武田fb
竹田青嗣とそのグループのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、恋知(love of thinking)としての哲学の息の根を止める。彼らは、西欧哲学の読解作業に依拠して「一般化の海」に沈む生を成熟としてしまう。人間の主体性を消して受動的存在へと導くために、既成価値の内側に人間を閉ざす。哲学の意味は元から消える。
竹田青嗣とそのグループのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、恋知(love of thinking)としての哲学の息の根を止める。彼らは、西欧哲学の読解作業に依拠して「一般化の海」に沈む生を成熟としてしまう。人間の主体性を消して受動的存在へと導くために、既成価値の内側に人間を閉ざす。哲学の意味は元から消える。
後藤 敦子
おひさしぶりです。いま、「主体」という言葉を使うことは禁じられている(そうです→)「学習理論」(心理学)が、教育、児童福祉の現場で最大権威となっています。自分でものを考えることは禁じられており、こどもを「どこか」(?)が考える「ある方向」に「学習させ」、「どこか」が考える「リスクのない」安全な環境にのみ生きられる児童に変容させる、という…。リスクや葛藤、苦悩を経験することが認められない、これほど脆弱な、めぐまれない境遇はないと私は思いますし、訓練をへて学習理論の実践者になれば、全員、この心理療法で同じ成果が出せると、言い切る…。
日本・精神医学史を築いた、「度肝をぬく、二度と出ない」哲学を基盤とする精神医学者が次々と亡くなられて、学習理論の大問題を思考検討できる方がいない。パブロフ、ワトソンの系譜が乳幼児に行ってきた実験の重大性を考える力量を、心理学がもてない。識者? の学力低下により、現場は… ご存じかわからないのですが、信じがたい現実がありまして、書かせて頂きました。
デジタル機器のデジタル思考に合わせてデシタル的に生きる人間を製造し、他者承認の哲学で受動的に生きるようにします。それが成熟した人間。アナログ存在である人間をデジタル存在に変えるのが教育の主眼。訓練をそのまま受け入れるのが優秀な人。実存するのではなく存在する、人間ではなくてデシタル機器。それらを元からすべて雲散霧消させましょう~~~~
「恋知する実存者」として生きるのが人間のよさ、卓越、魅力。