思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「脳幹」 恋知=哲学とは、脳幹を鍛えること。キーは「反芻」

2024-09-26 | 恋知(哲学)
古林治さんがわたしの写真とビデオ(押し相撲)を載せて、体幹を鍛えることの重要性を書いていましたので、
それでは、脳幹!?を鍛えるとは?と思い、書いてみました。
体験談です。
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わたしは、考える力(脳幹?)が強いのですが、
それは何故か?とふり返ってみました。

幼いころからの毎日のような父との対話、なぜ?どうして?が基礎なのですが、
それは、いつも考える問題(自分自身の関心)があって、それを質問していたのです。
だから、教えられた通りに考えたり、やったりしないのです。納得がえられるまでシツコイのです(笑)。 なんで、それはなんで・・・・ 分からない、うん、ずっとずっと考える~~

だから本を読んで、とは大きくちがいます。小さなときから「本に頼る人は馬鹿だな~~~」と思っていました。点数のいい人と話すと、「ああ、自分で考えていないな」と思いました。それではダメだ。利口な人は馬鹿だな、と。

それで、父は結論を求めないし、言いもしませんでした(断言するタイプでは全然ないのでした)。なので、いつも自分で反芻して考えていました。結論は出ても、それをまた考えるのです。反芻です。シツコク反芻です。それが習い性になり、今でもずっとそうです。結論はあってもないのです(笑)

なので、「こうだ」という言い方をする人が嫌いです。嫌いでも付き合いますが、ああ、ダメだな~~と思っています。わたしは、小学生の算数を中心に教科の問題を教えていますが、いつもはじめに戻って(まだそれを知らな子どものように)考え、教えます。それは反芻と同じで、絶えず、考え直すわけです。でもこれは、相手(こども)に意味を追うことを求める結果になるので、頭の楽しい労働です(笑)。

この反芻の繰り返しと強度が、思考する頭をつくるのではないかな? と思います。効率よく、ではなく、教えてもらい、ではなく、自分で自分の頭で反芻して考える。というわけです。

また、それとダブるのですが、わたしは、言語で覚えない。書き言葉(=活字)を覚えるのではなく(それが苦手)で、イメージ記憶なのです。イメージ、 必要だな、価値があるな、と思うイメージを思い浮かべます。これもシツコイです(笑)。意味と価値があると思うイメージを反芻します。楽しいし、面白いし、嬉しいからです。そのイメージから必要な時に言語化しますので、同じようなことでもその時その場で、言葉が変わります。変えているのではなく、自動的に変わります。イメージは言葉ではないので、言葉から言葉へ、ではないからです。

言語は好きでなく、色や形や音が好きなのですが、でもなぜか、小学1年生のときから、作文は最高評価をつけられ、学校代表、在校生代表、卒業生代表、とされてしまい、なぜだか分からずいつも戸惑いです。文学少年ではなく、作文の練習などしたことは一度もなかったのに。わたしは、読む人に意味がわかるように書こう、という気持だけで、よい文章を書こうとは考えませんでした。

いま、書いているうちに思いました。わたしは現実から立ち昇るイメージの中に生き、何事も反芻しているのだな~~~と。
繰り返しです。筋トレと同じで、考えも繰り返すので、脳の幹がだんだんと自然に鍛えられるようです。恋知=哲学とは想いや考えの繰り返し=反芻=捉え直しのようです。

武田康弘
 
 
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【自民党は、民主主義を原理次元で否定】します。それは「自民党憲法改正草案」に明白です。高市総裁候補は国体主義者で者民主制の理念とは二律背反です。

2024-09-23 | 社会批評
【自民党は、民主主義を原理次元で否定】します。それは「自民党憲法改正草案」に明白です。9条云々の次元ではなく、主権者が市民としての国民であることを後退させ、天皇を前面にします。
 
これで自民党を支持する人は、戦前に戻すことをよしとするのでしょう。高市総裁候補は、安倍晋三直系で、右翼国体主義者です。民主制(政)の理念とは二律背反ですが、それに無自覚な国民やマスコミには憤りと哀しみを覚えます。
 
民主主義の基本の基本は皆が弁えるべきで、もともとは自民党国会議員団の先生=故小林節さんと伊藤真さんが対談した本で自民党の恐ろしさ(官僚政府独裁への道)を再認識しないと、です。

10年ほど前に出た本ですが。

武田康弘





コメント (1)
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竹田青嗣らのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、人間を受動的存在へと導く。既成価値の内側に閉ざすために、哲学の意味は元から消える。

2024-09-14 | 恋知(哲学)
武田fb

竹田青嗣とそのグループのヘーゲルに依拠した「他者承認の哲学」は、恋知(love of thinking)
としての哲学の息の根を止める。彼らは、西欧哲学の読解作業に依拠して「一般化の海」に沈む生を成熟としてしまう。人間の主体性を消して受動的存在へと導くために、既成価値の内側に人間を閉ざす。哲学の意味は元から消える。
 
 
 
後藤 敦子

おひさしぶりです。いま、「主体」という言葉を使うことは禁じられている(そうです→)「学習理論」(心理学)が、教育、児童福祉の現場で最大権威となっています。自分でものを考えることは禁じられており、こどもを「どこか」(?)が考える「ある方向」に「学習させ」、「どこか」が考える「リスクのない」安全な環境にのみ生きられる児童に変容させる、という…。リスクや葛藤、苦悩を経験することが認められない、これほど脆弱な、めぐまれない境遇はないと私は思いますし、訓練をへて学習理論の実践者になれば、全員、この心理療法で同じ成果が出せると、言い切る…。

日本・精神医学史を築いた、「度肝をぬく、二度と出ない」哲学を基盤とする精神医学者が次々と亡くなられて、学習理論の大問題を思考検討できる方がいない。パブロフ、ワトソンの系譜が乳幼児に行ってきた実験の重大性を考える力量を、心理学がもてない。識者? の学力低下により、現場は… ご存じかわからないのですが、信じがたい現実がありまして、書かせて頂きました。
 
デジタル機器のデジタル思考に合わせてデシタル的に生きる人間を製造し、他者承認の哲学で受動的に生きるようにします。それが成熟した人間。アナログ存在である人間をデジタル存在に変えるのが教育の主眼。訓練をそのまま受け入れるのが優秀な人。実存するのではなく存在する、人間ではなくてデシタル機器。それらを元からすべて雲散霧消させましょう~~~~
「恋知する実存者」として生きるのが人間のよさ、卓越、魅力。
 
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