『恋知』 ーわたしを輝かす営み
第2章「恋知とはなにか」のPDFファイルができました。
30ページですので、プリントアウトして、A4ファイル(20ポケット)に入れると本になります。
ぜひ、ぜひ、お読みください。
拡散希望です。広めて頂けると、とても嬉しいです。
http://members.jcom.home.ne.jp/samest/contents/Philosophos_2Renchi.pdf
(白樺教育館ホームページ 制作・古林治)
(1) 概括
わたしは、人間のよい生・優れた生・魅力ある生を、恋知の生と呼びます。
恋知(れんち)という言葉は、古代ギリシャのソクラテスが命名したphilosophia(ギリシャ語)の直訳です。善美に憧れる恋心がつくる人間に固有のエロースの生を称揚する言葉です。プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』及び『饗宴』をお読み下されば、「恋」がキーワードであることがよく分かります。
西周(にしあまね・1829~97)により明治時代につくられた「哲学」という訳語は、近代西洋のPhilosophie(ドイツ語・フランス語)・Philosophy(英語)の邦訳ですが、これも直訳すれば同じく「恋知」となります。
わたしは、以前より哲学を恋知と訳すべきと主張しています(書物としては、金泰昌[キム・テチャン]と武田康弘の哲学往復書簡30回=『ともに公共哲学する』《東京大学出版会刊》の84ページに書きました)が、そのわけは後に詳しく述べます。
恋知の生とは、自らの「考える頭」をよく用い、意味を了解し、心身によろこびが広がる生き方のことですが、それは、名や序列を重んじて形式を優先させる従来の日本人の生き方とは異なりますし、強い一神教に従う生とも違います。世俗の価値に沿う集団主義でもなければ、超越者への信仰でもない第三の道と言えますが、その恋知を象徴する一人物が数年前に映画になりましたので、ご紹介します。
その名は、ヨーロッパ映画史最大の製作費を投じてつくられた『アレクサンドリア』(スペイン映画・2009年公開・DVDは2011年)の主人公ヒュパティアですが、優れた天文学者・数学者で、新プラトン派の恋知者でもあった彼女は、キリスト教の司祭に「あなたは何も信じていない」と詰問された時、静かに揺るぎなく「わたしは恋知(哲学)を信じています」と応えます。
身分の違いなく教え、みなに慕われた優しい教師でもあったヒュパティアは、紀元後415年にキリスト教徒たちによって惨殺されましたが、古代アテネの民衆によって有罪とされ死刑となったソクラテスと共に、真実を求めて愛と理性に基づいて生きる恋知者の受難でした。
古代ギリシャの天文学者アリスタルコス(紀元前310年~239年)は、彼の直前で活躍したアリストテレスの学問的権威に影響されずに、アリストテレスの「天動説」(紀元後2世紀になってプトレマイオスが主著『アルゲマイスト』に記した天動説はアリストテレスに依拠したもの)を退け、「地動説」を主張します。その論拠は明快で驚くほど適確でした。学問の祖と言われる博物学者のアリストテレスには間違いが多く、現代のことばで言えば「科学的」ではありませんが、アリスタルコスは合理的でした。しかし、彼の地動説は、当時から自分を中心だ(地球は宇宙の中心のはず)と思いたがる人々の反発を買い、紀元後には、アリストテレスに依拠したプトレマイオスの天動説がキリスト教に合致するために支配的となったのです。
明晰な理性と深い思考力をもつ天文学者・数学者にして恋知者であったヒュパティアは、ギリシャ文化を受け継ぐ古代最大の学問の都であったアレクサンドリアの図書館で、観測と実験と思考により「地動説」の正しさを確信していきますが、映画『アレクサンドリア』は、そこに焦点を当て、人間の宇宙認識の広がり・理知的思索的な能力への信頼・真実に憧れる透明な心・公正で豊かな愛情を美しい映像で表現しています。
この映画には描かれていませんが、ヒュパティアは学生たちに次のように述べています。
「あなたが考えることで得られる『正しさ』を大切にしなさい、考えて間違えたとしても、考えないことより遥かによいのですから。」
「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」
「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は信じ込まされたもののために戦うのです。」 (英文からの翻訳は武田)
ここには、みなが言うからという「一般的」なよいや正しさではなく、また、一神教が示す「絶対的」なよいや正しさでもない第三の道=「普遍的」なよいや正しさを求めるヒュパティアの精神が、明瞭な言葉となってあらわれています。
現代の欧米人でも多くは、「絶対的」と「普遍的」を似たようなものとして並列に語りますが、絶対と普遍が一体化してしまうと、「一般的=世俗的」と「絶対的=宗教的」の二項対立となります。この不毛性を超えるのが第三の道=恋知です。そこでは、ヒュパティアの言葉に象徴される「普遍性」の追求がありますが、それは特別なことではなく、無自覚ではあれ、子どもやふつうの生活者がしていることです。
続きは、PDFファイルで。
http://members.jcom.home.ne.jp/samest/contents/Philosophos_2Renchi.pdf