思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「こんなバカな政権はない。憲法に従う義務はあるが、政権に従う義務はない」 現代の偉人=中村医師のことば。

2016-10-30 | 社会批評

アフガニスタンで大変な尊敬を集める日本人=現代の偉人としてNHKでも幾度も紹介されている医師の中村哲さんは、たった一人ではじめた大灌漑事業で、水を引き、砂漠の緑地化に成功し、それによりアフガンニスタンの多くの人の命を救いました。彼のめまいがするほどの大事業は、日本人への多大な尊敬の念を生みました。

それをもとから破壊してしまうのが、いまの安倍自民党政権で、海外派兵への道を拓くために、違憲の法改定を数の力で次々と行っています。歴代自民党総裁も言葉を失う稀代の悪行ですが、それを平然と進めています。彼の戦前日本への郷愁=ウヨク思想は自身の行為を正当化しますが、そのような言動は日本の良心を元から消去してしまいます。

以下は1年前の中村医師の講演録です。
安倍首相以下の閣僚、自民党員、その支持者の方は特によく話を聞き、反省する必要があります。反省しないなら、国を台無しにする「非国民」になりますよ。

中村医師は、「こんなバカな政権(米軍との一体化を目指す安倍政権)はない。安倍政権がアフガニスタンに出現したなら、私はもう何十回か暗殺されている。憲法に従う義務はあるが、政権に従う義務はない」と話しています。



以下は、全文です。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/ahuganisutanniinotinomuzuwo.html



※実は、この中村医師の言葉には、近代憲法に対する誤解があります。
中学の公民の教科書にも明瞭に説明されている「立憲主義」とは、為政者に対して主権者である人民(国民)が、政治統治の理念を示し、守らせるものですので、
主権者の国民が守る、という言い方は、ほんとうは間違いなのですが、中村医師の心情はよく伝わります。
その点は誤解なきように。


武田康弘

 

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大成パルコン屋上のコンクリート歩行板5トン越え!みんなで下ろしたぞ~。写真集(笑)

2016-10-29 | その他

10月2日から、
自宅=教育館本部の屋上再防水のために、フェンスを外し下ろし、
1枚10キログラム超のコンクリート歩行板を500枚以上を下ろしました。なんと5トン越えです。
ソクラテス教室の「大学生クラス」(高校~一般)のみなでの作業。

工夫して、楽しく、面白く、適度な筋トレで、一大イヴェント!!(笑)

A4で組写真にしてみました。なんでもかんでも面白遊びのこころでやっています。
学習もそうですので、学年トップ級を楽~しく取ってしまう子もいます。

大成建設の担当者曰く、「挑戦する人はいますが、みなギブアップで、全部下ろしたのははじめて。」とのこと。快挙!!(笑)

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人類の歴史は変わる。ランキング思想は終焉。競争主義はアナクロニズム。

2016-10-25 | 恋知(哲学)

ノーベル賞にせよ、金銀銅メダルにせよ、日本の勲章?にせよ、
ランキング思想とは、競争主義=競争を原理とする秩序の形成にすぎません。

それは、思想としては稚拙(こどもっぽい発想)であり、人類の困難な課題を解決することとは無縁で、個々人を幸福にしません。
競争を原理とする文化・文明ではなく、深い納得を生む生き方が求められる時代になっています。

アナクロニズムに過ぎない競争主義と決別することは、心身全体での会得に基ずく充実した人生のためには必須です。

21世紀は、20世紀までの「客観主義」という狭く固いイデオロギーを超えて、主観性の豊穣、主観性の善美の時代になります。それは、芸術の分野では先取りされて現れています。

  

挫折、疎外感や不全感の克服としての芸術ではなく、健康な心身に依拠したエロースの芸術は、コパチンスカヤのヴァイオリンが見事に象徴していますし、東響のジョナサン・ノットのつくるパワフルで愉悦感ある音楽もまた、従来の暗さ・重さを脱したエロースの芸術です。

時代は、あらゆる分野におけるコンクール主義を嫌い、一位、二位、三位を嫌います。
各自の質の違いを楽しみ、その質の違いから深く自由なエロースを読み取り味わう世界に移行しつつあります。

序列主義の古い見方は、ほんとうによきものを生まず、人間を不幸にするだけ、ということがようやく了解されつつあります。
すべてが《型と序列の二文字》に収まる従来の日本文化では、大元からアウトです。これが人類文化の進み行きなのです。

従来のままではいつまでも「人間を幸福にしないシステム」の中に閉じこもり、人間は人間になれません。せいぜい優秀なサラブレッドになれるだけ。
エロースあふれる人間=自由と責任ある個人として生きたいものと思います。

文化・文明をチェンジです。それには、わたしの生き方=価値観を自由にすること。「私」の生き方が納得の生=主観性の豊穣に変わると、すべてが動きます。
競わないことが最大のよいを生むのです(クリック)。



武田康弘

 

 

 

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「こら、そこを歩くな!」 国会では、国民は脇を歩かされる。これが日本という国(孫 正義さんのblogより)

2016-10-24 | 社会批評

以下は、10年前の孫さんのBlogですが、誠に正鵠を射る指摘です。あまりに当然のことですが、それすら通らないわが日本は、ほんとうに情けない国と思います。

赤じゅうたん vs インターネットテクノロジーで取り戻そう 主権在民の精神

孫 正義(2006-08-30 11:52)



 先日、所用があり参議院を訪れた時のことだ。入り口中央には赤じゅうたんが敷いてあり私はなんら躊躇することなくそこから中へ入ろうとした。その瞬間、守衛から怒鳴られ制止された。

 「こら、そこを歩くな。横の通用口から入りなさい。そこは議員さんが通る場所だ」

 私は怒鳴り返した。

 「ちょっと待て。そんなことどこに書いてある。書いてもいないのになぜ、いきなり怒鳴られるんだ。そもそもどうして議員が赤じゅうたんの真ん中の入り口で、国民は通用口なんだ。俺は帰りも堂々と真ん中から出る。そして次に来るときも堂々と真ん中から入る。どうしても通したくなければ警察を呼んで逮捕してみろ」

 結局私は、真ん中から入り、真ん中から出たが、この出来事ほど今の議会制民主主義の歪みを表した象徴的な出来事はないだろう。まさに主権在民の精神を忘れた代議制度だと言えるのではないだろうか。

 議員、代議士というのはその名の通り、主権を持っている我々国民の代理として国会で議論をする人たちだ。憲法で主権在民が謳われているように、一番えらいのは国民であり議員は国民の下僕であるはずだ。それなのになぜ議員が真ん中の赤じゅうたんの入り口で国民が脇の通用口なのだ。


 もちろん守衛が悪いわけではない。彼らは職務として決められたとおりにやっているだけだ。しかし、彼らも長年この仕事をしてきて疑問に思ったことは無かったのだろうか。私と同じ主張をした人はいなかったのだろうか。なぜ主権を持っている国民が通用口で国民の代理人である議員が赤じゅうたんなのかと。もしかして我々国民もいつの間にか「一番えらいのは議員で、国民はその下」などと卑屈な考えを持ってしまっているのではないだろうか。

 ちなみに私はいろいろな国の国家元首を訪問した経験があるが、一度たりとも通用口など通されたことはない。いつも堂々と正面から入っている。何故自分の国の国会に正面から入れないのだ。

 代議制民主主義は、物理的な制約や、情報の偏在、テクノロジーの稚拙さなどで直接民主主義が不可能であった時代での民主主義の実現のため作られたシステムだ。民主主義のシステムの根底にある精神は、主権在民であり、議員は国民の代理であるという考え方のはずだ。

 ところが日本においては、戦後の議会制度60年の歴史の中で、いつしか議員が権力を持っているかのごとく扱われ、主権在民の精神は薄らいでしまった。それは国民の政治への関心の低さにもひとつの原因はあると思う

(以下、省略)太字は武田による。

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いま、小沢征爾の黄昏の美、ウィーンフィルとのシューベルト「未完成」に酔う。水を差すNHK解説のウソ。

2016-10-23 | 学芸

小沢の「未完成」は、まさに彼の人生の黄昏の美しさで、小沢を慕うウィーンフィルの心からの演奏に胸を打たれました。

小沢の最初期の録音(LP)からからほとんどすべてを求め、聴いてきたわたしは、感無量です。

わたしの青春時代は、日本では不当に低く扱われていた小沢でしたが、かつて小沢をパージしたNHKは、ウィーン国立歌劇場の音楽監督になって以降はさかんに取り上げるようになりました。

小沢の恩師・斎藤秀雄(彼がいなけれな小沢もその他の多くの日本人演奏家もいません)を記念した「サイトウキネンオーケストラ」(先ごろ「オザワキネン」と改名)もNHKが放映するようになりましたが、斎藤もまたN響からパージされた人でしたので、なかなかNHKの電波には乗らなかったのです(それで公共放送とは呆れます)。NHKは、小沢が文字通り世界楽団の頂点に上ってようやく態度を改めたのでした。

イヤな話になり不愉快ですので、話を戻したいのですが、

いまのNHKの解説を聞き、またいやな気分になりました。小澤征爾をカラヤンの弟子であると紹介したのです。小沢は、若いころカラヤンのアシスタントもしばらくやりましたが、バーンスタインとの関係がはるかに長いのですし、音楽や指揮法の上では、斎藤の弟子です。斎藤の秘蔵っ子であることは今では多くの人が知るところです。なぜ、ゆがんだ解説をわざわざ入れるのか?NHKに釈明を求めたいと思います。

話を戻します。

ウィーンフィルの音色は、いつものウィーン学友協会とは異なる深々とした木質系の響きで、サントリーホールのすばらしさを改めて感じました。昨年は、サントリーホール1階の中央後ろで聴き、その他に代えがたい響きを堪能しましたが(指揮はエッシェンバッハで、ハイドン、モーツァルト、べートーヴェン)、今日、放送で聴いて、改めてサントリーホールでのウィーンの音は素晴らしいと思いました。深々としたきめの細かい木質系の響きはとても美しい。

そのウィーンフィルの音で武満の「ノスタルジア」が聴けたのは嬉しかったですが、ムターのヴィオリンは生温く、武満の厳しさとは無縁で残念でした。

武満徹はストラヴィンスキーと小沢のおかげですっかり世界的になりましたが、彼の唯一の師で、孤高の天才・清瀬保二の作品は、日本のNHK交響楽団さえ一度も演奏しないのですから呆れます(東京交響楽団は1988年にオール清瀬のプログラムを組みましたが)。

武田康弘


(※なお、わが国を代表する音楽家である小沢と武満と清瀬のことを書いたわたしのblogには、一万件の「いいね!」を頂きました。感謝です。)

 

 

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音楽の好きな方、必見・必聴です。コパチンスカヤという現象。

2016-10-22 | 芸術



「桁違いの天才」とでも呼ぶほかに言葉がないコパチンスカヤのAVです。


彼女のことばと両親との演奏を収めた最初の5分31秒は必見です。

その後に、197本のAVが続きますが、まず、ファジル・サイとのベートーヴェン・クロイツァーソナタを聴いて唖然呆然。聴く者は、凍り付くし、燃え上がるしで頭も心も身体もやられます(笑)

続いてベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、もう釘づけ。

3本目はインドのシタールとの共演=饗宴。

その後の190本以上は見切れませんが、多種多様。説明の言葉が見つからない。

彼女は、クラシックを、ではなく、音楽のすべてに革命を起こします。なんということ。

https://www.youtube.com/watch?v=Y4llgOi6MZI&list=PLeTuaBk7364ZutV5KrkojSOehJGfEI9z1



もう一つ、コパチンスカヤが語り奏する6分間、ぜひ。
https://www.youtube.com/watch?v=qx98_RKbVuM&list=PLeTuaBk7364ZutV5KrkojSOehJGfEI9z1&index=14




武田康弘

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まだまだ続く~~~中学1年生女子との交換ノートーー四こまマンガでフィロソフィー

2016-10-21 | 教育

二冊目です。

なかなかタイヘン(笑)

今日は、交換ノート(強引に仲間にさせられたのです・笑)の四こまマンガで、ソクラテスのエロース(フィロソフィー最大のキー)を書きました。

字がきたなくてごめんなさい。

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札幌市の第11旅団司令部の教育隊で行われた新入自衛隊員に対する訓練=「体より銃を守れ」

2016-10-20 | 社会批評

以下は、元自衛官(防空ミサイル部隊)の泥 憲和さんが紹介したBlog記事の冒頭です。

2016.10.20
 
 
 
 まったく衝撃的な話ですが、陸上自衛隊では新入隊員に「自分の体よりも小銃を守れ」「重傷を負った隊員は見捨てろ」と教えていることが分かりました。
 
 最近、北海道札幌市の真駒内にある第11旅団司令部の教育隊で行われた新入隊員に対する初期訓練で「弾が飛んできたら、自分の身体よりも小銃を守れ。銃を守る体勢で動け。そうすれば、お前が倒れても他の隊員が小銃を使える」「重傷を負った隊員は見捨てて、前へ進め」と教官が繰り返し隊員に教えたとの情報を入手しました。これを理解させるために映画『プライベート・ライアン』の冒頭にある上陸作戦のシーンを鑑賞させたといいます。

 
 続きは、クリックしてください。
 
泥 憲和さんが紹介したblog「スパイク通信員の軍事評論」より。


日本国憲法にも人類のつくった普遍道徳にも反し、人権思想を真っ向から否定する自衛隊の思想=言動は、完全にアウトです。終わっています。
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東大生に続き、今度は慶大生による集団女性暴行。「記号人」の跋扈。

2016-10-18 | 社会批評


東大生に続き、今度は慶大生による集団婦女暴行。

女性を対等で主体的な人間としてではなく、
物化する思想と手口は、
あまりに悪質で、
言葉を失う。

自分自身が、「自由と責任のある個人」=主体者として扱われてこなかった=受験価値がイコール人間の価値(何事も勝ち負け)=点数マシーンとして育てられたことで、
他者、とりわけ女性を「自由と責任をもつ個人」=主体者として見、遇するという思想がありません。

表層「エリート」は、総合判断が苦手で、実力(実際・現実の力)がなく、ことばと数字の「記号の世界に生きるだけ」の存在ですが、そのような人間=点数競争の勝者に過ぎない若者をチヤホヤもてはやす「底抜けのおバカ」の集まりが、いまの日本(人)といえるでしょう。

管理教育と受験主義の愚かさにいまだ気づかず、せっせと進学塾通いで、受動的でひ弱な人間=集団で女性に暴行するような人間、同じことですが、自分を高みにおき(全然高くないですが)国民を見下すカッコつき「高級官僚」のような人間を再生産していては、不幸を増幅するだけのことです。

目を覚ましましょう!

 

武田康弘

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ノット・東響 欧州演奏会のプレコンサート。ベートーヴェンV協 シュスタコーヴィチ10番を聴いて。

2016-10-16 | 芸術

昨日は、すばらしい演奏会で幸せでした。
ノット・東響のヨーロッパ演奏旅行のプレコンサートAプログラムです。

日曜日にはBプログラムを聴きましたので、まるでツァーに同行したような気分(笑)
9日は新宿の東京オペラシティで、昨日はサントリーホールで。席は二階の指揮者の横で同じような距離感でした。

オペラシティも音響はよいのですが、やはりサントリーホールの音の美しさは格別で、品がよく艶やかで、ベートーヴェンV協奏曲の出だしから、うっとりでした。

イザベル・ファウストは、現代を代表する女性ヴァイオリニストの一人ですが、情意ではなく知が立つ人で、技術もきめ細かく、細身の音も美しく、第一楽章はまだ音に雑味がありましたが、後になるほど艶やかになり、気合も十分で、大熱演。
カデンツアは耳慣れない!? 演奏後に、ベートーヴェン自身がピアノ用につくったものと知りましたが、まるで現代作曲家の作品のようで、改めてベートーヴェンの凄さ・新しさを知りました。

しかし、実は、わたしは、出しからソリストとオーケストラが合わないと感じ、演奏中になぜかな?考えましたが、すぐに答えがでました。ファウストは、知の人で、情意は知にコントロールされていますので、情動が弱く、聴いているわたしの全身が反応=感動しないのです。音楽が知のゲームになっていますが、対するノット・東響は、豊かで強い情意の音楽で、ストレートにベートーヴェンを感じさせます。幾度も全身に鳥肌が立ちましたが、それは、すべてオーケストラの演奏に対してでした。ノットは、とても頭のよい人ですが、彼の知は、情意の表出の手段として黒子で、知が先立つことはありません。

結論を言えば、ソリストが、昨年モーツァルトのV協で過去の名演を色褪せさせたアリーナ・イブラギモヴァであれば、ピタリとハマり、新次元の演奏が生まれたはずです。ファウストは20世紀型であり、客観主義の世界から抜けられない秀才ですが、イブラギモヴァは天才で21世紀を拓く主観性の豊穣をもちます。ノットのオーソドックスに見えて実は新しさ満杯の音楽には、ファウストは残念ながら古いのです。

 

休憩の後は、大曲、ショスタコーヴィチの10番で、わたしの大好きな曲です。
細かく書いたらキリがないので、全体的に。

この複雑で恐ろしい迫力に満ちた曲は、一対一でベルリンフィルなどの技術と比べれば東響は不利ですが、そういう次元とは異なる名演奏でした。音も日本のオケとは思えぬほどの充実で、美しいだけではなく、吹きあがるような力や、地鳴りのような迫力を持ちましたが、何よりもノットの解釈が、いままでにない見事な演奏をもたらしたのです。

欧米の普遍的というより「普遍主義」の解釈では、この曲も近代音楽の延長の一つになりますが、そうではなく、まるで歌舞伎役者かオペラの登場人物のように、各楽器が次々に変わる場面を交代で演じ みなが主役でした。実に面白く、それでいて全体は見事なまでに有機的に統一され、最後はものすごい迫力、切れ味抜群のエンディングで、全身に震えがきました。欧米を超えた欧米の音楽で、真に普遍的。こざかしい頭の処理を超えて、身体が自然に反応する楽しさです。

それをショスタコーヴィチのオーケストレーシュンの妙と言えば簡単ですが、その言い方だけではすまない奥があり、複雑な心理があります。それを頭がよくかつどこか悪ガキ的で魅力的な人間性をもつノットが、日本のオケを使い、新境地をつくりだしたのです。

海外のオケに行かなくとも
『感動は、すぐそこにある』(東響の2017-2018の演奏会案内パンフの表紙にあることば)は、ほんとうです。

なお、シュスタコーヴィチの交響曲の多くは東響が日本初演をしていますが、この10番も1953年の作曲の翌年、東響が初演しています。

 

 話がズレますが、ノットが清瀬保二の『日本祭礼舞曲』や『レクイエム』(無名兵士)を演奏してくれたら、天才清瀬の価値が日本と世界に知れるのにな~~と思います。ライブをCDで発売すれば、わたしがたくさん売りますので(笑・ホントウ)。



 わたしの「ブラボー!」に応えて、笑顔で手を振るノットさん。

 武田康弘

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反体制・反戦のボブ・ディランを世界は称賛ー日本人はそういう人を排除か無視=恥かしい人生。

2016-10-14 | 社会批評

 

プロテクトソング、真正面から歌でアメリカの軍拡路線=世界支配の戦略を批判し続けてきた反体制の歌手であり、その運動の象徴であったボブ・ディランにノーベル文学賞は、すばらしいニュースですが、

翻って、わが日本人は、なんと情けないのでしょうか。

反戦や反体制派で政府批判をする人は、歌手であれ批評家であれ学者であれ、みな排除してしまうか、無視するか、ですね。

テレビの話ではなく、あなたのことです。批判眼をもち、政府=体制派の「公共悪」に対してきちんと物申す人、正々堂々と闘う人を、支援するどころか、無視したり、排除したりしていませんか?

正しいこと、ほんとうのこと、に目を背けて、体制に寄り添うだけの人になっていませんか。

ボブ・ディランのノーベル賞受賞を機に、人間=一人の個人としての誇りをもって生きる日本人になりたいものと思いますが、わが日本人には、そういう矜持はないのでしょうか。

あなたはどうですか。死ぬまでそのままですか

 

武田康弘



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本日「恋知の会」2016年後期の始まりー内容と写真  白樺教育館

2016-10-12 | 学芸

本日の「恋知の会」は、

禅定と苦行を放棄したブッダの思想の核心と、
近代思想である「フロイトの精神分析学」とそれを根本的に批判した「サルトルの実存的精神分析」との思想的類似性を語り、人間精神の捉え方の話になりました。

20世紀にはじまった言語学、チョムスキーの言語論と政治論にも広がり、多岐にわたりました。戦前の西田や田辺哲学の不毛性、ハイデガーの根本的誤謬なども。

 




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ノット・東響の武満「弦楽のためのレクイエム」・ドビュッシー「海」・ブラームス「交響曲1番」 充実の演奏会

2016-10-09 | 芸術

2016年 10月9日 ジョナザン・ノット指揮・東京交響楽団 (東京オペラシティシリーズ第94回)
東響の欧州演奏旅行プログラムB=プレコンサートを聴いての感想です。


まず、東響が武満徹に委嘱した作品「弦楽のためのレクエイム」は、欧州演奏会には欠かせない作品。
武満没後20周年でもあり、この作品を来日したストラヴィンスキーが偶然知り高く評価した為に、無名の青年=武満は一躍世界的に知られることになったのですから、東響は武満の恩人でもあります。

演奏は、美しく精緻で、改めて武満徹の独創性=その厳しいまでの突き詰めを知りました。
続けて「海」なのですが、その前にノットさんは三度も拍手で呼び出されました。

ドビュッシー「海」は、メリハリの利いた迫力ある演奏で、印象派の絵画のような、ではなく、ドビュッシーが愛した北斎の海、デフォルメされた心理的かつ象徴的な海でした。フランスの香りではなく、英語で話されているような響きでしたが、たいへん聴き応えがあり満足。


休憩の後、いよいよブラームスの1番です。

早めのテンポでグイグイ進みます。ドイツ的ではなく、苦渋とは無縁の明るいブラームスでした。ドイツ観念論とか大陸合理論という大きさ・重さはなく、イギリス経験論の世界だな、と感じ、「なるほど!」と合点がいきました。
それは、ノットさんの音楽づくりの基本で、ブラームスのような古典性のあるロマンでは、少し物足りない感じを残します。あまりにスムースに話されると、深み=精神性を感じられないのと一緒です。ブルックナーや現代音楽で見せるノットマジックの見事さは、イギリス経験論のもつ分かりやすさであり、それは新たなクラシックの世界を拓きますが、それだけですべての音楽を包摂することはできないな、とも思います。

ともあれ、東響から厚みのある、そして日本のオケにはなかった表出力を生み出すノットさんの指導は、素晴らしい!!みなが自信に満ち、堂々と演奏しているので、従来の日本の水準を超えた音が出ていました。

東響は、オランダ人のスダーンに10年間学んだあとにイギリス人のノットさんと10年契約。まるで、江戸から明治にかけて外国から学んだ順番通りで、日本の歴史のよう(笑)

それにしてもノットさんのエネルギッシュでパワフルな演奏は、気持ちがよく楽しい。エロースに溢れています。
彼は、東響を優れたオケにすることに純粋な悦びを感じているのが分かります。東響を愛しているのです。
指揮をすること、音楽を探求すること、聴衆に感動を与えることは、間違いなく彼の天職です。

 

 追記
FBの友人=長谷川さんからコメントが入り、二階席左から二番目に長谷川さんが写っていました(おお!ノットさんの延長に・笑)。
彼もBlogに批評を書いていました。長谷川さんは音楽批評家ですので、詳しいです。ぜひ、皆さまもご覧ください。

武田康弘


 

 

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いまだに勘違いの女と男ーー両性の本質的平等とは、互いが主体者であり、責任を持ち合うこと.。

2016-10-07 | 社会思想

女であれ男であれ、結婚してもしなくても、「働くこと」で生活は成り立ちます。

生活は、経済生活を物質的基盤にして
日々の家事ーーー料理・片づけ・掃除・洗濯・買い物などに、育児と広義の教育があり、
精神的、身体的、趣味的な活動があり、
こころとからだの交流があります。

物質的基盤をつくり提供するのは男の仕事!?ではありません。女も男も互いに協力し合うのは当然です。両性は本質的に平等ですから、片一方の性だけが経済に責任を持つのではありません。

これは、結婚していない人にはあまりに当然のことですが、
結婚したら仕事をしない!?はずはありませんね。出産や子育ての初期においては女性は「仕事」はしません(できません)が、それ以外は、男女平等です。

いまさら「当然の話」を書かなければならないのは、男女ともに意味不明の勘違いをしている人が結構の割合でいるからです。

男も育児を含む家事は、当然ですし、それをしないなら人間として歪(いびつ)な存在になります。
女も仕事をしないなら、主体者になれず、偏った存在になります。
共に人間としての全体性とは異なる存在にしかなれません。

ただし、特定の目的があり、分業を意図的に行っている場合はあるでしょうが、それは一時的・例外的な話です。

近代以降の社会がつくる男女平等は、人間を真に「主体性をもった存在」にする考え方=理念です。
ああ勘違い!では困ります。それでは不幸ですし、不健全です。


武田康弘

 

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「競争は自己充実のサボり」ーー爬虫類ではなく、昆虫でもなく、犬でもない、人間性のエロースによって生きたい。

2016-10-04 | 恋知(哲学)

「そう、自己充実目指していたら競争してる暇がない。競争は自己充実のサボりでしょう。」

わたしのBlog【競わないことが最大の「よい」を生むのです。競争するのは愚かです

に対するこどもの頃からの親友・鈴木英男君のコメントです。

そうですよね、実に的確と思いました。

競い、勝ち負けが人生になり、「月月火水木金金」=戦前の言葉通りに競走馬のように生きるのでは、「私」の内面世界=心の宇宙を広げ、深め、自立する精神の輝き=自己充実とは無縁の人生しかもたらされません。

金で、権力闘争で、競技で、勝った者が偉い!という単純極まりない論理で統一されるなら、人間性のエロースを知らない爬虫類と同類です。

歴史と言えば、天皇家の骨肉の争いや武将の権力闘争や軍人と戦争の話ばかりが中心の日本と日本人、文化と言っても武人との関連だけで語られ、「民こそが中心」(民主的倫理に基づく民主主義)という手強い文化が育たないニッポンでは情けない限りです。

爬虫類ではなく、昆虫でもなく、犬でもない、人間性のエロースによって生きたいものです。


武田康弘

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