ギリシャ哲学と近代ヨーロッパ哲学についての解説書として、本書は極めて優れています。
哲学書の読解が、思想の本質を探るという「意味論」として提示されていて、深く納得できます。
哲学説の核心的な内容を軸としての解説本であり、一般教養としての哲学の履修にも、哲学を専攻する学生にも、一押しの「教科書」です。
また、竹田さんの哲学の解釈は首尾一貫して大河のようであり、ギリシャ哲学と近代ヨーロッパ哲学のもつ価値を闡明にしますので、哲学教師にも大いに参考になるはずです。
ただ、注意しなければならないのは、竹田解釈が現代に生きる人(特に若者)の日常感覚に見事にフィットするために、竹田さんとそのグループによる哲学書読解の成果(現在進行中の「完全読解」シリーズ等)を後追いする営みが、「哲学する」の代わりになってしまうことです。
日々、自分が生きている現場・現実において、自分の生を自分で考え・つくる能動的営みこそ「哲学する」ことなのですから、哲学書の読解を「生きて哲学するエロース」と混同しないように注意すべし!です。ヘタをするとオタクになってしまいますから。
大学の哲学教師でない大多数の人にとっては、自分の日常の「仕事」「生活」を踏まえて、生の意味や価値を考え・生きるのですから、哲学は、それに役立つように遇さなければ意味がありません(哲学が人生をスポイルしたのでは、笑えない笑い話)。
哲学のよい遇し方の見本は、石橋湛山(第55代総理大臣)です。「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支える「作用としての哲学」を生きたのでした。
書評に戻りますが、『竹田教授の哲学講義21講』は、かつて「哲学」で悩んだことのある人には「推理小説」のように面白く読めるはず。活字の大きさ・段組がよく、とても読みやすいですし、表紙の絵も楽しく、358ぺ-ジで1890円。とってもお得です。全然哲学ではない「正義の話をしよう」のサンデル本などとは比較になりません(笑・ホントウ)。
武田康弘
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全面的に賛成 (内田卓志)
「大学の哲学教師でない大多数の人にとっては、自分の日常の「仕事」「生活」を踏まえて、生の意味や価値を考え・生きるのですから、哲学は、それに役立つように遇さなければ意味がありません(哲学が人生をスポイルしたのでは、笑えない笑い話)。
哲学のよい遇し方の見本は、石橋湛山(第55代総理大臣)です。「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支える「作用としての哲学」を生きたのでした。」(武田)
昨日ある会で、石橋さんの言説と、少しその原点の王堂哲学について話してきました。
私が石橋さんと出会った、25年前に比べれば石橋さんのことは、よく知られるようになりました。
ただ、先生と私がこだわっている原理。(先生と知り合ってから強固にこだわっている)
「自己の立場についての徹底せる智見」を原理とし、自らの現実的・能動的な生を支え「作用としての哲学」を生きたのでし た。
このところを掴まないと、なんで石橋さんの揺るぎのない、一貫とした言論や思想の本質が分かりません。思考とは、そういう 行為・行動・作用・反射の一段階でないと、市井の民にとっては、役に立たない単なる飾り物の学問です。プラグマティズムは 大切です。
上記のご意見、全面的に賛成。哲学者石橋湛山について語ることは、これから一層重要になります。
私は、かつて白樺周辺の哲学として石橋さんを紹介しましたが、周辺ではないようです(笑)。
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健全・有用な新たな哲学への態度 (武田康弘)
内田さん
石橋湛山の話は、管理教育批判に取り組んでいた二十数年前にしばしば出ていましたが、「対し方」に確信がもてず、放置していました。
それが、内田さんから田中王道との関わりの話を聞くに及んで、本格的に取り組むことになったのです。とても感射しています。
哲学というと、どうしても「哲学書の読解」とイコールにされてしまうので、大変困ったことだと思い、【哲学への構え・態度の変更=民知(意味論)という知】をつくるための営みを『白樺』(その前身の『児童教室』1976年~と『哲研』1987年~)で続けてきたわけです。
わたしは、ずっと孤軍奮闘の思いでしたが(哲学館→東洋大学の創設者井上円了には共感)、石橋湛山の思想と実践=生き方を正面から見据えることで、勇気が湧き、深いよろこびを感じます。
もう40年以上前ですが、哲学者の言説を学び始めた高校生時代に、ドイツ観念論のまるで「理性による宗教」のような哲学に疑問をもち、デューイのプラグマティズに健全な明るさと現実的な有用性を感じたのを、昨日のように思い出します。
なんだか、とても楽しく気分です。共に!!
武田