思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わたしの愛の基本姿勢

2007-07-29 | 私の信条

わたしは、愛する者を、平面的に愛するのではなく、立体的に愛する。
どうしたら、より相手のよさ・美質を引き出すことができるか?と考え、行為するのが立体愛だ。
わたしは、相手のほんらいのよさを開花させるために、狭く自己を限定している心身を解放させようと試みる。
関わりが深くなるにつれ、時には相手を追い込むこともする。生来イジワルだから?否まったく違う。わたしにはイジワルの要素が少しもない。子どもたちを追い詰め、追い込んだことは数知れずある。でも彼らの大多数は、わたしの本心―真心を少しの誤解もなくまっすぐに分かってくれる。
わたしはよく考え、配慮し、長い目で見てほんとうによい結果を生むためにはどうしたらよいかを思案する。一時の効果・正しさを求めて全体をダメにすることを避けようと努力する。大胆さと繊細さ、情熱と冷静、強引と慎重の双方が必要だ。
平面的に愛しても、互いに真の得・悦びはつくれない。現実の人間の生は立体だからだ。愛を立体化するのは、もちろん想像力。
これがわたしの基本姿勢。もちろん、個々の失敗については反省しつつ、姿勢は少しも変わらない。

武田康弘






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『公共的良識人』7月号発刊=金泰昌・武田康弘の往復書簡―「楽学と恋知の哲学対話」

2007-07-27 | 書評


「楽学と恋知の哲学対話=金泰昌と武田康弘の往復書簡」が、7月号の『公共的良識人』紙に掲載されました。一面から5面までを使い、往復書簡の前半が載っています。後半は来月8月号に掲載されます。

往復書簡の内容は、このブログー「思索の日記」と「白樺教育館ホームページ」クリックに掲載したものを多少手直ししました。金泰昌さんの文章は、かなり大幅に改められています。

『公共的良識人』紙は、主に全国の県知事および市長、各大学の総長や学部長および哲学や社会学関係の大学教授、会社経営者に郵送されている新聞ですが、お読みになりたい方は、京都フォーラムまでお申し出下さい。送料程度で入手できるはずです。

京都フォーラム(「公共的良識人」紙・発行元)
〒.530-0001 大阪市 北区 梅田 1―1-3 大阪駅前第三ビル25F.
TEL.06-6344-2715 FAX.06-6344-2716
Eメール institute@felissimo.co.jp 


なお、以下に、7月号冒頭の「はじめに」を載せます。

【はじめに】
金泰昌氏と武田康弘の『哲学対話』に到る経緯について。

わたしと金泰昌氏との出会いは、二年前の6月です。まったく未知の方であったキム氏とのご縁は、本紙2005年7月号に書きました通り、わたしが、白樺派の精神を現代に生かそうというコンセプトの下につくった「白樺文学館」(出資者は日本オラクル初代社長の佐野力氏)の基本理念を東大教授の山脇直司氏がキム氏に送ったことに始まります。この基本理念は、今は白樺文学館ではなく、「白樺教育館」のものですが、それを読んで感動・共感されたキム氏がわたしとの対話のために来館されたのです。

キム氏は、都合4回白樺教育館を訪れ、白樺に集う大学生や市民たちとの自由対話を楽しみ、皆に大いなる刺激を与えましたが、その間にもかなりの頻度で電話での対話を続けました。それは、従来大学で行われてきた哲学=「哲学史 内 哲学」ではなく、もっと有用な広い意味での哲学=生活世界でふつうの市民が哲学する道を切り開くためにはどうしたらよいのかを模索する対話であり、その中には往復書簡も含まれています。それを皆に示すことで、「哲学の民主化」のために多くの方のお力を得ようではないかという共通了解に達しましたので、公開することになったのです。

なお、キム氏の基本姿勢は哲学することは「大楽」であるべきだということですが、わたしは、「フィロソフィー」を語源どおり「恋知」と訳して立場としています。恋とは聖なる狂気ですが、この「狂気」の善用のみが、人間の生きる意味・悦びの産出を可能にすると考えているからです。

最後に、自己紹介をします。
わたし武田康弘は、1952年5月東京神田生まれで、大学では哲学を学びましたが、それは哲学の専門家になるためではなく、自分で哲学するための一助と考えてのことでした。在学中から哲学を現代社会に生かす「意味論としての学習」を行う教育機関をつくろうと決め、1976年に独力で小さな「私塾」を開きました。
それが「白樺教育館」の前身「我孫子児童教室」ですが、そこでの教育実践を哲学するために同時に「我孫子児童教育研究会」を開き、それが後に管理教育是正のための市民運動を推し進めることになったのです。その経緯は、岩波書店からの依頼による「我孫子丸刈り狂騒曲」(「世界」92年8月号)に詳しく記しました。
わたしは、この1986年に始まる教育改革運動の直前からの数年間、哲学者の竹内芳郎氏に師事し、言語論を中心に、宗教論、文化論を学びました。1987年から「哲学研究会」を開きましたが、その主要メンバーであった佐野力氏の依頼で1999年2月から「白樺文学館」の創設に全精力を注ぎ、2001年1月の開館からは初代館長を務めました。そこでの活動を活かして、より明瞭に当初の理念を生かすべく2002年初頭から二年をかけて「白樺教育館」をつくり現在に到っています。

では、刺激的な楽学と恋知の哲学対話、ぜひ最後までお読み下さることを。

白樺教育館館長 武田康弘




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逆立ち・逆転した思考

2007-07-25 | 恋知(哲学)

さりげなく何気ない心遣いを「配慮」というわけですが、もし、「配慮すべきだ」という要請の下に配慮すると、あからさまな配慮―いかにもという配慮になってしまいます。いわば配慮の押し売りで、これはありがたくもうれしくもありません。これでは「配慮」ではなくなります。

かっこいい、すてき、・・・というのもそれを意識的に演出すると、つまらないものーかっこ悪いもの、キザなものにしかなりません。田舎くさかったり、これみよがしの成金趣味にしかなりません。しかし、今はテレビ局が、このような下劣な趣味ーお金がすべてという思想を振りまく番組を日常的に流していますので、人間の感性が猥雑なものに成り下がってしまい、その「異常さ」「愚劣さ」が分からなくなっているようです。

知にしても然りです。多くの知識をひけらかすのは、知者とはほど遠い人ですし、理念や固い論理を振り回す人は、思考力のない人です。求められるのは、実情に即して静かに深く考えることによって「常識」の底を破る思索力でしょう。また、そうすることで生み出される思想は、人間を勇気づけ、生によろこびをもたらさなければ存在理由がありません。

かつて社会主義のソビエトの工場で、「結核は生産を阻害する」という標語が掲げられていたという話がありますが、これでは生産の増大のために健康が大事という逆転した話になってしまいます。よく生きるために何を、どう考え、どうしたらよいか?を追求することができなくなり、思考が逆立ちしてしまうのは、知的と思われている仕事・身分が保証されている仕事についている人に顕著に見られることです。

逆転・逆立ち、結果と過程を取り違えるマヌケな思考--
あらゆる人間文化の基盤であるイマジネーション(想像力)のありようも同じ愚に染まっているようです。いかにも・・・という想像力を強調したものは、【空想】でしかありません。人間の生を広げ、深め、豊かにする有用な想像力を鍛え伸ばすことが肝要なのであり、中空に漂うような物思いを発達させる!?ことではありません。飛翔する想像力も、生に奉仕する質をもたなければ、何の価値もないはずです。現実を動かし、現実に新たな視点をもたらし、非現実への飛翔が現実に豊かなエロースを生み出す、そういう自由と強靭と豊穣を兼ね備えた想像力が求められます。

人間のあらゆる営みは、【裸の個人としての人間の生のよろこび】に結びつくことで、はじめて意味と価値が生じるのです。これは原理です。既存の序列意識を満足させるような、あるいは特権的生を享受しようとする欲望は、根源悪でしかありません。

武田康弘




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道徳の基盤は想像力、否、あらゆる人間文化の基盤は想像力です。

2007-07-20 | 恋知(哲学)

一昨日のブログで、道徳の基盤は想像力だと書きましたが、
なんの突っ込みもないので(笑)、自分で突っ込みます。

道徳のみならず【想像力】なしには人間の人間的な営みは全て成立しません。
言語においても、事象と意味を一対一で対応させることはできません。もしイメージを喚起する力がなければ、人間は言葉を使うことすら不能となります。広大なイマジネーションの世界に支えられてはじめて言語を用いることもできるわけです。

したがって、わたしは言語を固い概念世界に閉じ込めて使用するのは、本質的に愚かであると思っています。イメージをよく喚起できるような言語使用を心がけないと、硬直して死んだ言葉となり、言語から現実的な力が失われます。

わたしは、想像力は文化全体のもっとも深く大きな問題で、人間社会の未来を拓くためには、想像力についての探求が不可欠だと確信しています。同時に、個々人の現実的で有用な想像力の開発が求められます。その能力なしには、生のエロースは広がらず、社会問題の解決も不可能だからです。

問題を解決し、豊かな生を営み、未来を拓く条件は、自覚的に積極的にイマジネーションを活用することではないでしょうか。

武田康弘




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「日本人には道徳はない。ただ目上の者に従うだけである」(「日本を知れ」)

2007-07-19 | 恋知(哲学)

人は、陰謀を廻らせることがあります。陰謀とは言わずとも騙したり欺いたりすることはあるでしょう。また、いまの自分の立場を守るためによくないと思う事をすることもあります。自我の満足のために他者を手段として利用することもあります。また人は、人の不幸を期待することもできます。わざと人に害を与えることもできます。人を振り回して悦に入ることもできます。

人間は自由に選択できる可能性を持っているからこそ、道徳・倫理が問題となるわけです。昨日のブログに書いたように、自他のよろこびを広げるための道徳は、エロースを肯定する生への愛を条件とします。外からの要請ではなく、自分の心の内側からよろこびを生み出そうとするのは、生への愛がなければ不可能です。生を否定する想念は、外なる規範に従い形式的に生きるロボットもどきの生しかつくりません。

形式的な生=社会人としての仮面を被って生き、内容の生=実存として生きることが少なければ、人は根源的不幸に沈むしかありません。教育によって「正解」を導く技術だけを仕込まれた人間は、大人になれば「成功」を導く技術だけを仕込まれた人間になる他はなく、なぜ?どうして?(内容)を問うことの出来ない外的人間に陥ります。現代では、哲学までも自分の頭で考えることではなく、本の理解と情報知に過ぎませんし、芸術もパターン化し、パッチワークに過ぎないものが主流です。命の内なる躍動とパワーが外的価値によって抑圧・消去されてしまうために、内的世界のよろこびの開発が制限されるのです。

自分で自分の生の意味と価値をつくり、それに責任を負うのが道徳であり、ほんらい道徳の価値は、自分の生の内側から生きるパワーを湧出させるところにあります。混沌とした不定形な人間(己)の生に意味と方向を与えることを使命とし、外なる価値に屈することのない内的充実を創造するのが道徳です。その意味で道徳とは、人間が人間として生きる上で何よりも大事なものと言えます。

序列主義・形式主義は最も反・道徳的な意識です。外的価値に従い、権力にへつらい、権威への従順を示すことは、何よりもひどい反道徳的態度です。道徳とは、個人としての人間の尊厳を守るものであり、道徳的精神とは、自分の自由を行使しその結果に責任を負う「自立した精神」の別名です。自他のよろこびをつくり出そうとするプラスのエネルギーがうむ営みは、型はまりの固い精神、上位者に従う上意下達の精神とは無縁です。自分の存在を自分の決断―自由と責任で価値あるものとし輝かせるのが道徳です。

どうも、今もなお、「日本人には道徳は存在しない。ただ目上の者に従うだけである」(「日本を知れ」六十数年前のアメリカ映画)から抜けられないようです。安倍首相の言う道徳教育が、ナショナリズムを植えつける反道徳教育でしかないことは、火を見るより明らかでしょう。


武田康弘



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道徳の基盤は想像力、道徳成立の条件は愛

2007-07-18 | 恋知(哲学)

わたしは、道徳や倫理の基盤は、言語的理解・整理の次元にはなく、イマジネーション(想像力)によるイメージ喚起力にあると思います。
理論・理屈ではなく、おもうこと・イメージする力を強め広げることが人間的な「よい」を生み出す基盤です。

教師が説く「道徳」が少しも説得力を持たず(まして政治家の説く道徳などは笑止でしかない)、シラケルだけなのは、単なる言葉による躾=説教に過ぎないからでしょう。

道徳が成立するための条件は、人間的自由を謳歌するやわらかな心と、エロースを肯定する生への愛があることです。誰でも人はみな、状況の中で条件づけられてしか存在しませんが、その中で、悦びの生を営み、人生を楽しもうとする心がなければ、道徳・倫理は成立しません。

道徳や倫理は、こうすべき、こうしなければならない、という命令ではありません。そのような外からの要請であれば、それには存在価値がないどころか、よき人間の生を阻害する「悪」とか言えません。既成の善悪の判断に従うだけの人生は、自分で自分を騙(だま)す「自己欺瞞」でしかないからです。

昨日のブログに書いた通り、ほんらい道徳・倫理とは、互いの【生きるよろこび】を広げるための努力・知恵であり、感情とイマジネーションを豊かに育むことで、相手・他者への配慮・尊重・愛を育てる営みです。誰かに従うのではなく、どうしたら自他のよろこびをつくりだせるかを考えることです。心の深くから、悦び・嬉しさ・楽しみを生み出そうとする主体的な努力・創意・工夫がほんらいの道徳であり、自他と世界にエロースを広げようとして生きる人を道徳的な人と呼ぶのです。もしそうでないなら、道徳や倫理には存在理由がありません。

他者の感情―よろこびやかなしみを感じ知るのは、言葉や理論ではなく、豊かな想像力・感情移入の力であり、愛です。愛を育み、生を肯定できる思想がなければ、人間の営みはすべて意味を失ってしまいますから、道徳・倫理も成立しようがありません。言語による論理以前のイマジネーションの世界の広がり・豊かさがなければ、「他者性」とはただの言葉にしかなりません。

家族愛とか伝統の尊重とか愛国というイデオロギーは、まったく道徳ではなく、特定思想による洗脳に過ぎず、個人の良心の自由を侵害する「悪」でしかありません。
繰り返しますが、一人ひとりの人間がよく生きるための道徳の基盤は想像力であり、道徳成立の条件はエロースを肯定する生への愛なのです。


武田康弘



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「相手の心のよろこび」をイメージする「私のこころ」

2007-07-17 | 恋知(哲学)

「相手の心のよろこび」をイメージする「私のこころ」
ーーーー(実存論から見た他者の尊重)ーーーーー


今の「私」のありようは、「気分」が示しています。ハイデガーの言うとおり、「気分」が存在を開示するわけです。

けれども、もし、気分によって開示される存在のままにわたしが行為したとすれば、よい人間関係を維持することも発展させることも不可能です。
「気分」によって告げ知らされる「私」の存在のありようをしっかり見る・知った上で、どのように考え、行為したらよいのか?を吟味することが不可欠なのは当然ですが、実際にはなかなか難しいです。

相手の気持ちを考えず、気分のままの言動で人間関係をダメにする場合がしばしばあります。よい関係を築くための努力・創意工夫がなく、その時々の自分の都合を優先させれば、関係を継続・発展させることは不可能で、そうなれば、何より大切な「関係性のよろこび」はつくれません。

よろこびを広げるには、自分を引っ込めること・我慢が大事ですが、そうすることに意味があると思える条件は、「未来」にエロースが見えるか否かです。人は意味のない我慢は続けられませんし、もしそれを続ければ心身共に「病気」になる他ありません。悦び・嬉しさ・楽しみ・・・が得られると思えば、我慢することが価値となるわけです。

未来を開くには、相手の心に、関係性のよろこびが広がる可能性があることを示しつつ、自分の心に、関係性のよろこびが広がるイメージを喚起することが必要です。「自我の満足」を優先させようとすると、エロースは広がらず、袋小路に入ってしまいます。「関係性のよろこび」を生み出そうとする努力のみが自分をも救います。自他共に、相互に、プラスのイメージをつくりだす主体的な努力、それが関係性を維持し発展させるための条件です。個人間でも国家間でも。

【相手の心のよろこび】をイメージする【私のこころ】が、自他を共に助け、幸福を生むのでしょう。自分の自由を、「気分」に従う自由ではなく、他者に、照り返されて私に、「よろこび」を広げるために使いたい、そうわたしは思います。


武田康弘

☆コメント欄の古林さんの提案を受けて、副題ー「実存論から見た他者の尊重」ーをつけました。



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考えられた「愉悦」は愉悦ではない = ポリーニのモーツアルト

2007-07-13 | 趣味

考えられた「愉悦」からは愉悦は消える。
考えられた「柔らかさ」は柔らかくない。
頭―観念を先立てると、心身から湧き上がる感動はやってこない。

ポリーニの弾く(指揮もポリーニ、オーケストラはウィーンフィル)モーツアルトのピアノ協奏曲17番&21番を聴いての感想だ。

頭脳明晰で、素晴らしい技術の持ち主で、真面目で誠実な人柄のマウリツィオ・ポリーニが奏でる音楽は、どうにも躍動しない。沸き立つような生命感がなく、悦びが広がらない。まるで博物館の展示物のよう。

でも、この演奏は、昨年度の新譜で最も高く評価されたCD。
わたしは、自然で大胆であること、自由闊達なこと、無邪気であること、を求めたい。そうでなければ、音楽まで客観学になって死んでしまう。

今ここからの飛翔、淀みのない流れ、いまだ見ぬ世界への憧憬、――未来への投企・実存の冒険のみが、魅力=価値を生む、わたしはそう思う。
音楽も哲学も心身の奥深くから発せられ、表層の善美を打ち破り、臓腑にまで届く納得・悦びを生み出さなくてはウソだ。

武田康弘



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教師は政治的意見を述べる責任があります。

2007-07-11 | 教育

子どもたちを教える教師は、自分自身の政治的な考えや信条をきちんと述べる必要があります。
この社会をどう見るか?どうしたらよいか?
さまざまな考えがあり、いろいろな違った見方があることを知り・学ぶのは、ほんらい民主制社会における教育の基盤です。

先生によって見方が違うことを経験すると、子どもは自分の頭で考えることを始めます。違い・ズレがなければ、頭は使われません。社会問題・政治問題を自分の問題として考えるには、刺激が必要です。大人が本気でなにがよいか?どうすればよいか?を考え、批判的な意見を述べることがなければ、子どもの頭は動きません。

ところが多くの人は、教師は政治的意見を言ってはならない、と思っているようです。いつの間にかそう思い込まされているのです。現実の政治・社会問題に対して論理的な批判をするのは民主制の生命ですから、その能力を育むための教育がなされないのは大変困った事態です。

生徒の意見を鍛えるためには、まず、感じ・思うことをそのまま表明できる環境をつくることが絶対条件です。残念ながら、それが出来ている教育現場は、今の日本にはほとんどありません。その後で、自由対話によって「自分の意見」にまで鍛えていく作業が必要ですが、そのためには、子どもと関わる大人が本気で自説を述べる必要があります。子どもが自分なりの見解を持つには、見本が必要だからです。

政治に対する見方を複眼的にするための教育は、絶対者がいない民主制の社会を健全に維持し発展させるには、必要不可欠なもので、政治教育がないところに未来はありません。

教師がきちんと自分の考えを生徒の前で表明するのは、教育者としての責任を果たすことです。考えの違う複数の教師が、異なる意見を言い合う現場を見せることは、子どもの思考力と人間力の育成にとって何よりも大きな助けになるのですから。もし、話者として教師が一人しかいない時には、自分とは異なる考えを、書物などを使い紹介することが必要です。

武田康弘



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『知るを楽しむー歴史に好奇心』4月5月号ー漢字と漢方

2007-07-08 | 書評

衆知の通り、明治政府の富国強兵政策より「日本の伝統」は大きく変えられました。
医療の分野では、日本が独自に発展させた漢方医学を1874年(明治7年)に廃絶して、西洋医学修得者のみに医師資格を与えることになりました。
これは、漢方が「個人」の体質や病状を重視する哲学・精神・方法をもつためで、外科・公衆衛生に優れた「集団」の医学ではなく、戦争を進める強兵政策には合わなかったためと言われます。

NHKの知るを楽しむー歴史に好奇心』の4月・5月号の、「漢方なるほど物語」で、石野尚吾さんが「漢方医学の現在と未来」という小論を書いていますので、簡単に紹介します。

「不易流行」と「和して同ぜず」

漢方医学は、時々の医学の流行と調和・対応しながら、漢方医学の確固たる理念を残し伝えてきた。まさに不易流行こそが日本漢方の伝統。

西洋医学と漢方医学は、「和して同ぜず」というスタンスで考える必要がある。両者は融合してはならない。融合とは溶かし合わせることであり、それぞれの医学の本質を溶かしてしまうことになるからだ。お互いの本質を保ち、尊重しつつ協力、協調することが大事。

一人の医師が西洋医学と漢方医学を学び実践していくことこそ本当の協調だ。

木を見て森も見る新しいパラダイムを。
――――――――――――
他にも、
☆漢方薬はオーダーメイド
☆葛根湯の不思議
☆明治が手放した知恵など、分かりやすく面白い記事が載っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

また、同じテキストの「日中二千年―漢字のつきあい」は、さらに興味深い内容です。

加藤 徹(かとう とおる)さんの視点・解説は大変見事で、「漢字の魔性」「残虐な字源」からはじまり「天皇と日本国王」「和製漢語―哲学と革命」に至るまで、すべてが生きている学問になっています。
まさに、『知るを楽しむ』というNHKの番組コンセプト(論語の「之を知るものは之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽しむ者に如かず」)を具現しています。

このテキストは、NHK出版 http://www.nhk-book.co.jp(TEL.048-480-4030)で買えます。683円(送料65円)です。

武田康弘






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ラモーの「ピグマリオン」―古楽の名盤

2007-07-06 | 趣味

ジャン・フィリップ・ラモーは、わたしの好きな作曲家のひとりです。
フランス古典派の巨匠・ラモーは、ヘンデルやバッハより2歳年長ですが、彼の一幕のバレエ付きオペラ『ピグマリオン』は、美しく親しみやすい曲でお勧めです。
わたしは、古楽の大御所グスタフ・レオンハルトが指揮したCDを15年間聴き続けていますが、これは間違いなく古楽の名盤だと思います。

「明晰・公正・均整の永遠のレッスン」と言われるラモーの音楽の美しさを丹精に高い品位をもって描いた名盤をぜひ多くの方に聴いて頂きたいと思ってこのブログを書き始めましたが、いま調べてみたら、廃盤なので、ユーズド以外には入手できないようです。

ドイツ・ハルモディア・ムンディの原盤で、BMGビクター(現在はBMG JAPAN)から出ていたのですが、再発売されることを願います。

愛神(キューピット)の勝利を謳った一幕のオペラで、演奏時間も50分に満たないくらいですから、無理なく全曲を聴くことができます。親しみやすく美しいメロディーに溢れていて、心地よいリズムですので、自然に体に入ります。上品で知的で人間味溢れる上記のレオンハルトの演奏以外にも、また別のよさを表した新録音もあるようですので、ぜひ聴いてみて下さい。




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