割安くして頂きました。

この書のように「ほんとうのこと」を明瞭に書くのは、まだまだわが国ではタイヘンなことで、著者の小森陽一さんには感謝と敬意を現し、わが『白樺教育館』の【民知の図書館】の推薦図書としたのでした。

あれから9年、いまだにマスコミも学校も天皇ヒロヒトの戦争犯罪ー責任について誤魔化し、事実に沿った正しい認識をもとうとしませんが、こういう公正さに欠けたウソ偽りを続けていれば、日本人と日本社会の健全な発展は望めませんし、公平・公正な歴史教育もできません。まだ読まれていない方には、ぜひ一読をお薦めします。

とにかくまず一番必要なのは、きちんとした事実を学びつつその意味を問うことです。

ところで、今まで気にしなかった著者についてネットで検索したところ、ちょっとビックリしました。小森さんは、北海道大学を卒業し今は東京大学教授の職にありますが、高校はわたしと同じ文京区の都立校(わたしは向丘高校・小森さんは竹早高校)で、わたしと同じく生徒会長として学校改革を成就させた経験を持ち、なんと誕生日まで5月14日と一緒です(ただし彼の方が一年下)。

というわけで、著者の小森さんに親近感が湧きましたが、さらにオマケがあり、わが『白樺教育館』ー「愉しい哲学の会」の同人である鈴木文子さんは、小森陽一さんのお母様で「青い空」の作詞者である小森香子(こもり きょうこ)さんと親しいとのこと。

嬉しい偶然が続きビックリです。

 

武田康弘

 

 

 

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謝罪するのは、あまりにも当然のこと。【天皇の直轄地】として朝鮮半島を支配したのは歴然たる事実です。

2012-08-15 | 社会批評

わが国が「朝鮮半島を天皇の直轄地として統治する」と決め、実行したのは、歴史的事実であり、誰も抗弁できません。

日本語を強制し、韓国名を名乗ることを禁止し、【天皇を拝ませる】、というやりかたで現在の韓国と北朝鮮を日本の植民地としたのは、歴史的事実であり、わが国の高校の教科書にも載っていることです。

明治天皇による直轄地であり、伊藤博文が直接乗り込んでの朝鮮支配であったという誰も抗弁できない「事実」を弁えることは、わが日本人の最低限の義務と言えます。

1910年の日韓合併条約の条文には、「韓国一切の統治権を日本国天皇陛下に譲与」と書かれていますが、同時に、朝鮮語や漢文による授業を廃止し、日本語での授業を強制しました。1938年には正式に朝鮮語の使用を禁止。さらに日本政府は、韓国名を名乗ることを禁止した「創氏改名」という信じがたいことまで行いました。すべては、天皇陛下が直接治める直轄地だったゆえです。

以上は、誰ひとり反論できない歴史的事実です。

 

武田康弘

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人を死に至らしめた会社(ワタミ)の社長が、なぜ堂々とテレビに出演できるのか?

2012-08-14 | 社会批評

酷い労働条件で有名なワタミでは、従業員を過労死に追い込む働かせ方をし、判決も出ていますが、この会社の創業者であり社長である渡邉美樹は、昨日も夜の経済ニュース特番に出ていました。

トクトクとした表情からは、何の反省もなく、「人件費はいくらかな?」などと偉そうに喋っていましたが、人を死に至らしめた会社の社長が、なぜ、テレビに堂々と出れるのか?

わたしたちの国に「倫理」はないのでしょうか?

金儲けが得意なら何でもあり、なんでも認められ、何でも許されるなら、人心は荒廃し、社会は元から朽ちていくでしょう。口先で綺麗なことをいい、実際にはあくどいことを続けてきた経営者が評価されるようでは、終わりです。

マスコミ関係者(この場合は、テレビ東京のワールドビジネスサテライト)の罪は、極めて重いと思います。猛省を促します。


武田康弘

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ブラームスのヴァイオリン協奏曲ー私の愛聴盤ーオイストラフ+クレンペラー

2012-08-13 | 趣味

わたしは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲が好きで、幾多の演奏を聴きました。名演と評された新旧の盤はほとんど聴いています。40年以上にわたり各々の演奏の「よさ」「美質」を感じ、楽しんできましたが、音楽の豊かさと大きさ、格調の高さ、堂々としたさま、技術が優れていること、ブラームスのもつ男のロマンの表出・・・・全てに心奪われる演奏があります。

 それが、ウクライナ生まれのダヴィド・オイストラフ(David Oistrakh・1908~1974)の演奏です。バックは巨人クレンペラー指揮のフランス放送管弦楽団(クレンペラーがフランスのオケを指揮した演奏は極めて珍しい)ですが、楷書的で艶やか、かつ微動だにせぬ磐石の演奏は、深々とした感動をもたらします。フランス放送管弦楽団のアインザッツの緩さは多少ありますが、音色の明るさはプラスに作用しています。

 EMIヨーロッパからの輸入盤は、従来のものとは比較にならぬほど音質が改善されていますので、ぜひ、お聴きください。素的なオマケ、ダヴィド・オイストラフが指揮とヴィオラ・ソロを受け持ち、息子のイーゴリがヴァイオリン・ソロを担当したモーツァルト:協奏交響曲変ホ長調 K.364もついています。

HMVのマルチバイでは、わすか764円ですが、いま確認したところ、今年2012年5月に出た限定盤ですでに完売。従来盤(2001年発売)も完売ですので、残念ですが、暫く待つか中古品を探す他ないようです。日本盤ならばいつでも入手可能です。


武田康弘

 

 

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山口二郎「若者の現在」-正鵠を射る指摘

2012-08-13 | 書評

山口二郎さんの『若者の現在』と題する今日(8月12日)の東京新聞・本音のコラムは、正鵠を射るものです。

「大学改革の議論では、英語が話せるグローバルな人材の育成が叫ばれるが、何とも的外れな話である。欧米でも、大学の基礎教育は歴史と哲学が中心である。安易なハウツーを身に着けるのではなく、答えのない問題を必死で考える知的基礎体力を持った人間を育てるのが大学の仕事である。
こちらがその気になって刺激すれば、若者は本を読み、考えるものである。むしろ、教える側の見識が問われている。」

大学の教師達が、単なる事実学の伝達ではなく、本質論=意味論としての知を追求するようになること、教育の主眼をそこに置くようにすること、それは、わたしの何十年来の主張ですので、山口さんの指摘はとても気持ちがよく、拍手喝采です。

武田康弘

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「わたしら兵隊はみな、天皇は『自害』するもの、と思っていた。」 亡き義父の憤り。

2012-08-12 | 社会批評

ちょうど2年前に亡くなった妻の父は、蓮田市に住む本家の長男でしたが、戦争の話しなど一度もしたことがありませんでした。

 ところが、亡くなる数年前の8月、わたしがテレビの映像をきっかけに天皇の話しをはじめたところ、突然、大きな声を上げ、集まっていた親戚は一同ビックリしました。

 「わたしら兵隊はみな、天皇は『自害』するもの、と思っていた。農家にとって人を取られるのは死活問題だ。戦争を起こした天皇が敗戦で『自害』するのは当然だ。わしら兵隊は皆がそう思っていた。それが、のうのうと生き続けたのだから、呆れたものだ!」

 政治とは縁のない、地方の農家の長男、しっかりしているが大人しい義父の言葉に、「あ~~~やっぱりそうなのか、これが心の思いなのだ。」ほんとうのこと(本音)が言える場=状況で出た「断固とした言葉」に、わたしは、震えるような感動を覚えました。妻の実家は、入母屋づくりの農家で、床の間には「天照大神(あまてらすおおみかみ)」と書かれた掛軸が飾られています。

 その場にいた親戚の方々は、何も言えませんでした。しばらく沈黙が支配しましたが、わたしが明治政府がつくった天皇制について簡潔に説明をすると、「うん、うん、その通りだな。」と頷き、顔面を紅潮させていました。

 天皇裕仁は、反省もせず、謝罪もせず、退位もせずに生き続けました。世界の歴史に前例のないことです。

 

 武田康弘

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天皇ヒロヒトの戦争犯罪は歴史的事実ですが、なぜ、問題としないのか?原発責任の回避と同じ精神構造

2012-08-07 | 社会思想

最高責任者が責任を取らないことを見過ごす、きちんと批判しない。
こういう態度・言動・生き方は、一人ひとりの人間としての豊かさ、悦び、毅然性をつくらず、【正義】に反する人と社会を生んでしまいます。

 1932年の裕仁天皇の言動が、15年戦争への最も大きな影響をもったにも関わらず、その事実から目をそむけることで、日本の現代史は大きく歪んでしまいました。それは、わたしたちの国をウソと形式が支配する「建前国家」へと貶めています。

 原発問題も同じです。原子爆弾投下という恐ろしい罪の反省をしないアメリカ、その米国政府の意向に従って無責任に原発をつくり続けた者たちの責任は問わない、何が起きて支配的地位にいる人間は安泰。

 それでは、人と社会の内側から活力が生まれることはありません。【外】なる価値と力によって生きるダメ人間が大手を振るうようでは、「不幸のシステム」を維持する愚から永久に逃れられません。

 「私」の内側から湧き上がる生のエネルギーは、「形式的な上位者」に従う(皇族、東大、官僚が偉い!?)という歪んだ精神からは生じようがないのです。

 原爆記念と敗戦の8月、
「私」の心身の中から・内からの生を始めるための日にしたいと思います。

 

武田康弘

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公共とはなにか=公共の本質論

2012-08-05 | 社会思想

 

以下は、『ともに公共哲学する』(東大出版会)のわたしの文章からの抜粋 「自己という中心から公共性は生まれる」)ですが、これは、わたしの考える「公共とは何か」という本質論ですので、ぜひ、ご検討下さい(2007年6月14日に書いたもの)。

 

「この私の命・生活は何より大事なものであり、この私の心身と私の抱く想念は何より貴重なものである、とわたしはずっと感じてきました。

だからこそ、互いにその貴重な世界を守り合い、楽しみや悦びを広げ合うことが必要なのです。これが公共性の起こりであり、公共性とは、集団で生活する人間が、集団に埋没するのを防ぎ、個々人がより大きな私の可能性を開くために必要な思想だ、とわたしは思っています。

人間はひとりで生きることはできないので、単なる個人性では、個人の可能性は狭まり悦びも広がりません。公共性とは、互いに私の可能性を広げていくために必要な現実的な思想であり、社会の中でよく生きるための知恵ではないでしょうか。

狭く私の得だけを考える閉じた自我主義的思考ではなく、広くみなに共通する利益を考える開かれた公共的思考は、私の人生を社会的現実に向けて押し広げてくれます。公共性とは、観念的・抽象的な次元ではなく、現実的・具体的な領域で私を活かす道であり、それは私の人生の充実・悦び・晴れやかさの世界を切り開くことになるのです。

したがって、公共的思考は、一人ひとりのふつうの個人が、私的生活に閉じ込められてしまう不幸から抜け出るための方法であり、広く社会全体を私の世界にするという発想であり、官・政治権力者・経済的支配者・知の独占者から社会・国家・知を「私」-「民」に奪い返す力をもつものです。公共する哲学によって、現代の民主制社会に生きる私たちの思想の原理を明晰化していきたい、そうわたしは思っています。

公共的な時空を開くとは、ふつうの多くの人が、私の可能性を社会的現実に向けて開き合うことだ、それがわたしの基本思想ですが、「公共哲学」の第一人者であるキムさんは、武田の考えをどう見ますか?」

―――――――――

以上のわたしの基本思想に対して金泰昌さんは応えることをせず、従来の自説を繰り返すのみでしたが、わたしは、上記の考え方こそ、公共の本質=原理となりうるものと確信をもっています。
公共哲学関係者(もちろんそれ以外の方も)の異論・反論を頂けると、有用・有益な学問(本質論=哲学)の発展になりますので、ぜひよろしくお願いします。とりわけ東京大学で公共哲学や社会思想を専攻する教師の方は積極的に発言してほしいと願います。

 

武田康弘

 

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