いつも戦争の米国は、原爆投下への謝罪と反省いまだなし(憤)。日本政府は天皇裕仁が下した原爆容認に従い、米政府の傀儡。トルコの故ナーズム ヒクメットとファジル サイは「ナーズムオラトリオ」(1時間20分)で不退転の戦い=広島の死んだ少女への深い哀悼は、全世界が感動。URLを貼る。
「わたしが生きたと言えるために」
ファジル・サイ賛 ピアノ演奏と「ナーズムオラトリオ」
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いつも戦争の米国は、原爆投下への謝罪と反省いまだなし(憤)。日本政府は天皇裕仁が下した原爆容認に従い、米政府の傀儡。トルコの故ナーズム ヒクメットとファジル サイは「ナーズムオラトリオ」(1時間20分)で不退転の戦い=広島の死んだ少女への深い哀悼は、全世界が感動。URLを貼る。
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恋愛や芸術(音楽、美術、文学・・)やフィロソフィー(恋知)は、目的であり、何かのためという手段ではありません。だからソクラテスは、恋知者(哲学者)とは、「恋に生きるエロースの人」と定義したのです。キリスト教ではエロースを邪とします。ほんとうは二律背反ですが、ギリシャの知を換骨脱胎してつくったのが西欧のキリスト教思想です。騙されないように。
プラトン著のソクラテスの対話編「パイドロス」をお読みください。岩波書店のプラトン全集では、共に傑作の「饗宴」と一緒になっています。文庫版とは訳者が異なります。入手可能なら全集版をお勧めします。脚注もあり、理解が深まります。
Amazonなどで中古が買えるでしょう。
武田康弘
小学生の政治クラブ(文京区立誠之小学校5年6年)以来、60年間、憲法大改正=天皇制をやめて、日本共和国にすべし、と言い続けだが、いまだそういう政党さえない。恐ろしいほどイカレタ日本という幸福をつくらない国。超特権者を人権はく奪してつくり、その前に拝跪する。病気の国です。
武田康弘 哲学者(恋知する実存者)
「ナーズムオラトリオ」 ファジル・サイ作曲 2001年初演(トルコ大統領も列席)クリックで飛びます。
「ナーズムオラトリオ」で、ナーズムヒクメットの詩を朗読したトルコを代表する演劇人=ジェンコ・エルカリさんがお亡くなりになりました。心より哀悼の意を捧げます。
ファジル・サイ作曲とピアノ 「ナーズムオラトリオ」は、世界を変える実存思想によるオラトリオです。広島の少女への深い思い。
ジェンコ・エルカリさんの棺をみなで盛大な拍手で送り出していました。
武田康弘
日本人を超えた日本人! ただの造形美を突き抜けて「生きている命の瞬間」を摑まえた稀に見る天才、木内克(きのうち よし)の美術展が、水戸市立博物館で開催されました。2年前ですので、再度を希望します。
題して「いのちのかたち」 こどもたちに、ぜひ見せたい。型ハマりの日本の教育とは対極の木内克(きのうちよし)の彫刻は、既成秩序に風穴を開けてくれる生きた造形です。ブラボー!!
以下の写真は、飛ぶエロース(ルーブル美術館のラコステ人形)と共に、恋知のシンボルである木内 克 制作の女性像レリーフ。
武田康弘(タケセン)宅所蔵の限定60部のうちの16番です。
武田康弘
(2004年の演奏会の会場は、イスタンブールの古代円形劇場)
2001年初演のファジル・サイ作曲「ナーズム・オラトリオ」は、ベートーヴェンの第九以来の人類的な普遍性をもつ曲・詩(うた)でしょう。
魂を震わせるこの1時間20分は、ヒロシマにアメリカが投下した原子爆弾で死んだ少女の主題が繰り返されます。名もなき少女の純粋な魂を詠んだナーズムの詩 「・・・・・あなたにお願い 紙切れみたいに燃えたわたしは 戸をたたくのはわたし みなさん署名をどうぞしてちょうだい 炎が子どもをやかないように 甘いあめ玉をしゃぶれるように 」(最後に全文を載せておきます)につけたサイのメロディーが繰り返し流れます。オーケストラと歌手と少女によって歌われます。心の奥深くに染みわたり震えます。
ナーズム・オラトリオには、現代曲のもつ難しさがまったくありません。親しみのある分明な曲です。第九の主題が極めて簡明なメロディーであるように、少女の主題も極めて簡明です。なお、この「少女」は、日本でも清瀬保二ら数名により作曲されています。
強く激しい行進曲は、人間のもつおぞましさを吹き飛ばすパワーで圧倒します。快感と感動をもたらし、幾度でも聴きたくなります。少女の歌とともにわたしは毎日聴いています。また、通常のオラトリオと違い、長老による語りが長く、その表現力が凄くて引き付けるのです。釘付けになります。
2001年の初演にはトルコ第10代大統領アフメト・ネジデト・セゼルも列席し、また2004年イスタンブールの古代円形劇場での演奏会は、YouTubeで104万回再生されています。2016年の演奏は高解像度・高音質で録画録音され、今年2024年にYouTubeで見れるようになりました。
fazıl say nazım oratoryosu で検索
共産主義者ということで都合17年間(求刑は35年)もトルコの獄中で過ごしたナーズムは、ソビエトに亡命した世界的な大詩人で、ナーズムを解放せよという運動は、フランスのパリでサルトルらにより始められ、ソビエトはもちろんアメリカなど西側諸国にも広がりましたが、最愛の夫人と子どもとはむごいことに1年間しか共に過ごすことかできなくて、再度ソビエトに亡命し、モスクワで1962年に死去しました。トルコ文化庁は、詩人への贖罪の意味で、桁違いの天才ファジル・サイに「ナーズムオラトリオ」の作曲を依頼したと推察されますが、わずか30才のサイは、共感する詩人の魂=イデーに導かれて、迷いなく強い思いで作曲した為に、稀にみる名曲となりました。(追記・後日分かりましたが、ナーズムの詩に少年時代から親しんでいたファジル・サイが、ナーズム・ヒクメットの詩から16篇を選び、オラトリオにしたとのことです)。
ナーズム(1901-1963)の詩を読み、生涯を知ると(生まれは上流階級で貧民への強い同情と政府への憤り)、彼は、思想的には実存論者で、主義としては、「人間主義=自由主義の共産主義者」といえると思います。一人の少女への深い追悼が、アメリカをはじめとする世界の国家主義・軍国主義を圧倒するのです。実存は世界に先立つのです。組織・国家ではなく、人間、一人ひとりの人間が黄金や権力や権威を上回るのです。ブッダの中心思想=天上天下唯我独尊(誰もが我一人尊い存在として生まれてきた)と重なる人間主義(神ではなく人間)の徹底です。
トルコでは各地で繰り返し演奏され、国民的な曲となっているようですが、このオラトリオは、世界で人類的な曲として繰り返し演奏されるべきものとわたしは確信します。(クリック)
( ファジル・サイは、かつて娘を幼稚園(保育園)に送り迎えし、学芸会では、バレーにサイが伴奏をかってでたとのことですが、生活世界からもたらされる想念がこの曲を支えているのかもしれません。)
ナージム・ヒクメットは、日本語版の「ヒクメット詩集」の冒頭に、「日本の読者の皆さんに」として以下のように書いています。共感・共鳴します。
「私の考えでは、建築から舞踊にいたるあらゆる芸術がまず第一に人間に役立つものです。パンのように、住居のように、リキュール酒のように、くさぐさの革命の唄のように、祭日のように、人間に役立つものです。今世紀の技術の発展は、世界の人々が詩を読み、理解し、愛することができるようになるための土壌を準備し、それをじっさい可能にしているからこそ感嘆するの値することだと私には思われます。もし、技術、社会的な革命、人々の生活水準の向上がこのことに奉仕しないならば、だとすればそれらのことは私にはまったく無意味です。」
(作曲とピアノ ファジル・サイ)
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現在、日本語で読めるのは以下の2冊です。
上は、2002年刊(旧版は1963年刊)
下は、2020年刊
世界中で翻訳されていますが、トルコで出版が許可されたのは、死後十数年経った1970年代後半です。
少女 ナーズム・ヒクメット
開けてちょうだい たたくのはわたし
あっちの戸 こっちの戸 わたしはたたくの
こわがらないで 見えないわたしを
だれにも見えない死んだ女の子を
わたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 10年前に
あのとき七つ いまでも七つ
死んだ子はけっした大きくならないの
炎がのんだの わたしの髪の毛を
わたしの両手を わたしのひとみを
わたしのからだはひとつかみの灰
冷たい風にさらわれてった灰
あなたにお願い だけどわたしは
パンもお米もなにもいらないの
あまいあめ玉もしゃぶれないの
紙きれみたいに燃えたわたしは
戸をたたくのはわたし
みんさん、署名をどうぞしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉をしゃぶれるように
(1955年)
武田康弘
訂正・追記
再度、確認しましょう。
ウクライナのアメリカ政府CIAによるクーデター後の反ロシア政権とウクライナ軍、アゾフ隊による蛮行を。
2016年にフランスのジャーナリストが制作したドキュメンタリーです。
https://www.youtube.com/watch?v=ln8goeR5Rs4
音楽の友社版1962年 新潮文庫版1980年
わたしは、ソクラテス教室(白樺教育館)の旧称「我孫子児童教室」で、1976年から数年間にわたり若き小澤征爾が書いた「ボクの音楽武者修行」を、小学6年生の授業の一部としての「読書会」で使っていました。ずいぶん昔の話です。
それは、《音楽の友社》から出ていた本で、飛び入りでブザンソンの指揮者コンクールを受けて優勝した前後のエピソードを記した青春物語です。師の斎藤秀雄からマンツーマンで音楽原理と指揮法を教えられた小澤の快進撃は実に面白く、こどもたちに夢と勇気を与えます。まだ世界的には何者でもなかった若干26才の小澤の語りは、覇気に富み心躍るもの。
若き音楽家が書いた大変珍しい本書は、版を重ね、1962年初版から18年後の1980年には《新潮文庫》の一冊に加えられ、今もなお読み継がれていますが、この時、わたしは、ある重要な箇所が削除されているのを見て、ひどくガッカリしてしました。その時以来、本書は教材に使っていません。
音楽の友社版では、以下のように書かれています。
≪カラヤンの弟子になる の小見出しの 151ページから152ページ≫
「 レッスンになると、カラヤンは指揮台の真下の椅子に腰かけて、ぼくらが指揮しているのを、じろっと睨むように見ている。ぼくは睨まれると、カラヤンの音楽そのものを強要されるような気がした。そこで考えた。こんなことをしているとカラヤンの亜流になってしまう。カラヤンなにくそと思って、ぼく流の音楽を作らなければいけないと固く心に誓った。
しかし一方、カラヤンは教えることに非常に才能があった。・・・・・・」
新潮社による文庫本は、本文は全体としては同じなのですが(音楽の友社版そのままの文庫化)、驚くことに上記の青字の部分(本では3行分)が削除されているのです(165ページから166ページ)。
若き血潮ほとばしる小澤のこの決意の言葉=が抜け落ちた文章を通読すると、当時、楽団の帝王として大きな政治力をもっていたカラヤンへの賛美だけとなり、平板で面白味がないだけでなく、小澤の見方と決意=【魂】が消されて、全体はまるで別物の印象となります。
さらに、ここで使われている写真の説明文も変更され、
「カラヤンの指揮でベルリン音楽祭の幕は切っておとされた」という音楽の友社版の事実説明は、
新潮文庫版では、「カラヤンの人気はヨーロッパ全体でもすばらしい。」と賛美の文章に変えられています。
「あとがき」の江戸京子さんとのことを書いた6行の削除は、音楽内容とは関係のないプライベートの話ですので許せますが(これも本来は削除すべきでない)、この変更は、なにかあまりに政治的な臭いがして興ざめです。
小澤征爾さん、今からでも、当該箇所を元に戻されてはどうでしょうか?
もう、三十数年も前のことですが、インターネット時代になり発信が可能となりましたので、長いこと胸につかえていたことを書きました。
武田康弘
' わたしは、君にほとんどマンツーマンで(直純くんなどもいたが)わたしの考案した指揮法を伝授したが、よくそれをマスターし、「まだ第九を教えていないからダメだ!」と言って、君を引き留めたが、君は、貨物船に乗って(富士重工から借りたスクーターを積んで)フランスに渡ったね。
まったく無名の君は、音楽大学を出ていない(わたしが桐朋大学の一室を間借りしてつくった短大など誰も知らなかった)というのでパリの日本大使館では相手にしてもらえず、アメリカ大使館に飛び込んで、「ブザンソン指揮者コンクール」を受けることができたのだよね。その当時、世界で唯一の指揮者コンクールだったが、誰一人として知らないアジアの若者である君が優勝したのにはほんとうに驚き喜んだ。審査員たちの公平さに感謝もしたよ。それはわたしの指揮の教則が本場の欧州で認められたことでもあった(わたしは密かに自負の念を持っていたが、震えたよ)。
それからしばらくして帰国してN響(NHK交響楽団)の指揮者となったが、楽員と衝突し、君のいうことは聞けないと、演奏会当日に団員が誰も来ないという大事件(N響事件)が起きたときには、わたしは自分の経験と重なり、やはり、と思った。わたしは、N響の前身の新響のチェリストであり、指揮もしていたわけだが、音楽のイデーを明晰にしようとするわたしの言動に対して、団員が否!となり追いだされたのだった。子弟で同じ目にあったわけだ。日本では、法則とかイデーとかは嫌われるのだよ。うん、しかし、あのとき新響をやめていなければ、すべて無かったこと!
日本からの二度目の旅立ち(追いだされたという方が正確だが)の後の活躍には目を見張るものがあり、毎日早朝からの学習を欠かさない君の努力が実を結び、トロント、サンフランシスコ、ついにはボストンの常任指揮者にまでなったが、相変わらすNHKは君の活躍をほとんど伝えず、「世界で有名、日本では無名」の状態が長く続いたものだ。安永徹くんもベルリンフィルで活躍し、コンサートマスターになったのも嬉しかったが、もうそのころからは、世界中で教え子たちが活躍しだし、教師冥利に尽きたな。
さすがにウィーンの国立歌劇場の音楽監督になり、ウィーンフィルのトップ指揮者になるとは予想もできず、そうなると、もうNHKも無視するわけにはいかず、小澤、OZAWAで、音楽好き以外の多くの日本人にも知られる有名人になったわけだが、その活躍は、わたしは天国から見ることしかできなかった。斎藤キネン→サイトウキネンのオケをつくって皆が集まり、見事な合奏を世界中で披露しているのも、嬉しい限りで、感謝だ。
秋山君も東響を世界に通用する見事なオケにしてくれた(ジョナサン・ノットという強いイデーを持った助太刀もありがたい)。
もうあげればキリがないので、やめるが、一つ、話しておきたい事がある。
それは、君のつくる音楽は、音楽のイデーが弱いことだ。オペラなどは何も教えていなかった(わたし自身がよく知らなかった)のに、それを克服した努力には頭が下がるが、それはそれ。いま、わたしが言いたいのは、楽曲の理念、作曲家の思想(言葉ではなく、音楽でしか伝えられない想い)が希薄で、個々の音の美しさ、見事な音響を生みだすことが音楽の中心となり、作曲者の理念が弱まることだ。それでは聴衆を酔わせることはできるが、楽曲の核心を伝えることにはならないのだよ。
一つ例をあげれば、シュスタコーヴィチの5番「革命」の演奏だ。これを聴くと、彼が曲にこめた複雑な想いへの共感がなく、上手で見事な音響があるので、この曲の真価=意味=姿はボヤケて見えなくなるのだ。だから、感動は、精神ではなく神経と肉体にのみやってくるという結果を招いているよ。この演奏は大評判になったようだが、それは聴衆におもねて、曲の真髄を明らかにするのではなく、音響の美しさや迫力による演奏をしたからだ。彼の息子のマキシム・シュスタコーヴィチなどは、逆に楽曲の意味を明白にした演奏なので、心身の奥深くから強烈な感動がやってくるのだよ。
苦言を呈してしまい、申し訳ないが、死の瞬間まで丸くならずにいてほしい、というのがわたしの勝手な願いなので書いた。許してほしい。かって、「カラヤンなにくそと思った」と著書(「ぼくの音楽武者修行」)に書いたその言葉を、今は消してしまったようだが、それはいけないよ。モーツァルト(わたしは39番が好きだった)もベートーヴェンも君が得意にしていたベルリオーズもみな革命家で、最期まで丸くなるどころか、ますます尖がって深く大きくなったのだからね。
天国から失礼 斎藤秀雄
(すべて武田による創作ですが、事実関係に誤りはないと思います。私は小澤ファンを1960年代から続けてきましたので、よく記憶しています)
再録です。サントリーホールは1年ほど前から許可となりました。ぜひ、他のホールもよろしくお願いします。
ベルリンフィル本拠地で、指揮はラトル (2015年秋、染谷裕太君撮影) ここでは一応「No photo」の看板は周りますが、
撮影しても別段注意もされず、うるさくない、とのことです。
アムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ (2015年秋 染谷裕太君撮影) ここでもロンドンその他でも自由に撮影できました。
わたしの愛弟子の染谷裕太君は、昨年、欧州一周をした時に、ベルリンフィル(ドイツ)、アムステルダムのロイヤルコンセルトヘボウ(オランダ)、ロンドン交響楽団(イギリス)などいくつもオーケストラ聴きましたが、どこでも写真は演奏最中でなければOKで、たくさん撮り、よい記念&記録になりました。
ところが、日本のコンサートホールでは、どこも写真撮影を厳しく(うるさいほどのアナウンスと見張りで)禁止していて、呆れます。世界基準・国際基準とは異なり、日本だけは禁止とは、なぜなのでしょう。
そういえば、わたしが小学生の時から親しんできた上野の国立西洋美術館(松方コレクション)も、ず~~と写真を一律に禁止し、ジロジロと見張っていました。しかし、優美で合理性に富む美しいコルビュジエの設計の同館を世界遺産に!という運動が始まった時から(今年ようやく実りました)、特別展以外は、写真撮影は自由になったのです。そのおかげで、わたしは、同館の所有する傑作マイヨールの「夜」を優れた写真にし、いま、多くの人がわたしの写真を使用しています。
世界遺産に登録されるためには、ルーブルもオルセーも大英博物館もどこでも写真は自由に撮れるという国際標準に合わせる必要から、自由にしたのでした。なんでも禁止が大好きな日本という国の情けない現実です。【自由や個人性に乏しい後進国=日本】を象徴するエピソードです。
話を戻しますが、
わたしがコンサートホールの管理者であれば、写真撮影は自由にしますが、それは、ホールにとっても演奏者や演奏団体にとっても大いに利益になるからです。今は、みながスマホを持ち、写真を撮り、発信しています。これは、最高の宣伝になります。しかも無料でたくさんの人が宣伝してくれるのです。いま、オーケストラはなかなか満席にならず、時には世界を代表する楽器奏者でもガラガラということもあります。生写真付きで、「よかった!」がSNSで発信されるのは、大いなるCMで歓迎されてしかるべきこと。
大型機材(大型の望遠レンズやカメラ)、三脚、ストロボなどの照明器具は禁止、演奏中は禁止とし、それ以外はご自由に。というのがよいのです。日本だけは特殊でなんでも禁止という悪しき慣習はやめなければなりません。コンサートホールや美術館は公共の場なのですから、世界的な公共の常識に合致させる必要があるはずです。
武田康弘
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追加
このblogを出した後、主なコンサートホールにメールでお願いをし、直接お話しもしました。その結果、改善が進んでいて嬉しいです。ありがとうございます。
今までは、どこのホールも一律で「禁止」し「見張りを立て」写真を撮らせないことを徹底していたわけですが、それが変わったのは、小学5年生から55年間のクラシックファン(同時に写真ファン)のわたしとして、よろこびです。
コンサートホールはみなのもの、公共性の象徴ですから、節度をもち、楽しく利用したいと思います。(2018年12月7日)