わが日本とは「集団ヒステリー」の国ではないでしょうか。
すべての価値意識が一本で、片道通行、特高(変換ミスだが意味ありげ)特攻隊の精神です。
どうでもよい暗記テストの勝者=がり勉君が頭がいい!?と言われます。
このバカバカしさを明晰に認識している人はとても少なく、「東大生は頭がいい」と信じ込んでいるようです。
わたしは、彼らを教え、また東大教授の幾人かとお付き合いをしてきましたが、意味論=本質論のレベルで頭がいい人など誰もいませんでした。情報収集と整理・パターン暗記は得意です。しかし、それらはみなAIで可能な領域の話でしかありません。彼らのもつ論理は、見事なほどみな「形式論理」でしかないのです。しかし、彼らは、それが弁証法的で立体的な論理ではないこと、ほんとうに現実的で意味のある論理になっていないことに全く無自覚です。却って、形式論理の固い枠組みを保持して緻密化する自分の思考を、「優れている」とさえ思い込んでいるのですから言葉がありません。
そのようなタイプの頭脳を崇拝するのでは、国は滅びてしまいます。数学科を出て司法試験に合格した破格の元検事・郷原信郎さん(東大卒なのに例外的な頭脳・笑)はわたしと意見があいますが、「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)という本で形式論理に過ぎない官僚やマスコミ人たちへの根源的な批判をしています。
ほとんどの場合、事実学をため込んでいくと固くて使えない頭になりますが、その融通の利かないダメな頭脳の持ち主を「エリート」としてしまう国は、愚かで救いがありません。臨機応変や当意即妙という世界とは無縁です。規制枠の中だけで考え、生きるのです。
日本の基準で言えば、近代西洋哲学の祖・デカルトは怠け者・変わり者でしかないですし、近代民主制のアイデア=社会契約論のルソーは、不良の恋愛小説家でしかありません。20世紀最大の天才といわれるアインシュタインは落第生の落ちこぼれに過ぎません。日本人の場合でも、小説の神様と言われた志賀直哉は、学習院で親友の武者小路実篤と成績ビリを争い二度も落第しています(ただし当時は、文科ならば学習院から東大へは無試験で全員進学できましたので、二人とも東大です・中退)。世界で一番知られている作曲家の武満徹は普通高校卒で音楽教育は受けていません(唯一の師の清瀬保二も独学です)。小沢征爾は、斎藤秀雄の私塾のような短大(桐朋大学の一教室を間借りした桐朋短大)の卒です。
人間管理主義(その根は「形式論理」という頭の構造にあります)の息詰まるような現状を変えるには、知的教育のありようを根本的に変えることが必要ですが、駅前進学塾がはやり、東大○○名合格がセールスポイントになるのでは、これを変えるのは至難です。
(※なお、今盛んに歪な形式論理を振り回すのがネットウヨク(リベラルな人を指して「反日」と言う)と呼ばれる安倍政権支持のグループです)
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以前に参議院調査室から依頼されて書いた論説文から、その一部分を以下に載せます。
わたしは、わが国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」と名づけていますが、これは、哲学的に言えば客観学への知の陥穽といえます。日々の具体的経験に根ざした主観性の知の追求がないのです。日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。
また、これと符合する、クイズの知・記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。
人間の生についての思索をパスし、主観性の知を中心に据える努力を放棄すれば、後は客観学の集積を自己目的とするほかなくなりますが、それでは知は生のよろこびとは無縁となり、かえって人間支配の道具になり下がります。生々しい人間の生と現実までが、既成の知と固い概念主義の言語の枠内で管理される対象に貶められてしまうわけです。そのような管理を公(おおやけ)として人々の上に立って行うのが東大法学部卒の官僚である、というのが明治半ば以来100年以上に亘ってキャリアシステムを支えてきた暗黙の想念でしょう。この非人間的な想念は、わたしが「東大病」と呼ぶ客観学への知の陥穽と表裏一体をなし、堅固な序列主義とステレオタイプの優秀者を生みました。
明治の国権派であった山県有朋らは、自由民権運動を徹底的に弾圧し、天皇神格化による政治を進めましたが、「主権者=天皇」の官吏として東大法学部の出身者を中心につくられた官僚制度は、客観学の集積によってふつうの人々の「主観性の知」を無価値なものとする歪んだエリート意識に依拠しています。その意味で、天皇教による近代天皇制と、キャリアシステムに象徴される官僚主義と、受験知がつくる東大病は三者一体のものですが、人間の生のよろこびを奪うこの序列・様式主義は、明治の国権派が生んだ鬼子と言えます。
現代の市民社会に生きるわたしたちに与えられた課題は、民主主義の原理に基づいて国を再構築するために、いまだに清算が済んでいないこのシステムを支える想念を廃棄していく具体的努力です。客観学の知による支配を打ち破ることは、そのための最深の営みなのです
読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。
従来の日本の教育においては等閑視されてきた「主観性の知」こそがほんらいの知の目的なのですが、この手段と目的の逆転に気づいている人はとても少ないのが現実です。そのために知的優秀の意味がひどく偏ってしまいます。
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武田康弘