思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「世襲の職業は、いやなものだね。」明仁天皇  みなが知るべき「第一級資料」

2017-12-31 | 社会批評

学習院初等科から大学卒業まで、明仁さんと親しい「ご学友」であった橋下明さんによる書。

第一級資料による明仁天皇の実像です。

みなが知るべきことで、「天皇退位の後は、上皇とする」とは、中世に戻す凄まじいまでのアナクロニズムでしかありません。

「明仁さん」、と呼んであげることが必要なのです。

もういい加減に天皇教をやめなくては、天皇家の人々の人権はいつまでも犯されたままです。

マスコミ人や旧知識人は、あまりにも愚かな態度ー思想を変えなくてはいけません。

 ※(注)ーー「皇太子」とは、現天皇の明仁さんのことです。


武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『柳 兼子伝』の著者ー松橋桂子さんの碑が完成。郷里の釧路に。

2017-12-30 | 学芸

  今年3月31日に亡くなった作曲家・合唱指揮者の松橋桂子さんは、柳兼子の初の伝記=『楷書の絶唱・柳兼子伝』を著し、兼子研究の礎を築いたことで知られます。

 この書が世に出ていなければ、その後の映像作品も兼子にまつわる書も出ることはなく、また、わたしが全コンセプトを作成した『白樺文学館』の地下音楽室(兼子の歌唱を体験するためのオーディオルーム)も存在しませんでした。

 偉大なアルト歌手で、同時に日本歌曲の歌い方を創造した兼子の業績を詳細に明らかにした本書は、夫であった宗悦の思想と活動を「女性の眼」から照射することで、白樺派の全体像を立体的に見せることとなり、白樺派研究の必読書ともなっています。

 松橋桂子さんの遺骨は、郷里の北海道-釧路のお墓に入りましたが、妹さんは、桂子さんを記念する碑をお墓の隣に建てました。桂子さんが亡くなる直前まで弾いていたグランドピアノを模して、地元の石屋さんが造られた渾身の作とのことです。わたしのblogを参考にしたとのこと、嬉しい限りです。

 桂子さん自身は、派手な事は一切しない人でしたが、死後、残された者の思いを形にするのはよいことで、大賛成です。素晴らしい碑を写真で見て、心がやすまりました。ご苦労様でした。いつか訪ねてみたいと思います。

 それにしても、亡くなる1か月半前に病室を訪ねたとき、動けない松橋さんは、わたしの声を聞くなり、「おお、わが最強の友よ!」とよろこびに満ちた声で叫ばれたのは、その情景と共に深く心に刻まれて忘れられません。

 ☆なお、松橋桂子さんの遺品、柳兼子の資料と清瀬保ニの大量の生原稿などは、『白樺教育館』で整理・保管しています。研究者の方はお申し出ください。閲覧できます。カセット音源はCD化してあります。


釧路の松橋家の墓の隣に建てられた記念碑(2017年12月 撮影・安原明子(妹)さん )


故 松橋桂子さん(白樺教育館で 2011年2月 撮影:武田康弘)

 

武田康弘

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クルレンツィス(と、コパチンスカヤ)の写真集をつくりました。初来日決定!!(歓喜)

2017-12-28 | 芸術

今日から冬やすみ。時間があるので、

モーツァルトのオペラ、ダ・ポンテの台本による三部作を聞きながら、クルレンツィス(とコパチンスカヤ)の映像から写真を撮り、A4でコラボ写真をつくりました。

自由そのものの天才ヴァイオリニスト・コパチンスカヤは、両親とも音楽家で、父親は民族楽器の名人で楽団を組織、母親はクラシック中心のヴァイオリニスト。ともに優しく愛情深い人。彼女は豊かな人々と音楽に囲まれて育ち〈生きること=音楽すること〉という一児の母です。始源的・根源的で自然性にとむ指揮者・音楽フィロソファーのクルレンツィスに共感し敬愛するのは必然でしょう。

「フィガロの結婚」に打ちのめされるほど感激しましたが、今日は、「コジ・ファン・トゥッテ」の面白さにハマリ、二度聴きました。なんという指揮者か。「ドンジョバンニ」は半分だけですが、強烈!!

歴史家トインビーの言う通り、周辺革命で、古代アテネからの使者のようなクルレンツィスは、ロシア(しかもシベリア)を活動拠点とし、コパチンスカヤもモルドヴァ(旧ソビエト)出身、この二人は、伝統の西欧音楽を革命し、音楽の始原性を探り当て提示する。すでに革命は起きていて、その意味と価値をこれから人々は知ることになるのだろいう。検索を続けていたら、昨晩、2019年2月に初来日が決まったとの情報が、招待元からありました。われわれは、歴史の転換点に立っているのです。なんという幸せ。


他の写真は、FBで見てください。

 

テオドール・クルレンツィス指揮ムジカエテルナ 初来日ツアー  pdf

 2019年(2018年ではありません)

■2/10(日)15:00 Bunkamuraオーチャードホール
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 *
チャイコフスキー/交響曲第6番 ロ短調 作品74「悲愴」

*パトリツィア・コパチンスカヤ[ヴァイオリン]


■2/11(月祝)15:00 すみだトリフォニーホール
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35 *
チャイコフスキー/交響曲第4番 ヘ短調 作品36

*パトリツィア・コパチンスカヤ[ヴァイオリン]


■2/13(水)19:00 サントリーホール
チャイコフスキー/組曲 第3番 ト長調 作品55
チャイコフスキー/幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」作品32
チャイコフスキー/幻想序曲「ロメオとジュリエット」


 


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目が点!のテオドール・クルレンツィス感動のインタビュー記事 「レコード芸術」

2017-12-26 | 芸術

まずは、昨日の日記をお読みください。


 「私は理想の世界を追い求めています。そこでは人種や国の差はなく、武器もない。肉体的なものと精神的なものが結びつき、芸術によって『永遠』に触れることができる道を求めているのです」

 クレンツィスは、インタビュアーにそう言い放ちました。聞き手の城所さんは、目が点になり、ぶっ飛びましたが(笑)、聴き進めるうちに、その芸術的信念に「心から同意できる」と思うようになったと言います。ベルリンでのインタビューです。

 昨日午後便で届いた『レコード芸術』2016年3月号の【特別取材from Berlin】テオドール・クルレンツィス ききて・文=城所孝吉--を読み、わたしは、CDで聴く彼の演奏とピタリと重なる思想に興奮・感動しました。アテネ生まれのアテネ育ちのクレンツィス、古代アテナからの人類文明の最良の遺産をみるおもいです。

 

  以下、抜粋してご紹介します。抜粋、強調、まとめは、武田の責任です。

 
 「私の旅は、真実を求める旅です。普通の音楽大学に入って、制度化された道をたどるのは退屈だと思いました、そこでムーシン(ソ連・ロシア)に会い、【俗世にまみれてはいけない】という考えをもつようになったのです」

「私には、華麗なオペラのディーヴァが人を泣かせることはできるとは思いません。農村の老人が一本弦の楽器を弾いた方が、ずっと心を打つのです。この純粋なつつましやかなサウンドこそが、われわれの本来の血です。【音楽大学でピカピカに磨き上げられたアカデミックなサウンドは、ジュースにすぎません】」

「ストラヴィンスキーが考え、私も同じ意見なのは、モダニズムは土着文化に根差し、フォルクローレ(民族的音楽)に反映されている、ということです。日本の農村にも、お寺や神社の祭りや儀式(リチェアル)がありますよね。そこで行われていることの方が、都会のモダンさよりずっとモダンなのです。【都会のモダンにはファンタジーがありません】。

「ドビュッシーやラベルが、モダンということになっていますが、実は人工的なのです。例えば、私の祖母は、毒キノコから毒を抜く伝統的な方法を知っていて、平気で料理します。彼女は鳥と語り合い、庭の3本の木に名前を付けて呼んでいます。これこそがモダンです」

「中世の音楽は、私はやろうとしていることの端緒です。フォーブルドンと単旋律音楽は、音楽の始まりであり、核心なのです。古楽のよいところは、ロマン派がつくり上げた人工性を剥ぎ取る助けになるところです。化粧をしない顔の美しさというものがある。実際、化粧をしない方が美しい人が多いのです」

「古楽器とその響きを使うことにより、作曲家の思想と空間の感覚を知る助けが得られるのです。作品にたいしてフレキシブルに反応できるなら、音楽はより生き生きとしてきます。どのような響きにすればよいかが、分かるのです。…【ロマン派の教育を受けてきた人には、それができません。彼らは書かれた音符しか弾くことができない】のです。」

「ロマン主義は、私にとって重要な分野です。一番重要かもしれない。でも、人々がこの言葉から連想するロマン主義ではありません。甘ったるく、ロマンティクなロマン主義ではない」「ロマン主義は革命です。ロマン主義は、精神的なものが肉体的なものを超えようとする試みです。・・ロマン主義とは、現実を超えて精神に達する道です」

 ----------------------

 「音楽ビジネスの制度に従った、もの分かりのいい指揮者の普通の受け答えはしない」というクルレンツィスは、「永遠性に触れるのが芸術の目的」であると宣言します。
【シニカル(冷嘲的)な現実主義】が支配し、競争主義=勝ち負けの思想に洗脳され、人間であることの価値が著しく損なわれている現代社会にあって、その現実に真正面から立ち向かい、今まで聴いたこともない桁違いの名演を提示する彼は、世界を変えてしまうのかのようです。

 クルレンツィス指揮・ムジカ エテルの演奏は、音が、音楽が、比較を絶して生きています。音だけで感動するほどに「生きて」います。引き込まれて鳥肌が立ちっぱなしになります。この【生きている】ということと、【根源的】で【自然性】に富むことがクルレンティスの際立った特徴です。だから、その感動は、心身全体を理屈抜きで揺るがすのです。抗しがたい魅力の塊で、なんとも言い難い深く大きなよろこびに心が満たされます。


 すばらしいインタビュー記事を書かれた城所孝吉さんに感謝ですが、一つ、「肉体よりも精神をというのが彼の願いなのか?」というのは、誤解を生じさせますので、訂正をお願いします。クルレンツィスは、肉体的と精神的との統一を目がけていると思われます。それは、古代アテナのソクラテスの思想と重なります。弟子のプラトンによる「アカデメイア」の主祭神はエロースでした

モーツァルトのダ・ポンテ台本の3つのオペラの練習風景がyoutubeにあります。12分ほどですので、ぜひご覧ください。


武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クルレンツィスを知り、「クラシックという名のイデオロギー」という言葉をつくりました。革命です。

2017-12-25 | 芸術

以下は、FBの21日から23日の記事です。

 

武田 康弘
12月21日 15:42 · 

震えた。いま、YouTubeで、クルレンツィスを検索。
 火の鳥の最後3分がアップされていて、なんという天才!と感嘆し、
その後、マーラーの交響曲3番が流れたが、
なんと!!
オーケストラ( Music Aeterna)の一員として、超がつく自由な天才ヴァイオリニストのコパチンスカヤが弾いていた!!ーコンサートマスターの隣で。...
どういうこと?
それにしても、クルレンツィスとはとんでもない天才で、震えるよりほかにない、と実感した。フーーーっ 興奮が収まらない、この人、凄すぎる。
https://www.youtube.com/watch?v=HM4q-UN0-PI

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田 康弘
12月22日 10:26 · 

文字通りの革命だ!
オールドクラシックファンは、ショックで死んでしまうだろう(笑)
 血沸き肉躍る。ロックコンサートのような聴衆の熱狂。でも、ロックとは比べものにならない内容の深さと大きさ。
 自由に飛翔する超がつく天才のコパチンスカヤはヴァイオリニストだが、それをオーケストラ全体でやるとこうなる、というわけ。
これは、自分を変えたくない人は聴かないほうがよい。気が狂ってしまうか、クルレンツィスを罵倒して気を収めるか、どちらかだ(笑)。...
このとんでもない人は、現代に直結する人類文明の発祥地=アテネ生まれでアテネ育ち、悠久の大地=ロシアで活躍するテオドール・クルレンツィス。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

うひょ~~ウソでしょ------
ムジカ・エテルナが、空港の待合所で、『フィガロの結婚』序曲を演奏!!
その演奏たるや、革命的で本質的に優れたもの(たぶんモーツァルトが聞いたら大喜び~~)。
 待合所でなんで?素晴らしい!(笑)指揮は、エメリャニチェフという同伴者の若者(ピアニストでもあるとのこと) 

Пермский Моцарт в Шереметьево / Perm Mozart at the airport

Оркестр musicAeterna Пермского театра оперы и балета…

youtube.com

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田 康弘
12月23日 15:36
·


 クルレンッィス&ムジカ・エテルナによる『フィガロの結婚』が届き、3枚組を聴き終えたところ~~~

と、ちょうど今、フランス在住の友人・Kyoko Kugawa-AlbuKさんが、クルレンッィスに関する昨日のわたしの日記をシェアしてくれましたので、以下のようにコメントをいれました。

「今日、『フィガロの結婚』が届き、いま聞き終えたところ。 クルレンッィスがモーツァルトなのか!という【根源性】と【自然性】をもつ演奏で、過去の名盤が霞んでしまいます。...
定番のベーム・ウィーンフィルも、21世紀の名盤ルネ・ヤーコプスも。
クラシックという名のイデオロギーは消去されて、「生」の姿の美しさ=魅力が花咲き、もう全身が虜です。社会革命まで引き起こしそうな(笑)テオドール・クルレンッィス!!
これは、事件です。世界が変わります。」

古代アテネからの使者のようなテオドール・クルレンッィスに乾杯!ほんものど真ん中の天才に。

歌詞は明示的に分からなくてOK。猫の声がもつような含意性(表現性)の強さで、直に伝わる。 行動に駆り立てる音楽だ!!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安部政権の下、ウヨクの狂気が吹き荒れています。<米軍ヘリ窓落下>「文句言うな…」

2017-12-25 | 社会批評

 

 

 「戦前思想」(靖国思想=国体主義=国家神道)をもつ安倍政権が続く中、
時代錯誤の非人間性をもつウヨク人(個人という思想を否定して国家幻想にすがる人々=首相の思想的バックボーンである麗澤大学教授・八木秀次が代表)が跋扈(ばっこ)する危ない日本社会ですが、

日本全体が天皇現人神宗教だった戦前と異なり、今の右派(安倍政権が象徴する)は、天皇陛下万歳!(明仁天皇が忌み嫌う思想)と並び、米軍を絶対=神とする異常な思想をもちます。それは、以下の「毎日新聞」の記事によく現れています。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

<米軍ヘリ窓落下>「文句言うな…」被害小学校に続く中傷

12/25(月) 8:00配信

以下は、「毎日新聞」より

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に隣接する市立普天間第二小学校への米軍ヘリの窓落下事故で、同校などに「学校を後から建てたくせに文句を言うな」といった抗議電話が続いている。第二小の歴史を踏まえ、差別意識ものぞく抗議の背景を考えた。【遠藤孝康、中村かさね】

【写真で見る・米軍ヘリから落下物】普天間飛行場から飛び立つ米軍ヘリ

 第二小は1969年、児童の増えた普天間小から分かれて開校した。飛行場は市域の4分の1を占め、市は「他に場所がなかった」と説明する。そもそも飛行場は沖縄戦のさなか、米軍が住民を収容所に拘束しつつ造ったもの。以前は役場や学校、多数の集落があった。終戦後、住民は周辺に住まざるを得なかった。

 米海兵隊は50年代に本土から沖縄に移転を始めたが、当初、飛行場は静かだった。60年代に飛行場で働いた崎浜秀松さん(81)は、「ベトナム戦争(73年和平協定調印)中はがら空きだった」と証言する。その後、様相は一変する。

 沖縄国際大の野添文彬准教授(日本外交史)によると、70年代後半、普天間には米軍岩国基地(山口県)などから新たに海兵隊部隊が移転し、軍用機が激しく飛び交うようになった。野添氏は「本土の基地縮小の結果、沖縄への米軍の集中や普天間の機能強化が進んだ」と話す。

 市は80年代、第二小PTAの移転要望を受け、約30億円の用地取得費補助などを政府に求めたが、実現しなかった。元PTA会長の藤井登良徳(とらのり)さん(68)は「政府は現状を全く分かってくれなかった」と振り返る。

 学校側への抗議電話は30件を超え、「やらせだ」など根拠のない誹謗(ひぼう)中傷も多い。翁長雄志知事は21日、「目の前で落ちたものまで『自作自演』だと来る。それ自体が今までにない社会現象だ」と語った。

 中傷の背景に何があるのか。沖縄国際大の佐藤学教授(政治学)は「基地集中を中国の脅威で正当化する誤った正義感がある。一度デマが広がると、事実を提示しても届かない」と話す。ジャーナリストの江川紹子氏も「政権に一体感を覚える人には、飛行反対は現政権にたてつく行為と映るのだろう」と指摘する。

 2013年、東京・銀座でのオスプレイ反対デモは「非国民」との罵声を浴び、昨年には沖縄県東村でヘリパッド移設に反対する住民に大阪府警の機動隊員が「土人」と言い放った。差別問題に詳しいジャーナリストの安田浩一氏は「沖縄が悪質なデマ、『沖縄ヘイト』の標的になっている。それを日本社会全体の問題として議論すべきだ」と語った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャイコフスキー交響曲6番「悲愴」 テオドール・クルレンツィスに度肝を抜かれた。

2017-12-20 | 芸術

テオドール・クルレンツィス。
このギリシャのアテネに生まれ育った桁違いの才能に度肝を抜かれた。
2500年前のピタゴラスによる音階発見・創造まで想わせるがごとくの根源性に、全身が金縛りにあう強烈な体験。

それは、また同時に、官能的でかつ貴族的な美しさを湛えるマニエリスムの絵画を想わせるようでもある。繊細さと大胆なデフォルメが一体の抗しがたい魅力が横溢する「悲愴」は、全く聴いたことのない音楽で、恐ろしくなるほど。鳥肌が立ちっぱなし。なぜか、エカチェリーナ2世によるエルミタージュ美術館をも想った。

なぜこれほどまでに独創的で強い説得力をもつ演奏が可能なのか、謎だ。

わたしは、以前、あきれるほど自由な天才ヴァイオリニスト・コパチンスカヤが弾くチャイコフスキーのヴァイリン協奏曲をCDで聴いたとき、オーケストラが独創の塊のコパチンスカヤとピタリと合っているのに仰天し、この指揮者は誰なのか、すごい人がいるものだと感嘆したが、どこの誰かも知らずにいた。また、二曲目のストラヴィンスキーのカンカータ「結婚」というはじめて聞く曲の面白さにも嵌り、続けて聴くと、こちらの方により豊かな芸術的を感じた。

その指揮者がテオドール・クルレンツィス。アテネ生まれでアテネで教育を受け、ロシアで活躍するという1972生まれの指揮者に、なぜか古代アテネを想った。現代につながる人類最高の文化を生み出した小さな古代都市国家アテネの奇跡、悠久の時間と研ぎ澄まされた現代性の双方をクルレンツィスの指揮に聴いたのだ。



武田康弘

 この後で、いろいろ分かってきました。下の記事をごらんください(クリックで飛びます)。

クルレンツィスを知り、「クラシックという名のイデオロギー」という言葉をつくりました。革命です。

目が点!のテオドール・クルレンツィス感動のインタビュー記事 「レコード芸術」

クルレンツィス(と、コパチンスカヤ)の写真集をつくりました。初来日決定!!(嬉)


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウーマンラッシュアワーが『THE MANZAI』で怒涛の政治批判!自ら進んで全体主義国家の一員を生きる?

2017-12-19 | 社会批評

自ら進んで全体主義国家の一員になるかのような生き方しかできない日本人では、とても残念です。独自の精神世界をもつ「個人」になれずに、国民という集合意識 内 人間として生きるのでは、ニューヨークタイムズ東京支局長のいう通り「これほど異常な民主主義国家は見たことがない」で終わります。超えましょう、長州支配=明治維新の国体主義国家を。

ひさびさに、芸能の本領発揮の漫才に拍手喝采です。テレビ局は、忖度して彼らを消去するかな? 
(ほんとに削除されていますので、ここからどうぞ
https://www.youtube.com/embed/TSuTqdwqKyU



以下は、リテラの記事です

ウーマンラッシュアワーが『THE MANZAI』で怒涛の政治批判連発! 原発、沖縄基地問題、コメンテーター芸人への皮肉も

2017.12.18

村本「コメンテーターなんて情報集め、センターマイクの前で吐き出す」 

「政治ネタはNG」という空気が蔓延するテレビ界に迎合せず、しかもきっちりと「話芸」というかたちに落としこんだその技量は素晴らしいものだ。事実、ツイッターではウーマンラッシュアワーの話題が急上昇、多くの人が2人を称えた。

 そして、印象的だったのは、ネタを終えた村本の一言だ。番組のエンディングで流れた映像では、ステージ袖の村本は「ただコメンテーターで終わる芸人といっしょにしないでほしい」とカメラの前で述べた。また、ツイッターでも、〈コメンテーターなんか情報集めにしか過ぎなくて、おれがほんとに吐き出す場はセンターマイクの前だけ〉とつぶやいた。

 奇しくも先週金曜日、安倍首相に誘われ焼肉を囲んだ松本人志。同日には米軍ヘリ窓落下事故を受けて沖縄県の翁長雄志知事が官邸で米軍機の飛行中止を求めたが、安倍首相は面会もせず、そのくせ、松本や指原莉乃らといった面子と会食。一方、松本は自身の番組『ワイドナショー』(フジテレビ)で安倍首相を平身低頭で迎え、無批判に擁護を繰り返し、ついには“メシ友”に成り下がった。これぞ、地に落ちた「コメンテーター」の姿だろう。

 だが、『ワイドナショー』にもコメンテーターとしてたびたび出演してきた村本は、安倍政権を刺激することを恐れてテレビが取り上げようとしない原発や沖縄の基地問題を、漫才というかたちにして「これでいいのか」と視聴者に投げかけた。

〈ほんとに吐き出す場はセンターマイクの前だけ〉という芸人としての矜持と、権力や空気に巻かれないという覚悟。──もしかすると今後、テレビ界には村本は使いづらいという空気が流れるかもしれないが、視聴者は彼らの笑いにビビットに反応したということをよく覚えていてほしい。視聴者が見たいものは、予定調和のコメントでも、ましてや権力の犬となった芸人ではないのだ。(編集部)


https://www.youtube.com/watch?v=pAHQGLOCbwo&t=41s  YouTubeへ。

(上記は削除されてしまいましたので、ここからhttps://www.youtube.com/embed/TSuTqdwqKyU )

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主主義国で、日本ほど「生徒抑圧の校則」をもつ国は、どこにもありません。ブラック校則。

2017-12-15 | 教育

 品質管理ではなく、人間を管理するとは、ヒトラーのナチズムやスターリンの独裁政治や戦前日本の天皇現人神のような全体主義国家にのみ可能な思想であり、民主主義を名乗る人権思想の国家ではありえないことです。

 しかし、この個々人の違いを認めない全体主義による教育をよしとする人が現実に数多くいるのには言葉がありません。

 人間とは何か、という人間存在論をまるで知らず、物と人間を同列に扱って涼しい顔をしているのが、学校の教師であり、右派の国会議員であり、政府の審議委員であるのには、わが国の絶望的なまでの後進性(日本に哲学なし=人間とは何かの探究はなく、シニカルな現実主義だけがある)が象徴されています。

 以下は、今日の『東京新聞』夕刊一面ですが、すでに昨日、わたしのfbにたくさんのコメントが寄せられた問題です。


武田康弘

 

「これほど異常な民主政国家は見たことがない。」ーーニューヨーク・タイムズ東京支局長



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人類はいつまで政治や社会生活に宗教を介在させるのでしょう。愚かで危険です。必要なのは、超越ならざる「超越」。

2017-12-12 | 恋知(哲学)

ユダヤ教を母体に生まれたのが、キリスト教とイスラム教ですが、
ユダヤ教(旧約聖書)を背後にもって政治を行うイスラエルを支援するキリスト教(新約聖書)のアメリカは、国連からの厳しい批判にも関わらず、この三つの宗教の共同の聖地=エルサレムを、イスラエルの首都として認めるという驚きの発表をしました。またトランプ大統領の愚断ですが、背後にそれを支持する右派(キリスト教原理主義者)のアメリカ国民が少なからずいるのです。

日本も、明治政府がつくった天皇教=国家神道=靖国思想がいまだに生き残り安倍政権を支えています。生きている人間を神とし、その家族を神の家系とする宗教思想ですが、これは「国家カルト」と呼ばれます。三島由紀夫は、天皇が神から人になったのは間違えだとし、超越者をなくした日本人の行く末を嘆き、憲法改定のために自衛隊の決起を促して自決しましたが、この思想を支持する知識人や政治家は、自己の内なる善美の座標軸につく思想=恋知(フィロソフィー)を知りません。

個々人が宗教を信じるのは自由ですが、それは、公権力と結びついて政治を動かすイデオロギーになってはいけません。個々人の自由と各自の対等性を大元から奪ってしまう公共悪となります。この民主主義国家では当然と思われる「社会の原理」が揺らぎだしたのでは、混乱・抑圧・暴力が噴出して無秩序となり、警察力と軍事力に頼る強権政治とならざるをえません。全体主義国家への堕落です。

いつまで宗教対立を続けるのか。宗教はミニマム(最小限)でないと困ります。
宗教的信念ではなく、自分自身の心の善美を座標軸にして生きないと、争いが絶えません。平和を祈る者通しの戦いが続いてしまいます。絶対正しいを求める心から解放されないと、人間はいつまでも権力闘争の愚かな歴史の繰り返しです。納得をつくる努力=普遍的な了解が得られる可能性は、一人ひとりが外なる絶対から自由になり、内なる思考をはじめるところにあります。

絶対正しい、これが真理だ、というような発想から離れて、自分自身の内なる声を聞き、そこから出発する人生を始めなければいけません。
頼るのも責任を取るのも「私」なのであり、私以外の超越者(神とか天皇とか)を頼れば、必ず妥協できない争いが起こります。そうではなくて、背後に超越者を持たない「私」同士の対話であれば、妥当な線を導く対話が可能になります。有限な「私」同士が、どう考えどのようにしたら互いに楽しく生活できるかと考えるのがキーです。すぐには合意に至らなくても、そのような考え方は、たとえ「対立」しても相手の「否定」には至らず、妥協点を見いだせます。

宗教を持ち出したら、絶対感情に縛られますから、争いは止むところがありません。言い争いも果てしなく続きます。
繰り返しますが、「私」の主張は、「私」の内なる心に根拠を持たねばならず、なんらかの超越者を持ち出して正しさを主張する思考では、争いは永遠に続いてしまいます。「私」の主張の根拠は「私」の生活体験に基づく考えからでないと、形而上学的争いになり、不幸を導いてしまいます。「絶対」の正しさではなく、より深く大きな納得を生む「普遍性」豊かな思考をしていこうという構え=態度を身につけ、習慣にする努力が何より大切です。

宗教でなくとも、たとえ趣味の会でも、学問や芸術上でも、誰かを何かを絶対視するような態度は「超越的思考」の証です。とても愚かで危険です。善美のイデアの前に謙虚でないとすべてが狂いだします。真実を求める心は、内なる座標軸ですが、真実そのものを知ることは不可能ですから、よきもの・美しきもの・真実なるものへの「憧れ心」こそが超越ならざる「超越」なのです。

その心の働きこそ、人間の証です。人間の証は、みなの一人ひとりの内なる心にこそあり、外の権威や体系にあるのではありません。よい思考の条件は、第一義的には自問自答=自分一人でする沈思であり、他者とのコミュニケーションではありません。他者との対話は大切ですが、それは二義的です。中心にあるもの、基盤となるものが沈思=自問自答にあることを知らなければ、そもそもフィロソフィーは成立しません。思考の名に値する思考は始まらないのです。


武田康弘

fbのコメント

Kunimitsu Kobayashi そうですね、私も全く持って同感です。超越者を失った我々日本人は利己主義に走り日本を悪くしたと、主張する人々がいます。個人主義と利己主義とを同列にみているのでしょうね。だから、昔の国家神道をよしとし、あの時代の日本人は1つになり一丸となって国難に向った、でもいまの日本にはそれがないと嘆くのですよね。私はこの嘆きの方に深い罪があるように思えるのですが、また、中学高校の部活の先輩後輩、根性主義もその辺から発生し、過去の日本の賛美でしかなく、全くの人間としての成長が見られないような気がするのですがね。いまだに、これらを称賛する人々が多数いる現状が悲しいです。

武田 康弘 超越者は、わたし自身なのです。わたしの善美に憧れる心(先験的で自然なもの)が超越ならざる超越で、それは、今までの宗教(一神教)よりも優れてわたしを支える恋知の生です。心身も頭脳も健康に支えます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ノット・東響『ドン・ジョヴァンニ』全曲。超がつく名演は、純粋なカタルシスをもたらした。

2017-12-11 | 芸術

ブラボー!の後で、
グレイト!と叫んでしまった。

なんというモーツァルト。
言葉がない。

まるで映像が見えるようにクリアーなノットの解釈。
『ドン・ジョヴァンニ』のイデアを直接見るごとくの名演に、ただ感動、鳥肌。
いま
までの演奏とは根本的に違う。
を生きる人間存在への問いは、深く強いが、暗さ・陰鬱さはなく、純粋なカタルシスとでも呼ぶべき体験を与える音楽の提示に、興奮が覚めない。

オペラ音楽の体験と生の体験が重なる圧倒的な演奏会。ニーチェは、音楽を特別な芸術と位置付けたが、それは人間存在の時間性を象徴するからだ。その音楽の指揮者・実践者として、ノットは最高の存在だ。

一分の隙もなく、あっという間に時が過ぎる完璧な演奏だが、それはクールな演奏の反対で、ホット。すべてが生きている。オーケストラも歌手も指揮者もみなが有機的に一体で見事というほかはない。指先まで神経が行き届いているのに、神経質さはまるでなく、のびのびと広がる。シャープなのにキツサはなく、柔らか味がある。圧倒的な迫力だが、美しさ・品位の高さが全曲を覆う。

こんな楽しい演奏会はない。ここには権威的なものは皆無。教養としてのクラシックという厭らしさはゼロ。これ以上はない豊かな人間たちによる「理想の時間」があった。ノットは骨の髄から人間愛に満ちたデモクラシストだな、と実感した。それにしてもその指揮姿は惚れ惚れするほどしなやかで美しく、音楽の意味を視覚化している。

各プレーヤー、歌手の一人ひとり、脇役などいない。みなが主役で、みなが生きている。全体を構成したはずのノットもまた、みなの一人になっている。みなに埋没しない一人ひとりがみなで演奏する。音楽は燦然と輝き、演奏者も観客もみなが幸福に包まれた。なんという幸せ。

 その他の写真は、fbに載せました(クリックで飛びます)

武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

民主的倫理5 「恋知者」(フィロソファー)は、青空と太陽を愛でるのです。

2017-12-11 | 学芸

青空と太陽をよろこび愛でるのが恋知者(フィロソファー)の態度です。

特定の宗教や自国万歳という想念とはまったく無縁の「自由で柔らかく豊かな人間性」をもつのが恋知者です。

恋知者の宗教は、自然への愛と畏れです。経典や教義はありませんし、仰々しい儀式や形式とは無縁です。

権威ある経典や立派な儀式や大勢の人を集める組織とは、なんであれ、一人ひとりの精神の自由を奪い、しなやかで奥深い人間性・生き生きとした健康な心身・伸び伸びとした囚われのない意識を育てません。

遠くを見る習慣、無定形な雲を見る楽しみ、青空をよろこび、太陽のエネルギーを愛でる心、夜空の星々に我を忘れる感動、それは、心の内からよきものを無尽蔵に生みだす秘訣です。自然宗教に戻れ!それが恋知者の倫理です。

民主的倫理の基本は、自然です。生まれながらに敬語で遇するような存在を置く人為は、よき人間性を生みません。

 

 


(2016年の年賀状=下半分の複写です。)

 

武田康弘

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベートーヴェン交響曲3番「英雄」 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 演奏感想

2017-12-03 | 芸術

12月2日(土)
ベートーヴェン交響曲3番「英雄」ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団 演奏感想 (サントリーホール)

弦が多いが、二管編成で、56名
左に第一ヴァイオリン12名 右に第二ヴァイオリン10名 その隣にヴィオラ10名
中央から左にチェロ6名 左にコントラバス5名
木管は、フルート2名、クラリネット2名、オーボエ2名、ファゴット2名
金管は、トランペット2名、ホルン3名

現代でしか成し得ない名演に酔いしれた。
時代楽器の鋭さではなく、肥大した四管による重圧な演奏でもない。
今を生きる強く美しいエロイカは、未来を志向している。

見事なまでの迫力は痺れるような快感を呼ぶ。実に気持ち良い。
ティンパニーの鋭く強い打音。弦の思い切りのよい強奏とビロードのような滑らかさ。ヴィオラの美しい響きはとりわけ耳に残る。第四楽章のチェロの独奏も美しい。木管は相変わらず上手く、英雄を特徴づける3本のホルンもよい。総じて都会的な洗練があり、東響は、一人ひとりの奏者がよろこびを持ち、完全に世界レベルだ。

ベートーヴェンの共和革命への意思。流動し、激しく渦巻き、あらゆる抑圧と怠惰を撃ち破る史上最高の交響曲の誕生の場に居合わせたかのような興奮と悦び。コントラストも強く、ダイナミックレンジも広い。しかし、デモーニッシュなところはなく、健全な力に満ちている。「神」とも「悪魔」とも縁がない健康な人間の音楽だ。ヒューマニズムの美と力に溢れた音楽ゆえに最高の英雄と言える。創意に満ちているが主観主義とは無縁であり、圧倒される迫力をもつが爆演ではない。品位が高く、微妙で豊かな音楽性に包まれている。

サロネン・フィルハーモニーの2年半前の名演が色褪せてしまいそう。はるかに踏み込みの強さがあり、躍動感に優れ、響きも含みと厚みに勝り、テンポ感がよく、リズムがしなやかで快適。心身全体が満足する。ノット・東響の現在は、恐るべしという他ない。


録音されていたので、SACDで発売になると思う。行かれなかった方も、この見事なエロイカをぜひ聴いてください。血沸き、肉躍り、精神は高揚します。



武田康弘

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日、ベートーヴェン3番「英雄」他、ノット・東響の名演にぜひ、当日券あります。サントリーホール18時

2017-12-02 | 芸術

お時間のある方、行かなきゃ損です。名演まちがいなし。大きな感動が得られるはず。

本日、2日(土) サントリーホールでの東響定期です。18時開演

リゲティ  に  シューマンに  ベートーヴェン3番という素晴らしく面白いコンサートです。



(写真は、1年前のサントリーホールで。撮影・武田)


以下は、東響のホームページより

開演1時間前から当日券販売窓口にて、当日券を販売いたします。是非ご来場ください。

12/2(土) 第656回定期演奏会 (会場:サントリーホール)

また、24歳以下の学生の方を対象に、楽団指定の座席を1,000円にて限定枚数販売いたします。(当日学生券)
必ず学生証と年齢の確認できるものを窓口にてご提示ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする