思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ノット・東響によるモーツァルト交響曲41番ーー11月23日(土)超名演間違いなし!ぜひ。

2019-09-29 | 学芸

 

 

 私は、ノットのモーツァルトが大好きです。

 ダ・ポンテの三つのオペラは、みな見事で、存分に楽しみましたが、2年前、「東響の東京オペラシティシリーズ第100回」での交響曲39番の美しさと迫力、強靭なる気品とも呼ぶべき演奏に、心底満足しました。今まで聴いた最高の39番で、ただ感激!

 なので、11月23日(土)の同一会場での41番(モーツァルト最後の交響曲でローマ神話の主神=ジュピターの愛称があり終曲は見事な三重フーガ)は、名演間違いなしと思っています。それに、日本のオケで、モーツァルトに最も適したのが東響ですし。

 また、プログラムも凄い! リゲティの管弦楽のためのメロディーエン。続いて、R.シュトラウスのオーボエ協奏曲。休憩後に、41番・ジュピターです。

 S席(8000円)のみですが、残席がありますので、ぜひ、どうぞ。



武田康弘


 

 

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恐ろしいのは今の日本=安倍政権です。政権批判なしのマスコミによる「戦前回帰」。令和とオリンピックでニッポン全体一致だ!

2019-09-29 | 社会批評

 



 
韓国叩きにより、自身の政治延命をもくろむ安倍晋三とその仲間たちは、令和=元号で日本統一の基本戦略のもと、立憲民主党の懐柔にも成功し、いよいよ天皇中心の強い国家=戦前への回帰を確実にしています。

 

 ここで、個人としての天皇が、夫人の外務省出身の雅子さんと共に、「民主主義の擁護、天皇現人神思想への批判の心」を持っているのは、実に好都合です。民主制を擁護する天皇の下に全国民が一致すれば(天皇陛下万歳!)、形式だけ民主制を守るとし(民主主義の中身は人権思想ですが、首相の中心ブレーン・八木秀次麗澤大学教授は『反人権宣言』・ちくま新書で人権思想に反対し、日本の天皇中心の国家道徳=教育勅語の精神に戻すべきと主張しています)「日本は西側と同じ民主主義国である」と宣伝する安倍首相は、好き放題で、中身は富国強兵の戦前主義(個人と人権を排撃し、実際上の主権者を国体思想の政府とする、天皇=元号制度はその象徴となる)の政策を進めることができ、支持率アップは間違いなし、というわけです。

 

 韓国の不人気大統領が、「安倍首相は第二のヒトラー」と著書に書いてくれているのは、まことに好都合で、バカなことをいう韓国は相手にならない、日本の首相の悪口をいう国を叩くのは当然で、ますます支持率アップ!というわけです。もちろん、安倍晋三は、第二のヒトラーではありません。ヒトラーは天才(悪の天才です)でしたし、安倍晋三は夜郎自大・厚顔無恥ですが、凡庸なる人物ですから。親友の麻生大臣は、2013年から安倍首相に「ヒトラーの手法を真似るべき」と言っていましが、確かにその忠告を聞いて真似をしているのは分かります(真似っ子の悲喜劇)。

 

 これほどまでに政権に卑屈で、政権を忖度するマスコミとおとなしい国民の日本という国は、どこからみても主権者を国民とする民主主義国とはいえません。ニューヨークタイムス東京支局長の言う通り「これほど異常な民主政国は見たことがない」(クリック)です。

 

 いいのでしょうか?

 テレビ局の方、また読売新聞をはじめとする新聞社の方、ただの社員ではなく、ジャーナリストの使命を果たすところに、あなた方のレーゾンデートルはあると思いますが、違いますか?
 主権者であるわたしたち国民は、国民としての義務=(互いの存在の対等性につき、互いの自由を認め合い、政権への批判眼をもつ)を果たさなければならないはずです。


 武田康弘

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日本人が戦前への反省を曖昧にし、誤魔化してしまう大元の原因は、天皇裕仁の「退位さえしない」という無責任な行為にあるのです。

2019-09-28 | 社会思想

 ※以下は、「私と共和制」-楽しい公共社会を生むために(武田康弘著) からの抜粋です。


 と
もあれ、敗戦後、主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をしたわけですが、これを曖昧にし、近代日本の歴史の意味をカオス化させたのが、昭和天皇裕仁の【退位さえもしない】という驚くべき行為でした。  

 憲法の全面改定により「人権思想に基づく民主制の国」へと変わったにも関わらず、裕仁がそのまま天皇という地位に留まった為に、日本の近現代史は混沌として意味の分からぬものとなりました。現人神!であった戦前も「人間宣言」をして人間!になった戦後も同じ「昭和時代」と呼ばれることになったのです。 
 

 これは、日本人全体の歴史認識を大きく狂わせてしまい、戦前の反省、その思想と行為の検討や批判を困難にしてしまいました。戦前は、学校で、天皇は生きている神と教えられていたため、神国日本は絶対に負けないと信じ込み、どのような悲惨な戦いでも白旗を上げないで全員戦死を選ぶことをよしとし、いつまでも戦争を続けましたが、その結果、最後は2度の原爆投下(米軍は13発を用意して日本全土を壊滅させる作戦でした)でようやく「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したのでした。それによる戦後の根本的な改革=出直しだったのですが、裕仁は、退位を勧める人たちの声を無視して天皇の地位に留まったために、戦前の明治天皇制と戦後の象徴天皇制との相違が曖昧となり、日本人みなの歴史意識と社会と政治への考え方を歪めてしまったのです。   
 

 
これは大きな負の遺産で、いまの安倍自民党政府に見られるように「戦前思想」への回帰-明治礼賛の政治を復活させてしまう原因ともなっています。明治維新以降敗戦までの「天皇現人神」と、敗戦後の象徴天皇制との次元の相違がボカされて混沌とさせられていますが、いまの天皇の明仁さんや皇后の美智子さんは、それへの大きな違和をもち出来る限りの抵抗をしてきました。その最大の行為が「生前退位」です。岩倉具視や伊藤博文らがつくった天皇教(=靖国思想=国体思想)では、天皇は神であり、その死によってのみ時代は変わる=新元号となるので、退位は認められないとするのが明治から続く思想と制度でしたが、それを壊したのが、今回の明仁さんの決断でした。  ただし、「一世一元」という根源悪はそのままですが。

 なお、ここで敗戦時に昭和天皇の裕仁について兵士はどう思っていたかのエピソードをご紹介します。日本人の多くは敗戦後も「天皇現人神」という深い洗脳が解き切れなかった為に、なかなか表には出せなかった赤裸々な心の声です。
 

 
「天皇はのうのうと生き延びた!」 元兵士の憤りの声ーある証言 (わたしのblog「思索の日記」2018年8月16日から)。 

 わたしの義父の関根竹治さんは、1923年12月に埼玉県蓮田市に生まれた関根家の長男でしたが、2010年8月に亡くなりました。 
 農家の総本家の長男で、頭はしっかりし心も強かったですが、先祖代々の農家の後継ぎでしたから政治思想などは特になく、ふつうに保守的な人でした。政治の話、まして天皇の話などをしたことはありませんでしたが、亡くなる数年前のお盆の時、親戚一同の前で驚くべき発言をしました。   

 
みなで、テレビで、終戦記念の番組を見ていたとき、わたしは、「東京裁判で東条英機が罪をかぶり絞首刑になったが、ほんとうは、昭和天皇に大きな責任があるはず」と発言しました。親戚一同は何も言わずに黙っていましたが、 その時、竹治さんは、大きな声で断固とした調子で「そうなんだ!」「わしら兵隊はみな、天皇は、自害するものと思っていた。」「だが、天皇は、のうのうと生き延びた!!」と言い、赤紙一枚で、無意味な戦争に行かされ、農民は、どれだけ大変な思いをしたか、を話しました。   

 
誰もが口を聞けませんでした。心からの明晰な声、揺るぎない言葉にみな黙るほかありませんでした。始めて聞く竹治さんが話す兵隊たちの思いに唖然となりました。  自害どころか退位さえしないで、最高責任者がそのまま天皇の名で、「のうのうと生き延びた!」ことに、強い憤りをもつ竹治さんの声は、誰の耳にも心の真実を伝えたのでした。

 

 

 

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悪行の限りをつくす竹中平蔵教授を、東洋大学創設者(哲学者の井上円了)の精神に則り指弾した学生に拍手を送る。拡散を!

2019-09-24 | 社会批評




半年前のアップですが、


東洋大学の哲学科の学生が、悪業のかぎりの竹中平蔵教授を、堂々と批判しています。

井上円了の哲学館の思想が建学の理念となってつくられた東洋大学にもっともふさわしくないのが竹中平蔵という人物の思想と行為です。

東大(帝国大学)の哲学科に学び卒業したが第一号が井上円了でした。しかし、自分の頭で考えない東大の哲学ではダメとして「哲学館」をつくり大人気となりますが、文部省の役人による妨害にあいます。それが井上が東洋大学を創設する契機になったのです。

「哲学精神」を建学の精神とした東洋大学で、竹中平蔵の根源悪を指弾した学生は、まさに、大学の建学の精神を体現したのであり、教授会も彼に続き、諸悪の元を退治するために声をあげるべきです。

武田康弘




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今年は、ベルリオーズ没後150周年、なんでこの想像力の化身、創造的天才の作品を演奏しないの。聴衆のせい?音楽家のせい?

2019-09-24 | 芸術


( 写真は、たくさんあるCDやDVDの中からお気に入りの一部です。)


 フランスが生んだ想像力・創造力そのもののような天才ベルリオーズは、あふれるイマジネーションにより形式を超えた傑作を生み続けました。


 わたしは、もう半世紀前、「幻想交響曲」を皮切りに次々と聞き、飛翔する自由な楽想に既成観念からの解放を味わい感動の連続でしたが、

 形式を踏まない大胆なまでの想像力による作品は、どうも音楽大学に学んだ今の演奏家家や音楽学者など音学関係者の理解を超えているようで、評判があまりよろしくありません。

 故・吉田秀和さんも、どう聞いたらよいか、とまどっている文章を「レコード芸術」に載せていました。シャルル・ミンシュの言った通り、細密画を見るような聞き方ではダメで、大壁画を見るように全体を味わうのです。

 

 没後150年なのに何も演奏しない演奏家には、呆れています。



武田康弘

 

追記・なんと、嘆いていたら!(笑)、今日(9月24日)の19時過ぎにタワーレコードからのお知らせが入り、「幻想交響曲」のロトによる今年2019年録音がリリースされたとのこと。嬉しい!!

 ロトとレ・シエクルは、昨年、新宿のタケミツメモリアルホールで聞いたストラヴィンスキー「春の祭典」(CDが発売になった時に日本で一番に批評を載せた(Amazon)のはわたしです)とドビュッシー2曲とラベルの「ラ・ヴァルス」は、超ド級の名演でした。このベルリオーズも超名演間違いないと思う。早速予約するぞ!

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天皇制的精神風土(元号はその象徴)の中でのナショナリズムはとても危険です。

2019-09-23 | 学芸

 ナショナリズム(愛国主義)の危険性は、どこの国でも同じですが、とくに日本ではナショナリズムの培養に、皇族(天皇)が利用されるために、恐ろしいまでの絶対化になりがちです。「万系一世」(もちろん史実ではなくフィクション)という想念が流布されることで、「特別国」という意識を植え付けられがちです。

 

 天皇家の方も利用されるマイナスは分かりながらも、儀式により政権を聖化する役割を果たすことによって、超がいくつも付く特別待遇が得られ、それは外国でもそのまま通用しますので、この巨大な利権を自ら手放すことなど思いもしません。 代々の『天皇家』(実際には天皇という名は、平安初期の村上天皇を最後に消え、江戸後期の光格が再び天皇を名乗るまで800年間以上、天皇の称号は存在イしませんでしたが)は、権力を聖化する儀式を執り行うことにより生き延びてきたわけです。権力を直接もつこと(持とうとしたこと)は、ごく稀であり、「国家神主」(思想内容はごった煮ですが、さもさもの儀式をつくり行う)の仕事に自らを特化するという基本戦略を持してきたために、権力者(武士の権力)に滅ぼされることがなかったのです。

 

 中身・内容をもたないのが天皇教です。形式(=儀式)だけがあるというのが彼らがが編み出した「天皇教」という宗教です。明示的な内容を持たないで、その時その場の状況に合わせて生きるというのが最大の特徴です。内容がないので、なんにでも化けられるわけですし、論争になれば、内容には踏み込まず、形式上の問題をクリアーすればよいだけですので、上位者にある自分たちがいつでも勝者となれます。そうなので、中身・内容の進展と豊穣化は得られず、ツマラナイ灰色の世界が広がるだけとなります。人間性の豊かさ、面白さ、楽しさはどこにも見当たりません。

 

 唯一の聖典と目される「日本書記」(「古事記」は正史から除外された)は、7世紀末(673年~689年)に壬申の乱で勝利し、最初に天皇を名乗った天武の命令で、自らの権力支配を正当化するためにつくられた書物でしかなく、思想内容は空疎です。

 

 このように内容がなく形式だけを整えるという思想は、今日までずっと日本人の生き方を支配してきました。例えば、受験勉強に漬かり(パターン知と丸暗記による人間のAI化)東大に入れば、その名前の力=形式力は抜群で、現実的にも心理的にもその「利権」はすばらしい(笑)ものです。中身・内容の魅力ではなく、形式が偉いという思想は、深く日本人の心身を犯してきました。それが幸福をつくらない人間と社会をもたらす深因ですが、有名という言葉にウットリして、自分を平気で売り渡す思考停止になり、精神的自立なきままに一生を終えてしまうのでは、根源的な不幸としか言えません。

 

 ネオテニー(幼態成熟・人は「オトナ」にはならない))という人間の特性を自覚し、自分の身体と頭を用い、体験を踏まえて考えるフィロソフィー=恋知の生が始まらないのは、中身・内容よりも形式が先立つ天皇制的な心性を知らずに身に付けてしまい、その結果、「私」から立ち昇る生き方ができないからといえます。精神の自立がなく、集団同調(ハチやアリの属性)で生きるのでは、ひどく哀れです。天皇教という国家宗教に呪縛されたままでは、実存としての生がはじまらず、魅力ある豊かな存在としての個人が花咲きません。

 

 もうそろそろ、天皇教の呪縛(明治維新がつくった「一世一元」の元号制度はその象徴)から解放され、生き生きのびのび自由、意味充実の人生を歩もうではありませんか。日本主義(天皇教=国体思想)からのコペルニクス的転回が必要です。豊かな一人の人間になろう!

 

武田康弘


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クルレンツィスは語ります。「未来のオーケストラとは、聴衆にエネルギーを与える生きものです」 超越的な体験、恍惚感と愉悦と。

2019-09-18 | 芸術


写真は、今年2月11日初来日したクルレンツィス
とムジカ・エテルナ(コパチンスカヤと共に)。

墨田トリフォニーホール、演奏終了後に武田撮影。


クルレンツィスは語ります。

「ムジカ・エテルナは、ロシアで唯一の国際的なオーケストラで、仕事をするためではなく、友情でつながっています。互いに尊敬し、責任感を伴う友情です。団員約100名の国籍は12カ国。多くはコンクールの優勝経験があります。みな、工場のような管理されたオケではなく、質の高い『未来のオケ』をつくりたいという私の夢と考え方に共鳴して集まった仲間です。

 未来のオケはとは、聴衆にエネルギーを与える生き物です、超越的な体験を引き出す恍惚的なものです。恍惚感や愉悦は、工場で働くようなオケからは出てきません。友人や愛している人とだらかこそ生みだせるのです。

 

 

「わたしがギリシャで生まれたことはとても幸運です。ギリシャ哲学から多くのことを学んだことで、物事を見る特別の視点を持つようになりました。古代の哲学書を読めば、iPadやインターネットがなくても精神的に我々より進んでいた彼らの方が賢いことが分かります。」

「天才的な作曲家は時代を超越しています、すべての音楽は現代音楽なのです。わたしがやろうとしてるのは、音楽を再生産するのではなく、解釈し、夢想しながら、超越的な体験を引き出したい。それにはエネルギーが必要です。人々はなぜロックコンサートで熱狂するのか。演奏者が感じているエネルギーが聴衆に伝わるからです。教育で無菌化された学者のような音楽家が奏でるのは、音楽の内部ではなく、音符に過ぎません。クラシックの音楽家はダンスのステップさえ知りません。」


(以上は、2月の初来日のプログラム(定価1000円)より抜粋したもの―編集責任は武田にあります)

ユーチューブの新しいものですが、オケは、南西ドイツ交響楽団(クルレンツィスの上記の理念に共鳴して音楽監督に迎えた)です。ショスタコーヴィチ交響曲7番「レニングラード」から3分11秒

 
これは前のものですが、なんと空港でフィガロの結婚序曲を演奏!! オケはムジカ・エテルナで、指揮は仲間(お弟子)のエメリャニチェフ

 

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千葉災害ー自衛隊の活動が少なすぎ。何のための自衛隊なのか?9条のある国では、災害救助+復興支援が最大の仕事であるべきです。

2019-09-18 | 社会批評




千葉の台風被害が深刻ですが、自衛隊の活動が少なすぎます。


戦争をしない国であるはずの(それを覆すのが安倍晋三の最大の願望だが)わが日本国で、自衛隊の現実の仕事は、その最大のものが、災害救助であるのは理の当然です。

多くの隊員を擁する自衛隊という組織は、災害救助のために最も役立つ組織です。

あまりにも活動が少なく、高い税金でつくられている組織が、現実に役立つことが少ないのでは、組織の存在理由がありません。

対中国や、対ロシアの戦争シュミレーションを業務としているのは、マンガ(空想)のレベルの仕事でしかなく、現実にドンパチやる戦争など起こるはずのない(こちらから仕掛ければ別ですが)事態のために多額の税金を投入しているは、あまりにも愚かです。

災害救助と復興支援のために頑張る、それが、ほんらいの国土と国民を守る最大の仕事となります。空想や戦争ゴッコではなく、現実の仕事をしっかりする、という意識改革が求められます。

政府関係者は、妄想(ボケた頭)から覚め、真面目に仕事を行わなくてはなりません。

自衛隊の各駐屯地は、全力で千葉災害のために現地に赴くべきです。仕事量が少なすぎます。




武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)


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第九の歌詞の意味(ベートーヴェンの思想)がよく分かる本で、とても有益です。著者はドイツ人=マンフレッド・クラウス「交響曲『第九』の秘密」(ワニブックス)

2019-09-16 | 書評

 著者は、ベートーヴェンがシラーの詩をもとにしてつくった歌詞のドイツ語の意味を明瞭に教えてくれます。

 

「ベートーヴェンは、わざと『歓喜の歌』の歌詞に、キリスト教の用語を使っていません。

なぜなら教会権力が都合よく利用し、人々を依存させるとわかっていたからです。彼は、キリスト教がなくても、真の幸福をつかむことが可能で、聖書や教会がなくても、自然の中や私たちの心の中に神を見つけられると考えていました。」とのことです。

歓喜よ、

麗しき神々の火の粉よ 

「ここで神ではなく、神々と複数形にしているのは、驚くべきことで、一神教であるキリスト教においては、神は一なる存在だからです。ベートーヴェンは、古代ギリシャ神話から多くを借りて作詞しています。キリスト教に対して自由に発言できなかった当時、堂々と神々とした勇気を、わたしは心から感服します。」

 

「そもそも「罪」(人間の原罪)とはキリスト教の教会がつくりだした産物です。」

「古臭い社会秩序やルールからまずは、自分自身を解放すること。内なる声を聞いて、心の革命を始めること」
「他人に振り回されずに、素直に自分の心に従えば、結果はとても素晴らしいものになるでしょう」
「ベートーヴェンは、さらに一歩進み、他者を助けることから生まれる幸福は、世俗的な幸福ではないと言っています。それは「聖なる幸福」と呼べるもの。」

 

 このようなベートーヴェンのメッセージの意味を知れば、より深い感動がやってくる、と著者は言います。


 第九を聴く人、歌う人は、ぜひ読んでみてください。また、第九と日本との深い関係についても記されています。 
 叙述は、平明・簡潔です。著者がはじめから日本語で書いた本です。

 

 

 武田康弘

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首相の親友の加計さんに獣医学部を新設させる。そのために暗躍した人物を文科省の大臣とする。安倍一族の国家の私物化に拍手を送りましょう。写真付き

2019-09-15 | 社会批評

 どんどん安倍体制が強固となり、共産圏に似てきたわが日本ですが、マスコミの安倍忖度の凄さには、唖然呆然で、ああ、なんと人のいい(気弱な)人たちなのだろう、と思ってしまいます(「これほど異様な民主政国家は見たことがない」ニューヨークタイムス東京支局長)。

 いや、マスコミに誘導されているとはいえ、日本人全体がひ弱なのですね。権力には従順で、韓国や中国を悪者にして溜飲を下げる=ストレス解消をするのが精一杯のおじさんたち、否、若者たちも(呆)



 中年世代が、自ら進んで「安倍万歳!国家万歳!」というネトウヨと呼ばれる存在になり下がっているのには、呆れ返ります。真正右翼の方(明治維新が破壊してしまった日本ほんらいの伝統を重んじる方)、ガツンと言ってやってください。
 大阪の「日本会議」代表で、安倍首相万歳=教育勅語万歳(天皇教)だった篭池夫妻も、今は、その思想と行為の間違いを反省し懺悔して、新たな道を歩みだしています。夫人がFBを始め、いろいろと書いています。みなさんもいい加減に目覚めなければ恥ずかしいです。

 それにしても、首相の親友(首相と近親者ー祖父は共に岸信介との情報もあるが確証はない)の加計孝太郎さんに獣医学部を新設させるために、文科省を抑えるために特区を新設してまで頑張った安倍首相、その影武者=萩生田光一(元加計学園大学の客員教授)をなんと文部科学大臣にするとは!!さすがに権力万全の安倍晋三、すばらしい快挙で、天晴れ! 保守政治家を名のる立憲民主の枝野さんはなめられっぱなしです。警戒しているは、ただ一人、山本太郎でしょう。世論調査でれいわは、国民も公明も共産も抜いて第3党です。発足半年足らず、2名の参議院議員しかいない政党なりたてのれいわの支持率は驚異ですが、官邸には脅威と映ります。NHKも忖度してテレビ出演させない方向で動いているようですが、もしそうなれば、日本も共産圏のようです。


以下は、今朝の東京新聞です。前文科省トップ(事務次官)の前川喜平さんが書いています。


 

5年半前2014年4月7日の加計学園親睦会(高輪で行われた「花見の会」)の写真です。



この2014年の集合写真は、いかに安倍家と加計家が親しい間柄か(首相と加計幸太郎さんの祖父は岸信介との情報もありますが確認できません)をよく見せてくれます。また、政権と加計学園の距離の近さも分かります。

安倍首相の母の洋子さん、夫人の昭恵さん、首相の実弟=岸信夫 夫人の香子さん、
加計幸太郎の母と、夫人の泰代さん、夫人の母の浜田マキ子さん、
首相の親友で、当時の文部科学省大臣の下村博文夫人の今日子さん、役者が揃い踏みです。
ーー安倍昭恵さんと下村今日子さんは、ともに加計学園で働いていましたーー

安倍首相は「獣医学部新設で、加計さんが名乗りを上げているとは知らなかったー知ったのは平成29年1月のこと」と国会で話していましたが、
それを信じられる人はいないでしょう。ちなみに平成29年は2017年です。


自信満々、強気の安倍首相は、それゆれに墓穴を掘ることになるのでは? いろいろ
証拠がありすぎです。国家の私物化を平然と行う総理大臣とは恐れ入りますが、森友の時も、公費で夫人に秘書を5名(常設は2名で官僚)もつけて、夫人は私人と閣議決定したのですから、もう言葉もありません。私人である夫人に公費で秘書(省庁から派遣)をつけたのでは、公金横領になりますが、知らん顔でした。デタラメ内閣です。




武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員)

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縁を自覚しない人生は、平板であり、不幸です。忘恩の人になります。

2019-09-14 | 学芸

 抽象的に「みなさまのおかげで」と言う人は多いが、
では、具体的に、いま自分があるのは? 直接的な縁、大元の縁は誰か、何か、を自覚して生きる人は少ないようだ。
いま自分がしていることは、何をキッカケに、誰の影響で、どのようにしてはじまったのか? なぜ続いているのか、あるいは切れたのか。

 いつもそうした縁を考えて発言し、行動することは、極めて重大だ。よく生きるための基盤と言える。縁をたどれば無限だが、誰のどのような発話や行為により○○が始まったのかを意識することがないと、夜郎自大の人間に堕ちる。
 そうなると、善美とは無縁となり、公平・公正は体裁=形だけとなり、毒々しい自我欲望を湧出する人間となるが、本人はそのことに無自覚なため、処置なしとなる。

 できるだけ金品を自分のものにする、できるだけ権力を自分のものにする、できるだけ自分を偉いものにする、それがその人の生きる意味=価値となる。 本音としては利害損得が一番であり、イデーをつくり育てるとは無縁、善美も公共も言葉だけ、よき意味も価値もない時間をいたづらに生きる存在に堕ちる。

 それは、その人が話し書く言葉ではなく、その人が実際にしていることに現れる。

 縁の自覚化は、何よりも一番必要で大切。無限の縁をすべて自覚することは不可能だが、直接の、大元の「縁」はなにか?の自覚は誰もが持っているので、反省すればすぐに分かる。自分を自分で騙(だま)す自己欺瞞に陥っていない限りは。

 あなたの言う言葉ではなく、あなたの行為、実際の小さな行為の一つひとつにあなたの存在のありのままがあぶり出しになる。
 縁を自覚しない人は、忘恩の人となり、平然と恩を仇で返す人へと堕ちる。恐ろしいことだ。

 

 ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)の修行の果ての悟りは、すべては縁により起こるという「縁起の法」ですが、ここでブッダの言う「縁」とは、無限のつながりであり連関であり出会いであり、突然であり慢性であり、偶然であり必然であり・・・言葉による定式化の困難な「縁」により「実体」と思われているものはつくられていて、固定した実体は存在しないと看破したのでした。ずっと後に竜樹はそれを「空」と呼び、色即是空・空即是色として説明しましたが、一言で「縁」と言い切ったブッダの卓越にわたしは感心します。

 その意味での「縁」とわたしの言う「縁」とは同一とは言えませんが、上記の私の思想は、やはり「縁」という言葉がピタリで、他の言葉には置き換え難いものです。



 ※ 以上は、9月11日(水)の「恋知の会」でお話ししたことです。



武田康弘

 

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弱者救済が政治の核心、この前提がない政治は、反民主主義にしかならない。安倍とは諸悪の代名詞。

2019-09-12 | 社会思想

弱者救済こそが政治の核心だ、という強靭なイデーが前提としてあり、その上にはじめて対話も討論も成り立つのです。

 

そういう明確なイデーがないまま話し合えば、形式民主主義に陥り、必ず、金持ちや社会的強者(地位ある者)の有利に陥ります。

 

そうなら、政治は、政治屋さんの職業=喰うための仕事に堕ちます。

 

社会的弱者を助けるという大前提=強いイデーがない政治は、ただの権力支配の道具にしかならないのです。この原理を弁えないインチキ政治家=政治屋さんで溢れるのが今の日本です。

 

山本太郎一人に人気が集まるのも当然です。

 

台風の大災害ー大停電の悲惨などおかまいなしの政治ショー=内閣改造で支持率アップ!というのが安倍自民党の赤裸々な姿です。

 

憲法順守義務がある筆頭の総理大臣が、憲法改定の音頭を取る、それ自体が最悪の憲法違反ですが、そういう愚か極まる言動が許されるのが、わが日本という国です。元からアウトです。


武田康弘


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天皇家のみなさま、江戸城に住み続けるのはよろしくないと思います。元々天皇家の財産ではないのですから。

2019-09-09 | 社会思想

 天皇家は、薩長同盟による革命=明治維新に利用され、同調し、利害を共有しましたが、
それにより、まったく縁もゆかりもない江戸城に住む(住まわされる)ことになりました。150年前のことです。

 皇族は神の系譜であり、天皇は現人神(生きている神)と規定され、そのように遇されました。
全国民は、臣民と呼ばれ、軍隊は天皇の軍隊=皇軍と言われました。国民=臣民は天皇の赤子とされました。

 日本人は、政府=国家権力により天皇の下に拝跪させられましたが、国民は好んで天皇に拝跪したとも言えます。天皇教という宗教(国家宗教)ですから、信者である国民は、自ら進んで天皇に帰依して自分を差し出したのでした(今も世界に一カ国だけ残った「元号」を有り難がり、令和令和と喜んでいるのですから、天皇教は健在ともいえます)。

 自分自身を拠り所にせよ、というブッダ=釈迦の思想とは逆に、天皇を拠り所にするのが日本人のようです。今でも公的に天皇・皇室制度を批判することは許されませんので、テレビも新聞も天皇礼賛のみで、本来の思想の自由は、日本という天皇主義の「官僚王国」(ギリシャ史家の村川堅太郎の言葉)にはありません。野党第一党の立憲民主党も、基本政策を「令和デモクラシー」と呼んでいます。


 いまだに江戸城に住み続ける天皇家では、道徳に反してしまいます。

 1945年9月2日に降伏文書にサインして、無条件敗戦をし、

主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をして、明治憲法(「大日本帝国憲法」)から日本国憲法に変わり、昭和天皇が「人間宣言」をして現人神(あらひとがみ)ではなくなった後もまだ、赤の他人である徳川家の居所=江戸城に住み続けているのでは、誰が見ても「不道徳」と思います。国民の公園として、日本国民の共有財産とすべきではないでしょうか。

 天皇家は、ほんらいの住まいである京都御所に戻らなくていけないはずです。それは理の当然でしょう。権力で奪えば正当というのでは、人の道に外れてしまいます。

 天皇家のみなさま、きちんと考えてください。不道徳はいけませんので。


武田康弘


以下は、fbのコメントですがその通りと思います。


  • 菅沼緑 GHQは天皇を裁判にかけるよりも、象徴の役割を担わせて、人々の精神的なシンボルとして存続させることにしたと言いますが、それは、明治以後の主権天皇を温存することにも結果的になってしまったのではないでしょうか。
    そして、日本人の精神構造もなに一つ変化を為し得ず、根底も同じままだという気がします。
    現在の皇室典範というものの成り立ちを一つも知りませんが、これとて、戦後改定されていたとしても、おそらく戦前と変わったのは、現人神ではないということくらいで、扱いはまんまなのでは。
    皇族たちの生活は庶民のそれとはかけ離れた、実体など想像も及ばないことで、目も手も届かない遠くの存在として、現人神に近い尊き人々としてあることで、庶民は逆にありがたき存在として敬いざるを得ないことになったのではないでしょうか。
    そうしたことが、日本人の精神構造を金縛りに押さえ変化のひとつも許さなかったことが、私などからすれば全てが間違いだったと思います。
    皇室典範というものを解体するべきだと思うのです。

 



 

 



 

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旭日旗をあげましょう! 安倍政府の後押しで、強い日本の再興です。アジアのトップは永遠に日本です。米軍との一体化(アメリカの属国化の徹底)で怖いものなし!

2019-09-06 | 社会批評

 旭日旗をあげましょう~~ 安倍政府が後押しする旭日旗は、強いニッポンの象徴です。米軍+日本軍でアジアを支配するために、みなで力を合わせよう~~

 

 いよいよ戦前の日本、薩長、とりわけ長州藩のつくっ天皇陛下万歳!思想で、アジアの領主となったわが日本帝国=皇国ニッポンの再興の時です。 首相の中心ブレーンで「反人権」を謳う(ちくま新書「反人権宣言」)八木秀次麗澤大学教授の教育改革の断行で、こどもたちに愛国心を植え付け、厳しい躾で大人の言うことに従うこどもをつくるのです。政府=国家に従順で、分を弁えた言動をする日本人を育てます。
 

 北欧に見られる個人主義は、すでに破綻し終わっています。おぞましい国家しかつくりません(八木教授のお言葉)人権=個人主義というすでに命を終えた欧米思想を元から廃して、わが日本は、天皇陛下を中心にして全国民が一つにまとまるのです(八木教授のお考え)。共産主義者もアナーキストも天皇陛下万歳と言い、一世一元という明治政府が拵(こしら)えた元号を用い、令和令和と「一世一元」の元号を尊重すれば、みな存在が認められます。ウヨクもサヨクも合唱しましょう!!

 

 西洋カブレの西暦などは二の次です。わが我孫子市の星野市長も率先して、元号=令和優先です。立憲民主党も、「令和デモクラシー」と元号優先思想ですので、存在が認められ、それなりに大事にされます。党員もよい地位につけます。めでたしめでたし。天皇陛下のおかげでみな丸く収まります。 

 だから、わが国体国家の最大の敵は、フィロソフィー=実存思想です。個人の考える力に立脚し、「感じ、想い、考えるわたし」を拠り所にするとか、それを座標軸にするという「恋知」を提唱する輩こそ、わがニッポン国の最大の敵であり、障害物です。あの池上彰も天皇、元号、令和を称賛しているのに、そのわが国家の絶対方針に異を唱えて、「共和制へのスムースな移行」を訴えたり、ほんらいのフィロソフィーにつくことを勧め、ソクラテス・ブッダ・老子の態度と発想に学ぼうと主張する「恋知」とは、許しがたい反維新であり、反国体であり、反靖国であり、反神道であり、反軍国です。非国民そのものです。

 

 最後に再度、皇室敬愛  天皇陛下万歳!

 旭日旗を掲げよう! 国民一致のわが天皇制国家よ永遠なり! 皇紀皇統を守れ!(血のつながりは切れてはいるが、そんな事実はどうでもいい、「永遠に続くDNA」という思想こそ真実、事実と真実は違う!)われはアジア一の国。アメリカ軍と一体化して、アジア最強国家の復活のために、一億一致だ。天皇制度を批判する非国民をみなで排除しよう。アラを見つけて、撃沈するのです。 


 ということですが、みなさま賛同されますか?





武田康弘

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明治維新の呪縛が解けないと永遠に不幸です。半藤一利さんと出口治明さんの対談『明治維新とは何だったのか』は開明的な本です。

2019-09-03 | 書評

 日本の近代化は、明治維新の思想=天皇教の下に行われたきましたが、それは、過激な国家宗教による超急速な近代化でした。                  

 生きている人間を「神」とする思想(今の言葉ではカルト宗教と呼ぶほかないでしょう)を国家権力を用いて学校教育で全国民に徹底させたのですから、その威力は凄く、全体を一つにまとめあげました。ですから、天皇中心の国体思想とは相いれない《個人の自由な考えを基盤とするフィロソフィー・ブッダの根本思想-「自帰依・法帰依」も根源的なフィロソフィー=実存思想》は、日本では嫌われ避けられたのでした。              

 維新政府によって行われたスサマジイ歴史の改ざん=「全日本史を天皇の歴史にする」という負の遺産は、いまだに清算されていません。わたしたちが学校で習う日本史は、「○○天皇」の時代!?とされていますが、天皇という呼び名は、平安時代初期の村上天皇までで、その後江戸時代後期まで800年間以上は、天皇と呼ばれた人はいませんでした。京都のローカル王となり実権を失ったからです(光格天皇から復活して現在まで240年間は「天皇」の称号が使われてきました)。しかし、今日でも教科書はみな○○天皇と記載してます。そのこと一つが象徴するように、日本の歴史像はひどく歪んでいて、今もなお、わたしたちはその中にいます。                 

 話が大きくなりましたが、少なくとも明治維新を礼賛するような歴史の見方から解放されないと、いつまでも薩長(とりわけ長州藩)による日本支配の思想=天皇教=国体思想から抜けられません。その象徴である「一世一元」という明治政府が天皇中心主義を国民に刷り込むために作った深謀遠慮(かつて日本の歴史に一度もなかった新たな制度)は、今もなお強力な力を放っていますが、ある人間と時代名を一つにする古代国家の思想を持っているのは、世界でただ一カ国です。「昭和時代」とか言いますが、天皇と呼ばれる人が現人神で主権者だった時代も、主権者が国民となる大転回となり人間宣言をした後も同じ昭和という時代だと思わせる「天皇刷り込み」が可能なのは、「一世一元」のおかげです。

 

   この呪縛を解くには、俯瞰的に歴史と人物を知る視点が必要ですが、日本の近現代史では最も名の知れた半藤一利さんと博学博識で知られる世界史家の出口治明さんの対談本『明治維新とは何だったのか』-世界史から考える は、とても平明で、納得の見方を提示しています。呪縛を解き、人間味豊かな生(「形と序列」の二文字に収まるような文化を超えて)を日本の地に花咲かせるために役立つ優れた本と思います。

 まずは、開国をなしたのは、明治維新側ではなく、江戸幕府=阿部正弘であり、開国に反対したのが維新側であったという「常識」くらいは弁えないと、話になりませんし、偶然により「小粒」な人間であった伊藤博文や山県有朋らが中心となった明治政府の所業を知らないのは、不幸です。嘘や歪んだ常識に囚われていては、未来は開けません。

 開明的な俯瞰のための必読本と思います。楽しい公共社会をつくる共和制への移行のためにも。




                        
 武田康弘



 


 

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