思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

なんというポール・ルイスの宇宙!2017.11.29 銀座王子ホールは、歓喜で包まれた。

2017-11-30 | 芸術

王子ホールは、いつもとは異なり、女性客がいっぱい。華やいでいる。

もうなんというポール・ルイスの宇宙!

硬質で光輝く音、
ビシッと立った音楽。

男性的、強靭な打鍵、
これ以上はない素晴らしい切れ味。

でも、粗野な所は一つもない。
全曲オシャレ。

個性的・独創的で、美しいーーー。
快感で全身が痺れて、ラストのハイドンの40番では、笑いだし、踊り出してしまう~~

聴衆は歓喜し、批評家は苦虫?という最高の演奏会で、死にそう(笑)
「弱さや感情夥多がなく、まるでギリシャ彫刻のよう」とは染谷裕太君の弁。その通り!

サイン会はかつてない長蛇の列。
来年もHBB(ハイドン・ベートーヴェン・ブラームス)プログラムの2回目(全部で4回の予定)で来日。チケットとるのが大変になりそう。

武田康弘

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恋知第3章 『公共』  民主主義と公共哲学の核心を平易につかむことができます。ご活用ください。

2017-11-23 | 恋知(哲学)

恋知』第3章 民主制・公共思想 のPDFファイルを白樺同人の古林治さん(白樺教育館副館長)がつくり、アップしました。

民主主義と公共哲学の核心を平易かつ明晰につかむことができると思います。

ご活用ください。A4で28ページです。両面印刷すれば、本にできます。

●恋知 第3章 1.9 MB版
http://www.shirakaba.gr.jp/large_sources/contents/Philosophos_3.pdf

 

製本はとじたくん。クリック)

 

 
武田康弘

 

 

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金泰昌さんが応答しなかったわたしの「命の哲学」=不定形・不確実ゆえに輝くもの

2017-11-21 | 恋知(哲学)

 わたしは幼い頃から体調のよくない日が多く、内臓疾患に苦しめられた経験から、「生と死」の観念は、恐怖や不安と一体となって自己存在を支配してきました。 「命の哲学」としての人間性の肯定―【知・歴・財の所有ではなく、存在の魅力こそが人間の価値である】というわたしの中心思想は、この「生と死」の観念にその源流があります。「既存の制度の中で序列を競うような生き方は、全く生きるに値しない」という思いは、そのような意味での「命の哲学」から来る必然でしょう。

 認識論の原理中の原理は【直観=体験】であり、実存論の原理中の原理は【欲望】だ、とわたしは考えていますが、この欲望とは「命」の別名だと思います。 「命」とは燃えるもの、輪郭線のないもの、不定形なもので、死の確実性とは対極にあります。それゆえにネクロフィリア(死んでいるもの・固定しているものへの愛)の傾向にある人たちが対峙することをひどく恐れるものです。わたしは、日々幼い小学生とも30年間(いまでは40年間)以上交流=授業を越えた授業=をしてきましたが、幼い子ほど初発・初源の「命」の輝きー直接的な生のパワーをもち、大人の固定観念に嵌(は)まらない自由な発想をしますので、彼・彼女らと交わるのは実に悦ばしいことです。

  (以上は、2007年12月のblogの一部で、「命」をテーマにした金・武田の哲学往復書簡の続きでしたが、金泰昌さんからの応答はありませんでした)


武田康弘

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恋知第3章  「公共をめぐる哲学の活躍」 と 「結語」

2017-11-20 | 恋知(哲学)

(3)「公共」をめぐる哲学の活躍

  民主主義と公共思想は、わたしの小学5、6年生の「政治クラブ」(内容は自由な哲学談義)に始まるものですが、その長い歴史を振り返り、簡潔にまとめたのが以下に載せる「『公共』をめぐる哲学の活躍」です。

 この論文は2010年に書いたものですが、当時わたしは、参議院行政監視委員会調査室で客員調査員として国会職員にソクラテス出自のフィロソフィーの意味と現日本国憲法の哲学的基盤について講義していました。

 そのため、この小論は、行政監視委員会調査室の注目するところとなり、国会議員への情報提供をする「『行政監視情報』平成22年10月15日号」に掲載され(巻末の44ページ~59ページ)、行政監視委員会に所属する議員を中心に国会議員に配布されました。

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

「公共」をめぐる哲学の活躍  A4で16ページ

pdfファイルは、ここをクリック

 

 

(4)結語 (自己という中心から公共性は生まれる)

 なお、東京大学出版会のシリーズ「公共哲学」全20巻+別巻は、最初の10巻は佐々木力さん(元東大総長)と金泰昌さん(公共哲学共働研究所長)の二人が編者であり、残りの10巻は、金泰昌さん+各巻テーマの専門の大学教授との共編)でしたが、共にその編集の基本方針として公と公共を分ける=「 『公』と『私』を媒介する論理として公共性を考える」が謳われていました。

  わたしは、それに異論を出して論争したわけですが、2008年6月21日に出した簡明な結語が以下です。

 公(おおやけ)と公共を分けるべき!? 

 主権在民の近代市民社会―民主制国家が成立する以前は、市民の公共とは別に国家の公(おおやけ)とでも呼ぶべき世界がありました。

  日本でも明治の近代化では、まだ主権は天皇にあるとされ、市民的な公共は、天皇制国家の公とは別だと考えられていました。だから、国民の利益とは別に国家の利益がある、と言われたのです。国民は、国体=全体を構成する部分とされ、主権者である「天皇という公」の下に「市民的な公共」が位置づけられたわけです。

  また、国家の主権を天皇から国民へと大転換した戦後の日本社会においても、この明治国家の公=お上という観念が残り、それが役人・官僚が偉いという逆立ちした想念となっています。公(おおやけ)と公共は別だ、という観念をひきずっているわけです。

  だから、歴史的な考察や現状の分析としては、公と公共を区別するという公共哲学=シリーズ『公共哲学』(東大出版会)の主張は、まったく正当なものです。

  しかし、それが「公と公共を分けるべきだ」とか「ほんらい公と公共は異なる世界である」という考えを、主権在民の市民社会の中でするとしたら、時代錯誤の意味不明な言説となってしまいます。

  歴史的にどうであったか、あるいは現状がどうであるかというレベル・次元での話と、原理は何かという次元の話が一緒になれば、いたずらに混乱を招くだけで、百害あって一利なし、という結果になります。

  理論は、それがどの次元での話なのか?を明瞭に意識しないと、すべてが平面に並んでしまい、無意味な衝突を起こします。立体的に見なければならない、これは基本原則です。

  言わずもがなですが、公(おおやけ)という世界が市民的な公共という世界とは別につくられてよいという主張は、近代民主主義社会では原理上許されません。昔は、公をつくるもの=国家に尽くすものとされてきた「官」(役人と官僚機構)は、現代では、市民的公共に奉仕するもの=国民に尽くすもの、と逆転したわけです。主権者である国民によってつくられた「官」は、それ独自が目ざす世界(公)を持ってはならず、市民的な公共を実現するためにのみ存在するーこれが原理です。

  社会問題や公共性について、ほんとうに現実的に考え・語ろうとするならば、以上の簡明な原理を明晰に自覚することが何より先に求められるはずです。次元の混同に陥らないように注意しないと、平面的思考の中で無用な言葉を膨大に紡ぐ愚に陥ります。現状分析と原理の区分け=次元分けをし、迷宮に入り込まぬように注意したいものです。

  公共性というみなが関わる世界の原理は、明瞭・簡潔で、ふつうの生活者が深く納得できるものでなければならない、これは原理中の原理です。

2008/06/21 武田康弘

 なお、この結語の青字の部分は、参議院行政監視委員長の山下栄一(参議院議員)さんが注目し、『行政監視と視察』(総147ページ)において、「行政運及び行政監の思想的土台となる」(6ページ)とされたのですが、それは11、12ページに記しました。


ーーーーーーーーーー

最後に、わたしの公共思想の原理について記します。
金泰昌さんとの哲学往復書簡30回(『ともに公共哲学する』東大出版会刊)で述べた考えをそのまま書き抜きます。

(15)自己という中心から公共性は生まれるーーーの中から結語の部分のみ(131ページ)。

 この私の命・生活は何より大事なものであり、この私の心身と私の抱く想念は何より貴重なものである、とわたしはずっと感じてきました。だからこそ、互いにその貴重な世界を守り合い、楽しみや悦びを広げ合うことが必要なのです。これが公共性の起こりであり、公共性とは、集団で生活する人間が、集団に埋没するのを防ぎ、個々人がより大きな私の可能性を開くために必要な思想だ、とわたしは思っています。人間はひとりで生きることはできないので、単なる個人性では、個人の可能性は狭まり悦びも広がりません。公共性とは、互いに私の可能性を広げていくために必要な現実的な思想であり、社会の中でよく生きるための知恵ではないでしょうか。

 狭く私の得だけを考える閉じた自我主義的思考ではなく、広くみなに共通する利益を考える開かれた公共的思考は、私の人生を社会的現実に向けて押し広げてくれます。公共性とは、観念的・抽象的な次元ではなく、現実的・具体的な領域で私を活かす道であり、それは私の人生の充実・悦び・晴れやかさの世界を切り開くことになるのです。

 したがって、公共的思考は、一人ひとりのふつうの個人が、私的生活に閉じ込められてしまう不幸から抜け出るための方法であり、広く社会全体を私の世界にするという発想であり、官・政治権力者・経済的支配者・知の独占者から社会・国家・知を「私」-「民」に奪い返す力をもつものです。公共する哲学によって、現代の民主制社会に生きる私たちの思想の原理を明晰化していきたい、そうわたしは思っています。

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最後におまけですが、

わたしは、民主共和党というバーチャル政党をfbでつくりましたが、そこでの基本の考え方を以下に転写します。

昨日の「恋知の会」(2017年9月13日)
バーチャル政党=【民主共和党】(民主政を前に進める共和主義、瑞々しい「水の国=日本」にふさわしい人間に優しく平等な国へ~~をみなで立ち上げました!!
賛同者はご登録ください。

まず、首相のほかに【大統領】(日本の顔=元首で政治権力は持たない・ただし、首相の国会解散を拒否する権利をもつ)を選ぶ

一例として、過去の人でふさわしいのは、学問・芸術に通じた品格の高い人ー例えば石橋湛山(哲学者・経済学者・ジャーナリストで55代総理大臣。美濃部亮吉(豊かな学識をもち東京都知事を務めた品格のある人)。高野岩三郎(戦前に東大教授を辞して社会問題研究所所長・戦後に改組されたNHKの初代会長。庶民派にして高潔)大原孫三郎(中国電力やクラレの創始者で白樺派の同伴者ー心優しい博識の実力者)のような人。現代では、国連で中心的な活躍をしている人などが候補です。

国旗は「日の丸」が候補。国歌は「さくら」(日本古謡)が候補。国花もさくらなので、ピッタリと思う。共に国民の自由な議論で決まります。

元号は個人で自由に。役所と公共機関では、世界歴(西暦)を使用する(今の元号の義務付けは不合理で間違いが生じやすいので)。}

天皇家は、ほんとうの住まいである京都御所に。江戸城は、江戸公園として国民みなに開放。

天皇は、国事行為は行わず、文化的行為のみを行い、基本的人権が保障される。

簡単ですが、骨子です。この線で市民憲法案も出さねば、です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なにはともあれ、オープンに共和制の意味や意義について語られる状況を生みだすことは、とてもよいこと、大事なことです。

大きなタブーがあることは、ひどく不健康ですからね。

細かな話はともかく、みなが、明治維新政府によってつくらた水戸学に基づく「明治天皇制=国体思想=靖国思想=国家神道」の国家カルトの精神風土から解放されて自由になることは、何より大切な「はじめの一歩」と思っています。

集団同調でもなければドライな強権でもなく、水の国=日本のしなやかで自由な共和主義って、いいでしょ~~~


武田康弘

 

 

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『恋知』 第3章  民主制・公共思想 

2017-11-18 | 恋知(哲学)

恋知』 第3章  民主制・公共思想 


 (1) 恋知=人間のよき生の原理 前章の結語

 

 第2章「恋知とはなにか」で、わたしは、人間のよき生の原理を提示しました。 それは、人の顔色を見て「場」の空気に従うという日本的な生き方、一言では、「集団同調主義」ではなく、その逆に、強い宗教=一神教に帰依するという宗教者としての生き方でもありませんでした。
 周りに合わせることは、「一般的なよい」に従う生き方ですし、一神教に帰依するのは、「絶対的なよい」を求める生き方ですが、
まったく正反対に見えるこの両者は、実は一つメダルの表裏で、一般的なよいに従う生き方が挫折すれば、絶対的なよいを求める心が生まれ、超越神への信仰に向かいます。

 正反対に見える「一般的」と「絶対的」は、共に自分の具体的経験に照らして自分で考える営みとは無縁で、「自分の頭を使って考えない」という点では同じ態度です。

 人生でのヒドイつますきや、あるいは、ロマン世界を現実に求めてしまう心に支配されると、絶対的な正しさを得たいという欲望が生じ、超越神を受け入れやすくします。宗教には関心が薄く科学好きの人は、科学的な真理を絶対と思い込みますが、これも形を変えた「絶対的なよい」を求める生き方です。科学は、認識する対象を狭く限り、できるだけ数量化して事象を表すことで一定の正確さ・客観性を獲得しますが、その方法ゆえに全体的・総合的な判断はできません。総合判断は、「人間のよき生のイメージ」に支えられなければ不可能ですから、主観性の知である恋知(哲学)の営みが必須です。
(注)主観性の知については、第二章の18~20ページをご覧ください。

  「人間のよい生とはなにか」の探求なしには、科学的認識を含む人間のさまざまな営みは宙に浮いてしまいますので、実人生に根が張れません。
 そうだからこそ、ソクラテスは、自然哲学からの180度の転回を果たし、善美に憧れ、真実を求める人間的な生の「問答による探求」に生涯をかけたのでした。自然哲学(自然の研究)を括弧に入れ、まず第一に取り込むべきは、人間の生き方(生の意味と価値の問題)であるとし、その営みをギリシャ語でphilen(恋愛)+sophia(知)=フィロソフィー(恋知)と造語したのです。

 ソクラテスの求めた「正しさ」とは、みなが言うからという「一般的な正しさ」ではなく、また、「絶対的な正しさ」でもありませんでした。それは、善美に憧れ真実を求める生き方がつくる正しさ=深く納得できる見方の提示でした。善美のイデアを神ならぬ人間は知ることができない、ただ、憧れ求めることができるだけだ、と言い、問答的思考法(ディアレクティケー)により、「普遍的な正しさ」=深く納得できる見方と考え方を生みだす努力を続けたのです。誰であれ人間は、絶対の真理を得ることはできないが、真実や善美のイデアに憧れ、探求することは可能で、それが最も優れた人間の生き方であると言いました。

 わたしもその通りと思います。私自身の子どもの頃からの経験と、40年以上にわたる多くのこどもたちとのホンネでの付き合いから、人間のよき生とは、善美に憧れ、心身の内側からの律動(リズム)と和声(ハーモニー)にもとづいて旋律(メロディー)を奏でることにあると思っています。いかに生きるかの探求を中心にしてあらゆる事象を判断する究極の座標軸は、善美に憧れ真実を探求する私の心にある、これは、人間の生の原理中の原理、と確信しています。外に超越的な神=絶対者を置かず、また、周りに合わす集団同調でもない第三の道、それが「恋知」の生です。

 繰り返しますが、集団同調による「一般的正しさ」ではなく、宗教的信念による「絶対的正しさ」でもない、第三の道である善美に憧れて深い納得をもたらす「普遍的正しさ」を求める営み、それが恋知(フィロソフィー)です。

 だいぶ昔のことですが、この三つの「正しさ」を小中学生向けに書いたことがありますが、これは、とても大事な三区分です。「正しさ」というと誤解を生む可能性もあるので、「よさ」と言いかえてもいいと思います。

1.絶対の正しさ   誰がなんと言おうとぼくの考えは絶対なんだ。とか、偉い人(または神様)が言ったことだからゼッタイなんだ。
2.一般的な正しさ   だいたいこんなところが正解だよ、みんなもそう言っているし。とか、千人からアンケートをとった結果このようになりました。
3.普遍的な正しさ  なるほど、そうだなあ、と深く納得する・腑に落ちる。

  哲学(恋知)で言う「正しさ」とは、3の普遍的なよいです。哲学(恋知)では、1の絶対の正しさというものは認めませんし、2の一般的な正しさでは満足しません。
 
3の「正さ」(よい)をつくるためには、疑い、試し、確かめること、自分の頭でよ~く考えたことを他の人に示すこと、これを何度も繰り返す必要があります。だんだんと自他が共に深くナットクする〈考え〉にきたえていく営みを「哲学(恋知)する」と言います。

 また、科学的な真理とは、この3(普遍的な正しさ「よい」)の一部分です。

  最後にオマケですが、この普遍的な「よい」を想い・考えるためにはどうするか、です。まず、遠くを見る習慣をつけること、とくに無定形なもの=青空や雲を見る習慣は一番よい方法です。視線・視点を無限遠にすると、既成の見方への囚われが減り、心の内からの声が聞こえ、イメージが浮かびます。外ではなく内発的に、内から立ち昇る人生のはじまりです。芸を仕込まれた自分ではなく、自身の内なる想いにつき、そこから考えること。それが何より素敵な生き方をつくります。

 また、心身も内側からを心がけることが必要です。体の中から、中心から外へという動きが大切。固くなり伸び伸びとした動きが減ると、思考も形式的になり言語にとらわれてイメージが豊かに広がりません。心も身体もこわばれば、思考は紋切型になり、有用な価値ある考えを生み出すことに失敗します。内から、内発的にです。

 


(2)ペリクレスとソクラテス


  では、以上の簡明な「人間の生の原理」を踏まえて、第3章ではわたしたちの近代市民社会を支える民主制と公共思想について記します。

  民主制の最初は、古代の大帝国ペルシャを打ち破ったギリシャ都市連合の中心であったアテネで、その最高実力者・ペリクレスの施政にあります。彼は、人々の「自由な気風」こそを第一として民主政治を宣言しました(最初の民主制は紀元前508年だが、ペリクレスにより強まる)。

 有名なペリクレスの演説(紀元前443年・52歳)から一部を記します。


「我らの政体は、他国を追随するものではない。人の理想を追うのではなく、人をして我が範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し、多数者の公平を守ることを旨とし、民主政治と呼ばれる。・・・・・
 我らはあくまで自由に公共につくす道をもち、また、生活において他人の猜疑心を恐れることなく、各々が自由な生活を享受する。・・・・

 また、戦いの訓練においても我らは、敵側よりも優れている。我らは、何人にもポリスを開放し、決して遠方の国の人々を追うことはない。
敵に見られては損をするという考えをもっていないので、学問・知識を人に拒んだことはない。なぜなら、我らが力と頼むのは、戦いの仕掛けや虚構ではなく、事を成さんとする我ら自身の敢然たる意欲をおいて他にはないからである。

 教育においても同様。彼らは、幼くして厳格な訓練を始めて、勇気の涵養に努めるが、我らは、自由な気風に育ちながら、彼らと対等な陣を備えて、危険にたじろぐことがない。ともあれ、過酷な訓練ではなく、自由の気風により、規律の強要によらず、勇気の気質の涵養による・・ここに我らの利点がある。

 我らは、質朴たる「美」を愛し、軟弱に堕することなき「知」を愛する。我らは、富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また、身の貧しさを認めることを恥としないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。

 我らは、国政の進むべき道に十分な判断をもつように心得る。我らのみは、公私領域の活動に関与せぬ者を閑を楽しむ者と言わず、ただ無益な人間と見なす。そして、我ら市民は、決議を求められれば判断を下しうるのはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。・・・

 また、我らは「徳」の心得においても一般とは異なる考えをもつ。我らのいう徳とは、人から受けるものではなく、人に施すものであり、これによって友を得る。・・これに反して、他人に仰いだ恩を返す者は、積極性を欠く。相手をよろこばせるためではなく、義理の負い目を払うに過ぎない。こうして我らのみが、利害損得にとらわれずに、自由人たる信念をもって、結果を恐れずに人を助ける。・・・・

 我らポリスの一人ひとりの市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己の知性の円熟を期することができる・・・・
 我らは、今日の世界のみならず、遠き末世に至るまで、世人の称賛の的となるであろう。」

 ーーーーーーーーーーーーー

 若きソクラテスは、この民主政治を宣言したペリクレスの愛人で才色兼備のアスパシア(自然哲学発祥の地・ミレトスの出身)が開いていたサロンに出入りしていたと伝えられています(ペリクレスの演説はソクラテスが26歳の時)。ソクラテスの師は、他にはプラトンの主著の一つ『饗宴』で、「愛」について教えを受けたというディオティマで、二人とも女性でした。

 「恋知」(philosophia)がソクラテスによる造語(それ以前は自然哲学)であったのと同じく、その少し前に生まれた「民主政治」もギリシャ語による造語です。demos(人々)+cracy(支配する)→デモクラシーで、両者は共に古代アテネの都市国家で生まれ、ほんらいは相互補完的な関係にあります。民主制と恋知(哲学)とは支え合うことで発展し現実性を持つのですが、ペリクレス死後に民主制が堕落して愚衆政治となったアテネでは、ソクラテスを刑死させるという愚を犯しました。 
 近現代史では、民主的なワイマール憲法下からヒトラーが誕生しましたが、世界で最も「理論哲学」が盛んだったドイツは、あっけなく堕ちたのです。20世紀最高の哲学者と言われたハイデガーは自らナチに入り、学生らにも入党を勧めたのでした。壮大な体系・難解な理屈の山・堅固な理論的構築物としての「哲学」は人間に有用な思考をさせず、かえって問題の所在を見えずらくさせてしまう証左です。
 人生や社会のさまざまな出来事の意味と価値をふつうのことばで考察する「恋知」の活動(子どもほど得意)が活発にならないと、民主制(市民主権による自治政治)をほんとうに機能させ発展させることは出来ません。

 ※ハイデガーは1966年に『シュピーゲル対話』で「哲学」の敗北宣言をしました。  彼は「従来の哲学の役目は、諸科学が果たし、サイバネティクスが哲学の座を占める。」  「われわれ人間は、何百年後かに現れる究極の神への心構えを準備するだけだ。」と  言いました。大学内哲学=専門知としての哲学はすでに命を終えています。

 それにしても、必然の神・アナンケを打ち破ったのが恋愛の神・エロースであったというギリシャ神話(「饗宴」の中でアガトンが語る)は、とても示唆に富むエピソードです。規律・掟を絶対とする「厳禁の精神」と人間味に溢れる「恋知と民主制の精神」とは対極です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つづく。

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社会は、みなでつくるもの。「高収入は高負担」は、民主的倫理の基本です。

2017-11-17 | 社会思想



社会は、その社会の成員みなでつくるものですから、
社会から多くの収入を得ている者は、社会に多くを返すのが常識で、それは倫理の基本です。

昨日のblogに記しました通り、基礎年金のための基金は、現在は年収800万円までは年収に応じていますが、それを超えるとそこで固定されてしまいます。高収入者になるほど負担割合が減っていきます。

同じ額の基礎年金しかもらわないのだから、そんなに払うのはおかしいというのが高収入者の言い分ですが、それは、社会人=公共人としては失格の思想です。

「高収入は高負担」は、民主的倫理の基本です。余裕のある者が倫理を踏まえた人生を歩まなくてよいのでしょうか。社会の中で人として生きる基本=民主的倫理を失うなら、その人の人生は、善美とは無縁となり、生きる意味・価値は減じていきます。

もし、年収800万円以上のサラリーマンも同じ割合で年金のために負担をするなら、数兆円がプラスされ、年金問題はほぼ解消します。

 

武田康弘

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お金の話1 日本の年金負担額のひどい不公平=高収入者への優遇をなくせば、問題はすぐに解決する。

2017-11-16 | 社会批評



いまの年金制度では、年間所得800万円以上は保険料率が上がりませんので、高収入者は収入に応じた負担をしていません。

例えば年収3000万かそれ以上をもらう日銀幹部たちは、収入に較べればわずかの保険料しか支払っていないのです。

800万円以上のサラリーマンは10数パーセントいるので、保険料率を同じにすれば、数兆円以上のプラスになるでしょうから、それだけで年金問題は、ほとんど解決してしまいます。

高額所得者の優遇をやめ、平等な負担にすればよいのです。年金は、社会皆の互助精神で成り立つ民主国家の基盤です。



お金持ちをますますお金持ちさせるのがいまの日本政府の方針です。

これから、官僚政府が流す「真っ赤なウソ」を少しづつ確かめて書いていこうと思います。


武田康弘

 

 

 

社会は、みなでつくるもの。「高収入は高負担」は、民主的倫理の基本です。




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狂気に走る『週刊文春』--山尾氏へのねつ造記事  小林よしのり

2017-11-16 | 社会批評
以下は、マンガ家の小林よしのりさんのblogです。
生情報で、事のいきさつがよく分かります。
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2017.11.13(月)

狂気に走る週刊文春(その1)

 

昨日(12日)大阪で開催した「関西ゴー宣道場」は山尾志桜里、倉持麟太郎が公の場で始めて同席し、その様子はニコ生で生中継されたが、近々、全編動画配信もされる。

道場終了後、わしは合気道の達人のボディガードと共に、山尾氏を送って会場の外に出て、タクシーを拾って乗車させた。
そのとき、すでに週刊文春の記者が尾行していたのだが、人通りが多いため、気づかなかった。

山尾氏は大阪の友だちの家に行き、以後一歩も外出せず、今日、新幹線で帰ったのだが、東京駅に着いて山尾氏がホームに降りた途端、週刊文集の男女記者二名が襲撃してきた。
呆れたことに同じ新幹線に乗っていたのだ。
つまり山尾氏の友人宅から記者は尾行していたことになる。
それで発した言葉が
「大阪で倉持さんと泊まりましたよね?」だ。

昨夕、わしが山尾氏を送って行ったあと、倉持氏は「ゴー宣道場」師範たちと、その日の感想を述べ合う動画収録を行ない、その後は我々と設営隊メンバーの慰労会に顔を出し、その後、師範だけの反省会に移動した。

その後は高森・笹・泉美・倉持と共に、わしが予約したホテルに帰った。
どうやらこれは、週刊文春記者は把握していなかったようだ。

さきほど6時過ぎ、週刊文春のストーカーチームのデスク・赤石晋一郎がわしに電話してきて
「倉持氏はどこのホテルに泊まったのですか?」
と聞いてきた。
「わしが予約したホテルだが教えない。他の師範と同じホテルだ」
と応えてやった。
(山尾氏が)「大阪で倉持さんと泊まりましたよね?」という決めつけは、何の根拠もないねつ造なのだ。

昨夜、ホテルに帰ったあとも、倉持氏は友人の記者を呼び、高森氏と3人で、深夜までバーで酒を飲んでいた。
翌日、倉持氏は友人の告別式があるので、朝早く一人で帰った。

さて、東京駅で山尾氏を襲撃した週刊文集の記者たちは、改札までずっと質問しながらついてきて、山尾氏がタクシーに乗るとやっと諦めた。


(柱の左にいるニット帽の男がカメラマン)


(真ん中、壁際にいる大きなバッグの女が神田知子という記者)

「大阪で倉持さんと泊まりましたよね?」
記者たちは山尾氏を昨夜から尾行して来たくせに、そういうでっち上げの記事を書こうとしている。

週刊文春から山尾氏事務所に来た質問書には
〈昨日(11月12日)、山尾先生は「ゴー宣道場」に出演された後、大阪で倉持麟太郎弁護士と一緒に宿泊していましたが、間違いございませんか。〉
神田知子の名で、書いてある。
「一緒に宿泊していましたが」と既成事実のように書いているのだから狂っている。
大阪での証人が、山尾にも、倉持にも、複数いるのに、それでも嘘をねつ造しようとする狂気はもう常軌を逸している。

さらに追加質問で
〈山尾先生は大阪にはどのような目的、日程で出張されたのでしょうか。お答え下さい。〉
とファックスしてきているのだ。これも神田知子だ。

そんなクダラナイ質問に応える必要もないが、「ゴー宣道場」に登壇するために決まっているじゃないか!
週刊文春、もう完全に狂っている!
いくら山尾志桜里をつけ狙っても、絶対に100%、不倫を証明する事実は発見できない!
記事が出たとしたら、それはねつ造である!

二人とも、わしに迷惑は二度とかけないと誓っているし、二人の今の目標は「立憲主義に基づく憲法改正」、「現実主義的、平和憲法の完成」、これだけだ!

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2017.11.13(月)

狂気に走る週刊文春(その2)

 

週刊文春の山尾志桜里ストーカーチームのデスク・赤石晋一郎が今日(13日)の6時ごろ電話してきて一時間くらい話したが、同じ内容の繰り返しばっかり。
ついにキレて怒鳴ってしまった。 

「大阪で山尾が倉持とホテルに泊まった」というデマ記事を書こうとしていた赤石に、わしは聞いた。
「山尾氏と倉持氏が同席した『ゴー宣道場』は見たのか?」
赤石は「最初のうちはちょっと見ましたが・・」と答え、結局、「ゴー宣道場」の議論は何も見ていないのだ。

憲法改正に関する興味は全然ない。
彼の興味はただ不倫疑惑の決定的証拠だけ! 

実は先週土曜日には、わしは赤石と初めて直接会った。
なんとか収束させたいと手打ちを匂わせるのだが、その条件は山尾氏の「自白」「謝罪」だ。

「そうすれば終わるのです。私も終わらせたいのです」 

「小林さんが本気で憲法改正を考えている気持ちは分かります」 

「私は小林さんの本気を邪魔する気はないんです」 

「山尾氏が謝罪すれば、自由に仕事が出来るじゃないですか」

「週刊文春で、小林さんと山尾さんが対談して、その中で謝罪するというのはどうですか?」

「山尾は嘘をついている。我々に挑戦している」

「神奈川新聞で、あんなに堂々と政策顧問にすると発言するなんて、我々への挑戦だ」

「大したタマだ、山尾は!」

「大したタマだ」という言葉には驚いた。
本気で敵意を持っているようだ。 

週刊文春は明らかに焦っている。
それがなぜだか分からない。

山尾志桜里のバッシング記事を載せろという読者の要望が多いのか?
山尾志桜里を潰せという安倍政権の依頼でもあるのか?
とにかく奴らは何かに追い詰められている感じだ。 

わしは赤石に言った。 

「もうおまえたちの目的は達成されてるじゃないか。ほとんどのマスコミとコメンテーターと芸能人が山尾志桜里を大バッシングしている。」

「ビートたけしも和田アキ子もボロクソに言ってるじゃないか。」 

「中世の魔女狩りと全く同じ現象が起こっている。」

「自白しろ、自白しろと、法を犯したわけでもない、他人には何の関係もない二人の『不倫疑惑』を、大衆はもうとっくに事実だと信じ込み、全員で自白を強要する集団リンチを行なっている。」

「自白強要こそ犯罪ではないか!」

「この魔女狩りをもっと煽りたいのか?なぜそこまでしたい?」

だが赤石晋一郎には通じない。
今日も一時間話したが、同じ内容の繰り返しだ。
「山尾は嘘をついた。我々は正しい。山尾は挑戦してきた。」
「だから自白しろ。謝罪しろ。」
それだけなのだ。

なんという志の低い、下半身至上主義なのか! 

10人か20人か知らないが、膨大なカネを注ぎ込んで、他人の下半身の行方を追っている惨めな連中・・・
わしは一年でも二年でもカネを注ぎ込めばいいと思ってしまうが、やはり山尾氏は仕事がしにくいだろうし、プライバシーの侵害が尋常ではない。
なにしろ山尾氏の夫の両親にまで、取材という名の嫌がらせをやっているのだから。

ゴロツキなのだ。
関係者が迷惑して山尾・倉持から離反するように、嫌がらせを続けるから伸び伸びと生活できない。

ストーカー規制法で罰することはできないものか?
週刊文春という姦通罪雑誌は、もはや焦りまくって、何かに憑りつかれて暴走している。
オウム信者がサリンを撒いたときの集団心理にそっくりだ。
山尾・倉持は「ポア」していい存在と信じ込んでいる。

奴らは危険だ!
姦通罪真理教に嵌っている!

--------------

 

2017.11.14(火)

 

狂気に走った週刊文春(その3)

 

週刊文春・編集部に激震が走っている。
わしが書いたブログ「狂気に走った週刊文春」(その1)(その2)の内容で、ストーカーの名前も写真も暴露されて、大恥をかくことになったからだ。

尾行写真をさらされるのは、股間をさらされるほどの屈辱であり、地獄だと、知人の記者が言っていた。
本来、クビにしなければならないほどの失敗なのだ。 

週刊文春の記事より、週刊文春を追及するわしのブログの方が刺激的だという感想が続々届いている。

 「ゴー宣道場」のブログ閲覧は毎日2万人、わしの個人ホームページは2万人以上、「BLOGOS」には個人ホームページから転載されるが、早くも記事ランキングで1位になっている。 

 マスコミ関係者も、一般の読者も、この「狂気に走った週刊文春」(その1)(その2)をガンガン拡散して欲しい。
こんな面白い記事はないし、これからもっと面白いドラマが見られるぞ!
観客が盛り上げてくれ。 

さて本日、誰にも公表していない倉持麟太郎氏のプライベートなアドレスに、週刊文春の赤石晋一郎から直接メールが届いた。
それがこれだ!

 

 

わしのブログに解答が書いてあるのに、どうしても「ゴー宣道場」以外の目的があったと書きたいらしい。
妄想にとりつかれて、わしの答えを信じなくなっているのか?
そして今週発売の週刊文春は、どうしても112日を「疑惑の日」として描きたいようだ。
つまり、他にネタがないのだ!
ネタがないから、でっち上げ記事を書くしかなくなっている! 

 政策顧問の報酬云々は、当然そこに疑念を持たれることも想定済みなので、間違いのないようやっている。
当たり前だろ、これ。 

 「なぜ偽りの事実を答えているのか」って、立証責任はお前ら週刊文春の側にあるんじゃないか!
疑われた人間が立証しろって、狂ってるのか!?
「自白強要はやめろ!」と赤石には、何度も何度も言ったのに、まだ「自白強要」をやっている。

 つまり「自白」させるしか打つ手がなくなっているのだ!
「自白」か「でっち上げ記事」、この二つしか手段がない。 

 このブログを書いてる最中、12時前に、また赤石本人が倉持事務所にやってきた。
今日の締め切りに合わせて、もう必死である。

嘘をでっち上げたい。
だが、わしのブログですべて暴露された。
どうすりゃいいんだ――――――――!? 

 木曜には泉美木蘭さんと生放送をやる。
まだまだ奴らの件で、知られていない事実の弾丸をいっぱい持っている。
もちろん赤石の写真も持っているが、まだ隠し持っておく。 

 週刊文春の内部情報は、わしの個人ホームページに送ってくれ。
わしの攻撃は止むことはない。
奴らが謝罪するまで!

 

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オイゲン・ヨッフムとジョナサン・ノットのモーツァルトは、共に最高の名演=愉悦。

2017-11-15 | 芸術

 この二人に共通するのは、豊かな力があり、生命感に満ち、濃やかさニュアンスに富む愉悦の音楽であることです。オリジナルにして自信に満ちています。

 わたしが、過去一番好きだった演奏がヨッフムでした。ノットの指揮は若々しく現代的ですが、ヨッフムと似ていて、自然と身体が動いてしまう嬉しさいっぱいのモーツァルトです。音も外面の輝きではなく、内からの明るさと美しさに溢れるものです。

 実演でCDはありませんが、ノット・東響の先月の39番の交響曲、昨年12月のコジ・ファン・トゥッテ全曲は、共に最高の名演で、痺れて鳥肌が立ちっぱなしになりました。

 理論や知識があって音楽があるのではなく、真っ直ぐに音楽があるのです。もうどうしようもなく音楽がいっぱい。生きた音楽を可能するために知があります。日本のクラシックにありがちな本末転倒の真面目ではなく、恋愛における真面目と同じで、エロースを基盤としますから、とても色気があり人間的魅力に溢れます。

 そういえば、昨年のノットのブルックナー8番も最高!でしたが(ライブのSACDが出ました)その時もヨッフムを思い起こし、そう書きました。不思議なことに、ヨッフムもノットもバンベルク交響楽団の常任でした。なにか深い縁があるようです。

 音楽は情熱であり愉悦であり心身の高揚です。ヨッフムはもうだいぶ前に亡くなりましたが、ノットは50歳代、元気溌剌で、まだ6年間も東京交響楽団で聴けます。六本木のサントリーホールで、川崎ミューザで、新宿のオペラハウスで。なんという幸せ。いま、東響の能力=音と技量も欧州の実力あるオケと同等です。

ヨッフム・バンベルク響のモーツァルトの交響曲集 33.35.36.38 で39はない)



武田康弘

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テレビ朝日が一丸となって「山尾バッシング」ー小沢さんの人物破壊と同じ、恐ろしいテレビ局。

2017-11-13 | 社会批評

10時25分からのテレ朝「スクランブル」で、

公私の区別をしたいなら、政治家としての活動とプライベートを分けたいと山尾さんが考えているなら、政治家をおやめになるべき」!?!?

これが、定席コメンテーターの弁護士の結論で、司会者と3人のコメンテーターも全員声をそろえて、山尾バッシングで険しい顔、

小沢一郎への長期にわたる執拗な人物破壊を先導したテレビ局は、今度は山尾しおりをターゲットにして、みな道徳者=善人風を吹かせて、聞いていられないほどの罵詈雑言。知性派ぶった上記の弁護士は、「だいたい山尾さんの発言をそんなに紹介する必要はないはず」とまで言い放つ。

どこの国なのか?北朝鮮ではあるまいし、と思い寒気がしましたこういうヒステリックな発言は、他のテレビ局でもあるのでしょうが、先陣を切って人権侵害の人物破壊を仕掛けるのはどうもテレビ朝日が多いように思います。なぜ? 他者を激しく攻撃することで、自分たちは善人と思えるから(笑呆)「民主的倫理」とは無縁です。


以下は、一月半前の「東京新聞」です。
(資料提供は金澤修さん)


 

=========

補足として、「性」の本質論を簡潔に記してみます。

性をどのように想い、どのように遇するかは、実は倫理の問題ではないのです。
倫理は関係性から生まれるもの=つくられるものであり、性への個人の想いや態度は、その人の絶対自由の領域で、他者が口をはさむことが出来ません。
その人の性的し好それ自体は(他者の人権を侵さない限り)倫理以前の各人の固有性で、評価や批評が不可能な世界です。「語り得ぬものには沈黙しなければならない」)
性(性交以外をも含む広義の性=心身の愛の交歓)を営む二人の間での合意が得られれば、どのようなありようもすべてOKで「よい」のです。
だから、公共領域で倫理として考察したり主題化したりすることは不可能です。
性(広義の)は究極のプライベート領域で、これを侵すことは誰にもできません。
そういう領域を持つ(持てる)から個人のエロース領域は最も深い人間性の根拠になり、通常の学や知の領域を超えて、すべての有を支える無(それがほんらいのフィロソフィー=恋知)ともなるのです。
このような立体視と逆説的真理が分からなければ、人間存在については何も語ることは出来ません。
これは人間の生の原理中の原理なのです。

武田康弘

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民主的倫理とは何か?  一例として「さん」「くん」「先生」

2017-11-10 | 恋知(哲学)

民主的倫理とは、
形式としての倫理、外からの押しつけとしての道徳、上下関係に基づく倫理思想とは根本的に異なるもので、
内容としての倫理、ふつうの生活者の納得が得られる自然性をもちます。

それは、人はみな等しく「唯我独尊」として生まれてきたというブッダの根本思想に基づく倫理ですし、
日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」を現実化する倫理です。

こうした倫理を踏まえることは、民主政治が行われる前提であり、同時に民主政治を可能にする条件でもあります。特権者や絶対者はいないというのが自治政治=民主政治の根本ですので、政治のあるべき姿は、民主共和制となります。

民主的倫理を知り守りそれに従う人生は、よろこびと充実をもたらし、生きる意味の濃い生活をつくります。自由と平等を現実化するのは民主的倫理に基づく人生です。個人生活においても社会生活においてもです。人生の意味と価値を豊かにし、互いに楽しく生きるための倫理、それが民主的倫理です。



一例として呼称。「さん」「くん」「先生」などについて言えば、

すべてを「さん」付けで統一するという形の上の平等とは違います。

討論の場では、経験のあるなし、年齢の上下などに無関係に「さん」付けで統一しなければなりませんが、
教場では、教える人には「先生」と呼ぶのがふさわしいのです。もちろん強制はいけませんが、教えるのと教わるのとは立場が異なります。教場では種々の責任は教える側にあり、先生はその役割を担う人ですから、それなりの敬称には意味があります。

内容で考えれば、機械的な「さん」付けが民主的とは言えません。
幼いころから親しくしている間柄では、「君(くん)」付けがふさわしいこともあります。

要は、実際の人間関係のありようを反映して、それにふさわしい呼び名にすることです。
議員に「先生」付けは、笑話でしかなく、論外です。主権者の代行者を「先生」と呼ぶのは、愚かの証拠にしかなりません。

民主的倫理とは、形式ではありませんので、なんでも「一律」ではないのです。
中身・内容としてのよき自他の関係を考えて行為することがポイントです。

 (補足)
わたしの息子は、小学5年生になるときに、「ぼくはお父さんの塾に行くことにしたよ。」と言い(なんでも自分で決める性格)通うことになりましたが、驚いたことに、はじめての日に、わたしを「先生!」と呼んだのです。「お父さん」と呼ばずに「先生」と言われて、わたしは、あ~、なるほどね、と感心してしまいました。確かに、教場では「お父さん」ではなく「先生」なのだよな~

英語の教科書では、先生も「ミスター」で、文化の違いですが、日本ではなじまないのではないでしょうか。教場でも先生を「さん」付けするという合意ができれば、そう変えてもいいとは思いますが、少なくとも今は無理でしょう。愛称で呼ぶのはよいと思いますし、また大学や大学院になれば、「さん」付けはあり得るでしょう。


武田康弘


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恋知の話(1)~(4)「基本道徳の一例」から、「意味と本質を知る営み」まで。

2017-11-08 | 恋知(哲学)

恋知の話(1)前提は民主的倫理・道徳を身につけることです。

2017-11-06 | 恋知(哲学)

 

誰であれ、基本道徳・倫理がないと、よきものは何も生まず、不幸です。


 経験の豊かな人の話をまず謙虚に聞く。
そういう態度があり、それをしっかり実行した上で
自分の感じ、想い、考えることをきちんと伝える努力をすることが必要です。

 人に話しをするときは、誰であれ、心を持って話すこと。
冷たい態度や慇懃無礼な態度を取るのは、一番いけないことであり、道徳・倫理の基本に反します。

 人が訪ねてきたときに門前払いにするのは厳禁です。失礼極まる態度であり、そういう人に幸福が来ることはないでしょう。
玄関の中に入ってもらい、それから話をするのです。こういう常識すら弁えない人では、どうしようもありません。

 ざっくばらんな飾らない態度はよいですが、それは、ぞんざいであること、無礼であることとは違います。優しい心遣いがない人であっては、自他を共に不幸にします。

 いまの日本には、恩を忘れる、それどころか恩をアダで返すような人が後を断ちませんが、それでは、言葉もありません。

 内容的に乏しいことや非人間的であることを、形式を踏まえることで誤魔化(ごまか)すのが、ほんとうの非礼・無礼というものです。それは民主的倫理とは無縁の態度であり、よき生の障害です。「恋知の生」は、それとは逆で、形式主義を排して、内容を豊かで濃いものにしようとする生き方です。そのためには民主的倫理・道徳を身に付けることが必須です。

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恋知の話(2)他者への迎合ではなく、自己のよき考えを貫くこと。関係性以上のもの。

2017-11-05 | 恋知(哲学)

 身内であれ他人であれ、他者の意に合わせてしまう、
関係性をよくするために、他者の意向に迎合する、忖度する(笑)

という生き方は、納得を生まず、よろこびを生まず、人間の生きる価値を減じます。

エゴという意味はでない自分をしっかり貫くこと。
自分の五感につきよく考え、普遍性のある考え方を育てること。

目先の損得や利害を超え、関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫くことがないと、人生は価値あるものになりません。

近い人であれ遠い人であれ、闘うべきは闘わないと、生きている意味が薄まり、やがては消えていきます。
関係性の齟齬(そご)を避けようとする弱い精神は、よきものを何も生まず、生きるよろこびの少ない灰色の人生と社会を生むだけです。

平板でつまらない人生、管理主義で息がつまる社会、エロースに乏しい魅力のない世界は、闘うことを忘れ、自分から発するよきもの=普遍性を貫かない人々がつくります。

 

繰り返します。

関係性を害するかとビクビクするのではなく、しっかり対話し、よく吟味された「ほんとう」を貫く という基本的な姿勢をもたなければ、関係性は、必ず仲間主義・家族主義・同調主義にしかなりません。善美とは無縁のつまらない世界です。

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恋知の話(3)よい心、困った心。内からのよろこびの人生=「恋知」を始めよう~~

2017-11-04 | 恋知(哲学)

 

広々と開かれた世界へ。
明るさ・楽しさのある生き方に。
嬉しさが増す人間関係を。
面白みとよろこびの多い生活へ。
意味の濃い人生に。
前向きで豊かな精神を。

率直に意見を聞き合い、言い合える開かれた自己へ。

一番いけないのは、
他者を拒絶する心。
人を切ること。
耳を傾けないこと。
固く閉じた自己。
その閉じた自我を防衛するためにつく誤魔化(ごまか)しと嘘と捏造(ねつぞう)。
それは、嫌な人間関係を固定化し、問題の解決を不可能にします。

仲間以外は受け入れない閉じた人として生きているあなた、
閉じた家庭環境の中で生きている(生きざるをえない)あなた、
まず、他者を受け入れる表情や態度や話し方(声)を工夫してみましょう~~~~


ぎこちなくてもよいので、やわらかく、楽しげな表情をつくる練習を鏡の前で毎日してみてください。
にこやかな表情で周りの人に話す実践を少しづつはじめてみましょう。
自分が、わたしの家が、自国が、信仰が、に拘(こだわ)らずに、頭から心身から力を抜いて、遠く(とりわけ雲や空)を見て、広々とした気持ちのよい世界を想うのです。

楽しく開かれたイメージを他者に与える表情や言動は、自他をともに幸せにしますから、なによりお得で、徳を生みます。
情緒音痴の尖がり顔や無表情は、一つの得も徳もつくらず、自分も他者もみなを不幸にします。


心の内からのよろこびを生きるのは、人生の最大の価値ですが、そのためには、ちょっとした心構えと日々の練習があればよい、と思います。はじめてみませんか?

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恋知の話(4)「目の前主義」の現代人、意味・本質を知ろうとする努力がないと、底なしの不幸です。

2017-11-01 | 恋知(哲学)

 

 「〇〇とは何か」という本質を知るためには、意味としてのつながりを理解しようとする気持ちがないとできません。
 本質とか原理は、直接見ることができませんから、五感で感じ知ったことから類推したり考えることをしないと、意味を捉えることは不可能です。

 それには、直観に基づきつつ、いま見えるものがそのようになった時間的な変化を知ることが必要です。つながりを知り、そこからその事象を捉えようとする営みがないと、目の前にあることの意味・本質はつかめません。

 しかし、いま、多くの人が(とりわけ管理教育世代以降は顕著)、目の前の事態を知ること以上はしない傾向にあります。時間的な変遷を知り、事象の意味をしっかり掴(つか)もうとしないのです。そういう作業は、うっとうしい、分からない、めんどうだ、という人が多く、彼らは、内容のある話を真剣に聴き考えてみることから逃げてしまいます。

 その時その場の「快」「不快」でのみ生きるので、生き方・考え方は、単線的になり、結果主義になります。

 プロセス=時間的経緯とその意味を捉えようとする営みがないと、人間にとって価値ある認識ができないのですが、そのことが分からず、「好きと嫌い」と「快と不快」のレベルから進めないので、内面世界が豊かになりません。

 判断も行動も反射的でしかなく、精神的な深みや大きさとは無縁のまま生きてしまいます。

 したがって、事象の本質を知ろうとせず、分かりやすい結果を追いかけることになりますが、それは精神世界をもつ存在である人間にとって底知れない不幸です。とても残念な生き方で、生の失敗とさえ言えます。

 現代は、お金をいくらもっているか、どれほどの権力を行使できるか、また、物やサービスという目の前に見えるものだけが価値だという風潮がありますが、それでは、人間の豊かな生は拓けず、即物的な存在にしかなれません。それは恐ろしい悲劇です。観念存在である人間は、物質的欠乏には耐えられても、意味の不足には耐えられないからです。

 時間をかけ、手間暇をかけ、結果ではなく過程を大切にし、じっくりしっかり生きること。個々の事実に振り回されずに、事象の意味を知り、本質を捉える努力をし、考えることを人生に組み込まないと、永遠に不幸です。価値ある自分の人生がはじまりません。例え巨万の富があろうとも、それは何の関係もないことです。

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金ピカ、派手派手、北の問題も商売第一に考える賢い!?トランプ大統領にうっとりのアベのニッポン丸でした。

2017-11-07 | 社会批評

ただ商売第一、米国第一、論評する意味もないトランプ大統領の金もうけ至上主義に、これまた、財界に金をためる(史上最高額)アベノミクスの安倍首相。お年寄り二人が意気軒高で、安倍晋三君はオオハシャギ、それをテレビがよいしょする(忖度忖度・笑)。

海外メディアは冷静ですが、日本には相変わらず理性はない、のでしょう。アメリカ金ピカに身も心もみ~んな差し上げます。北朝鮮なんか、ジャイアンのアメリカが超強力武力で一ひねり。ニッポンの自衛隊も一緒に頑張らせてね、とは安倍君の弁。せっかく憲法違反の安保法案つくって、集団的自衛権(アメリカ軍の戦争に参加できる権利)を行使できるように僕ちゃんが変えたのだから~~

北へはどんどん制裁かけよう!国連以上のアメリカもやらない日本独自の制裁もどんどんやる。すでに決定しました、トランプさんよろこんでください。

よしよし、北の怒りをアメリカだけでなく、日本にも向けさせて、日本を矢面にする戦略、まんまと成功安倍よ。お前はいい奴だな、日本に北のミサイル実験を妨害させ、もし撃ち落としを成功させれば、いよいよ北vs日本だ、これはいい!最高のシナリオだ。なによりいい商売になる。日本がダメ-ージを受ければ、復興特需でわがアメリカの赤字は解消、大黒字に転じるぞ。米軍ではなく日本が戦わざるを得なくする、それで、米軍が助けて北を壊滅できれば、日本はまたまたアメリカさまさまで、未来永劫安泰じゃ。そういうシナリオもある、それが「あらゆる可能性を排除しない」という意味さ。

とにかくアメリカアメリカ。アメリカなくして日本はなし、を日本のみなさんはよく分かって頂きたい、まあ、日本のマスメディアの方は、わがアメリカの嫌なメディアとは違い、よ~~く心得ているようだが。


商売第一のトランプ大統領は、とぼけ顔でしたたかに計算しています。戦争も含めて全部商売です、その徹底性を知らないと、損は全部日本が被ります、北の脅威!?も商売に活用するトランプ流を知らないと、さあ、タイへン。


武田康弘

 

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ガンバレ!山尾さん 卑劣極まるな「人物破壊」攻撃に負けるな!悪しき精神風土を変えるためにも。

2017-11-07 | 社会批評

以下は、神奈川新聞より転写。

衆院議員の山尾志桜里氏(43)=愛知7区=の事務所の政策顧問に、週刊誌などで関係が報道された弁護士の倉持麟太郎氏(34)が近く就任することが6日分かった。改憲を目指す安倍晋三政権に対抗する上で、憲法や安全保障問題で政策の方向性が一致する倉持氏との連携が不可欠として決断した。


 山尾氏は立憲民主党の衆院会派に所属し、衆院憲法審査会では同会派委員として改憲論議を率いる見通し。

 山尾氏は民進党政調会長に就任した2016年3月から、天皇陛下の退位問題や「共謀罪法」審議などで倉持氏から助言を受けてきた。倉持氏との関係が報じられたことし9月に民進党を離党、総選挙では無所属候補として3選を果たした。

 安倍首相が20年の新憲法施行の方針を示す中、神奈川新聞社の取材に「改憲論議に真っ向から向き合って首相案をはねのけるためには、今後も倉持氏からサポートを受ける必要があると判断した」と述べた。

 検察官出身の山尾氏は09年衆院選で初当選、12年に落選したものの14年に再選した。法律論や憲法論の素養があるとして、衆院法務委員会理事や憲法審査会委員などを歴任。15年には安全保障法制の審議で政権を追及、17年には「共謀罪法」に反対の論陣を張った。また16年には匿名ブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」を取り上げ、安倍首相に待機児童問題に取り組むよう迫った。

山尾氏が語る(上) むき出しの好奇心になど「屈しない」 

 週刊誌やテレビのワイドショーから熾烈(しれつ)なメディアスクラム(集団的過熱取材)を受けた衆院議員、山尾志桜里氏(43)は孤高の境地に立っていた。「安倍晋三政権と対峙(たいじ)するために必要なサポートを全て使う」。焦眉の急である「憲法改正」と待機児童問題を主戦場と見定め、過熱報道された弁護士、倉持(くらもち)麟太郎(りんたろう)氏(34)からもあらためて政策顧問としてサポートを受ける。女性政治家ゆえにプライバシーに土足で踏み込まれる風潮に真っ向から抗(あらが)うことに、もう迷いはない。「むき出しの好奇心になど屈しない」

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 週刊誌報道から2カ月がたった。この間に私は離党し無所属となり、そして出馬し戦った。その過程で相当な葛藤があった。「公私にラインを引く」というスタイルが、どこまで社会的に認められるのか。

 悩み抜いた末の結論は、公の政治家としての私は、政策や政治哲学、姿勢についてはできる限り率直に答えるが、一方で「私」の部分に一定のラインを引くことに変わりはないということだった。

 直後の記者会見などで私は「男女の関係はない」と答えたが、そうしたことを答える必要さえなかったと今は思う。

■働く女性への視線

 選挙後、国会に向かう通勤中の路上で、週刊誌の記者を名乗る男からいきなり、「家の前から後をつけてきました」と声をかけられた。レコーダーを突き付けられてこう問われた。

 「男女の関係はあったのですか」「本当に関係はなかったのですか」。さらに「離婚はしたのですか」-。

 数多くの一般の人々が行き交う衆人環視の下、大きな声でしつこく繰り返し問われた。私はこれまで通り電車で通勤している。普通に考えてみてもらいたい。歩いていて、突然レコーダーを突き付けられ、そんな私的なことを問われる異常さを。

 いったい何の目的で、何の情報を、誰に提供しようと考え、私にそうしたことを問うているのか。

 つまりは「むき出しの好奇心を満たせ」「まだ満たされていないのだ。だから満たせ」と繰り返しているわけだ。

 私へのその問いは、どのようにして社会の役に立つのだろうか。政治家としての私を評価する上で、一体何の判断基準になるというのか。

 私は10年前に検事を辞めて政治家になり初めて女性政治家ならではの不条理に直面した。「いまお子さんを誰が見ていますか」「家でお料理しているところを撮らせてください」「子どもと一緒にいるところを取材させてください」

 働く女性は子育てや家庭にどう関わっているかを問われ続けている。女性政治家はさらに、それを見える形で世に示せと迫られる。取材者たちはおそらく良かれと思って聞いているのかもしれない。「大変でしょう」という共感。いたわりの気持ちを込めているのかもしれない。

 私は、「ミルク代を稼がなければならないので」などと笑って切り返したり、「いまは母が、夫が見ています」などと答える。場の雰囲気を慎重に感じ取り、それに合った回答をしてきた。

 家事や育児を巡って本来なら気にする必要のないはずの自責の念を常に感じることを求められ、しかもそれを対外的にどう表現するのかを問われ続けるというプレッシャー。

 子どもがいる男性議員は取材者から再三そんなことを聞かれているのだろうか。その懐疑から私はよほどの必要のない限り家族の話を外に出さないできた。家の中にカメラを入れたことはない。公の政治家としての仕事ぶりで評価を得たいと思い、意図的に「家庭」と、「政治家・山尾志桜里」を切り離しここまでやってきた。

■倒錯するメディア

 世界各国の男女平等の度合いを示すランキングで日本が三つ順位を落とした。調査対象144カ国のうち114位。世界経済フォーラム(WEF)が2日発表した2017年版の「ジェンダー・ギャップ指数」だ。下落した大きな要因は政治分野への女性の進出が遅れているためだという。

 日本ではとりわけ女性政治家が社会の好奇の目にさらされる。そのプレッシャーはすさまじいもので、あらためてそのことを今回当事者となり実感した。

 そうした圧力に対し、その都度、自分の信念を曲げて屈していたら、政治家を志す女性は今後増えるはずがない。だから私は政治の世界は公私を分け、政治家としての努力と実力のみで評価されるべきだと問いたい。

 一方で、今回の総選挙ではこれまでの主義主張をねじ曲げた候補者が少なからずいた。ゴシップ報道には熱を上げる取材者たちはしかし、その理由をしつこくただしたか。

 私は選挙後に立憲民主党の会派に加わったが、立憲民主党は「消費増税」の凍結を打ち出している。選挙戦で「消費増税は避けられない」という立場を明確にしつつ「憲法観や安全保障観など政策全般では立憲民主党と方向性は同じだ」と訴えた。

 私に問うべきは男女関係の有無などという下品な質問ではなく、主要政策の方向性は同じでありながら増税についてのスタンスが異なるように見える理由や詳細な説明ではなかったのか。

 「禊(みそ)ぎ」という言葉にも強い違和感があった。選挙に勝ったからといって「禊ぎ」が済むことなどないと私は思っている。今回報道された私の不注意な行動については、選挙に勝とうが負けようが、私がどこまでも背負っていく。ただそれだけの話だ。

 多くの取材者は「個」であるはずだ。しかし私への取材で記者たちは少なからず枕ことばでこう言った。

 「私は聞きたくはないのですが…」「ここにいる全員が知りたいと思うので質問します」

 あるいはマイクを切った後でこう言った。

 「こんなことを聞いて申し訳ありませんでした」「本当はこんなこと、どうでもいいことだと分かっています」「上司に聞いてこいと言われて…」

 みんな人のせいにする。

 そうじゃないだろう。一人のプロの職業人として「こんな質問すべきだろうか」と胸に手を当てて考えてもらいたい。

■総力で改憲に対峙

 これから国会では憲法改正が極めて重要な焦点となる。
 これまで私は報道で取りざたされた倉持氏とともに「共謀罪法」や天皇の皇位継承問題などについて取り組んできた。政策ブレーンとして協議を重ね国会での質問を準備し、論点を整理してきた。

 今回の当選で私に負託されたのは、待機児童問題と憲法問題に取り組むことだと心している。

 戦後政治の中で重大な局面を迎える今後1~2年は政治家にとって正念場だ。いま私の頭の中にあるのはこれから始まる「3期目」のことだけだ。そうした中で得られるサポートは全て受けようと考えている。

 私は山尾事務所の政策顧問として倉持氏のサポートを引き続き受けるつもりだ。同氏も応じている。政策立案の共同作業には継続性が欠かせない。これまで私が取り組んできた政治課題、哲学、価値観というものを倉持氏とは共有している。この2カ月間、私一人では政策立案が停滞し支障が出ていることからも、サポートを受け続ける必要があると判断した。

 私は3期目の仕事を全うする。憲法問題はその中核を占める。改憲に対峙する上で必要なサポートを全て受け、安倍政権に立ち向かうつもりだ。

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恋知の話  前提は民主的倫理・道徳を身につけることです。

2017-11-06 | 恋知(哲学)

 

 誰であれ、基本道徳・倫理がないと、よきものは何も生まず、不幸です。


 経験の豊かな人の話をまず謙虚に聞く。
そういう態度があり、それをしっかり実行した上で
自分の感じ、想い、考えることをきちんと伝える努力をすることが必要です。

 人に話しをするときは、誰であれ、心を持って話すこと。
冷たい態度や慇懃無礼な態度を取るのは、一番いけないことであり、道徳・倫理の基本に反します。

 人が訪ねてきたときに門前払いにするのは厳禁です。失礼極まる態度であり、そういう人に幸福が来ることはないでしょう。
玄関の中に入ってもらい、それから話をするのです。こういう常識すら弁えない人では、どうしようもありません。

 ざっくばらんな飾らない態度はよいですが、それは、ぞんざいであること、無礼であることとは違います。
優しい心遣いがない人であっては、自他を共に不幸にします。

 いまの日本には、恩を忘れる、それどころか恩をアダで返すような人が後を断ちませんが、それでは、言葉もありません。

 内容的に乏しいことや非人間的であることを、形式を踏まえることで誤魔化(ごまか)すのが、ほんとうの非礼・無礼というものです。それは民主的倫理とは無縁の態度であり、よき生の障害です。「恋知の生」は、それとは逆で、形式主義を排して、内容を豊かで濃いものにしようとする生き方です。そのためには民主的倫理・道徳を身に付けることが必須です。


武田康弘

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