朝倉に学び、ブールデルに学び、独立して『ルーブル美術館』を学校とした木内克(きのうちよし)は、ギリシャ・アルカイックに惚れ、その彫刻の精神を己のものとして、84歳の晩年まで衰えることなく制作を続けた偉大な彫刻家でしたが、
彼がつくった蝋型人形(ローマで制作の51点)の写真集に感動しましたので、昔の本ですがご紹介します。
なお、木内は、ルーブルにあるたくさんのラコッタ(素焼)の人形に、たいへんに感心・感動して、もっとも有名な「エロース」【飛ぶエロース】像をはじめ、多くのテラコッタを毎日のように通い、見続けたのです。日本人で最初にテラコッタ制作技術を身に付けて、帰国後に多くの作品を制作しました。
(紀元前の制作で「飛ぶエロース」像・ルーブル美術館所蔵)
彼は、古代ギリシャの偉大な精神をテラコッタに見たのでした。
「よくタナグラ人形とよぶ人がいるが、あれは間違いだよ。テラコッタは人形なんかではない。あくまで彫刻だよ。小さな像の頭一つでも、大きな彫刻と同じ仕事がしてあって、図太く、弱さがない。わずか20センチほどの像でありながら、すごく大きく感じさせるんだよ」
その最も有名なのがエロースの像(プラトンの学園「アカデメイア」の主祭神)です。
以下の「エーゲ海に捧ぐ」という写真集は、テラコッタではなく、蝋型人形ですが、自由で躍動的な女性像、木内が言うように「草書のよろこび」に満ちたものです。
木内克(きのうちよし)
袴田さん87歳、再審で無罪のはずが、検察官は、有罪立証すると裁判を長引かせる作戦に出た。
証拠捏造の悪人たちの更なる悪どさは、許し難いもの。
検察官とは人間失格者たちの集まりのようだ。
悪徳政治家は見逃し、えん罪で個人を苦しめる。絶対に許せぬ所業だ。人権思想の否定者たち。
こういう親を持つ子がどう育つのか?
そもそも再審が決定した後で、検察が異議申し立てができるという制度は、民主主義思想とは相いれないものだ。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室客員調査員=官僚たちに哲学と日本国憲法の哲学的土台を講義)
日本の歴史に一度もなかった「一世一元の元号」を使い、まったく縁のない江戸城をいまだに天皇に占有させ、全員が最大級の敬語で遇するお方がいることに何の疑問も感じないのですから、さすが明治政府がつくった国家カルト教で、その威力は絶大。統一協会というような甘いものではありません。
天皇陛下万歳!皇族敬愛。主権在民とか差別の禁止とか人間存在の対等性とは、言葉だけのもの。この露骨な堂々たる差別の国で、そんなのを信じたふりして生きるあなたは、とてもよい人ですね(笑)
共和国日本をつくりたい。天皇は京都御所にもどり自由なくらし。公的・公共的な場では世界暦(西暦)を使う。それだけで、わが日本は、正常で気分爽快な国に大変身します。土台・中心が変われば、すんなり改革は進みます。各政党の方、分かってほしい。
武田康弘
なぜ、明快な批判はないのか、なぜ辛口批評はないのか、片側情報だけなのか、これでは、ソフト独裁になり、人々から思考が消える。真実の面白さがない平板人間だけとなり、社会から活力が奪われる。テイタラクが蔓延し緩慢な死が訪れる。元からアウトだ。
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金野 奉晴批判すべき対象はアメリカの覇権主義、戦争主義です。我々が抗議に押し掛けるべきは在日米軍横田基地であり、アメリカ大使館です。国会議事堂前や首相官邸前で抗議するのは対症療法であり、根本治療ではないのです。日本再生の近道は在日米軍一掃です。
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武田 康弘金野 奉晴さまもちろん、金野さんの批判はよく分かりますが、わたしは、元凶は、明治政府が拵えた【天皇教という国家宗教】(靖国思想=国家神道=国体主義)にあると確信しています。日本史上一度もなかった【一世一元の元号制度】で天皇現人神という思想を国民全員の心身に埋め込み(岩倉具視発案)、京都から皇族の長の天皇を【江戸城】に連れてきて、崇めさせる(伊藤博文・山県有朋がまだ14歳の睦人を教育して現人神にした)、ことに象徴される国家宗教が、いまもそのまま(ソフト化されましたが)であることがわが国の不幸の深因だと確信しています。マッカーサーの発案で、現日本国憲法にシンボルという言葉を入れたのは(天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である)、明治政府がつくった【天皇家のお家安泰】を保障し、【米軍】と共に、日本全土を支配し続ける最高の戦略でした。戦後もまだ明治維新政府がつくった天皇教を清算できないので、天皇家と米軍による支配は永遠になっています。ぜひ「明治政府がつくった天皇という記号」pdfをお読みください。必読と思います。
武田康弘
人権思想の淵源は、宗教(一神教)や哲学(理論体系の哲学及び人生哲学)ではなく、幼子の存在です.
昨日の大学クラスでは、同時代人であるルソーの「自然人」と安藤昌益の「真人」との重なりと違いをやりました。
(『中江兆民と安藤昌益』安永寿延著1978年レグルス文庫から))
そこから、話は広がって、
《人権思想の淵源》の考察となりました。
強い一神教であるキリスト教を下敷きとして持つ「人権」の概念は、人類普遍の、とは言いますが、そこには超越神の存在を置く宗教的信念が隠されています。
わたしの、人権思想の淵源についての見方は、欧米のキリスト教思想(人格をもった一人の神が宇宙も人間も創ったという物語を事実だとする強烈な一神教)とはまるで異なりますので、そのお話をしました。
それは誰にも、どこの国の人にも納得できるとおもわれる話です。
人権という思想の淵源は、赤ちゃん・幼児の存在です。
幼子は、生まれた瞬間から「個性」をもち、泣き方もみな違います。その一人ひとりの命は、かけがえのないもので、他の誰とも取り換えることのできない命です。金持ちや有名人の家に生まれた子も、貧乏な家に生まれた子も、そこには上下はなく、価値に少しの差もありません。赤ちゃんは、みなが大事で尊い存在として生まれてきたのです。これは、特定の思想や宗教とは何の関わりもなく、子を持つ親が誰でも自然に感じ、思うことです。子を守り育てようとする心は何よりも深く大きいです。固い言葉で言えば、この心にこそ「究極の普遍性」があると言えます。わが子のない人も、そこが淵源であることは十分に了解できるはずです。病的に歪んだ人でない限り、幼い命に対する思い=愛情は、みなに共通しています。
ここに「人権思想」の淵源があり、特定の宗教や哲学に淵源があるのではありません。だからこそ、人権とは、決して侵すことのできない人類普遍の原理なのです。自由も平等も博愛もみな、〇〇主義や〇〇宗教ではなく、自然な人間の想いや感情から生まれますので、人権は、幼子への心身全体による愛情を淵源とすると言えます。そこから自ずと立ちあがってくる思想です。
一神教的でも、共産主義でも、安倍首相らの戦前思想=国体思想でもなく、自然な人間の感情から生じる世界共通の人の想い、それがほんらいの人権思想の淵源だというのがわたしの考えです。
一人ひとりのかけがえのない人間=「個人」の尊厳、みな「唯我独尊」として生まれてきたことの自覚、それが人間が人間として生きる上での土台となる考えです。