思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

ツァイスレンズーソニーα用のズームDT16-80mmF3.5-F4.5ZA

2008-07-26 | 趣味
この16-80mm(フルサイズ換算で24-120mm)は、
さすがにツァイスがデジタル用に新設計しただけのことはあります。
色の抜けのよさ、純白のキャンパスに描かれた絵、とでも言えばいいでしょうか。他社のレンズと比較するまでもなく、一目で色の純度が高いことが分かります。
これは、フィルム時代からのツァイスの特徴で、わたしがテストした国産レンズは、みな白が濁るのです。だから、画像の品位下がり、立体感も得にくくなります。
この特徴は、その場で画像が見られるデジタル時代には多くの人に分かるのではないでしょうか、一目です。
また、色のりがよく、その色が実物よりもわずかに艶っぽく見えるので、見る人の感情を満足させます。
ツァイスのレンズは、画像に豊かなエロースがあるために、その価格を忘れさせます。いくらでもいい!?(笑)という気持ちになるのです。おお、恐っ!(笑)。
こういう色のレンズを一度使うと、まず元へは戻れないでしょう。日本的な侘び寂(わびさび)の世界とは対極の明澄な善・美の世界は、エーゲ海のよう?

☆☆☆☆☆
こういう違いは、客観テスト・評価では出ません=表せません。
自分で撮ると違いは一目ですが、その違いの優劣の評価は、何を価値と考えるかという主観性の領域で決まるからです。結局は、善美の基準=生き方=哲学の問題になります。例えばトヨタの車が売れるのは、それが現代の管理社会の「よい」に合致しているからですが、ツァイスの思想はそれとは大きく異なり、ルネサンス的な「人間性への信頼と肯定のロマン」に通じる善美だと言えましょう。


ただし、これはズームレンズですので、同じツァイスの単焦点レンズ(いまのところ85mmと135mmしかありませんが)と比べれば差があります。

135mmとの違いは、3点です。①まず、色の透明度と忠実度が違います。135mmは透き通るような色で繊細な表現ですが、ズームはこれと比べると細やかさが不足しますし、少し派手でつくられた色に感じます。②次に、解像度はかなり違います。パソコン画面上では拡大されますので、違いは大きく現れます。135mmは極めて線が細くどこまでも解像して恐ろしい程です。一方、ズームの方は、必要にして十分な解像力といえますが、比べれば相当に差があります。ただし、コントラスト重視の設計で見せ方がうまく、プリントした写真は美しく見栄えがします。③最後の違いは、トーン(階調)の滑らかさと豊かさですが、16-80も健闘していますが、これはもともとズームが苦手とする分野で、差がつきます。

総合すれば、135mmは、繊細・緻密・透明でありながら、盤石の安定・強さを示す比較を絶したスーパーレンズですが、16-80mmズームは、ベールを剥がしたような美しさを、分かりやすく、くっきりと示す優秀レンズだ、と言えるでしょう。

ソニーα350とのバランスは、大きさ・重さ・デザインともに良好です(写真を参照)。


おまけ。
ある方のブログをご紹介します。キャノンのLレンズとの比較写真です.

キャノンは、フルサイズ用の24-105mmF4L IS USMで、
重さは670g、定価は、152250円です。

ツァイスの方は、このズームとは違いますが、レンズ一体型のソニーサイバーショットDSC-R1のレンズ(焦点距離は同じ)です。定価は、カメラ一体で99800円ですが、現在は発売されていません。なお、このレンズは、レンズ構成も開放F値も、ここで私が取り上げた一眼レフ用のDT16-80mmズームとは異なります。



武田康弘
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エロースの生とは?

2008-07-23 | 私の信条
ふつうの日常の生活には無限のたのしみとよろこびがある。

例えば、背筋を伸ばし、腕を後まで振って歩いてみる、とっても気持ちがいい。心身が生き返る。

フィットするスポーツシューズを履いて、軽くジョギング。自由に好きに飛び跳ねる。ウキウキしてくる。

デジカメ持って、そこらを散歩してみる。ふだんの世界ががぜん色づく、ファインダーは万華鏡だ。

はっきり明瞭な声で話す。

音楽に合わせて、ハミングし、踊る。

感情移入し、情景をイメージし、詩や小説を声に出して読む。

友人と話し込む、本音トークは頭脳の活性化だ。形だけの会話、当たり障りのない無駄話ではなく、真面目に、本気で対話する。まったく違う世界が広がる。

自分を貶めるような他者への迎合ではなく、自分を高める心身の使い方を工夫する。

感覚と心と頭を柔らかくしなやかに。脱力する。

既成の枠組みの中で他者の目と言葉に翻弄されて生きるのは愚かだ。自分の心身の全体を使い、自分の頭で考え、自分が生きる。

ふつうの日常の生活は、よきもの・美しきものの無限の宝庫だ。それに気づくか否か、それを活かすか否か、それが人間の価値を決める。

どこか遠くによきものがある、と思っているうちは貧しさから抜けられない。

魅力ある世界を自分自身の心身と身の回りに発見し、開拓しつつ生きる人こそが魅力的な人だ。それがエロースの生。


武田康弘
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ツァイス ゾナー135mm F1.8ZA(ソニーα・デジタル用新設計レンズ)

2008-07-15 | 趣味
(下のブログのつづき)

【ツァイス ゾナー135mm F1.8ZAのレポート】http://www.ecat.sony.co.jp/alpha/lens/lens.cfm?PD=24690

まず一目でわかるのは、色の透明度と品位、シャープネスの違いです。

描写は大変きめ細やか、緻密で正確です。恐ろしいほどの解像力ですが、特別な強調感や癖が全くなく実に自然です。

次に色ですが、極めて透明度が高く、少しの濁りもありません。偏りがなく大変忠実な再現ですが、どこか近寄り難いような美しさを感じます。

絞り開放でボケを生かした撮影でも、画像は凛として立っています。

また、階調の幅が広く、なめらかです。これはズームレンズが不得手とする分野です。
ボケは、何がボケたかが分かるような芯のある美しさですが、階調の豊かさとあいまって見事な立体感を生みます。

見るからに高級な光学ガラス、特別なコーティング、ズシリとくる重さ、洗練されたデザインと金属鏡筒が醸す風格、とにかく使う人にも覚悟がいります。おいそれと使いこなせるレンズではありません。

かつて、コンタックス用のプラナー135ミリF2という大口径レンズを、たった5枚のレンズでつくるという離れ業を演じたツァイスですが、今度は、ショット社(ツァイス財団グループ)が開発したEDガラス2枚を含む11枚構成で、徹底的に諸収差を除き、F1.8開放から驚くべきコントラスト再現性と解像力を持つスーパーレンズを出してきたわけです。

これは、デジタル時代に放つツァイスの矢ですが、おそらくこのレンズを見てキャノンやニコンの技術者は心胆を寒からしめたのではないでしょうか。「写真はレンズで決まる!」をこれほどまでにはっきりと示したのは、ツァイスの高邁なプライドかもしれませんが、それにしても、ため息が出るほど美しい写りのレンズです。


武田康弘

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品位が高く上質なこと、柳兼子と清瀬保二

2008-07-08 | 趣味
「民芸」思想と運動の中心者であった白樺派の柳宗悦の妻、兼子(かねこ)は、日本最高のアルト歌手でしたが、夫の宗悦を物心両面で支え続けた人でした。
当時の常識に反して学生時代からの恋愛による結婚でしたので、兼子は「不良」と目されました。
彼女は、
生活においても、
芸術においても、
天皇制の日本政府によって虐げられた朝鮮の人々との熱い交流においても、
まったく怯(ひる)むことなく闘う人でした。
しかし、というか、それゆえにというか、兼子の顔は、優しさと厳しさが両立し、品のよい美しさに満ちています。
歌も姿勢も筋が通り、実に上質です。
体制に寄り添い、集団に同調し、狭い得を追う「俗人」とは根本的に違います。
人間の品位が高いのです。

その兼子が、晩年に一番尊敬し、敬愛した作曲家が、清瀬保二(きよせやすじ)でした。
清瀬もまた、既存のいかなる組織や団体とも無縁で、白樺派に親近性をもち、独学で音楽を極め、その質において日本最高の作曲家と言われました。世界的に有名になった武満徹は彼の弟子ですが、音楽の健全な強さと品位の高さにおいては師である清瀬保二を越えることはなかった、とわたしは見ます。
清瀬氏は、音楽上でも政治上でもけっして権威、権力に屈せず、闘う人でした。彼の音楽は純粋な強さをもち、極めて品位の高いものです。その顔もまた優しさと厳しさが両立し、品のよい美しさに満ちています。

わたしが見る限り、権力や財力に頭を下げ、地位や肩書きを求める人には、ひとりとして美しい人・品のよい人はいません。ほんとうの上質とは、己の存在を凝視し、その存在を世界に開き賭けるところからしか生じないのでしょう。周囲に迎合せず、深い孤独を引き受ける潔(いさぎよ)さが、よき美しき上質を生むのだと思います。

なんとも嬉しいことに、清瀬保二のピアノ独奏曲全曲(「東北のわらべ歌」は一部カット)が先月発売されました。待望していたCDですが、演奏もまた素晴らしいものです。ここでもまた、ピアニストの花岡千春さんは「美しい人」として知られる人のようです。ぜひみなさん、お聴き下さい。http://www.hmv.co.jp/product/detail/2731334

以下は、HMVに書いたレビューです。
「健全な強さ、土着的にして洗練の極、その質において、おそらくは日本最高の音楽である清瀬作品は、しかし、権威からも、伝統からも、前衛からも離れた孤高の存在ゆえに、既存の音楽家が手に負えぬものとなっていた。ところが、予期せぬところから素晴らしいCDが出た。花岡千春さんに感謝だ。清瀬保二の最初のピアノ独奏曲の録音としては、この清く手堅い演奏は、とても貴重である。」 タケセン, 我孫子市


武田康弘
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『カムイミンタラ』7月号ー恋知としての哲学=民知について

2008-07-01 | 恋知(哲学)
北海道の文化誌『カムイミンタラ』より依頼された原稿を以下に載せます。
2008年07月号/ウェブマガジン第22号 (通巻142号) [ずいそう] http://www.kamuimintara.net/hyoshi.php?rshyokey=142


恋知としての哲学=民知についてhttp://www.kamuimintara.net/detail.php?rskey=142200807z01
武田 康弘 (たけだ やすひろ・白樺教育館館長・白樺文学館初代館長)


「白樺教育館」に通う高校生・大学生・一般成人者の方は、哲学を学んでいます。
 というと、哲学書を読解し、哲学講義をしているところと思われるでしょうが、少し、いえ、かなり違います。

わたしは、フィロソフィーを「恋知」(れんち)と直訳し、その初心を活かそうと考えているのです。この恋知としての哲学は、ふつうの生活者が、日々の具体的経験に照らして、ものごと・できごと・人生・社会の意味と価値について自分の頭で考えてみることなので、これを「民知」と呼びます。

哲学の本をまったく読まない、というわけではありませんが、本の読解は必要最小限にとどめています。恋知を、哲学書を読むことから解放しないと、ほんとうに「私」が感じ・思うところから自分で考える営みが始まらないからです。自問自答したことをみなで聴き合い・言い合う自由対話こそ「哲学する」醍醐味なのだと思っています。書物はそのための触媒に過ぎません。

このような営みは、事実について調べ覚える勉強・学問(「事実学」)ではなく、意味と価値を問う思考なので、「意味論」と言いますが、この意味論としての知を豊かに広げることがないと、「知」は、他者に優越するための道具にしかなりません。受験知のチャンピョンになるための知は、自他を生かしません。競争の知から納得の知へのチェンジ!!というわけです。

人類は、「国家と文明」成立以降、「競争原理」に支配されてきましたが、いま、文明の大転換をはからなければ、どうにも先が見えません。競争ではなく納得(腑に落ちる)を原理とする生き方がそのための鍵ではないか、そうわたしは考えています。外なる価値を追いかけ、他者との比較や勝ち負けで生きるのではなく、内なる意味充実を基準として「納得原理」による人生を歩む人を恋知者=哲学者と呼ぶわけですから、わたしたちはみな哲学者になるべきだ、と言えるかもしれません。

上位者に盲従する反・哲学的な生ではなく、「私」から出発し「私」の固有のよさを開花させながら生きる人でなければ、シチズンシップに基づくほんらいの公共性・社会性を獲得することもできないでしょう。「一般意思」(公論)の形成という社会生活を営むうえでの一番大事な営みも、「私」の実存の輝きに照らされなければ、意味を持たず、色を失ってしまいます。

わたしは、小中学生の意味論としての学習に取り組んで32年、高大学生と成人者との恋知としての哲学=民知の実践を続けて21年がたちますが、さて、これからが本番です。みなさん、ぜひご一緒に!!
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