以下は、
10月8日の『白樺討論』についてのコメント欄をコピーしたものです。
市民的な公共世界をひらくためには、まだまだ大きな課題をクリアーしなければならないようです。
広く皆が了解する世界をひろげることと、自分自身の生の深みへの旅とは、内的にバランスが取れないと共に生きません。この【公共的実存】とでも呼ぶべき生の営みを下敷きにしなければ、「公共」とはお題目=言葉にすぎなくなってしまうでしょう。
[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/14 00:13]
WHO総会に提案されただけの「霊性」を憲法25条の「健康」に含め、「霊的施設」の建設まで国に努力義務があると解釈する稲垣説の妥当性、また、その解釈が引き起こす現実問題の重大性に関し、稲垣さんが討論を一方的に打ち切ったことが非常に印象的でした。また、はじめに「国家機構、政府、官の意味で、公という言葉を使う」(靖国神社解放論P45)と定義しながら、公・私・公共三元論見取図(P68)で、「公=国家」を人の集団という意味で使っていることの不合理さについても、結局、回答がないまま議論が終わってしまいました。しかし、そもそも戦没者追悼施設という全国民的問題で、なぜこのような理解困難な論を展開しなければならないのか、なぜ普通の市民が分かる言葉で解説しないのか、まさに学知と民知の差を強く感じることとなった討論でした。
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[ タケセン ] [2006/10/14 12:35] [ Myblog ]
専門知とは、立体的な総合判断=民知を強めるためのアイテムです。ふつうの多くの人が「全体的・立体的なよき考え」をつくる営みに役立つのが、専門知の存在理由です。
専門知とは、全体的・立体的判断に役立ってはじめて意味を持ち価値が出る。--これは知の原則ですが、この自覚がまだまだ弱いために、専門知におかしな幻想を抱く人が、学者にも非・学者にも多いようです。
構えずに・ざっくばらんに・肩の力を抜いて・ふつうに話すという基本を、まずは皆が身につけたいものです。
白樺自由討論、どんどんやりましょう!!
家庭で学校で職場で地域で、いつも内容あるおしゃべりをする習慣を!!
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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/16 21:26]
2006年の公務員白書(人事院)では、行政官の志・使命感の原点と題して、「公共哲学」の必要性について述べています。しかし、東大出版会の「公共哲学」は世に出たものの、現在の「公共哲学」は肝心の哲学部分を欠いており、また現実妥当性が疑われる公・公共・私三元論や、滅私奉公批判等の理論とは到底言えない主張の寄せ集めに過ぎない段階(開発途上の初期)にあると考えます。このような状況で、国家公務員の採用、人材育成に「公共哲学」を導入しても、単なる労力と税金の無駄にしかならない可能性が極めて高いと言わざるを得ないでしょう。地方公務員にも影響が及ぶとなれば、なおさらです。全体の奉仕者である公務員の持つべき哲学とは、「民から開く公共哲学」以外にあり得ません。白樺による「民知」を土台にした「民から開く公共哲学」の議論をすみやかに全国に広めなければならないと思います。
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[ タケセン ] [2006/10/16 22:22]
まず、広く厳しい議論がなければ、公共・・・・にはなりません。大学人のみの議論ではあまりに脆弱です。実践的なほんものの力ある思考が必要です。
民からひらく、はその通りで、それ以外はありません。民からひらかない!?「公共哲学」では存在自体が矛盾です。
民からひらく公共のサポートが「官」の存在理由ですし、本来その営みが「官」のよろこびであるはずです。これは民主制社会の原理。
市民社会=民知に依拠した社会でなければ「公共」は成立しません。
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[阿部憲一] [2006/10/17 11:29]
タケセンや荒井さんの発言のなかから、「民知」というものの内容と位置づけがはっきり分かってきました。
普通の市民が自分の頭で考え、行動していく上での土台の知で、さらにその知をレベルアップしていこうというのが、「民知」という「全体知」。
そして、「民」をバックアップするのが仕事の「官」こそ、「民知」なくしては
本物の公務員にはなれないのではないかと思います。
「全体知=意味のあるもの」をバックアップするところに「官」の喜びがあるわけですよね。
荒井さんのストレートな発言は、フツーの市民の私にもよく分かります。
荒井さんの(普通の市民の)発言は、現在の公共哲学をさらに練り上げるのに必要不可欠だと思いました。
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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/17 20:51]
「官」は公共実現のためのシステム(権力機構)であり、それを中心に民である個人や集団が参加している。そうであるからこそ、常に民の支持を受けた「官」となるよう、しっかりコントロールしなくてはならない。普通の市民は、特に意識しなくても、このように現実を立体的にとらえていると思います。私が大学人の「公・私二元論批判、公・公共・私三元論」が変だなと感じるのは、それが現実とずれており、ひどく平面的な思考ではないかと思うからです。その点、白樺の議論は極めて立体的な思考であり、それは根幹に厳しい実体験に基づく実存の「武田哲学」があるからでしょう。このような立体的思考を伴わなければ、「活私開公」も「グローカル」も「和」も、キャッチフレーズの域を出ず、人生や社会について深く考え、人の心に強く訴える本物の「公共哲学」にはなり得ないと思います。
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[ (哲学する普通の市民)荒井達夫 ] [2006/10/18 22:17]
追加します。
「公・公共・私三元論」のおかしさは、何より「政府を担い手とする公」と「民の支える公共」を区別するという点にあります。「民が支持しない公」を想定すること自体が、論理矛盾です。現実に官が市民の意志に反した行動をとることはありますが、それは「公」になっていない場合と言うべきです。また、仮に「公」が政府、「公共」がNPO等、「私」が個人を意味しているとすれば、三元論は単なる活動主体の分類に過ぎなくなり、理論として用をなさないことは明らかです。結局、三元論は意味不明と言わざるを得ません。
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[ タケセン ] [2006/10/18 22:39]
荒井さんの指摘する三元論は、金泰昌氏が主導する公共哲学(シリーズ・「公共哲学」東大出版会)の基本理念ですが、
荒井さんが指摘している文脈では、確かにその通りで、私も同意見です。
ただ、金泰昌氏の「公」と「私」の間に「公共」を立てる考えは、別の意味=文脈から出ているものなので、その有効性の有無は、その文脈を踏まえ上で、もう一度吟味する必要があると思っています。
近々、金泰昌氏は「白樺教育館」に来館(4度目)されますので、じっくり議論をしましょう。内容豊かな恋知(哲学)の対話を。