思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

靖国神社と日本外交のあり方

2006-10-30 | 社会思想

以下は、白樺教育館・ソクラテス教室(大学クラス)の古林到君のレポートです。古林君は、法政大学法学部の1年生。


 近頃、靖国問題が注目され、討論番組も盛んである。意見の多くは、「海外からの批判があるから参拝しない方がいい。」、「そんなもの無視して参拝すべきだ。」といったものである。が、「靖国神社の成り立ちとその目的」を考えずに靖国問題を議論するのは、全く本質的ではないと私は感じている。

 そもそも靖国神社というのは明治時代に、維新が成るまでの間に亡くなった志士達の慰霊のために建てられた東京招魂社というのが前身である。明治政府が、天皇を頂点とする家父長制の国家をつくるために、天照大神を唯一・絶対神として、天皇はその子孫、つまりは生き神(現人神)であるという、「国家神道」をつくり、様々な神々を祭っていた全国の神社を、全て天皇を祀るものとして、伊勢神宮を頂点とする序列の中に位置づけた。更に、「国民は全て天皇のために生きればよい」という思想を根深いものとするため、教育勅語などによって、国民への教育面でも思想矯正を図った。そして、ただの慰霊施設であった東京招魂社を「靖国神社」として国家神道の枠組みの中に組み入れた。これによって、「天皇のために戦い、死んだ者は英霊になって祀られる」と信じ、国のために喜んで死ぬ人間を生み出すことになった。

 このような、アジア・太平洋戦争という大きな過ちを犯した旧体制の核心とも言える所に公人が参拝するのは、他国の批判を受けて当然であるし、何よりその旧体制・思想を是認することになる。この点を踏まえずに靖国問題について議論をしても、全く根本的でない、表面的な解決策しか浮かばないだろう。

 勿論、信教と表現の自由が認められている限り、靖国の存在を否定することは出来ない。が、靖国神社がそのような思想に基づいている以上は、公的な立場にいる人間が行くべきではない。

 また、靖国に祀られている人は軍人だけである、ということも私が靖国参拝に反対する理由の一つだ。国体思想を植えつけられ、戦争に巻き込まれたのは、なにも軍人だけではない。彼らに殺された他国の人々もいれば、日本でも多くの民間人が犠牲となった。その元凶が当時の政府である以上、現在の政府が反省と謝罪の念をもって、あの戦争の犠牲となった「全ての人」を慰霊する施設をつくるのは当然の責務であろう。

 靖国神社が原因の外交問題を根本的に解決させたいのならば、それしか道はあるまい。解決できる問題を解決せずに、他国との関係が険悪なままでいるのは、なにより日本に不利益しかもたらさない。逆にこの問題を根本的に解決できれば、日本は本当の意味で戦前より続く旧体制・思想から解放されることになる。それは結果的に、近隣諸国から信頼されることにもなり、日本にとってもアジア全体にとっても、より良い未来を築ける第一歩となろう。

(2006年10月・古林到)







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ハイドンー交響曲102番

2006-10-29 | 趣味

ハイドンの交響曲102番は、「不動の愛らしさ」とでも呼ぶべき健康な明るさに包まれた楽しい曲です。
ハイドン晩年の傑作、「ロンドンセット」と呼ばれる12曲の交響曲のうちの一つですが、愛称がついていないために、あまり有名ではありません。でも、私は、この曲が一番好きです。
演奏は、クレンペラー指揮のものが最高です。比較を絶した名演と言えましょう。メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」や「交響曲3番・スコットランド」と同じく、ゆるぎない安定感と深い呼吸の中に「愛らしい」花が咲いているような演奏です。
悠然としたテンポ、凄まじいほどのエネルギーの中に、巧まざるユーモアがあり、すべての音が生きて輝いています。
第4楽章のユーモラスな愉しさは、格別です。

(東芝EMI-録音1965年ー定価1300円)クリック

武田康弘


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もうそろそろ受験勉強をやめて勉強をしようよ。

2006-10-28 | 教育

生きるのに全く役立たない瑣末な事実の暗記、ゲーム知でしかない意味のないパターン知、思想の無いただの技術・・・・・
その場しのぎー自転車操業ようなの知の勝者が優等生!?これではお話になりません。
足元をしっかり、基本を繰り返すこと。意味をつかむ努力をすること。それが何よりも大切。

例えば、靖国問題ひとつとっても、
それが伝統の神社とはまったく異なる考えに基づいて明治政府がつくった神社(政府が神社をつくった!!)であるという「はじめの一歩」の知をもたない人が大勢います。中学・高校の「日本史」でこうした事実とその意味について教えることがないために、一番の基本さえ知らずに靖国問題を語る!?という冗談のような話が現実のものとなっているわけです。

こういう事例は挙げたらきりがありませんが、意味を知る(なぜ?どうして?なんのため?)という知の基本なしに、受験知という極めて特殊な知のゲームに日本人皆が血眼になり、その知の勝者が「エリート」という笑えない現実を克服しないと、この国は永久に不幸です。ゲームをやること、クルマと電気製品を買うこと、それだけが生きがい!?の半病人で溢れています。

受験のために生き、受験のために死ぬ、外なる価値に振り回される不幸の連鎖、それを断つ「現実知」をもたないわが日本人。集団同調するだけの悦びのない人生。本体、本質、本物とは無縁な薄っぺらい心と頭。内面世界の貧弱さを、また別の外なる価値=伝統、愛国、天皇制で埋めようとする詐欺師=保守主義者たち。彼らは、自他双方を騙(だま)すほんものの(笑)愚か者。

愚劣極まる想念、生きるに値しない人生と社会を元からチェンジするにはどうするか?
答えは簡単。受験勉強をやめて、勉強をすることです。
基本を繰り返すこと。意味をつかむ努力をすること。議論をする習慣をつけること。

武田康弘




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自分自身の問題になる、とは、よろこびの生をひらくことだ。

2006-10-25 | 恋知(哲学)

ある事や物を見たり聞いたりして知っていたが、自分に関係のあることとしては見ていなかった。しかしそれがある時、関係のあること、自分自身の問題になることは、どういう事情によるのだろうか?

そうなる心の変化は、向こうからやってくる。自分の知らない深く隠れた心が開示されるのは、脱力し、虚心になったときに「他」から「向こう」からやってくる。自力ではなく他力なのだ。

それをしっかり受け止めることができれば、人間の可能性は大きく開かれる。
表層的な意識を超えて、氷山の下に隠されていた膨大な無意識が目を覚ます。
固い自我の殻が破られ、柔らかく豊かな可能性が世界を満たす。
言語に規定されて固まっていた「思考」は、のびのびとした想像の力で蘇生し、立体化する。

そうなると、ある事や物は、自分自身に深く関係するエロースに変身するのだ。
因果連関でしか思考できないと、灰色の世界しか与えられない。
深く大きな悦びを生み、自分自身として生きることを可能にするのは、想像力と他力自然の心だ。言語中心主義による自力の計らいは、一番深いところで生きるよろこびを消してしまう。

武田康弘



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公共哲学を皆のものに。一般名詞にして、それを動詞化していこう!

2006-10-24 | 恋知(哲学)

この下のブログにあるように、大変活発な議論ができて素晴らしい!!と思います。
みんな生徒ー先生はいない、という「白樺討論精神」はとっても素敵、生産的ですね。

私の結論を以下に簡潔に記します。

公共哲学には、さまざまな見方があり、特定の学者が定式化する(できる)ものではありません。
公共性とは何か?についは、一つの固定された概念が「正解」としてあるのではなく、ふつうの多くの人が市民の立場で検討するものであり、開かれています。「哲学(する)」と同じく、運動として見るのがよいのです。
したがって、公共哲学とは特定の思想ではなく、公共をひらいていく営み・努力だと考えられます。
よりよい考えが提示されればその方向に動くので、公共哲学の内実はたえず変わっていくものです。
皆に分からないような言葉を使う人の狭く固い「公共哲学」には存在理由がありませんので、自然淘汰されていくはずです。
私は、「荒井さんの心配は杞憂だ!」、というようにしていかなければいけないと思っています。そうしなければ、「公共哲学」は、反・公共的な「公共事業」(一部大学人の独占事業)の一つに成り下がってしまいます。

武田康弘



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「公共哲学」への疑問ー「公共世界とは民知からひらかれるもの」へのコメント15

2006-10-23 | メール・往復書簡

以下は、10月19日のブログ=公共世界とは、「民知」からひらかれるものへのコメントです。

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/19 22:17]
基本理念は、本来明確で分かりやすいものでなければなりません。「公共哲学」は、「民のための哲学」、「公務員が身につけておくべき哲学」ですから、なおさらでしょう。だから、大御所の金さんに期待するというのは、変な話です。「シリーズ・公共哲学」(東大出版会)の編集・執筆者である2人の学者に来ていただき、それぞれ5時間に及ぶ議論をしても、基本理念への疑念は解消されず、むしろ深まり、また肝心の哲学部分が欠けていることが明らかになりました。公務員研修等で「公共哲学」が重要視されつつあることを考えると、これは「公共性」の問題として重大で、市民として無視できません。大学人の皆さんには、普通の市民が理解できる本物の「公共哲学」となるよう、本気で取り組んでいただきたいと思います。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/19 23:07] [ Myblog ]
金さんに期待するというのではなく、公私の対立を超える方法を共に考えることが必要です。行ったり来たり、時間をかけて、愉しみながら恋知するのが私は好きです。
広く公共の哲学を考えるのは、やはり「民知」という発想を基底に置く以外にはないと思いますが、その射程を長く伸ばす、深く深く掘っていくと素晴らしい世界が開けると感じているので、それをじっくり味わいたいと思っているのです。
―――――――――――――――――――――――――
[ 山脇直司 ] [2006/10/19 23:22]
皆さんの盛り上がった雰囲気に直接参加出来ず残念です。ただ、最初は徹底的に「哲学とは何か」「哲学に何を期待するのか」を最初に討論して、その後で公共哲学の存在理由を議論すべきなのに、順番が逆になっている点が奇妙に思えます。私などは、逆に「実存主義の限界の自覚」から公共哲学に入ったので、その辺を皆さんは一体どのように考えているのか、本当に知りたいと思います。「実存を語ることでグローバルな公共問題に対処できる」と皆さんは本気でお思いですか?
―――――――――――――――――――――――――
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/19 23:42]
山脇さん。
もう一度、白樺で討論をやりましょう。公・公共・私三元論と、哲学部分の有無が問題になっているのですから。また、私との討論で、山脇さんは、「公共哲学」でなく「公共学」の方が良いとおっしゃいましたよね。その点も、きっちり確認したいと思います。
―――――――――――――――――――――――――
[ 山脇直司 ] [2006/10/20 00:20]
荒井さん、応答ありがとうございます。
本当に徹底的に議論したいと思います。ただ、私の方、ユネスコ哲学デーのためモロッコに出かけるなど、11月いっぱい時間が取れません。12月になると何とか時間が取れるかもしれません。その時は、公共哲学などは後回しにして、「市民にとって哲学とは何か」について心底から話し合えればと思っています。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/20 09:02] [ Myblog ]
荒井さん、山脇さん、活発なコメントありがとう。
違い、対立を尊重するからこそ生まれる自他一如の心。異化し異化されるのを愉しむ自在の心。それが白樺精神です。白樺自由討論、活発にやりましょう。
実存から出発しない思想は恋知(哲学)ではなく、ただの理論に過ぎません。これは原理です。しかし、外部へと向かう意識の志向性から切り離して、「私」を実体化・固定化してしまうのは、実存論ではなく悪しき実存主義です。この両者の違いをわきまえることが核心。
自己を徹底して活かしていくことが、魅力ある公共世界を生み出す条件です。「一般性」に陥る灰色の公(おおやけ)ではなく、納得をつくる普遍的な公共世界をひらく生を、【公共的実存】(武田の造語)と呼びます。
―――――――――――――――――――――――――
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/20 21:34]
「自分にとって本当に良い人生とは何か」、「より良い社会とは何か」等について、可能な限り深く考えること。そのために、一人の生身の個人の立場で、「なぜ、どうして、何のために、何に依拠し、何をめがけるのか」と、常に問いながら生きるよう努力すること。これが「哲学する」ことであり、この思考実践の土台となる思想を持っているものが本物の「哲学」であると考えています。「活私開公」、「グローカル」、「和」等は、それらを提唱するだけでは、この思考実践の土台となる思想にはなり得ない。人の心に響くことのないキャッチフレーズに過ぎない。また、「公・公共・私三元論」は、現実妥当性のない単なる「理論」であって、「哲学」ではない。キャッチフレーズや理論だけの議論は、人々(市民)が生きていく上で有用ではない。現在の「公共哲学」は、これであると思います。
―――――――――――――――――――――――――
[タケセン ] [2006/10/21 09:03] [ Myblog ]
荒井さん、
アカデミックな学は、「客観学」であろうとしますが、人間の生の意味と価値を問う恋知(哲学)の営みは、ほんらい「主観性の知」です。ここに、本質レベルでの矛盾が生じていて、大学哲学(講壇哲学)は、恋知(哲学)の真髄からはズレて、哲学・学になってしまうのです。この「客観学」の呪縛から解放されるには、根源的な発想の転換が必要で、それは人間の生き方の変革とセットです。
出来たばかり、発展途上の「公共哲学」が今後どのように動いていくか?は、それに関わる人の態度と転換のレベル次第でしょう。
客観学の形態でもそれなりに可能な「公共学」ではなく、哲学(主観性の知)にまで深めなければならない「公共哲学」の営みは、確かに、従来の発想を革命しない限り不可能だ、と私も思っています。
―――――――――――――――――――――――――
[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/21 09:40]
東大出版会の「公共哲学(第3期)」では、「より鮮明に「政府の公」と「民の公共」と「私」の三領域が区別し、議論する。民を形成する個人の「生活世界」と「制度世界」を媒介する視点として「公共世界」をとらえる。グローカルに加えて,グローナカル(グローバル×ナショナル×ローカル)な三次元相関的思考発展もはかる。」が編集方針だそうです。「公共哲学」は混迷の度合いを深めていると言わざるを得ません。そもそも、どうしたら「民から開く公共」になるのか、まったく不明確なところに、さらに新視点や新造語の類を加えてきているからです。「民から開く公共」のためには、まず揺るぎない哲学的土台を置くべきで、一から出直す必要があると思います。
―――――――――――――――――――――――――
[タケセン ] [2006/10/21 11:27]
荒井さん、公務員なので切実!?ですね。
「公共哲学」は、ますます恋知(哲学)から離れて「理論」になろうとしている、
というわけですね。
東大出版会から出ている限り、「客観学」にシフトする以外にはない(笑)のでしょかね~。どうなることやら。
また【マルクス主義】(哲学までも客観学化して権威化する)の二の舞を踏むのでしょうか。根本的な発想転換の必要など、大学内安全地帯の学者には到底不可能!?なのが現実かもしれません。
なんだか全然エロースがありませんね~(笑)。 「民知と共にあらんことを!」です。
―――――――――――――――――――――――――
[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/21 14:11]
今のままでは、「公共哲学」は官僚に都合良く利用されるだけでしょう。どうしたら「民から開く公共」になるのか不明なまま、「公共哲学」と言っているのですから、どのような内容の施策でも、「公共哲学の観点からも極めて重要であり……」、「公共哲学を反映した施策であり……」なんて、もっともらしい説明ができてしまうことになるからです。また、仮に公務員の採用試験にまで「公共哲学」が導入され、○×試験でもされるようなら、これはもう最悪です。「次の中から、公共哲学として正しいものを選べ。」悪い冗談のようですが、客観学のままであれば、このようになる可能性は少なくないと思います。
―――――――――――――――――――――――――
[(哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/22 16:26]
大学教授が考える「公共哲学」を公務員が学び、公務員がそれを民に示す。「・・・・・・グローカル、グローナカルな施策が今日、求められている。」と。そこにあるのは、決して「民から開く公共」ではなく、単なる「公共というお題目」に過ぎません。現在の「公共哲学」が、大学の講座や公務員研修等により全国各地に広まれば、「官知、制度知、専門知」による民の支配は強まることになるでしょう。「公共哲学」自体が、普通の市民には理解できない言葉で語られているのですから。本当に「哲学する」ことをしないで、「哲学知識」だけを身につけた人たちが、「民のため」という気になって行政を執行していくことになると思います。空恐ろしい話です。
―――――――――――――――――――――――――
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/22 19:28]
(上からの続きです)公共実現のための権力機構である官が、常に市民によるコントロールを受けなければならないことは、民主政治の基本原理であり、その意識を常に持っていることが、職業公務員の基本道徳であるはずです。「公・私・公共三元論」は、この点の認識が浅すぎるのではないか、と思います。わざわざ「政府を担い手とする公」を区別し、「民が支持しない公」を想定することになるからです。公務員が学ぶべき学問として、「公共哲学」がふさわしくない理由です。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/22 22:39]
元来、市民社会・民主制社会における政府とは、公共=民の利益のために存在しています。その担い手の公務員も然りです。それ自身の利益(官の利益?)を追求するものではありません。もし、現実にそうなってしまったならば、それは理論次元の問題ではなく、実践次元の問題であり、理論・学によってどうにかなるものではないのです。
実践レベルの問題解決には実践知が必要で、それは客観学とは異なる「現場における生きた思考」からしか生じません。「大学知」で歯が立つことではないのです。そんなことはないでしょうが(?)、もしも大学人が、学知で現実問題の解決ができると思っているとしたら、オメデタキ人としか評しようがありません。
さて、実際はどうなのでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/23 11:09]
補足です。「現場における生きた思考」の「現場」は、以下のような意味です。
例えば、教育問題を考える場合には、子どもたちに深く関わる人たちが感じ、思い、考えることを土台とする知=「現場の実践知」を鍛え上げていくことが一番に求められることですが、これと同じで、
公務員のありようや制度の問題を考える場合には、それに関わる人たち(公務員を雇っている人たち)=一般の市民が、感じ、思い、考えることを土台とする知=「現場の実践知」が一番必要です。
それは上記の場合と同じく、民知という立体的な全体知を鍛え上げていくことであり、専門知=大学知で解決できると思うのは、虚妄です。部分としての知は総合判断の知とは頭の使い方が違うからです(民知と専門知の関係については、9月25日のブログを見てください)。




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ことばで教育はできませんー若い父母のみなさんへ

2006-10-20 | 教育

現代の若いお母さん・お父さんたちを見ていると、子どもを「ことば」で教育しようとしています。これでは子どもは育ちません。

【全身力】=身振り・手振り言語、体の直接の触れ合い、強く・激しい関わり(暴力ではありませんー念のため)がなければ、子どもはしっかりとした心身をもつ、考える力の強い人間にはなりません。

ことばに頼る省エネの教育は、脆弱で、表層的なペーパー人間しかうまないのです。

小言は言わない。注意するときは、全身ではっきり、断固として話す。何がどうダメなのか?を簡潔に説明することです。

こどもとは、強く、しっかり、心身全体で関わること。体で話すこと。これは、教育の原理中の原理です。

(写真は式根島でー今年30年目のキャンプ)

武田康弘



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公共世界とは、「民知」からひらかれるもの (荒井、阿部、武田)

2006-10-19 | メール・往復書簡

以下は、10月8日の『白樺討論』についてのコメント欄をコピーしたものです。
市民的な公共世界をひらくためには、まだまだ大きな課題をクリアーしなければならないようです。

広く皆が了解する世界をひろげることと、自分自身の生の深みへの旅とは、内的にバランスが取れないと共に生きません。この【公共的実存】とでも呼ぶべき生の営みを下敷きにしなければ、「公共」とはお題目=言葉にすぎなくなってしまうでしょう。



[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/14 00:13]

WHO総会に提案されただけの「霊性」を憲法25条の「健康」に含め、「霊的施設」の建設まで国に努力義務があると解釈する稲垣説の妥当性、また、その解釈が引き起こす現実問題の重大性に関し、稲垣さんが討論を一方的に打ち切ったことが非常に印象的でした。また、はじめに「国家機構、政府、官の意味で、公という言葉を使う」(靖国神社解放論P45)と定義しながら、公・私・公共三元論見取図(P68)で、「公=国家」を人の集団という意味で使っていることの不合理さについても、結局、回答がないまま議論が終わってしまいました。しかし、そもそも戦没者追悼施設という全国民的問題で、なぜこのような理解困難な論を展開しなければならないのか、なぜ普通の市民が分かる言葉で解説しないのか、まさに学知と民知の差を強く感じることとなった討論でした。

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[ タケセン ] [2006/10/14 12:35] [ Myblog ]

専門知とは、立体的な総合判断=民知を強めるためのアイテムです。ふつうの多くの人が「全体的・立体的なよき考え」をつくる営みに役立つのが、専門知の存在理由です。
専門知とは、全体的・立体的判断に役立ってはじめて意味を持ち価値が出る。--これは知の原則ですが、この自覚がまだまだ弱いために、専門知におかしな幻想を抱く人が、学者にも非・学者にも多いようです。
構えずに・ざっくばらんに・肩の力を抜いて・ふつうに話すという基本を、まずは皆が身につけたいものです。
白樺自由討論、どんどんやりましょう!!
家庭で学校で職場で地域で、いつも内容あるおしゃべりをする習慣を!!

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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/16 21:26]

2006年の公務員白書(人事院)では、行政官の志・使命感の原点と題して、「公共哲学」の必要性について述べています。しかし、東大出版会の「公共哲学」は世に出たものの、現在の「公共哲学」は肝心の哲学部分を欠いており、また現実妥当性が疑われる公・公共・私三元論や、滅私奉公批判等の理論とは到底言えない主張の寄せ集めに過ぎない段階(開発途上の初期)にあると考えます。このような状況で、国家公務員の採用、人材育成に「公共哲学」を導入しても、単なる労力と税金の無駄にしかならない可能性が極めて高いと言わざるを得ないでしょう。地方公務員にも影響が及ぶとなれば、なおさらです。全体の奉仕者である公務員の持つべき哲学とは、「民から開く公共哲学」以外にあり得ません。白樺による「民知」を土台にした「民から開く公共哲学」の議論をすみやかに全国に広めなければならないと思います。

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[ タケセン ] [2006/10/16 22:22]

まず、広く厳しい議論がなければ、公共・・・・にはなりません。大学人のみの議論ではあまりに脆弱です。実践的なほんものの力ある思考が必要です。
民からひらく、はその通りで、それ以外はありません。民からひらかない!?「公共哲学」では存在自体が矛盾です。
民からひらく公共のサポートが「官」の存在理由ですし、本来その営みが「官」のよろこびであるはずです。これは民主制社会の原理。
市民社会=民知に依拠した社会でなければ「公共」は成立しません。

――――――――――――――――――――――――――――――

[阿部憲一] [2006/10/17 11:29]

タケセンや荒井さんの発言のなかから、「民知」というものの内容と位置づけがはっきり分かってきました。

普通の市民が自分の頭で考え、行動していく上での土台の知で、さらにその知をレベルアップしていこうというのが、「民知」という「全体知」。
そして、「民」をバックアップするのが仕事の「官」こそ、「民知」なくしては
本物の公務員にはなれないのではないかと思います。
「全体知=意味のあるもの」をバックアップするところに「官」の喜びがあるわけですよね。

荒井さんのストレートな発言は、フツーの市民の私にもよく分かります。
荒井さんの(普通の市民の)発言は、現在の公共哲学をさらに練り上げるのに必要不可欠だと思いました。

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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/17 20:51]

「官」は公共実現のためのシステム(権力機構)であり、それを中心に民である個人や集団が参加している。そうであるからこそ、常に民の支持を受けた「官」となるよう、しっかりコントロールしなくてはならない。普通の市民は、特に意識しなくても、このように現実を立体的にとらえていると思います。私が大学人の「公・私二元論批判、公・公共・私三元論」が変だなと感じるのは、それが現実とずれており、ひどく平面的な思考ではないかと思うからです。その点、白樺の議論は極めて立体的な思考であり、それは根幹に厳しい実体験に基づく実存の「武田哲学」があるからでしょう。このような立体的思考を伴わなければ、「活私開公」も「グローカル」も「和」も、キャッチフレーズの域を出ず、人生や社会について深く考え、人の心に強く訴える本物の「公共哲学」にはなり得ないと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――

[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/18 22:17]

追加します。
「公・公共・私三元論」のおかしさは、何より「政府を担い手とする公」と「民の支える公共」を区別するという点にあります。「民が支持しない公」を想定すること自体が、論理矛盾です。現実に官が市民の意志に反した行動をとることはありますが、それは「公」になっていない場合と言うべきです。また、仮に「公」が政府、「公共」がNPO等、「私」が個人を意味しているとすれば、三元論は単なる活動主体の分類に過ぎなくなり、理論として用をなさないことは明らかです。結局、三元論は意味不明と言わざるを得ません。

――――――――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2006/10/18 22:39]

荒井さんの指摘する三元論は、金泰昌氏が主導する公共哲学(シリーズ・「公共哲学」東大出版会)の基本理念ですが、
荒井さんが指摘している文脈では、確かにその通りで、私も同意見です。
ただ、金泰昌氏の「公」と「私」の間に「公共」を立てる考えは、別の意味=文脈から出ているものなので、その有効性の有無は、その文脈を踏まえ上で、もう一度吟味する必要があると思っています。
近々、金泰昌氏は「白樺教育館」に来館(4度目)されますので、じっくり議論をしましょう。内容豊かな恋知(哲学)の対話を。




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失敗は成功のもと、どんどん失敗をしようーhiromin・タケセン・taro

2006-10-15 | メール・往復書簡

以下は、9月29日のブログに対するコメントです。


[ hiromin ] [2006/09/29 19:35]
「意見じたいが自分の中からでてきたものじゃない」って、ほんと普段の生活の中でそんな場面が多々あるのを痛感しています。おそろしいことに、そのことじたいに気がついていないかも。そうなると対話は成立しないんじゃないかな?かみ合わないよね?
―――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/09/29 22:09]
ひとそれぞれ、とは、自分の考えがないために、「一般論」に逃げる言い方です。これでは、内容ある話は全くできません。話者が「主体者」になっていないので、対話が成立しません。ただのおしゃべりだけがある、というわけですね。膨大に言葉を重ねても、堂々巡りで進展がない、感情のやりとりだけ。精神衛生上、とてもよくないですね(笑)。
――――――――――――――――――――――――
[ taro ] [2006/09/29 23:46]
一般論を言いたがるのは、常に失敗を避けようとする潜在意識が働いているように思うのですが。気持ちわるさもそこにあるのではないかと。
――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/09/30 10:39]
【失敗は成功のもと。どんどん失敗をしよう!】
これは、1976年のソクラテス教室(旧称・我孫子児童教室)創設時から長いこと壁に張っておいた私の標語です。
どうでしょうか?
―――――――――――――――――――――――――
[ taro ] [2006/10/04 23:15]
「失敗は成功のもと」と言いながら、「できるだけ失敗しないようにしようね。失敗が少ない人ほど優秀だから」というのが、私の受けた教育でした。特に疑問も持たずに、やってきましたが、これでは、決して強い思想を生み出す頭脳は作れませんね。それにしても、30年ですか。気が遠くなるような時間です。
―――――――――――――――――――――――――
[ タケセン ] [2006/10/04 23:57]
u-mu そうか!30年も経ってる(笑)。
日本という状況の中で強い思想をつくり・生きるのは、至難の業です。不可能に挑戦!というバカにならないとダメだな~~
「考える」ことをほとんど誰もしていないのです。
戦略を練ることや、戦術を編み出すことを考えることだと思っています。相手をやっつける言説を見出すことを考えることだと思っています。パターンを身につけることを考えることだと思っています。
本質に向かって思考する、ただ虚心に何がほんとうか?を目がけるという態度が弱いから、他者もみなそうだとしか思えないのですね。考えるための基本がない国にはよろこびが少ないですね。伝統とか愛国心とか天皇とかに逃げる脆弱な精神には魅力がありません。
――――――――――――――――――――――――
[ taro ] [2006/10/05 23:10]
私も明日から、もっともっとバカになって、どんどん失敗してやろうと思います。


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「冒険する頭」

2006-10-13 | 書評

以下は、世界に先駆ける厳しい排ガス規制=51年(1976年)規制を自動車メーカーとの凄まじい闘いによって実現させた科学者が書いた本(「ちくま少年図書館」74:絶版)から一部を抜粋したものです。

非・専門家として日本で始めて自然環境改善の実践的研究に取り組んでいた著者の西村肇さんは、東京都の美濃部知事の依頼で集められた自動車の専門家ではない「七人の侍」のひとりとして、排ガス規制を実現させましたが、その渦中で、大学と政府(環境庁)と自動車メーカーから激しい非難を浴びました。かれら「七人の侍」は悪評とバッシングに屈せず、メーカーに低排ガス・省エネのエンジンをつくらせることに成功し、その結果1970年代半ば以降、日本の自動車メーカーは、貿易摩擦を引き起こすほどにまでに(笑)業績を伸ばしたのです。


以下、書き出しの部分=「なぜこの本を書いたのか?」からの抜粋(編集して)です。


『 私は研究する人に必要なのは、モノに対するセンスと知的好奇心だと思う。
これは学校教育で育つものではなく、家庭環境・友人環境に負う。

モノに対するセンスは、小さいときからモノをいじっているかどうかで決まるので、ものをいじる父親かどうかが大きく影響する。

知的好奇心は、自分の中にふたりの自分がいて、とめどもない対話を展開していくことが必要で、そのためには、現実に誰かとそういうおしゃべりをすることがよい手がかりとなる。
考えるということ自体が、自分との対話であり、対話の嫌いな人は考えることも嫌いなようだ。そういう人にとって結論は明らかで、議論する必要はないのだが、受験秀才は、だいたいこういうタイプだ。
科学は対話だ。したがって、科学者の仕事の大事な部分は、しゃべること、しゃべる中で考えることなのだ。

対話の習慣は、私の場合、父親の影響が大きかった。比較的仕事がひまだった父親は、レコードを聞いたりしながらしゃべるのが好きだった。有名人に対する批評、歴史の話、時事問題、戦争の状況に関する解説で、これらはどれもこれも学校で聞く話と逆さまだった。
父親たちは今よりだいぶ余裕があり、忙しいなどというのは、紳士として恥ずかしいことだった。戦後、みながきそって働きまくるようになると、こういう対話が難しくなった。

いまの学生を見ていると、そういう話をしてあげる人が必要だと思う。父親のことばで話してあげる必要がある。父親のことばというのは、学校の先生から聞く模範解答のようなおもしろくもおかしくもない話ではなく、少しくらい独断と偏見に満ちていてもいいから、ひとりの人間の体験に根ざしたホントウの話、ホンネの話という意味なのだ。 』


 少し難しいですが、☆武田の書いた「主観性の知」(クリック)についてもぜひ再読願います。

(写真は、アインシュタインの少年時代ー妹のマヤと)





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10.8討論会を終えて、再び民知という全体知について。

2006-10-12 | 恋知(哲学)

10月8日の稲垣さん(宗教哲学者)との討論に先立ち、白樺の知の理念(民知)にについて、9月25日のブログに明瞭に記しておきましたが、正直のところまだまだ民知という全体知による討論には難しさがあることを感じました。

心身全体による会得という本来の知によって、現在の学知の不毛性を乗り越える必要を改めて感じた次第ですが、そのためには、恋知(哲学)の初心に帰ることが何より必要です。日々の具体的な経験を自分のことばで考え、語り合う営みが。
(「白樺ML」には忌憚のない鋭く本質を抉るメールが何通も寄せられていますが、ブログでの公表は差し控えます。稲垣さん、古林さん、ごくろうさまでした。参加者のみなさん、ありがとうございました。)


以下が民知という立体としての知=全体知の結論部分ですが、ぜひ、全文もお読み下さい(クリック)


私たち白樺同人がいう「民知」とは、この生活世界から立ち昇る「全体知」(立体的な主観性の知)のことで、それは、誰でもが普段の生活の中で物事を判断している「知」ですから、馴染みのある親しみの知です。ただ、これを放置せずに、全体知のレベルを上げることに意識的に取り組もう!というのが、民知の運動=実践というわけです。自他の専門知を現実に生かすための知=全体知を鍛えるのが目的です。全体知に秀でた人はいますが、全体知の専門家!?などは存在しません。範囲を限り、平面化することで一般性を得る「部分知としての専門知」は、生活世界から立ち昇る「民知」という「全体知」(立体的な主観性の知)の中ではじめて意味と価値をもつ、これは原理です。

武田康弘




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ダブルスタンダードの「正論」の空しさ

2006-10-11 | 社会思想

アン・フェアな態度を取っている人の「正論」は、まったく正論にはならず、白々しいだけですが、これと同じで、わが日本政府は、極端なほどの偏った態度を取り続けているために、正論が正論になりません。
アメリカは、湾岸戦争以降絶えず核兵器(劣化ウラン弾)を、実験ではなく、実際に使い続けているにもかかわらず、日本政府はそれを容認しています。どれほど悲惨な事態が起きているか?は、NHKの報道を見るだけでも分かりますが、保守政治家はまったく知らん顔、他人事としてしか見ていません。
こういうダブルスタンダードで「正論」を言っても空しいだけです。政府も個人も筋を通して、まっとうに生きないと、誰からも信用されません。

「一番簡単なことは何か?他人に忠告を与えることだ。一番難しいことは何か?自分自信を知ることだ」とは、哲学の祖、タレスの言葉です。

武田康弘




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北朝鮮の核実験への対応=強固路線は極めて危険

2006-10-10 | 社会思想

広島・長崎以降の核兵器が存在する世界では、主権国家同士で戦争を起こすことはできません。
核兵器を所有する国家=北朝鮮の国家エゴイズムに対して、こちらも国家主義で対抗することは、極めて危険な賭けでしかないのです。
貧困、食糧難、エネルギー不足にあえぐ北朝鮮に対して、どんどん追い込んでいけばどういう事態になるか?は、誰でもが想像できるでしょう。ムチだけでは相手の暴走を止めることはできません。北朝鮮の人々への愛の心が基底に無ければ、ムチは有効性を持たないのです。北朝鮮の窮状を救う意志があることをはっきり示すこと、アメリカに対して柔軟路線に転換する必要があることを告げるべきです。
孤立させられていると思う国がどのような行動に出るか? 海上封鎖・ABC包囲網に対し、無謀な宣戦布告=真珠湾攻撃に出たのは、65年前のわが日本でした。

核兵器が存在する現代、相手国が無謀な行動に出たら、取り返しのつかないことになります。もし、・・・はないのです。熱くなるのが一番危険です。

武田康弘





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実存の生と市民社会の原理とは一体のもの

2006-10-06 | 恋知(哲学)

保守主義や自国絶対の狭い想念から自由になり、生身の一人の人間=裸の個人の次元にまで自己存在を還元・反省することで得られる場所に立って、そこから人生と社会について主体的に考える生、それを実存として生きると呼びます。
(「実存として生きるー白樺フィロソフィーと民知の理念」を参照してください)

これは、一人一人の様々な想いー発想を出発点にして、個人の考えを育て、公論を形成し、合意と約束によって国=国家をつくるという近代以降の社会原理とピタリと符合する哲学です。
国体思想=国や国の歴史を実体化して(生き物か一つの機械と考えて)、それをつくっている(構成する)ものとして一人ひとりの人間を見る国家観とはまったく相容れません。

後者の思想を引きずるのが、「古きよき日本!?への回帰」を標語とする保守主義者の想念ですが、これは1890年代(明治20年代)に山県有朋らが中心となってつくった天皇親政の国家主義=「近代天皇制=靖国思想・官僚主義=東大支配」以来の日本の伝統です。文部大臣と首相を二度務めた山県有朋が、この国体思想による社会体制を固めるために真っ先に取り組んだのが、教育改革でした。天皇を中心とする神国日本という歴史教育・道徳教育による国民教化を徹底したのです。

1925年の治安維持法制定後は、天皇親政の社会体制=国体思想(靖国思想)を危うくする考えをもつ人は日本国民ではない、ゆえに非国民であり、それは敵国を利することであるゆえに売国奴である、とされました。この狂気の思想の下に、作家小林多喜二の特高警察官(築地署)による虐殺事件が起き、この流れが1931年の満州鉄道爆破という関東軍の陰謀に始まる15年戦争へと続き、1945年の無条件降伏による敗戦に至ったのは近代史の常識ですが、若い人でこの歴史の事実をきちんと踏まえている人は案外と少ないようです。

近代天皇制の思想と社会体制がもたらした不幸と悲劇を乗り越えるためには、明治政府作成の「靖国思想」を根本的に改める必要あります。市民の意思を国家=政府の政策の下に置き、管理しようとする思想は、歴史によりすでに無効が宣言されています。

個人の内面の声=良心に対して、国=政府はこれを抑圧するいかなる命令も下すことはできません。これは近代市民社会の原理ですが、この思想および良心の自由(憲法19条)は、上記の「実存としての生」に支えられて始めてその基盤をうるのです。

武田康弘



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10月8日―『靖国神社「解放」論』を巡っての討論会―民知の討論会を広げよう!

2006-10-01 | その他


靖国問題をどう捉えるか?の討論会を、
『靖国神社「解放」論』(光文社)の著者の稲垣久和さん(東京基督教大学教授・東大出版会のシリーズ「公共哲学」16・宗教から考える公共性の編者)と白樺教育館副館長の古林治さん(専門職・哲学するふつうの市民)との討論を中心にして行います。

9月9日の山脇直司さん(東大教授)と荒井達夫さん(公務員・哲学するふつうの市民)との討論会―「公共と公共哲学について」につづくものです。民知という全体知による討論会のシリーズです。

立体的な自由討論をつくっていきたいというのが、私(武田)の考えで、そういう討論会を全国に広めていけたら面白いと思っています。この討論会のために必要な前提となる考えについては、ブログに書いておきましたので、ぜひご覧下さい(クリック)。

10月8日の討論会では、稲垣さんが「靖国原理主義」と呼ぶ日本の問題(明治政府がつくった近代天皇制・靖国思想)をどうクリアーしていくか?についての討論を行います。

成果は、また後日発表しますが、皆さんがそれぞれの持ち場で「討論会」をしてみませんか?とても面白くて有意義です。 (写真は9.9の討論会です)

武田康弘




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