これは、フランスのテレビ局が放映したものですが、ウクライナのロシア支配地域では、ウクライナ軍側が住民のインフラを破壊していて、ロシア軍が住民を避難させているとのことです。
日本では、ウクライナ政府と軍による破壊活動については報道されず、ロシア側の悪事だけが報道されています。おそろしく一方に偏った報道で、酷い話です。
わたしは、幾度も、ロシア悪、ウクライナ正義(その背後で戦争を遂行しているアメリカへの非難はなし)という極端なウソ報道は危険だと書いてきました。
ロシアを敵国扱いにすること、ロシア大使を追い払ってしまったことは、純然たる悪で、損ばかり。ヒステリー行動は、国民損にしかならないことをわが日本の市民が自覚することが必要です。
わたしは、プーチン大統領の軍事侵攻へは批判してきましたが、同時にウクライナのクーデター政権(ゼレンスキーは二代目)の悪行=2014年から多くのロシア人を殺害し、拷問し、街を破壊してきたことも批判しないと公正でないことも書いてきました。なぜ、わが国のマスメディアは、露骨な一方への誘導放送を続けるのか!?
武田康弘
わたしが、何かするとき、
わたしが、何かを選ぶとき、
わたしが、何かに頑張るとき、
わたしが、何かに夢中になるとき、
それは、わたしが「好き」だからです。
好きでないのに、何かをする場合は、義務・強制であったり、金を儲けるためであったり、地位や名誉を得るためですが、
それは、もちろんよくないことです。
現実の人間の生は、好きでないことをしなければならない場合もあります。
でも、ほんらいは、好きだからやるのですし、それが健康・健全な心・精神を育てます。
今までの社会、今までの大人は、効率第一という思想を仕込まれているために、不健全を当然と思い込んでいます。
好きを抑圧してしまえば、人間性のよさはどんどん減ります。歪みます。
だから、子どもから大人になるに従い、ツマラナイ存在に堕ちていきます。
いつまでも子どものよさを持ち続ける大人は、ほんものの人間です。
それを恋知者(哲学者)と言います。
好き、恋、愛、がなければ、すべてなし。
知との恋愛というのがソクラテスが造語したプロソピア(フィロソフィー)の意味です。
ソクラテスの恋知者(哲学者)の定義は、「知を求め、美を愛し、楽を好み、恋に生きるエロースの人」(プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』)です。
学も知も「好き」でなければ、成り立ちません。内側からでないと、すべて歪みます。
武田康弘
以前は、ワクチン被害はアメリカで一人も出ていないとテレビで大見得を切り、
今度はマイナンバーで全部統一と言う。
大嘘と出来ないことを堂々と言うのは、愚かの極みだが、ここまでくると精神治療が必要だろう。
国家主義のお坊ちゃま河野太郎君、見てもらいなさい。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室 客員調査員=国会所属の官僚に哲学と日本国憲法の哲学的土台を講義)
わたしが全コンセプトをつくった【白樺文学館】(白樺派を顕彰するはじめての施設)は、
①受けつけのテーブルと、②図書室の3つのテーブルと、③音楽室のテーブルは、わたしがデザインしました。
なお、椅子は、既製品ですが、わたしが見つけてきたもの。
以下に写真でご紹介。
ただし、今は、我孫子市が運営していますので、使い方・置き場所が、受付と図書室のものは、わたしの意図とは異なっています。
①受付の小テーブルは、二正面性(入館者受付と図書室利用者への応答の二つ)をテーマにデザインしました。
②図書室の3つのテーブルは、3つが隙間なく並び一つの長テーブルになり、小会議ができるようにデザインしました。
③音楽室(柳兼子さんの歌唱などを聞く)は、テーブルは、桜材です。オーディオもわたしのチョイスとチューニングです(現在はアンプとCDプレーヤーが故障したので低価格のものに変更されています。オーディオが分かる市の職員がいないのでプアーな音です・残念)
※ なお、綿密な打ち合わせの上で、設計図面をおこしてくれたのは、すべて方圓館です。
白樺派で民芸運動を起こした柳宗悦の美に対する思想は、用の美、とか 用即美と言い、熟達の職人が生み出す無自覚の美を最高と評価し、芸術家の作為を低くみます。過去や伝統や民族が中心になります。
わたしは、用い方・使い方・用途を先に置くことは、柳と同じですが、過去=従来の形に囚われず、かつ、これからの自由な生き方・考え方をイメージし、より魅力的で色気のあるデザインを目がけます。しなやかで楽しい人間性。
そこが、柳宗悦とわたしの違いと言えますが、それが上記のテーブルのわたしのオリジナルデザインや椅子のチョイスによく見て取れると思います。
わたしも使い方が先にあるのですが、それをわたし発のイメージに置き換えて、魅力あるデザインにします。それが武田流で、柳とは少し違います。大事なのは、機能的であることは基本条件ですが、追い求めるのは、魅力=色気ある形です。内容をふくらませる色気はわたしには必需です(武田)。
武田康弘
fbの私の語録
私は、よい・大切だ・高い価値がある、と思ったことには、真っすぐに向かい、自分にできる最大限を行なう人生だ。
でも、口だけで、本音は小さな利害損得でしかない人が多くてガッカリする。
それなら立派なことを言わなければいい。覚悟を決めなければ、ツマラナイ人生しかない。
現状を批判する人を含めて日本人はチャチな人が多い。正論を言いながら、実際のその人の生き方は、セコイ人が多くてウンザリさせられる。自己をかけて生きよ!きれいごとを言い、たいしたことはやらずに、アリバイづくり(笑)ではあまりに情けない。ちゃんと生きろよな!!
既成秩序に従うのではなく、明瞭に、かつ濃い内容をもって体制批判する精神なくしては、まともな世の中はつくれません。いい子ちゃんになっている人は悪い人です。こんなデタラメな社会に合わせているようでは被害者は加害者でもあるのです。憲法12条を噛みしめたい。
いまの世に最も必要なのは、ガチンコ・不退転・他者の目などへともしないで、突き進むことです。ひ弱で、他者承認を原理とする戯けた哲学が流行るのでは、ほんとうに世も末。矜持を持ち、己を信じる「恋知する実存者」として生きよう~~~~左右の全体主義へは唾を吐く。
武田康弘
先週の火曜日に瀬部かりんちゃん(小5)が、3時間の学習の合間合間に描いた黒板画です。
以下は、fbコメントです。
すごい夢があっていいですね!
ええ、見ていると、ファンタジーがどんどん広がっているのが分かります。全体構想は初めはなくて、何かを描いていると次が出てくる、という風です。笑いながら、何か言いながら描いています。
はじめはソフトクリームだけを描いたのですが、それから時間と共にあっちに、こっちに~~
これは凄い。幻想交響曲顔負け、ゲルニカビックリ。永久保存版です。黒板をまた買いましょう。
明るいパワーに溢れているよね~~
ファンタジーとリアルが一つで、多様で多層的な面白さ。大人になると消えてしまいます。
外の具象が心の中に入って矛盾せず抽象化され自分のオリジナル心象と共に黒板に投影されました。やはり凄い。
黒板10枚 ! !
外の具象が心の中に入って矛盾せず抽象化され自分のオリジナル心象と共に投影された画ー---」
これは、画家が聞いたら、「うらやまし!!」となります。
黒板、置くとこない~~~。
昔黒板を塗れ雑巾で拭いて先生が来るのを待ちましたね。暫くはチョークの文字が消えずまた塗れ雑巾で拭いたりして。いい加減にしないとチョークが飛んで来ます。
タブレットでは味わえぬスリルが在りました。
タブレットは全然ダメ。身体性なしで、ペタペタ表層世界。
スマホの平面に吸い込まれて逝く人間のなんと多いことか。
何度見ても、純粋な夢の世界に引き込まれます
リアルに見えているものがわたしの世界になる。リアルとシュールが一つで、区分けなく一体。区分けしようもない世界が黒板に可視化される不思議・面白さ。
しかも可視化するリアルな技術も凄いです。
瀬部かりん
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白樺教育館 全景
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武田康弘
自分の頭で考えるための前提ー1 言葉について自覚する
恋知(哲学)するのは、言葉によりますから、言葉について知ることが必須です。
まず、名詞は、言葉で定義できません。
例えば、石を言葉で説明するのは不可能で、直接見たり触れたりして石という言葉の意味をつかみます。海とか山とかの自然物も、カメラとかパソコンとかの人工物もみなそうです。
また、走るとか泳ぐという動詞も、他者の姿を見たり自分が体験しなければ、分かりません。美しいとか、濃やかだ、という形容詞も形容動詞もみな同じで、それを体感=感じ知ることが必要です。
愛とか真心とか誠実とか数字などの概念語もみな同じです。感じ知るという土台が弱いのに言葉を使うと、言葉は宙に浮き、言葉遊びの世界となり、分かったような気分になってしまいます。概念語の連発になる思想的な話しは、生々しい身体性を欠落させてしまい、多くの場合、意味を失います。
五感全体で感じ知ることがないと、深い納得(腑に落ちる)は得られません。これは原理です。直観・体験がなく、言葉だけがある、ではお化けですから。
武田康弘
一神教にすがるしかない人生(日本では明治政府が作った天皇教)、
それを超えようとマルクス主義。
双方から逃れようと形式的な正しさ(深い嘘)をつくり絶対化する世俗教。
哲学も西欧の言語ゲームとしての哲学なので、それへの参加可能者はごく少数。
何を拠り所としたらよいのか?
答えは、2千数百年前にブッダが出しています。
最も尊いのは、神ではなくあなた自身=人は誰もみな「天上天下唯我独尊」として生れてきた、と。
遺教では、「自帰依ー法帰依」といい、透明な意識をもつ自分自身に帰依せよ、と。
誰かに(生者であれ過去の人であれ)依拠せず、いまのわたしの透明な意識を拠り所にする、というわけですが、
このブッダの根本思想を現代に活かすのが恋知という発想です。それは、世界で一つのわたしが「感じ・想い・考える」により始まる人生で、わたしの実存のドラマは、一般性に沈んでしまわない浮遊する力をもちます。「わたしの人生はわたしのもの」を現実に生きるのが、恋知する実存者です。よく感じ、広く想い、深く考えようする心が、わたしを支え、新たな世界を拓きます。
恋知の生とは、形と序列の二文字ですべて収まる日本文化=日本人の生き方とは対極ですが、それは、何よりも自己を肯定し活かす生と言えます。
武田康弘
わたしのfbです。
自分の税金が何万分の一でも天皇家のために使われていると思うと腹立たしい。
要らん改築に30億、要らん葬式に17億。上級国民は国民の金で何をする!庶民の生活は貧しくなるばかり。怒れ庶民!景気悪いからしゃーない。要るもんはいるではない!
良いも悪いもない。ただ使われる。
天皇族には巨額の隠匿財産があるが、あえて国の税金を使うことに意義がある。ステイタス・シンボルに巨額の金を費やすことに意義がある。
必ずや没落させます。
意思があればこそ進む。
自民統一教会党と皇室は、市民の血税を使い放題なのでしょうね。一般市民は、物価の値上がりにも怯えながら、毎日暮らしているのに。酷いものです!民主国としては、この格差を、何としても、解消しなければなりません。「すべて人間は平等」なのですから。