思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

う、これはよさそう!ソニーα550 10月22日発売

2009-09-30 | 趣味

わたしは、愛用のソニーα700を、「いいカメラです」で紹介しました。これはAPS版の本格的一眼レフで、つくりのよさは天下一品でしたが、現在は製造が終わり、入手困難です。

液晶画面の美しさは、デシタルカメラの命の一つですが、新しく発売予定のα550は、α700と同じ92万ドットです。またさすがに後発ですので、さまざまな機能も充実しています。価格が安いので、700の高級感はないでしょうが、デザインは美しく、小型化されているので、使いやすそうです(ただし、ファインダーは、プリズム式ではないので、見えはよくないでしょうが)。

一眼レフカメラとしての機能に徹していますので、ベテランの方も高く評価されるのではないかと思います。

ヒットする予感がします。

組み合わせるレンズは、ツアイスの16-80mmがお薦めです。このレンズは、データを超えて、白の抜けが他社のレンズとは明らかに違い、画像が美しいので、実写すると後戻りできなくなります(笑)。


武田康弘


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固有名詞としての「公共哲学」では困ります。

2009-09-30 | 恋知(哲学)

以下のような投稿が公共哲学mlにありましたので、それに応えました。


・・・・・・・・・・
公共哲学は学問の全体性も追求します。
 しかし、ともすると知識をヨコに繋げているだけで、薄っぺらなものになる危険があります。
 また、深さも出難いです。該当するテーマの先行研究の水準を越えないで終わってしまう可能性もあります。
 そういう意味では特定の専門を持たずに公共哲学をやるのはかなり無謀かも知れません。
 学問的にも就職するという点でも。
 多分一部の人が旗を振っていても、公共哲学はなかなか進展しないでしょう。
 学部や大学院、学会などトータルに学問の再編をしないとなかなか難しい気がします。 (K)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


武田です。

このkさんの指摘は、とても本質的で、よいと思います。
公共(性)について哲学する、というのは、さまざまな分野(個別学問)の人に共通する課題であるわけすが、「公共哲学」という四字熟語でなにか新しい学問をつくる(=固有名詞としての公共哲学)というのは、わたしも間違っていると思います。

もし、「現実に価値のある公共哲学」というものがあるとすれば、〈公共(性)について哲学する場を設ける〉ー誰でもが入れる、しかも平等の資格(特定の人だけを「先生」と呼び、差別することのない=これは絶対の条件))で語り合う場を設け、そこでの意見によって公共(性)についての考えをつくり深めていく営みだといえます。

そうでないならば、哲学と言う言葉は、羊頭狗肉にしかなりません。これはわたしが金泰昌さん何度も「忠言」したことで、彼もそれを認めたのですが(皆の前で)、どうしても大学教授による大学教授のための公共哲学という狭い枠内に留まり、広く生活世界という無限の宇宙で哲学することにはなっていません。井戸の中が世界であり、そこが一番偉い場所とでも思っているなら、笑止でしかありませんよね。

わたしは、第二次言語の枠内に留まるようなら、まだまだ「哲学する」からはほど遠く、日常言語の次元に下ろしてその場で考えることをしなければ、哲学はその存在理由を失う(もうとっくに失っている)と考え、それを超えるための哲学実践を30年間以上にわたり続けてきました。

さまざまな個別学問(及び学際的学問)と、哲学するという営みは、本質的に異なるのですが、それについての説明はまたブログに書くことにします(近日中に)。


武田康弘
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下は、コメント欄です。

同感です。 (荒井達夫)
2009-10-02 10:02:12

荒井です。

私も、金子さんの指摘は鋭いと思いました。

この問題に関して、以前私が書いた論文を添付しますので、ご覧ください。

3年近く前に、「公共的良識人」で白樺特集をやり、それに掲載したいという金泰昌さんの依頼で執筆したものですが、結局、「これでは学者のメンツ丸つぶれになる」(金さん)とのことで、ボツにされてしまいました。金泰昌さんも、編集部でずいぶん苦労されたようでしたが、残念でした。

この論文に記した私の考えは、基本的に変わっておらず、現在の仕事に直結しています。




コメント (1)
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「東大病」についての対話 (Ⅰ)&(Ⅱ)+コメント

2009-09-26 | 恋知(哲学)

「東大病」についての対話


荒井達夫

若いときは、「哲学すること」を学んだことはありません。ただし、私は、30年前もから、キャリアシステムには違和感と疑問を感じてきました。それが今日の「哲学すること」に直結しています。武田さんは、我が国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析していますが、私は、それがキャリアシステムの問題を根本的に解くことのできる哲学思想であると直感したのです。
――――――――――――――――――――――――――――――――



「我が国のひどく歪んだ知のありよう」があって、「東大病」というのだそうですが、とすると東大をなんとかしなければいけないのでは(東大解体?)と思いますが……。
「主観を消去する日本というシステム」は感覚的に分かる気がしますが、その結果が「東大病」だというところがよく分かりません。
「我が国のひどく歪んだ知のありよう」というのは、たぶん官僚の社会に集約されて見られるということだと思います。その病巣に限定して、どんな悪さをしているかを具体的に説明したほうが、「我が国」の知がひどく歪んでいるというよりも、より広い人々にとって分かりやすくなる
のではないでしょうか。
正直なところ、私の知にももちろん歪みがありますが、「東大病」という名前をつけられるとしたらしゃくに障るのですが……。
―――――――――――――――――――――――――――――

武田です。

Nさん、率直なご意見、ありがとうございます。

少しご説明します。
なぜ、多くの良識ある人々が、愚劣でおぞましい《慣行としての制度》と指摘し続けてきたにも関わらず、120年間も(敗戦後も)キャリアシステムに象徴される官僚主義が続いてきたのか?
それを解き明かすためには、社会的な心理学としての記号論が必要だというのがわたしの考えで、それが、「客観学」(正解が決まっている)を知の目的とみなす「歪んだ知」にある、というわけです。

「日本の教育では、私の体験に根をもつ知を生むための前提条件である「直観=体験から意味をくみ出す能力」の育成がおろそかなために、自分の生とは切れた言語や数字の記号操作が先行しがちです。そのようにして育てられた人間は、既成の言語規則とカテゴリーの中に事象を閉じ込める自身の性癖を知的だと錯覚しますが、その種の頭脳を優秀だとしているのは、ほんとうに困った問題です。」

「読み・書き・計算に始まる客観学は確かに重要ですが、それは知の手段であり目的ではありません。問題を見つけ、分析し、解決の方途を探ること。イメージを膨らませ、企画発案し、豊かな世界を拓くこと。創意工夫し、既成の世界に新たな命を与えること。臨機応変、当意即妙の才により現実に即した具体的対応をとること。自問自答と真の自由対話の実践で生産性に富む思想を育てること・・・これらの「主観性の知」の開発は、それとして取り組まねばならぬもので、客観学を緻密化、拡大する能力とは異なる別種の知性なのです。客観学の肥大化はかえって知の目的である主観性を鍛え豊かにしていくことを阻んでしまいます。過度な情報の記憶は、頭を不活性化させるのです。」(『立法と調査』のわたしの論文より)

いままでの日本の知のありようは、上記のように手段を目的化しているために、具体的経験を踏まえて自分の頭で考える「意味論としての知」が脆弱なのです。ただの「事実学」の集大成が「知」であり「学」であるという暗黙の想念に基づいて行われる受験ゲーム(試験知)の勝者が「頭がよい」とされてしまうわけです。それを、「東大病」とわたしは名付けのです。東大生がみな「東大病」だというのではなく、日本人の多くが東大病だと言うのです。ーーー
ーーー「記憶にしか過ぎぬ知・権威者の言に従うだけの知は、現実の人間や社会にとっての有用性を持ちませんが、今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。」

そこから、以下の結論になるわけです。

「このような「客観学」の集積に依拠したエリート意識がまかり通る知的環境においては、個々人の豊かなエロースが花咲く文化は生まれようがありません。そのステレオタイプの知が生む象徴の一つがキャリアシステムであり、それは客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。貴重な一人ひとりの主観性の領野を大胆に拓き、それに依拠する自前の民主主義社会をつくり出していきたいものです。 」

なお、全文は、クリックで出ます。

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武田さんへ
Nです。

おっしゃることは分かる気がします。
東京大学で教育を受けた者でもない、官僚でもない、そういう大勢の人にも、あなたももしかすると東大病にかかっているかもしれないよと警戒を促す必要はあると思います。
でもそれよりは、東大→官僚が悪さをしている姿を具体的に明らかにしたほう分かりやすい。これまでにも新聞などでも報告例はありますが、繰り返し行われる必要はあると思います。具体的な事実は、そのつど新しく、市民の判断に役立ちます。
私は客観という言葉を、武田さんより、もっと広くとらえたいと思います。
公共性を成り立たせるもの。みんなが共通に見ている何か。それほど明確でないとしても、みんなで明らかにする過程で見えてくる何か。
たとえば、裁判でも証拠を追求していきますが、証拠を明らかにしていく、確定していくのは、裁判する人全員の努力です。
科学という知の方法も、その生成の歴史的過程では、みんなに開かれた場でみんなに認められることを試みるということがありました。客観という言葉を使う時、私も躊躇しますが、公共性にとって重要なものだと思っています。
――――――――――――――――――――――――――――

Nさん

東大病は、官僚主義の現実とその深層にある問題に限定されず、わたしたちの生活世界のさまざまな領域で「悪さ」をしています。日本人が内容・中身で生きることを阻む「権威主義」を支える元となってるのですね。個々人から立ち昇る豊かなエロースの生をうむのが「主観性の知」ですが、それとは対極にある「深い病」なのだと言えましょう(わたしの一番親しい大学は東大・本郷なので、個人的な恨みはありません・笑)。

官僚主義の問題を具体的なレベルで問題にすることは、もちろんとても重要な作業ですが(いまは連日のように新聞・ネット・テレビでも報道しています)、そのことと、それを生む深層にある暗黙の想念を白日の下に晒す作業は平行して行い、立体化・全体化しなければ、「意味」として把握すること(意味論的知の探究)はできません。それでは、キャリアシステムに象徴される官僚主義を元から廃棄することは不可能だ、そう私は考えています。

また、「客観」と言う言葉は、「共同主観」と言い変えた方がよいのです。ふつうの会話においては客観でよいですが、少しきちんと言わなければならない場では、共同主観を生む努力、というように言った方が語弊が少ないと思います。では、また。

武田康弘
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割り込ませて下さい。(医師・I)

生前の加藤周一さんと、この病いの話をしたことがありました。
彼は「東大病」との表現はしませんでした。
かつて東大の外にあった権威(への盲従)主義、それがいよいよ内部に及びつつある、という話になりました


中退した大学なので、本郷で講演する際、どうしても
「ここはドブのように臭います、クサい、権威主義のニオイに気づきませんか?」
と、聴衆に問いかけてしまいます。
「こんなところに長居すると、ハナがきかなくなるのでしょうか?」
と、私、毎回のように挑発してしまいます。


『東京大学で教育を受けた者でもない、官僚でもない、そういう大勢の人にも、あなたももしかすると東大病にかかっているかもしれないよと警戒を促す必要はある』(N)

それどころか、もともと、東大の外にこの病いは発生し発症したのです日本の山間部の村で十年以上診療して、よーくわかりました。


『120年間も(敗戦後も)キャリアシステムに象徴される官僚主義』(武田)

前半は藩閥官僚、中盤と後半は学卒官僚。
学卒官僚が出現し、藩閥が切り崩されていったようです。


『「客観学」(正解が決まっている)を知の目的とみなす』(武田)

そんなのは高校までです。
まあ、日本の大学/大学院は高校みたいなモンですが。
日米学生会議などで講演すると、彼我の違いは明らかです。


『ただの「事実学」の集大成が「知」であり「学」であるという暗黙の想念に基づいて行われる受験ゲーム(試験知)の勝者が「頭がよい」とされてしまうわけです。』(武田)

「以前の」東大生はそんなふうに思っていなかったでしょう。
また、大学を評して「アタマがいい」などという浅い表現で、
いったい大丈夫なんでしょうか。


『それを、「東大病」とわたしは名付けのです。東大生がみな「東大病」だというのではなく、日本人の多くが東大病だと言うのです。ーーー』(武田)

外野が勝手にそう考えて崇めているうちに、共同幻想としての病いを生んだ?しかも、次第に内部に及んだのでは?


『今の日本は、勉強と受験勉強の違いすら分からぬまでに知的退廃が進んでいます。それは、受験優秀校や東大を「崇拝」するマスメディアを見れば一目です。』(武田)

知的大敗、本当ですね。
でもマスメディアをひきあいに出すのは無理でしょう。
メディアはメディアですから


『とすると東大をなんとかしなければいけないのでは(東大解体?)』(N)

実に正鵠です 治療法として正しいと感じます


『主観を消去する日本というシステム』(武田)  は感覚的に分かる気がします。同感です、こちらの方が正しい表現だと感じます。


『正直なところ、私の知にももちろん歪みがありますが、「東大病」という名前をつけられるとしたらしゃくに障るのですが……。』(N)

本当にそうですね。
病名は一定わかりやすい、実は、わかりやす過ぎる。
そして、病名をつけられる側につらさを生みます


『 ありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析していますが、私は、それがキャリアシステムの問題を根本的に解くことのできる哲学思想であると直感したのです。』(荒井)

実は、病いといわれると余計なメタファーがつくので、臨床医はいやがります。
『客観学への知の陥穽』(武田)
これ、いいですね。
「共同主観学への知の陥穽」よりいいかも。

また、分析、あるいは哲学思想などという大それたものでなないでしょう。
東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象では? 
――――――――――――――――――――――――――――――

武田です。

医師のIさん、山脇さん、活発な議論、ありがとうございます。


「それどころか、もともと、東大の外にこの病いは発生し発症したのです」(I)
「外野が勝手にそう考えて崇めているうちに、共同幻想としての病いを生んだ?しかも、次第に内部に及んだのでは?」(I)

そういう「結果」をもたらしたのは、明治政府が東京大学を国家の権威を示す大学として創設した事実があるからです。そのために、天皇を頂くお上意識をもっていた民衆は、東大を特別な記号とみる「東大病」に罹ったのでしょう。「天皇教ー官僚主義ー東大病」はセットです。
『日本権力構造の謎』上巻「システムに従う教育制度」において、外国人の眼でウォルフレンがこの問題を鋭く突いていますが(加藤周一さんの言も引きながら)、内部からも、きちんとした分析と批判を行うべきだと思います。


「また、大学を評して「アタマがいい」などという浅い表現で、 いったい大丈夫なんでしょうか」(I)

もちろんダメですよね(笑)しかし、多くの人がそう見てしまうという現実があるわけです。


「病名は一定わかりやすい、実は、わかりやす過ぎる。そして、病名をつけられる側につらさを生みます」(I)

できるだけ問題の所在をクリアーにする必要から、わかりやすい(過ぎる)名称をつけました。傷ついたらごめんなさい。ただし、これは、東大生やその関係者が病気だというのではなく、Iさんも言うように、主に東大の外に発生した(発生させられた)のですから、日本の社会問題(社会的病理)だと見てください。


「また、分析、あるいは哲学思想(荒井)などという大それたものでなないでしょう。東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象では? 」(I)

その島国に生まれ、そこに住んでいるわけですから、足元をよく見て、それを改善していく努力が「公共世界」に生きる者の役目だと思っています。


「ちなみに、ドイツの大学生は、かなり自由に大学を移動できます。」(山脇)

それがほんとうですよね。そうなるように変えていく努力をみなでしましょう!!
大学名で一生のコースがほぼ決まるという不可視の制度(キャリアシステム)は、アナクロニズムもいいところです。


武田康弘

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以下は、コメント欄です。

東大病について (二羽)
2009-09-30 17:53:48

はじめまして

二羽と申します。

他の掲示板で武田さんと知り合い、導かれてまいりました。

>日本人の多くが東大病だ~

少なくとも私は、そうは思いません。
試験はルールのあるゲームですから、「大学入試」という一連のゲームが得意≠知的に成熟している、ということは自明の理でしょう。集団生活ではいずれにしてもルールは必須ですから、試験はルールである=モノサシの一つである、という解釈をしています。
学校を卒業して社会にでてみれば、「肩書き」が役に立つ場面と役に立たない場面があることくらい、周知の事実だと思います。

ただし、東大に入ることに限らず、試験で上位の成績をとるにはそれなりの努力や準備が必要ですから、試験の結果がよいことは、努力や準備の大変さをある程度反映した指標として、リーズナブルなものだと思っています。

私は、新人が「東大卒」と聞けば、「おお、言語による情報処理能力は期待できそうだな。」とは思いますが、その程度のバイアスです。実際に仕事をしてみれば、どこの大学を出ていても関係無くなりますね。
ただし、経験上、高学歴の方のほうが、より早く仕事になじみ、より早くひとり立ちしていく傾向があることは、事実でしょう。新人教育にかけるコストが少なくて済む、という意味です。
これは、知的なストレスに対する訓練の平均的な経験値が違うからだと考えています。

東大病という視点から世の中を見るという問いかけ(哲学)には、ある一定の意義はあると考えますので、否定しているわけではありませんが、「病気」という表現をされると、違和感を覚えます。

>~客観神話の精神風土がつくる悪しき「文化」なのです。いま皆でこれを支えてきた歪んだ想念を廃棄する仕事に本気で取り組まなければ、わが国の未来は開けない、わたしはそう確信しています。

言葉で考えると、そういう考えが存在しうることは理解できますが、少しばかり過激に否定しすぎではないでしょうか?
少なくとも、一つのモノサシを否定するのですから、代替案について具体的に、

「入試」にかわるルールとはどういうものか?
主観の領域を評価するモノサシとは、いかなるものか?

について言及しない限り、観念的な話で終わってしまうと思います。

人類の歴史を振り返ったとき、武田さんが理想的だと考える「個人の能力(客観&主観いずれについても)を評価する社会的なモノサシ」の具定例を挙げていただくと分かりやすいと思いますがいかがでしょうか?
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知の歪み (タケセン=武田康弘)
2009-10-01 21:46:34

丹羽さん

ていねいな書き込み、ありがとうございます。

わたしは、知のありようについて、その歪みを指摘したわけです。
知の目的と手段の逆転について、その自覚を促すのが意図です。
キツイ言い方になっているのは、わたしたち日本人は、あまりにも「客観主義」におかされている度合いが強く、ふつうの言い方ではなかなか「届かない」と思ったからです。
明治政府がつくった3本の柱が、①近代天皇制(靖国神社に代表される国家神道がその思想的支柱)と②それを支える行政官僚支配の政治と③その官僚を養成する東京大学(法学部)ですが、その意味で「主権在官」と言われる120年間に及ぶ官僚支配は、東大に象徴される知のありよう(客観主義)にその「根」を持っている、というのがわたしの見方です。
なお、わたしの主張する「主観性の知」を意識した教育は、フィンランドをはじめ北欧諸国では、すでに実行に移されています。
また、「主観性の知」と「客観学」との関係については、後ほどこのブログでご説明致します。

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本物の哲学とは (荒井達夫)
2009-10-02 22:25:23

「また、分析、あるいは哲学思想(荒井)などという大それたものでなないでしょう。東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象では? 」(I)

「その島国に生まれ、そこに住んでいるわけですから、足元をよく見て、それを改善していく努力が「公共世界」に生きる者の役目だと思っています。」(武田さん)


このやり取りには、「哲学とは何か」ということが、良く見て取れるように思います。

「明治政府がつくった3本の柱が、①近代天皇制(靖国神社に代表される国家神道がその思想的支柱)と②それを支える行政官僚支配の政治と③その官僚を養成する東京大学(法学部)ですが、その意味で「主権在官」と言われる120年間に及ぶ官僚支配は、東大に象徴される知のありよう(客観主義)にその「根」を持っている」というのが武田説ですが、このような分析は、過去誰も行ったことがない深く、鋭いものであり、それがキャリアシステムの問題を解く鍵であると私は考えたわけです。

まさに「日本という島国に生まれ、そこに住んでいる者が、足元をよく見て、それを改善していく努力」の結果であり、それこそが「本物の哲学」であると思います。「東洋の、しかもその辺境に位置する島国に特有の現象」という程度の浅い思考では、キャリアシステムの問題の本質的な解決は到底不可能でしょう。




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誰が、国会の正門を閉めたのか?――主権者は通用門からしか入れない。

2009-09-25 | 社会批評

「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である」と日本国憲法第41条に記されています。
(「大日本帝国憲法」いわゆる明治憲法では、「第五條・天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ」と記され、形式上は、主権者である天皇に立法権があるとされていました。)

日本国憲法において、主権者は国民ですが、その主権者は、国権の最高機関である国会へは、通用門からしか入れないのです。はてなマークがたくさんつきます。

主権者の代表者である衆議院議員も、当選後の特別国会の初日しか正門から入れないのです(たぶん)。

では、誰が正門から国会に入るのか?

議長?総理大臣?いいえ違います。天皇です。

60年以上前に、主権者は、天皇から国民に変わったはずなのに。

なぜ、主権者であるわたしたち国民は、正門から入れないのでしょう。不思議です。

誰が正門を閉めたのでしょうか。それを決めた人は誰ですか?お分かりの方、教えて下さい。


武田康弘


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公共を哲学する=生々しい現実問題をテーマに、活発な議論を!

2009-09-21 | メール・往復書簡

公共哲学のML(pub-citizen@mlc.nifty.com)において、
公共(性)の問題で、生々しい現実問題が論じられ、面白い展開になっていますので、仕掛け人の山脇直司さんと、山脇さんの誘いでMLに新しく加入された荒井達夫さんの対話を載せ、読者のみなさまにも、ご質問やご意見を頂きたいと思いますので、よろしくお願いします。

武田康弘
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荒井さん

一般論として異論はありませんが、国家公務員の場合、活動の場がきわめて特殊な空間に限られているように思えます。どのような形で「全体に奉仕」するのでしょうか。イメージがわきません。

また地方公務員との関係をどのように考えておられるのでしょうか。地方公務員からなぜ国家(中央)公務員は嫌われるのでしょうか。
また、「地方主権」という言葉が現政権の下、使われ始めましたが(ちなみに稲垣さんが言う領域主権もこの意味だと私は考えています。)、この概念を荒井さんは認めますか?

さらに、三元論を金泰昌さん(彼は知識人で私も敬愛していますが、韓国籍の民間人にすぎないので、日本の国籍保有者しかなれない国家公務員の研修会に呼ぶのは不適切です!責任者の責任を問いたいと思います。)のいう(特殊な)意味だけで使わないようにして頂きたいと思います。

私の場合、2004年5月刊行のちくま新書『公共哲学とは何か)の176頁から177頁にかけて、「中央政府・地方政府を問わず、政府が実施する公共政策は、責任ある民の公共によって究極的に正当化され、また補完されるべきことを、公共哲学はつねに喚起します。」と明記しており、授業や講演でもそのことは繰り返し述べています。これは「民の公共」によって「政府の公」がダイナミックに変化すべきことを意味します。
また、行政学が専門でもある小林正弥さんもほぼ同じ意味で三元論を使っています。
なお、東大出版会のシリーズは、どこまでもいろいろな立場の人が論争を繰り広げるアゴーンを読者に提示するのが目的であり、編者はその仲介者にすぎません。本の中身をほとんど読まずに、金泰昌氏を公共哲学の権威とみなした荒井さんの出発点の判断に大いなる問題があったと、私は解釈します。

また、官報誌にすぎない『立法と調査』がどれほど影響力のあるものか、私には(少なくとも現時点では)不明であり、そうした官報誌を喧伝するのはいかがなものかとも感じています。
さらにもう一言、「官僚のキャリアシステム」問題などは、公共的争点としては相対的にマイナーなものだと私は思います。そうしたマイナーな基準だけで、公共哲学運動全体を判断するのは根本的に間違っています。もっとも私は、キャリアシステムは廃止されるべきという意見ですけれどもーー。

山脇直司
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山脇さんの質問にお答えします (荒井達夫)
2009-09-21 22:01:08

山脇さん

質問にまとめてお答えします。

「国家公務員の場合、活動の場がきわめて特殊な空間に限られているように思えます。どのような形で「全体に奉仕」するのでしょうか。イメージがわきません。」(山脇さん)

今日、国家公務員の活動の場は非常に広くなっており、そのため職種も非常に多種多様です。私も沢山知っておりますが、書き上げてもきりがないので、詳しくは人事院に聞いてください。
なお、山脇さんも、以前は国家公務員(東大教官で文部省職員)だったはずですから、「全体の奉仕者のイメージがわかない」のは、大変な問題です。他の三元論者と同様に、法の理念と現実が区別できていないのかもしれませんね。常に、国民の多くが共通に求めているものは何か、重要と考えているものは何か、を念頭に置いて、できる限りそれらを実現するよう努力するということです。一部の人達の利益だけを優先するように考えて仕事をするのでは、全然ダメでしょう。天下りや官製談合が許されないのは、「全体の奉仕者」に反するからです。


「地方公務員との関係をどのように考えておられるのでしょうか。地方公務員からなぜ国家公務員は嫌われるのでしょうか。」(山脇さん)

質問の趣旨が良くわかりませんが、「地方公務員からなぜ国家公務員は嫌われるのか」、地方公務員の方に聞いてください。私の個人的な関係では、極めて良好です。
なお、地方公務員も、「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務しなければならない」(地方公務員法30条)ことをお忘れなく。


「地方主権という言葉が現政権の下、使われ始めましたが(ちなみに稲垣さんが言う領域主権もこの意味だと私は考えています。)、この概念を荒井さんは認めますか?」(山脇さん)

「地方主権」は、主権在民の原理を当然の前提としています。そうでなければ、憲法違反になりますから。その意味での「地方主権」=「領域主権」なら、問題ないと考えます。


「三元論を金泰昌さんのいう(特殊な)意味だけで使わないようにして頂きたい。」(山脇さん)

私が批判しているのは、「一番有名な金泰昌さんのオリジナルの三元論」、と明言しています。「山脇さんの三元論」は、金さんの三元論を利用しながら、それとは違う内容だと主張しているのですから、その違いを一般の人々に良くわかるように説明する責任が、山脇さんにあると思います。それを私に求めるのは、筋違いでしょう。


「彼は、韓国籍の民間人にすぎないので、日本の国籍保有者しかなれない国家公務員の研修会に呼ぶのは不適切です!責任者の責任を問いたいと思います。」(山脇さん)

国家公務員の研修会に外国人の学者が、その分野の専門家として呼ばれ、講演を行うことに、何の問題もありません。国際化の観点からも望ましいことです。また、金泰昌さんは、佐々木毅さんとシリーズ公共哲学(東大出版会)を編集しているほどの方ですから、超一流の専門家と見なされて当然です。参議院のパネルディスカッションに金さんをお招きしたのも、そのためです。ですから、山脇さんの発言は、甚だしく不適切と思います。それでも、「責任者の責任を問いたい」のであれば、人事院に問い合わせてください。


「中央政府・地方政府を問わず、政府が実施する公共政策は、責任ある民の公共によって究極的に正当化され、また補完されるべきことを、公共哲学はつねに喚起します。」(山脇さん)

「民の公共によって究極的に正当化され、また補完され」た後は、「公」=「公共」となりますから、山脇さんの三元論は、単なる現象面について「公」=「公共」となるまでの「過程」を述べているだけになりますね。知人が、「それなら三元論と言うほどの意味はないと思う」と言っておりました。


「行政学が専門でもある小林正弥さんもほぼ同じ意味で三元論を使っています。」(山脇さん)

小林さんにも、発言してほしいですね。行政学が専門なら、キャリアシステムの問題の重要性は十分承知しているはずです。


「東大出版会のシリーズは、どこまでもいろいろな立場の人が論争を繰り広げるアゴーンを読者に提示するのが目的であり、編者はその仲介者にすぎません。本の中身をほとんど読まずに、金泰昌氏を公共哲学の権威とみなした荒井さんの出発点の判断に大いなる問題があったと、私は解釈します。」(山脇さん)

これについては、このブログでさんざん議論しており、決着は着いたと判断しています。後は読者の判断にお任せしましょう。


「官報誌にすぎない『立法と調査』がどれほど影響力のあるものか、私には(少なくとも現時点では)不明であり、そうした官報誌を喧伝するのはいかがなものかとも感じています。」(山脇さん)

山脇さんにとって影響力が不明な官報誌を宣伝すべきでない、とする理由は何ですか。影響力があろうと、なかろうと、私には「立法と調査」を積極的に喧伝する責任があります。税金で作っている以上、広く国民一般に知っていただくよう努力することは、公務員の義務なのです。インターネットで公表しているのも、そのためです。何もしないで、知られないように放置しておくのは、職務怠慢としか言いようがありません。


「官僚のキャリアシステム問題などは、公共的争点としては相対的にマイナーなものだと私は思います。そうしたマイナーな基準だけで、公共哲学運動全体を判断するのは根本的に間違っています。」(山脇さん)

キャリアシステムの問題が、「公共的争点としてマイナーなもの」という認識には、本当に驚きました。山脇さんは、新聞を読んでいるのですか?
なお、私は、キャリアシステムの問題だけを基準に公共哲学運動全体を判断するなどと、一度も述べたことはありません。
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荒井さん、武田さん

山脇直司です。
22, 2009 12:28 AM

今、明治維新以降、現代にいたるまでの民権派と国権派の対立について、ドイツ語で原稿を書くのに追われていて、武田さんのブログをみる余裕がありませんので、このMLに書きます。

それで、荒井さんの形式的な応答を真似て、私も形式的に応えましょう。

①「なお、山脇さんも、以前は国家公務員(東大教官で文部省職員)だったはずですから、「全体の奉仕者のイメージがわかない」のは、大変な問題です。」(荒井)

とありますが、東大生と同じように、国民全体に奉仕せよと考えるとしたら、それは大変な欺瞞です。国民全体が東大の授業に参加できるわけではありませんから。それとも、荒井さんは、旧国立大学の授業に国民全体が参加できるような改革案でも提唱されたのでしょうか。荒井さんのこの発言は、全くナンセンスとしか思えません。ちなみに私の母校、一橋大学は国立でしたが、徹底的に反官僚のエートスに満ちていました。私は個人的に、法学部は法科大学院として独立し、大学は教養学部中心にすべきだと思っています。

②「他の三元論者と同様に、法の理念と現実が区別できていないのかもしれません
ね。」「山脇さんの三元論」は、金さんの三元論を利用しながら、それとは違う内容だと主張しているのですから、その違いを一般の人々に良くわかるように説明する責任が、山脇さんにあると思います。」(荒井)

この二つの発言には笑ってしまいました。私の本を一度も読まずに、皮相的に公共哲学を論じていることがよくわかります。まぁ、ドイツでの仕事を終えて、落ち着いた11月以降にでも発表しましょう。赤羽さん、セッティングをよろしくお願いします。

③「常に、国民の多くが共通に求めているものは何か、重要と考えているものは何か、を念頭に置いて、できる限りそれらを実現するよう努力するということです。一部の人達の利益だけを優先するように考えて仕事をするのでは、全然ダメでしょう。天下りや官製談合が許されないのは、「全体の奉仕者」に反するからです。」
(荒井)

この荒井さんの考えにはほぼ全面的に賛成します。現場で頑張ってください。

④「地方公務員からなぜ国家公務員は嫌われるのか」、地方公務員の方に聞いてください。」(荒井)

権力が強すぎて、傲慢だからだと思います。荒井さんは例外のようなので、良好な関係を続けて下さい。

⑤「金泰昌さんは、佐々木毅さんとシリーズ公共哲学(東大出版会)を編集しているほどの方ですから、超一流の専門家と見なされて当然です。」(荒井)

うーん。金さんは、思想史などの分野では確かに一流で、私も尊敬していますが、残念ながら、日本の行政事情に疎く、戦後民主主義もあまり勉強していないので、この見方は買被りです。佐々木さんがなぜ推薦したのか、私には判りません。公務員研修所のお話を拝読した限りでは、金さんの形而上学のご披露といった感じですね。荒井さんが全く読んでいないシリーズ11巻での金さんの発言も、行政学者たちと立ちうちできない内容でした。ですから、「著しく不適切ですという」極めてフォーマル(公的な!)荒井さんのお応えこそ、不適切に思います。
なお、それはそれとして、在日外国人が地方公務員はもとより国家(中央)公務員になれることは、日本で近い将来可能だと荒井さんはお考えかどうか、お聞きしたいと思います。

⑥「それなら三元論と言うほどの意味はないと思う」と言っておりました。(荒井)

いいえ、あります。私の言う公は、英語ではofficialやformalの意味であることをお忘れなく!
また、「正統性(legitimacy)」という根本問題を荒井さんはどう考えているのでしょうか。もっとも、法律職の方にとっては重要でないかもしれませんがーー。
いずれにせよ、その知人の方を交えて、(ただし白樺記念館という武田さんのフランチャイズではなく、中立的な場所で)、11月以降議論しましょう。

⑦「小林さんにも、発言してほしいですね。行政学が専門なら、キャリアシステムの問題の重要性は十分承知しているはずです。」(荒井)

小林さんは、今、友愛の公共哲学の展開で忙しいようですが、ぜひ、発言してください。

⑧「影響力があろうと、なかろうと、私には「立法と調査」を積極的に喧伝する責任があります。税金で作っている以上、広く国民一般に知っていただくよう努力することは、公務員の義務なのです。インターネットで公表しているのも、そのためです。何もしないで、知られないように放置しておくのは、職務怠慢としか言いようがありません。」(荒井)

喧伝する義務があるということで、了承しました。

⑨しかし、私はキャリアシステムが比較的マイナーな公共的争点だという認識を撤回するつもりは、全くありません。公共哲学は、平和、福祉、人権などもっと重要な哲学的・実践的問題にコミットするべきであり、公務員の問題など二次的、三次的問題にすぎません。したがって、公務員の改革に使えるか使えないかで公共哲学を判断しようというのは、公共哲学の矮小化以外の何物でもなく、荒井さんの視野狭窄を露呈しているとしか申し上げようがありません。

⑩それで、失礼な質問になるかもしれませんが、荒井さんは若い時、哲学することを学んだことがあるのですか?


以上、ポレミークな表現になってしまいましたが、荒井さんの公務員としての活動には心から敬意を表しますし、足を引っ張るつもりは全くありません。
ただ、私との関心領域がずれていることが多いので、その場合の武田さんの調停を仰ぎます。

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追加します (荒井達夫)
2009-09-22 09:06:43

山脇さんから、さらに追加のメールで質問・反論がありました。特に重要と思われるものについて、以下に述べておきます。

①「東大生と同じように、国民全体に奉仕せよと考えるとしたら、それは大変な欺瞞です。国民全体が東大の授業に参加できるわけではありませんから。」(山脇さん)

大学教授は、自らの教育・研究の成果が社会の発展に貢献することとなるよう、日々努力すべき、ということが、大学教授の「全体の奉仕者として公共の利益のために勤務する」ことの意味です。また、教育・研究の成果(授業、講演、論文執筆等)については、積極的に情報公開して、社会の評価を受けることが、「全体の奉仕者」としての責任と言えます。法の理念に基づいて、現実にどう行為するのか、と考えれば、こういうことになると思います。山脇さんは、「国民全体が東大の授業に参加できるわけない」から、「全体の奉仕者」になれないと主張していますが、これこそが、法の理念と現実の区別ができていない証拠であると言えるでしょう。

⑥「私の言う公は、英語ではofficialやformalの意味であることをお忘れなく!また、正統性(legitimacy)という根本問題を荒井さんはどう考えているのでしょうか。」(山脇さん)

日本語の「公」を英語訳して並べるだけでは、無意味です。重要なことは、「事柄の現象面の説明」としてではなく、「思想の大元の論理」として「公共と異なる公があって良い」と考えるのかどうか、この一点に尽きます。主権在民の原理から、三元論の説明の「正当性」が問われているのであり、三元論の「根本問題」と言えます。

⑩「失礼な質問になるかもしれませんが、荒井さんは若い時、哲学することを学んだことがあるのですか?」(山脇さん)

若いときは、「哲学すること」を学んだことはありません。ただし、私は、30年前もから、キャリアシステムには違和感と疑問を感じてきました。それが今日の「哲学すること」に直結しています。武田さんは、我が国のひどく歪んだ知のありようを「東大病」(=客観学への知の陥穽)と名付け、その原因を「主観を消去する日本というシステム」にあると分析していますが、私は、それがキャリアシステムの問題を根本的に解くことのできる哲学思想であると直感したのです。

「哲学すること」とは、書物から知識を得ることではなく、哲学知識を人々に説明してまわることでもありません。日々の具体的経験に基づいて、より良い人生とは何か、そのためのより良い社会とは何か、と深く問い、現実社会の中で具体的な行動を起こすことであると考えています。それが、山脇さんのような最高学府の大学教授から見て、どれほど「ちっぽけな世界」であろうと、私は、それで良いと納得しています。
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荒井さん
23, 2009 11:44 AM

昨日はドイツ語の執筆に追われていて、メールを読む時間がありませんでした。

それで、下記のご発言に関して若干のコメントをしておきます。

法の理念と現実をどう考えるかは、法哲学的に未だ決着のつかない大問題で、荒井さんの言うように、簡単に片づけるわけにはいきませんが、今はそれに立ち入る余裕はありません。

ただ、自分の研究成果を公開して公衆(The public)にフィードバックすることは、公共哲学の基本理念であり、それは公務員の理念とは関係のない事柄だと思います。

荒井さんは、完全にドメスティックなレベルだけで「公」を考えているようですが、私はそれに甘んじるわけにはいきません。どこまでも、インターナショナルなレベルで考えます。

あと、荒井さんがいまだに「最高学府」という時代遅れの言葉を使っていることに、驚きました。東大を最高学府だと思ったことは、ほとんど私はありません。ですから、そのような言葉は死語にしていただきたいと思います。

山脇直司
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山脇さん
23, 2009 6:22 PM

内容のある議論をお願いします。

これでは、反応のしようがありません。

荒井達夫
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コメント

山脇さんへの疑問 (青木里佳)
2009-09-24 01:07:34

山脇直司さんへ
青木里佳です。

山脇さんと荒井さんの議論を読み、疑問に思った点がいくつかありましたので書かせて頂きます。

1.山脇さんの外国語用語についてですが、前にも書きましたが、一般の人が見て理解できないような言葉はわかりやすい言葉に換えて説明して欲しいです。
今回の議論でもアゴーンやエートス、ポレミークという言葉が使われており、意味がわからないので辞書で調べてから読み直しました。これは私だけでなく、読んでいる一般の人々も同じように感じているのではないでしょうか。
日常的に使われないような難しい言葉・専門用語が少しでも入ると、読む側は何が言いたいのかがわからなくなり、読む気をなくしてしまいます。人によっては「普通の人がわからないような言葉を使ってインテリぶってる」と不愉快に思うかもしれません。
読む人の立場を考えて、言葉を選んで書いて欲しいと思います。

2.山脇さんも以前国家公務員として長年東大教授をしているのにも関わらず、
全体の奉仕者としてのイメージが沸かないということについてですが、これは驚きで、大変なことではないでしょうか。直接には学生さんに教えているわけですが、その授業や研究は、日本に住む人々全体の利益になるようにと考えなければ、国民の税金から出る給料をもらうことはできないはずです。

3.「荒井さんは、完全にドメスティックなレベルだけで「公」を考えているようですが、私はそれに甘んじるわけにはいきません。どこまでも、インターナショナルなレベルで考えます。」(山脇さん)

山脇さんがインターナショナルな方で、沢山の国々を訪問し、世界での経験が豊富であることは素晴らしいと思います。ですが、この話は論点とずれていると思います。
荒井さんは国内問題としてキャリアシステムの問題に取り組み、改善できるよう行動を起こしています。そのことと、世界問題に具体的に取り組むことはどっちがすごいか・偉いか比較はできませんし、比較する対象としてもずれていると思います。メジャーかマイナーかという基準で判断できることではありません。
どの国も自国の問題に頭を悩まし、どうすれば改善できるか取り組んでいますが、世界問題をそっちのけにするとか忘れているわけではありませんよね。
要するに自国問題だけに取り組んでいる人(国)はいませんし、世界問題だけに取り組んでいる人(国)もいません。どの国も自国問題も世界問題も並行して取り組んでいるのが現実ではないでしょうか。自国の問題に強い責任をもって取り組む人でなければ、インターナショナルなレベルでも高い評価は受けないはずです。

それと度々気になっていたのですが、山脇さんの相手に対する言葉遣いです。
前回書かれていたように荒井さんの官僚の世界を「ちっぽけな世界」と称したり、今回もキャリアシステム問題を「公共的争点としてマイナーなもの」と表現されましたよね。
国内的な問題=マイナー、国際的な問題=メジャーという視点・考え方から出てくる言葉・言いまわしなのかなと疑問に思いました。差別的です。

「私の本を一度も読まずに、皮相的に公共哲学を論じていることがよくわかります。まぁ、ドイツでの仕事を終えて、落ち着いた11月以降にでも発表しましょう。赤羽さん、セッティングをよろしくお願いします。」(山脇さん)

この文面も議論相手である荒井さんに対して、対等に話をするのではなく、上から応じている感じが伝わってきます。
山脇さんがそのつもりはなくても、「俺の仕事が片付いたら教えてやるよ。そのためのセッティングをよろしく」という風に聞こえてしまうわけです。

4.忙しくて余裕がないようでしたら、優先すべき仕事や作業を終えてからコメントすべきだと思います。「~で忙しいので・・」「~で読む時間がありませんので・・」と書くのは第三者から見て、議論する相手に対しても失礼ですし(相手にも生活や時間的制限がありますで)、追われている心境で書いたコメントは、読んでいても表面的な答えにしか見えません。それだったら、先にやるべき事を終わらせて、腰を据え、深みのあるしっかりした内容のコメントを書かれる方が、議論相手にも読む側にも説得力があると思いますし、公共のためになると思います。


コメント (1)
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民意に基づく権力を行使することが政治の本質です。

2009-09-17 | 社会批評

民主党政権には、民意(=業界団体や大企業の思惑ではなく、ふつうの市民の声)に従い、大胆に権力を行使してもらいたいと思います。

いまだに≪権力≫を悪だと思う人がいるようですが、国家に民意に基づくしっかりとした権力がなければ、恐ろしい事態になります。無政府状態になれば、市民は安心して暮らせません。

官僚組織や業界団体や大企業などの意思を「特殊意思」と言い、ふつうの市民の公共的意思を「一般意思」と言いますが、この一般意思を実現するためには「力」が必要で、それが主権在民の民主主義における権力です。

各団体に所属する人も、ひとりの個人としての立場で、公正・公平に物事を考えれば、公共性を具現化した「一般意思」が示す見方、考え方に賛同するはずです。言わずもがなですが、市民の公共的な意思(一般意思)に基づいて権力を行使するのが民主主義の政治なのです。

いま、明治時代中期以来の「官僚国家」から「市民国家」への大転換が緒に就いたところです。ようやく民主主義がはじまります。サヨクの「国家・悪」というイデオロギー、ウヨクの「国家・命」という宗教ではなく、国家はわれわれ市民がつくるもの、という健全な民主主義をしっかり育てていかなくてはいけないと思います。

そのためには、わたしたち市民の意識変革と共に、官の思想と組織を、市民社会の良識に合わせて改革することが必須の条件となります。今日からは、「お役人のやることだから」ではすみません。

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以下は、コメント欄です。

一般意志=公共の利益 (荒井達夫)
2009-09-19 21:25:22

「官僚組織や業界団体や大企業などの意思を「特殊意思」と言い、ふつうの市民の公共的意思を「一般意思」と言いますが、この一般意思を実現するためには「力」が必要で、それが主権在民の民主主義における権力です。」(武田さん)

憲法第15条第2項は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」、国家公務員法第96条は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務しなければならない。」と規定しているのは、それだと言えますね。行政運営の思想的土台となる公共哲学は、これらの理念的文言を根拠づけるものでなければなりません。
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哲学と名乗る以上は、 (タケセン=武田康弘)
2009-09-20 01:16:35

荒井さん

「行政運営の思想的土台となる公共哲学は、これらの理念的文言を根拠づけるものでなければなりません。」
ーーー全くその通りなのですね。

≪哲学≫と名乗る以上は、出来合いの学問の常識(第二次言語)から出発することは出来ず、人間の日々の生のなまなましい現実を感じ知るところから始める根源知でなければならないのです。これは原理です。

哲学とは、生活世界の具体的経験と広大なイマジネーションにその根を持つのであり、言語の概念整理が先立ってしまえば、その意味と価値は消えます。
人間の生を直截に見ようとする直観=体験能力を意識的に鍛えることが、哲学成立の絶対条件です。

だからこそ、憲法に書かれている理念を根拠づける根源知ともなるのです。
以上のような哲学の土台について、極めて曖昧な認識しか持たない人が多いために無用な混乱をきたすのだ、そうわたしは見ています。第二次言語による整理以前の心身全体による会得が弱く、直接経験や想像力に乏しければ、まったく哲学には届きません。

コメント (3)
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公共哲学12巻ー「法律から考える公共性」

2009-09-13 | 社会思想

山脇さんが、わたしと荒井さんに推薦した『公共哲学』の12巻「法律から考える公共性」を読みましたが、
「総合討論Ⅱ(217ページ~253ぺージ)コーディネーター・山脇直司」の中で、金泰昌さんは以下の発言をしていますね。

228ぺージ~
「民主主義」という政治制度では、現在世代が将来世代のことを考えるということはかなり「困難」であるのです。・・・将来世代の声はもし存在しても、少数者なので汲み取られにくく、結局多数の横暴になる。このような現在世代の専制に対して実際どのような歯止めをかけ、現在を、過去と未来に繋げるのか。
アメリカの場合い、それは「民主主義」ではなく」「憲法」だというわけです。・・アメリカの憲法は2世紀あまり前に建国の志士たちが〘将来のアメリカ〙を想定して、合意して書き残した過去の文献です。・・今ではなく過去の「建国の精神」「憲法制定の基本精神」を踏まえ、その決定が未来に与える影響を十分に考えて行われるわけです。・・民主主義という政治制度が持っている限界を、憲法がある程度補足するという見方なのです。・・
日本はアメリカと違って「憲法」というよりは「天皇」にそれが担保されているのではないかということです。・・日本の場合は一応「成文法としての憲法」があるにも拘わらず、過去と現在と未来が繋がるという意味での公共性が、「憲法」に対する信頼よりはむしろ実在する人格としての「天皇」に対する信頼に担保されているのではありませんか。

それに対して、長谷部恭男さん(東京大学法学部教授・憲法学)は、以下の発言をしています。

天皇制がその役割をはたしているというのは、答えは明らかに「ノー」です。・・
将来世代の問題ですが、・・人間というものはいつも刹那的にものを考えて生きているわけではない。公共的な問題についてこういう長期的な視点があるんだという情報を十分に与えれば、多数決でもそれなりに真っ当な結論が出てくる可能性があると思います。

その後で、金泰昌さんは以下のように発言し(245ページ)、それに対して山脇さんは批判的に応答していますね(246ページ)。

憲法には過去との繋がりという面があるのということです。改正しても過去とのつながりはなくならないと思うのです。だって、もし過去との繋がりがなくなったら、国家を改めて創設するしかないのですから。・・
ポツダム宣言を受けて日本のリーダーが、第二次世界大戦の終末に際して最後の最後までこれだけはと守ったのは、結局、「国体」だったわけです。・・要は国家としての連続性だけはどうしても認めてほしい、それ以外のことは無条件降伏するという意思があったのではないでしょうか。

山脇直司  今の金先生の議論は自民党の中曽根さんたちが喜ぶような話にも聞こえてしまいます。・・戦後の憲法は大日本帝国憲法と縁を切ったというラジカリズムの方が、リベラルな金先生のお立場に近いと思っていたのですが・・・・、少なくともこの問題に関しては、私はむしろ過去と断絶すべきだという考えをもっています。

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そもそも日本の明治維新は、過去との断絶でした。それまでの神道の教義内容を大きく変えた新宗教(=後に「国家神道」と呼ばれた「靖国思想」)までをも明治政府がつくり、それによる天皇崇拝の洗脳教育を第二次大戦の敗戦まで続けたのですから。
しかし、
「自由民権運動」を担った民や民の側についた人々は、民権思想を掲げて明治政府と闘い、「大日本帝国憲法」の発布される以前にすでに現在の「日本国憲法」に近い憲法草案をつくっていました。それは各地の民権家の蔵から多数みつかっています。500年以上前の自由都市や惣村や一向宗による「自治政治」と共に、我が国には為政者ではなく「民」による優れた統治の歴史があるのです。その歴史との連続性こそ「真に継承する価値ある歴史」である、そうわたしは確信しています。

また、言うまでもなく「民主主義」というのは≪思想≫であり、主権在民をその本質とするわけですが、その思想を理念法の形にしたのが憲法です。したがって「民主主義のもつ限界を憲法が補足する」という金泰昌さんの発言はまったく意味不明であるとしか言えません。(武田康弘)

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以下は、コメント欄です。

本当に、真面目に議論してほしい (荒井達夫)
2009-09-13 17:36:30

「日本の場合は一応、成文法としての憲法があるにも拘わらず、過去と現在と未来が繋がるという意味での公共性が、憲法に対する信頼よりはむしろ実在する人格としての天皇に対する信頼に担保されている。」、「憲法には過去との繋がりという面がある。改正しても過去とのつながりはなくならない。もし過去との繋がりがなくなったら、国家を改めて創設するしかない。」、「ポツダム宣言を受けて日本のリーダーが、第二次世界大戦の終末に際して最後の最後までこれだけはと守ったのは、結局、国体だった。」(金泰昌さん)

要するに、金泰昌さんの「公(=「国家の利益)」とは「国体」であり、天皇が「公共性」を担保しており、これが憲法を改正しても変わらない、ということでしょう。明らかな「主権在民」の否定です。

金泰昌さんの「公・私・公共三元論」は、今日の我が国の国家運営には有用性を持ちません。『公共哲学』全20巻も、再検討されなければなりません。公共哲学関係者は、本当に、真面目に議論してほしいと思います。

なお、日本国憲法の制定に深く関わり、さらに第3代の人事院総裁を務めた故佐藤達夫氏は、次のように述べています。
 「昭和22年新憲法の実施とともに、公務員は〝天皇の官吏″から〝全体の奉仕者″となり、その結果、公務員制度についても根本的改革が行なわれました。」(「人事院創立15周年にあたって」『人事院月報』昭和38年12月号)
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シリーズがなぜ金哲学に染め上げられたのか? (タケセン=武田康弘)
2009-09-14 00:24:21

荒井さん

「公共哲学」シリーズにおける議論は、有益なものも多いのですが、シリーズの全体が金泰昌氏の三元論的見方(官を公と呼び、これと市民的公共を分ける)を宣伝するような体裁になっているために、大きな誤解が生じています。

11巻=「自治から考える公共性」では、西尾勝氏が公と官の違いを明晰にし(90ページ)、その前後で松下圭一氏がよい説明をし、結語として松下氏は、近代以降の「公」は、「個人の相互性」に変わり、官(国)や公は市民の道具となってしまう、つまり、市民型ないし自治型の公共を、国家型ないし官治型の公共に対立させて位置づけたい」と述べています。
また、日本の現実は、戦後の最初から憲法違反の「官僚内閣制」だ、と正鵠を射る指摘をしてもいます(89ページ)。

ここには、金氏のような混沌=次元の相違を弁えずゴッチャにする思考はなく、論は明晰です。それなのになぜ、金氏の三元論的な見方に代表されるなんでも3つに分ける形而上学が「公共哲学」の主流になってしまったのか?そこを明白にすることが必要だと思います。
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「公共哲学」を一度廃棄処分にするぐらいの覚悟が必要 (荒井達夫)
2009-09-14 22:02:41

「公」は官の論理、「公共」は民の論理、というのが、金泰昌さんの発想です(公共的良識人200.5.1号5頁)が、これに疑問を感じなかったところが、そもそもの問題の始まりだと思います。また、少しでも疑問が出たところで、きちんと議論していれば、主権在民に明確に反する思想が公共哲学シリーズの編集方針になるというような、馬鹿げた事態にはならなかったのではないでしょうか。

「公共哲学」という学問の根本的見直しが必須であり、特にシリーズの編集に関わった学者の一人一人が見解を明らかにすべきと思います。「公共哲学」を一度廃棄処分にするぐらいの覚悟が必要でしょう。

そして、速やかに「主権在民」の原理に立脚した「本物の公共哲学」の構築に向けて努力すべきと思います。
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思想のもつ社会的身体性 (タケセン=武田康弘)
2009-09-15 12:57:33

山脇さん、荒井さん

わたしは、さまざまな公共のありようについて研究することは大切なことだと思っています。楽市楽座の室町時代の公共性、江戸時代の庶民文化の公共性、明治時代の天皇主義・国体思想の公共性、・・・

しかし、現代の政治思想・教育・文化としての公共性のありようとあるべき姿、また未来の公共性を構想するというレベルにおける思考=哲学は、主権在民を徹底させる方向=民主主義を深化・発展させる方向で考える他はないと考えています。どうすれば、どのような条件を整えればそれが可能になるのか?を探るのが、≪公共哲学≫が果たすべき役割であるはずです。

ところが、このシリーズ全体のまとめ役(本を手にとれば、誰が見てもそう思える)の金泰昌氏は、公共哲学とは「公共性について哲学する」のではなく「公共哲学する」なのだ、と主張します。ここには明らかに、公共哲学を一般名詞にはせず、固有名詞にしたいという強い願望が表れていますし、現に、その思想の下で「公共哲学」という講義が大学で行われています(私の教え子が法政大学で受けた公共哲学と言う名の形而上学!)。

たとえ、シリーズ「公共哲学」に関わった人の意思ではなくとも、現実の大学や社会の中で金氏の思想を反映した固有名詞としての「公共哲学」が広がれば、それは困ったことでしょう。わたしの師であった竹内芳郎氏は、ある思想が、実際にどのような現実への作用をするのか・しているのかをよく知り、それに対して責任を取るのが思想を語る者の倫理であると言いました(思想の持つ「社会的身体性」を考慮すること)。思想を語る者への厳しい戒めですが、その緊張感を失えば、どのような思想も有害なものに転じてしまうと思います。わたしは、そのことをいつも肝に銘じていますが、幾つもの失敗もありました。
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暫定的なお応え (山脇直司)
2009-09-16 11:32:43

当方、ドイツで行われる「日本における市民と国家」のシンポジウムに出るための準備に追われており、時間がいま取れません。しかし、荒井さんに対するお応えだけははっきりしています。私が荒井さんに差し上げた『グローカル公共哲学』をお読みください。また、そもそも武田さんが好意的にこのブログで取り上げてくれたおかげで、知り合うきっかけになった『公共哲学とは何か』をお読みください。そこには私の公共思想が定式化されています。
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肝心の点について明解にお願いします (荒井達夫)
2009-09-16 23:55:19

山脇さん

お答えいただきありがとうございます。ただし、また、論点を外していますね。

ここでは、シリーズ公共哲学の12巻「法律から考える公共性」(特に長谷部・金対談)が、議論の対象になっているはずです。山脇さん自ら、武田さんと私に「読むべき」と推薦したものです。

「グローカル公共哲学」や「公共哲学とは何か」を読め、というご返事は、その答えに全然なっていないと思いますが、いかがですか。

お答えいだだけるなら、ご自身の近況報告は不要ですので、肝心の点について明解にお願いします。
---------------------------------------------

ご同朋ご同行 (タケセン=武田康弘)
2009-09-17 15:27:02

山脇さん

わたしは、山脇さんは、人間としては優しく親切で、よい人だと思っていますが、こと議論となると、本の名前と作者の名前、思想の形式名を羅列され、内容・中身として考え・話をすることが少ないですね。

いつも何か(情報?)に脅迫されているかのようで、ひとつひとつの中身を前進させる=深い納得を生む言説に鍛えていく、という落ち着いた展開になりません。しっかり掘り進める、というのではなく、アチコチに飛んでしまい、有用な知を生みだす作業に入れないのです。

せっかく知識や経験を多くお持ちなのですから、足を地につけて、共に大道を歩みましょうよ。書物の哲学や、著名な哲学専門家の哲学について語るのではなく、いまの現実と日々の具体的経験を踏まえ、自分の頭で考えた内容を交換することには、何よりも大きな価値があると思います。

他者への気配りや、また他者への攻撃ではなく、愚直に何がほんとうなのか?を目がけての哲学対話(ディベートではなく)には何よりも大きなエロースがあることを山脇さんも十分にご存知のはずですから。ご同朋ご同行。
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同感・感謝です (荒井達夫)
2009-09-17 22:36:48

私も、武田さんのご意見に同感です。
なお、山脇さんが、私の公共哲学MLへの加入をすすめてくれたとのこと、感謝いたします。
「主権在民の公共哲学」の構築に向けて、一緒に頑張りましょう。


コメント (8)
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「生と哲学の原理」ーコメントへのお応え

2009-09-08 | 恋知(哲学)
古林さん、山脇さん、コメントありがとう。

「生と哲学の原理」(クリック)を補足します。

実存思想における【信頼】は、社会思想における【主権在民】と同じく、人間関係を考える原理=基本の立場にしないと、人間がよく生きる可能性が広がらないと思います。理念次元において、他者としての人間を信頼できないと考えれば、結局は、仲間、あるいは親戚縁者としか交流できなくなります。齟齬や軋轢を乗り越える可能性は、「いろいろあっても人間は信頼に値するのものだ」、という立場によらなければならない、それを原理とするほかはないのです。

そうでないと、相和も相克も共に、生産的にならない(=人間的なよろこびや得や徳をもたらさない)からです。
先に人間関係をよくしよう(=仲よくしよう)と発想すると、内輪を堂々めぐりし、真に他なるものとエロースを開く可能性がなくなり、逆に、排除の論理へと堕ちていくしかない。結果にすぎないものを目的化するところに帰結する愚、と言えます。

だから、「関係性の哲学」を先立てる発想は、弱い思想であり、ナマナマしい現実の前では、実際的な力を持たず、言語的思考の枠内で「正しい」考えを探るに留まるわけです。それでは厳しい現実の前で、妥協的な(=その時々の情況に埋もれる)発言しかできない心と頭をうむだけです。そんな哲学ならいりません。「手弱い」人間を育成する理屈の集成が哲学!?(笑)。

やはり、何よりも大事なのは、何がほんとうによいこと・美しいことなのかを探る(=善美のイデアへの憧れ)であり、それが人間のよき生(=深い納得・意味充実)を生むのです。そのためには、ぶつかり合いも必要です。それができる人間的余裕・大きさを持たないと、生のエロースは広がりません。
排除の論理=仲間主義の言動をひょうひょうと超える力を持たなければ、よく哲学することはできない=深く豊かな生は開けない、これがわたしの信念です。


武田康弘

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
(以下は、コメント欄です。)

Unknown (青木里佳)
2009-09-08 22:00:42

人間関係を良くしよう・仲良くしようというのは、奥にある意味を考えると損得
勘定・打算的なものが含まれているような気がします。
気が合うな、一緒にいて楽しいなと思えるならば自然と仲良くなれますよね。
しかし「仲良くしようとする」というのは自分の本当の感情・フィーリングとは
別にして、強制的に自分を他人に合わせようとする行為となるでしょう。その関
係では自分の素が出てない状態ですし、仲良くする目的が伴っていますので、相
手を信頼しているとは言えないと思います。
その状態では生産的にはならないでしょう。

そうはわかっていても他者の評価って気になりますし、気にしてしまいます。
なかなか「信頼」を原理にする覚悟ができないために、他者評価に過敏になって
しまうのです。。。まだまだですね。(苦笑)
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本音で語ること (荒井達夫)
2009-09-10 00:11:02

「人間関係を良くしよう・仲良くしようというのは、奥にある意味を考えると損得勘定・打算的なものが含まれているような気がします。」(青木さん)

人との関係が国家間の関係のようで、いつも戦略や戦術ばかり渦巻いているような顔つきで話をしている人、いますね。
そういう人は、「本音で語る」ってことがありませんから、決して本質的な議論にならないんですね。
いつも話が何となく嘘くさくって、気持ち悪いのです。
おべんちゃらを言い合うか、そうでなければ、勝ち負けだけを気にしたディベートになってしまう。
哲学するとは無縁の代物です。
「本音で語る」ことが哲学の第一歩だと私は思っています。
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哲学・民主主義・エリート主義 (山脇直司)
2009-09-10 10:43:06

本気で語ることは、哲学することの最低必要条件であることは、あまりにも自明の理で、私はそれを40年間実践してきたつもりです。ですが、それを許さない国が世界の至るとことに存在しています。その意味で、「表現の自由」が保障されなければ、哲学の営みは困難になると思います。ふりかえれば、ソクラテスはあまりにも真実を語りすぎたために、当時の陪審制度の「多数決」で死刑になりました。それをみで激怒したプラトンは、民主主義を衆愚制と同一視して批判し、哲人王というエリート主義を理想としました。現代のエリート主義者は、このプラトンの考えから示唆を受けていると思われるので、それと闘わなければならないと私は思います。
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プラトン (タケセン=武田康弘)
2009-09-10 14:22:51

山脇さん

プラトンの政治思想を現代政治が実現した近代民主主義の「常識」の後で批判しても哲学的にはほとんど無意味ではないでしょうか?

個々人の自由(欲望)の解放に成功した後の近代市民社会における民主主義思想と、奴隷制に基づく自由市民の都市国家(ポリス)における政治・教育哲学(『国家』)を同一視することはできないでしょう。哲人王、階級別教育などの彼の案を現代政治・教育において取ることは当然できません。

ソクラテスに学んだプラトンの思想の意義(=現代に活かしうる)は、『超越的・絶対的』真理という発想を棄て、深い納得を導くような『普遍性』をポリス国家の現実を引き受けつつ追求した点にあると思います。

キリスト教を経由した西ヨーロッパ哲学は、『絶対性や超越性』という概念を『普遍性』という概念と似たようなものとしますが、これが哲学を神学化してしまう元凶だというのが武田の見方です。プラトンから学ぶものは、普遍性=哲学的思索の強靭さではないかと思います。

なお、ご提案のあった「白樺教育館」における「愛」をテーマにした対話会はOKです。日時等を決めましょう。

では、また。
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何の話? (荒井達夫)
2009-09-10 22:20:27

山脇さん

ここでは、「人間関係をよくしよう(=仲よくしよう)と発想する」ことの問題を議論していたのではないですか。

だから、「そういう人は、本音で語ることがないから、本質的な議論にならず、おべんちゃらを言い合うか、勝ち負けだけを気にしたディベートになってしまう」と私は言ったのですが。

この話と「表現の自由の保障」とどういう関係があるのでしょうか?
さらに、ソクラテス、プラトンの話とは、まったく無関係のように思えるのですが、いかがでしょう?
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恋知=哲学対話 (タケセン=武田康弘)
2009-09-11 14:17:22

ディべートを否定したところに哲学(=恋知)は誕生したのですから、もちろん、山脇さんも哲学対話を望んでいると思います。「なにがほんとうか」を目がけての対話です。

12月に「白樺教育館」http://www.shirakaba.gr.jp/index.htmで、おおいに議論・対話をしましょう。たのしみに~~。日時が決まり次第、お知らせします。

哲学塾プラトンの『アカデメイア』の主祭神は、エロースです。
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「生と哲学の原理」について (古林 治)
2009-09-11 15:34:24

「生と哲学の原理」について少しコメントします。

親子関係がひどくこじれてしまって、お互いに『対話(相互理解)不能だ!』と感じたことのある人は多いでしょう。
私もその一人です。ですが、『対話不能だ!』と言ってしまった時点で両者の関係は終わります。

対話の可能性は常にあり続ける。さまざまな対し方で対話をし続けようと努力すること。言うのは簡単ですが、実際に行動するのはひどく大変なことです。でも、それがうまくいったときには、大きな悦びもやってきます。

これは、親子関係に限らず、さまざまな人間関係でも同じです。私はかつて、(9・11よりずっと前)イスラム原理主義の男性と数ヶ月共に暮らしたことがあります。アメリカの保守ガリガリのユダヤ人男性とも一週間ほど共に暮らした経験があります。そのとき、何度も『対話不能だ!』という感覚におそわれたことがありました。関係を終わらせなかったのは、違いに触れないようにしたためではなく、『対話不能』という感覚を押しとどめたからだと思っています。その力の源泉はやはりある種の『信頼』(実存思想における【信頼】)だったのでしょう。
また、相手を受け入れることが出来たのは、幸運にも、『良い人』だったという理由もあります。おそらく、感覚的に相手を嫌っている場合とか、相性が悪い場合にはこれはひどく大変な作業になります。肝心なことは自他の存在を受け止めるだけの度量(実存)を鍛え上げることなのでしょう。

さて、武田さんの日常の言動を見ると、子供や主婦や地元のオジサン、オバサン、障害者、それに官僚や政治家、学者、外国人まで、毎日いろいろな人を相手に当たり前のように、対話可能性を追求し続ける様を目の当たりにします。決して、自ら関係を断ち切ることはしません。相手がどんな人、どのような呆れた行為を行おうとも。実は、その様を見ているので、私には言語レベルではなく、実感として「生と哲学の原理」がスーッと入ってくるのです。

一方、世の中には『関係性』とか『他者性』あるいは『対話』や『正義』を声高にいう人々がいますが、どうもピンときません。弱々しいのです。彼らに決定的に欠けているのは、さまざまな対決を通して対話可能性を実際に開いた実体験だと思います。それが、人間への信頼に対する確信を生み出しているはずです。その実体験がないために、言葉だけが中に浮いている感じがするのです。実際に齟齬をきたすと逃げたり誤魔化したりしてしまう人も多いですし。

そういうわけで、私には「生と哲学の原理」は極めて重要なテーマだと思っています。これからも機会があればコメントしたいと思います。
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コメント (8)
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公務員倫理―人事院アンケートー国民全体への奉仕

2009-09-06 | 社会思想

国家公務員の倫理感について、人事院が行ったアンケート(一般職の国家公務員5000人と民間企業2500社の倫理担当者)の結果が4日発表されました。それによると、「国家公務員の姿勢として不足しているもの」としては、公務員自身と民間会社の倫理担当とも、「国民全体への奉仕者という自覚」という回答が最多でした。

その通りだ、とわたしも強く思います。

昨年の1月の参議院調査室主催による『公共哲学と公務員倫理についてのパネルディスカッション』(公共哲学共働研究所所長・金泰昌氏と東京大学大学院総合文化研究科教授・山脇直司と総務委員会調査室次席調査員(当時)・荒井達夫とわたし・武田康弘の4名による)において、わたしは、官を公(おおやけ)と呼び、これと公共(市民社会)を区分けするというシリーズ『公共哲学』(東大出版会)の最高責任者・金泰昌氏の主張を、「主権在民の民主主義原理に反するもの」として厳しく批判しました。主権は国民にあるとする日本国憲法の主権在民の根本理念からすれば、当然のことに、主権者に雇われている国家公務員は【国民サービスマン】であり、したがって、一部の者の利益や各省庁の省益のために働いてはならず、国民全体への奉仕者=サービスマンであるはず、これがわたしの主張だったのです。

ところが、国家公務員は公(おおやけ)=「国家」に尽くすものであり、それは、国民全体の意思とは異なることもある、とする金泰昌氏の主張――――
これは、彼が公(おおやけ)と呼ぶ官と、公共とを区分けする『公共哲学の三元論』(=「公」と「公共」と「私」の三区分)から出てくる帰結ですが、
においては、国民全体への奉仕者という規定を導くことができません。

国民への奉仕ではなく、公=国家への奉仕が国家公務員だと規定する金氏の公共哲学=三元論と、わたしの主張した「国民サービスマン」という規定とは真正面からぶつかり、激しい論戦となったのですが、日本社会が、主権在民の民主主義原理を貫くためには、官を公(おおやけ)という特別な領域においてはならず、あくまでも官は「公共世界」を支え・開き・つくるためにのみ存在するとしなければならないはずです。「国民の利益と国家の利益が違うこともある」(金泰昌氏)という主張は、民主主義原理とは背反するものでしょう。

この金泰昌氏の三元論に全面的に同調する学者のひとりである稲垣久和氏は、国家公務員の「全体への奉仕」という意味はよく分からない、全体とは何なのか?と言い(「公共的良識人」紙)、また、金氏自身も、「全体というのは、全体主義に通じ、危険である」という主張を繰り返していますが、このような意味不明の言説が出てくる背景には、「官」を公(おおやけ)という特別な領域におき、これと公共世界を異なるものとする公共哲学=三元論があるのです。

人事院のアンケート結果は、多くの人が、民主主義社会の常識に沿った正当な感覚・思想を持っていることを示している、わたしは、そう思い、心強く感じました。
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以下は、コメント覧です。

本当にいい加減にしてほしい (荒井達夫)
2009-09-06 14:08:41

国家公務員法第96条は、「すべて職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。」と規定しています。これは、国家公務員の「在るべき姿」を定めている「理念規定」ですが、今回の人事院のアンケート結果は、国民の多くがこの規定の遵守を求めていることを示しています。

ここで、「国民全体の奉仕者」の「国民全体」とは、1947年文部省発行の『新しい憲法のはなし』の中に、
「・・・そうすると、国民ぜんたいがいちばんえらいといわなければなりません。国を治めてゆく力のことを『主権』といいますが、この力が国民ぜんたいにあれば、これを『主権は国民にある』といいます。」
とありましたが、その「国民ぜんたい」と意味はまったく同じです。

つまり、主権在民の憲法の下、「国民ぜんたいがいちばんえらい」、その「国民ぜんたい」に奉仕するのが、国家公務員である、常にそうあるように全力を尽くせ、と国家公務員法は「国家公務員の理念」を定めているわけです。

あまりにも当たり前の話ですが、「公・私・公共三元論」では、「全体とは何なのか? 全体というのは、全体主義に通じ、危険である」という、非常識極まりない主張がされています。三元論者は、「理念と現実の区別」さえできていないことになります。国家公務員法の理念規定を全体主義につなげるとは、呆れるばかりです。本当にいい加減にしてほしい、と私は強く願っています。
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Einwand (山脇直司)
2009-09-06 19:33:33

何度も言いますが、三元論といっても色々あることを踏まえて、批判してください。お二人(だけ?)の異様なまでの(サディスティックな)三元論攻撃には、「民主主義的・非ルソー的・共和主義的」三元論者の私としては、大変迷惑しています!私は、当時その表現は用いていませんでしたが、2004年刊行の拙著ちくま新書の176ー177ページで、政府が実施する公共政策は、責任ある「民の公共」によって、究極的に正当化され、補完されるべきことを、公共哲学は常に喚起することを、強調しています。
いずれにせよ、この一連の問題に関しては、論争の「フェアネス(公正さ)」という観点を重視しつつ、論文かエッセーとしてまとめ、公刊したいと思っています。
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内容についての批判をお願いします。 (タケセン=武田康弘)
2009-09-06 22:36:26

山脇さん

わたしは、≪金泰昌さんの三元論≫
=官を「公」(おおやけ)と呼んで、市民の「公共」とは区別しなければならないという主張について批判しているのですから、
そのわたしの主張への反論(もしあるならば)をして下さい。

本文を再度貼り付けますが、

「国民への奉仕ではなく、公=国家への奉仕が国家公務員だと規定する金氏の公共哲学=三元論と、わたしの主張した「国民サービスマン」という規定とは真正面からぶつかり、激しい論戦となったのですが、日本社会が、主権在民の民主主義原理を貫くためには、官を公(おおやけ)という特別な領域においてはならず、あくまでも官は「公共世界」を支え・開き・つくるためにのみ存在するとしなければならないはずです。」

という内容に対しての批判をお願いしたいのです。
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事柄の再確認 (山脇直司)
2009-09-06 22:54:34

タケセンさん

少なくとも私が部分的に関与した公共哲学シリーズ20巻の中で、金さんがそのような発言をしている箇所を私は知りません。あったら指摘してください。ですから、私としては金さんが国家公務員研修会(なぜ韓国籍の彼がそのような会に呼ばれたのか不可解ですが)でそのような発言をしたのなら、シリーズ公共哲学とは全く関係のない彼の放言として、私は強く批判したいと思います。なお繰り返しますが、金さんはどこまでも仲介者としてシリーズの編者を務めたのであって、荒井さんたちが勘違いしているようなこのシリーズの権威であるとは、私を含めこのシリーズに登場する論者は、誰も思っていません。その点は根本的事項としてご理解ください。
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勘違いではありません (荒井達夫)
2009-09-07 00:19:07

山脇さん

山脇さんの言う「金さんのそのような発言」とは、山脇さんも参加した参議院調査室主催の「公共哲学と公務員倫理に関するパネルディスカッション」の中でなされたものです。そこで、シリーズ公共哲学の編集方針が問題になり、金泰昌さんの三元論の思想が厳しい批判にさらされたわけです。これは公知の事実ですから、否定しようがないのです。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/20080220.html
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公=国家への奉仕 (タケセン=武田康弘)
2009-09-07 09:30:16

山脇さん

「国民への奉仕ではなく、公=国家への奉仕が国家公務員だと規定する金氏の公共哲学=三元論と、わたしの主張した「国民サービスマン」という規定とは真正面からぶつかり、激しい論戦となったのですが、・・・」

【公=国家への奉仕をするのが国家公務員】と規定した金泰昌さんの参議院調査室での発言(=繰り返し、強調)は、山脇さんも同席していたわけですからご存じの通りです。その考えがシリーズ『公共哲学』のどこに記載されているのか?というご質問ですが、それは知りません。このシリーズには「公務員を哲学する」という箇所がないために、金さんは上記の自説を述べる機会がなかったのだと思います。

なお、その主張(=国家公務員は国家のために働き、市民は市民的公共のために活動する)というのは、彼の三元論(官を公と呼び、公共とは区別する)から出てくるわけですが、その思想は、シリーズ『公共哲学』の表紙裏に書かれています(4つの編集方針の2として20巻すべてに)。


「権威」かどうかは、 (タケセン=武田康弘)
2009-09-07 09:58:36

「金さんはどこまでも仲介者としてシリーズの編者を務めたのであって、荒井さんたちが勘違いしているようなこのシリーズの権威であるとは、私を含めこのシリーズに登場する論者は、誰も思っていません。その点は根本的事項としてご理解ください。」(山脇)

とのことですが、 もし例え、この本で発言している各論者が金さんを権威とは認めていないのだとしても、社会的には「権威ではない」とは思われていません。権威だと見なされていなければ、人事院が最上級の講師として十数回も呼ぶわけがありませんし、中国や韓国の大学から最高の扱いを受けるわけがないと思います(それは「公共的良識人」紙を見れば一目で分かります)。

また、山脇さんも「公共哲学」の中心思想として自著の中で繰り返し強調されている「活私開公」(私を活かして公を開く)という言葉=概念も金泰昌氏のものではないのですか?

そもそも金泰昌さんがいなければ、このシリーズ(東大出版会による『公共哲学』)はなかったのだと思いますが、わたしの誤認でしょうか?
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お応え (山脇直司)
2009-09-07 12:26:52
活私開公という言葉は、金さんの造語であり、それを私が「一人ひとりの私を活かしながら、民の公共を開花させ、政府の公を開いていく」という独自の意味で使っていることは、私の著書で繰り返し述べているとおりです。私は金さんを一人の友人とは思っても、社会的権威とは全然思っておりませんし、そのことは、何度も繰り返しますが、このシリーズで金さんに論争を挑んでいる金さんよりはるかに影響力の大きい東大教授(井上さん、長谷部さん、西尾さんなど)の発言を読めば、明らかです。そういった論争を読みもせずに、彼に権威を付与するのは、明らかに間違っています。もし、責任を問われるとすれば、外国人である彼を、日本国籍保有者しかなれない「国家」公務員の研修会に呼んだ人でしょう。いったい誰が彼を研修会に呼んだのですか?
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お応え、ありがとうございます。 (タケセン=武田康弘)
2009-09-07 13:13:24

山脇さん

お応え、ありがとうございます。

「私は金さんを一人の友人とは思っても、社会的権威とは全然思っておりませんし、」
山脇さんのお気持ちはよく分かりますが、山脇さんの心・考えと、社会的な評価とはまた別であると思います。それが前記の事実=業績として表れているのでしょう。

大学・学会の中の評価や影響力については、わたしは全く知りませんので、井上さん、長谷部さん、西尾さんという名前をあげられてもお応えのしようがありません。山脇さんとわたしは生きている場が大きく異なるために、「影響」という言葉の意味内容もまた異なるようです。とにかく、わたしには関わりのない人のことを言われてもどうしようもありません。

「誰が彼を研修会に呼んだのですか?」というご質問ですが、もちろんわたしには分かりませんので、人事院に問い合わせてみて下さい。
ただ、金泰昌さんから彼が大きく載っている『行政ジャーナル』(人事院発行)を頂きましたが、それには佐々木毅さん(元東大法学部長・総長)も一緒に載っていましたので、推測ですが、佐々木さんの紹介だったのではないでしょうか?どうもそうとしか思えないのですが・・・・・。
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国家公務員という名の変更を提唱します (山脇直司)
2009-09-07 13:23:19

武田さん
これ以上、議論しても生産的ではないし、私もいろいろな活動や執筆に追われているので、この問題全般の顛末に関して詳細に論考し、公刊いたします。もちろん、その論考は公務員の方々にも配布します。なお私としては、この機会に、権威主義的な臭い漂う国家公務員という言葉を、中央公務員という名前に変えることを提案いたします。公務員改革には、権威主義的でない方々(地方公務員やNGO・NPO関係者)と共に実践していくつもりです。
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Unknown (青木里佳)
2009-09-07 21:09:11

第三者の私からこのやりとりを読むと、山脇さんのコメントは、タケセンや荒井さんの言っている「三元論」の話から脱線していますね。
金さんの三元論の批判で始まってるのに、三元論といっても色々あるという話になっているので、あれれれれっ、て思ってしまいました。
しかも「サディスティックな三元論攻撃・・・」ってすごい表現で、???ですねぇ(苦笑)。
うーむ。。、深く踏み込んだポイントを突いた討論、それについて考えるというのが山脇さんは苦手のようですね。哲学の討論とは違う分野の方が向いていると思いました。色々と知識はお持ちのようですので。
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ディベートの否定が哲学 (タケセン=武田康弘)
2009-09-08 01:22:50

哲学(=恋知)の討論的対話は、勝ち負けではなく、自我の拡張のためではなく、したがって戦略・戦術を弄するのものではなく、グループ別・党派別の闘いではない。
いわゆる「ディベート」(言語ゲーム)を否定し、なにがほんとうなのか?と考え、言葉を『善美のイデア』をめがけて紡ぐのがソクラテスの提唱したディアレクティケー(問答法)だったのです。
わたしは、このようなそれ自身がエロースの試み(ただし厳しさを内に持つ悦び)を実践したいと考えています。
これからも、内容豊かな建設的批判を相互に交わせるような自由対話ができるように努力したいと思います。まだまだ力不足ですが。


コメント (13)
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オーディオ体験談-② 一応、完結です。

2009-09-04 | 趣味

古林さん、
「コード」について悩まれているご様子ですので、少し書きます。

わたしが高校生の時(1960年代後半)、親友と二人で「コード」に着目していろいろ実験していたころは、コードで音が変わるという認識は世間にはまだなく、自分でつくる(数本をパラレルにしたり、三つ編みのようによじってみたり、平行線を二本にし離してみたり、・・・)しかなかったのですが、今は、三菱や日立や古川などの大企業から家内工業や個人による手作りまで膨大な製品が出ています。輸入品の数もすごくてとても全体を把握することはできません。同一製品でも超低温処理をして物性を変えた製品が販売会社から売り出されたりもしています。
こうした「コード」についての情報は、まさに新興宗教のようで、「いままでの音がウソのよう」「ついに出会った究極の音」「オーディオ界の革命」「寄せられた感激の声の数々」「10倍高い製品に匹敵」・・・という具合です(笑)。
コード選択の目当ては、音の傾向=硬・柔、太・細、緩やか・締まる・・・・・・を知り(季刊「オーディオアクセサリー」などで繰り返しテストをしています。また、熱心な販売員は、毎日のように新製品をチェックしています)自分の装置に合いそうなものをカンで探るわけですが、アンプとスピーカーの相性で古林さんも体験されたようになかなか大変です。
ある装置で「よい」という結果が出ても、他の装置には合わない、また、人による聴き方の違いも大きく、まったく正反対の結論に至ることもあります。利酒と同じで、音楽とオーディオ体験が豊富になれば、一定の一致には達しますし、合う・合わないの判断は出来ますが、「好み」のレベルになれば、バラバラです。
だから、コード類に限らずオーディオ製品は、聴く人と聴き方と環境に合ったものを探る、そのために「情報」を見る(=傾向を知る)というようにする他なく、無条件に「よい」という製品はないのです。 「絶対」はないし、つくれない。しかし、「一つのよい」はあるし、つくれる。これは、哲学=人間の生と同じですね(笑)。
武田

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古林です。

個人の嗜好と機材同士との相性を考慮しないと良し悪しの意味自体が成立しないこと、重々わかります。
その昔、オーディオにはまらなかった(敢えて深入りしなかった)理由は、単にお金と時間だけの問題ではなくて、オタク(病気)の世界と隣り合わせのように見えて気持ち悪く感じたせいもあります(笑)。当時はまだケーブル云々まで行ってませんでしたけど。
いずれにしても、より良いを追求する世界とマニア・オタクの世界とは表面的な現象としては近いところにあって紛らわしいですね。

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古林さん

「オタク(病気)の世界と隣り合わせのように見えて気持ち悪く感じたせいも
あります(笑)。」(古林)

は、オーデイオに限らずです。
哲学も、法学などの個別学問の学者もオタクが多いですよね。

①何のために、②何を目がけて、③どのような方法で、ということが、明晰に意識され、かつ開かれたものになっていないと、なんでもオタクになります。今の日本で「受験秀才」は、ほとんど全員オタク(=テストオタク)ではないでしょうか?(笑)。

オーディオは、感性が試される総合的な技術のため、特定の「理論」によって図ることが出来ず、実践的な試行錯誤と豊かな感性が求められます。ところが、「理論」による決着を求めがちな男性がオーディオの主役なために、「一つのよい」を求めるのではなく、「絶対的なよい」を求めがちで、それが、袋小路に入る原因のように思えます。無意識の底意として、「理論」を詰めれば分かる(解明できる)はずだ、という想念に縛られていると、どのような分野でもオタクになりますね。

武田

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染谷裕太です。

オーディオも大きな世界の中の一つのものだと分からずに
「オーディオ」という世界の中だけで重箱の隅をつつくような事ばかりしているのがオタクってことですかね。学者の世界もそうですね。


ベルリオーズ鳴らしてみました。
前から感じていたことですがベルリオーズの音楽は音楽じゃないみたいですね。
初めて聴いた時は自分が今まで聴いてきた音楽とは全然違うので戸惑いました。音楽って同じような旋律を何度も繰り返すので次がなんとなく分かって、だから無意識にメロディーを追いかけながら聴いていたのですが、ベルリオーズの音楽を初めて聴いた時は、どんなメロディーでどうなっていくのかが全然想像できなくて、「なんて聴き難いんだ」とさえ思いました。
でもタケセンが以前ブログに書いた聴き方のコツのとおりに聴いてみたら、ちゃんと音楽が入ってきたので、あれはちょっと目から鱗でした。

で、良いオーディオでベルリオーズ聴いてみてですが、音楽を聴いているというよりも、ベルリオーズの頭の中というか心の中というか、を見ているような体験しているような、なんとも言葉で言い難い感覚で、音楽なのにやたらと生々しく感じました。なんかもう他の作曲家とは頭の構造が根本的に違うと思います。なんであんな曲を作れるのか意味が分からんです(笑)

――――――――――――――――――――――――――――――――

古林です。
オーディオ体験談の続きです。

昨晩、私のピエガTS5を中心としたオーディオ・システムの音のチェックをしに
タケセンが拙宅へ。
二人で一通り、音を確認しながら、
『やっぱりこの組み合わせは結構いい音出してるよね。でもフル・オーケストラ聴くと(タケセン宅のシステムとの比較の問題だけど)ダイナミック・レンジの狭さを感じるねぇ。』
などと感想をたれていたのでした。

それから、
『ちょっとこの電源ケーブルに変えてみましょう。』
タケセンが持ち出したるは、タケセン宅で利用中の電源ケーブル。
恐ろしく頑強そうなごっついケーブルです。
ケーブル変えただけで音が変わることについてはもういくつか経験済みなのでさほど驚くようなことはない、と思っていたのでした。
が、これはちょっと!! ちょっとこれはないでしょう。
これまでは音の傾向が強調されるとか改善されるとかいうものでだったのですが、これは違います。全体に音がしっかりし、クリーンになり、楽器が生の楽器として聞こえ、人間の声(ヴォーカル)が生の声として聞こえてくるのです。
音の傾向はそのままに、音の質がまったく変わってしまうというあきれる経験をしてしまいました。
なんだよ!ケーブル一本でシステム全体の音の質が変わってしまうって?
参りました。聞かなけりゃ良かった(笑)。ケーブル一本に5万円?信じらんない!
と言っていた私がいずれ、そのような狂気にはまること間違いなさそうなのです。
ちなみに、いずれ買うことになりそうなこの電源ケーブルはジャーマンフィジックス(ドイツの独創的なスピーカーメーカー)製だそうです。

さて、おしまいに、スピーカーの下に御影石や大理石などを置いてしっかりさせると、さらに音がしっかり出るとのこと。今日、ジョイフル・ホンダで早速一枚750円の御影石を買ってきました。
石の下に敷くラバーマットを東急ハンズのネットで調べたのですが、よくわからずタケセンに相談したところ、タケセン手持ちのものを持ってきてくれたので、それを敷いて音を再生してみました。

今までこもっていたと思われる音が表に出てきた感じです。
たとえば、低域の音圧が体で感じられるようになりました。中域や高域でもこごもっていた音が出るように感じられ、結果的には音全体に厚みが出て立体感のある音に変わったように思います。

次はオーディオ・ケーブルをもう一度トライしてみようかと思ってます。

さーて、裕太君のほうはどうなってますでしょうかね。
お休みになったらいろいろいじってみてください。

―――――――――――――――――――――――――――――――

こんばんは、染谷です。

一昨日の日曜日、タケセンにスピーカーの置き方、ケーブルの接続の仕方などなど、色々と教わって現状の中で一応完成となりました。
で、感想ですが、とりあえずつないだだけだった一昨昨日まで状態と比べて明らかに良くなって、ベッタリしていた音がフワッと広がったように感じました。ケーブル一本、置き方一つで音は変わると聞いていましたが、基本を踏まえてちゃんとセッティングするとここまで変わってしまうとは。驚きです。

もう一つ驚いたのは電源ケーブル。古林さんの体験談その3に出てきたジャーマンフィジックスの電源ケーブルです。タケセンが持ってきてくれたので、それをつないで聴いた瞬間「え?ウソ?」と思いました。音が高級になって、オーディオの格があがったか、CDの演奏がもの凄く上手くなったのではないかと思うほど、ハッキリ違いました。雑音が消えたと言ったらいいのかな。聞こえなくてもいい部分が奥に引っ込んで、聴こえるべき部分の輪郭がハッキリとして、しかも高級な音で聴こえてくる。
値段が5万と聞いた時、「あぁやっぱり」という思いと同時に、「思ったより安い」とも思いました。見るからに高そうでオートバイに使うワイヤー錠なみのゴツさですが、これだけ音に影響することを考えれば、安いと思ってしまいます。これは「耳に毒だから」と言いながらも持ってきて聞かせてくれたタケセンにしてやられました(笑)
でもまぁ、しばらくはそのままで聴くと思います。その前にアンプ、CDプレーヤーを置く台と、スピーカー台のぐらつきをなんとかしないといけないので。

―――――――――――――――――――――――――――――

裕太君

少し前の「常識」を持った人がこの音を聴いたら仰天!!するでしょうよ。
リビングが、まるでミニコンサートホールに早変わり!という感じでしたね。
朗々と歌う第九には聴きほれてしまいますが、このような音で音楽が鳴っていたら、み~んな音楽好きになります(笑)。
オーディオも大きく進歩して、よい時代になったもの。メイド イン ジャパンの素晴らしいスピーカー(フォステクス)を活かす組む合わせができて、わたしもホッとしています。ブラボー!!!

タケセン
―――――――――――――――――――――――――――――

なお、組み合わせは、アンプとSACDプレーヤーは、デノンの1500です。

(コンパクトにまとめたい方は、同じくデノンのプレーヤーアンプ,RCD―CX1がいいと思います。なお、グレートを更に上げようと思う方は、プレーヤーを1650にされるとよいでしょう)

アンプとプレーヤーをつなぐピンコードは、一般的でどこでも入手可能なワイヤーワールド(1万円程度)を使用。
SPコードは、メートル1000円くらいのものでOK(締まり過ぎないもの)。電源コードは一番影響しますが、全体の価格を考慮して2万円程度のもの(ただしプレーヤーとアンプ用両方ですから4万円くらい)。

以上すべてで23万円くらいです。
なお、フォステクスよりこのスピーカー用のウーファーシステムが出ますが、これを加えると鬼に金棒ではないかと思われます。

タケセン=武田康弘



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オーディオ体験談ー① 古林治・染谷裕太・武田康弘

2009-09-01 | 趣味

≪オーディオ≫=感性が試される総合技術は、よき音楽文化を生みます。

以下は、白樺MLです。


古林です。
オーディオ体験談です。

今日(8月17日)、私は29年ぶりに自分のオーディオ・スピーカーを買ったのですが、とてもエキサイティングな体験でしたので少し触れてみたいと思います。

私が最初に自分のスピーカーを手にしたのは大学に入ってすぐ。JBLやタンノイといった海外の製品にあこがれながらも、高価なものは手に出来ず、迫力で勝負!とばかりに自作したのが最初の体験。
フォスターという日本メーカーのFE-203Σというユニットを2発入れたバックロードホーンでした。
品性とは無縁ながらジャズやロックを迫力だけで聴くには最高(とてもクラシックは聞けなかった、笑)。それから7年後、仕事の関係でヤマハ(日本楽器)のスピーカーを安く手にすることが出来、NS-690を買いました。実はつい最近まで他のオーディオ・システムとともにNS-690で聞いていたのです。私のスピーカーはそれ以来、実に29年ぶりなのです。

で、今日の秋葉行きとなったのですが、その経緯はこんな感じです。
染谷裕太君から、オーディオのシステムづくりを依頼されていたタケセンは、40年以上も付き合いをもつ秋葉原のダイナミックオーディオに行くことになり、スピーカーを物色していたわたし(古林)にも誘いのメールがありました。わたしもよろこんで同席し、視聴した、というわけです。

その体験は?
正に、驚きと歓びの連続でした。

最大の驚きのひとつは裕太君が買おうとしているオーディオ・システムのスピーカー、Fostex GX100。
そう、かつて私が自作したフォスターという会社の製品です(名称はFostexへ)。ところが、安くて迫力がある、というイメージだったものがそれとはまるで真逆。
GX100をDennonのアンプとCDプレーヤーにつなげ、ベートーベンを流す。まるでコンサート・ホールにいるような場が浮き上がってくる。音の輪郭はくっきり、透明で楽器一つ一つが明瞭に把握でき、立体感もある。音そのものに力もある。忠実な原音再生。限りなく元の音を忠実に再現してやろうというエンジニアの執念のようなものを感じます。その執念は半端なものではありません。なんだかツァイスのゾナー・レンズのあきれるほどの解像力を思い出します。それに、音量を上げても一向にバランスが崩れない。ますますパワーを上げたくなる。

これは凄い! こんな小さいスピーカーシステムでこれだけの音が聞けるのか!
あとはアンプをどれにするか。パイオニアとデノン。聞き比べれば明らか。パイオニアのアンプは良い音楽を再生しようとするけれど、GX100はひたすら原音に忠実に再生しようとする。結果的にはなんだか臨場感が失われてしまう感じ。デノンは忠実ですねえ。タケセンに言わせると地味、ということですが、細部にいたるまで原音再生にこだわるGX100にはこちらがぴったり。コンサートホールにいる臨場感、生々しさはこちららが凌駕。これで決まり!!

タケセン推薦のアンプとCDプレーヤーとスピーカーは一式で175000円(タケセンの交渉で価格コムの最安値より安い!)。
この価格でこれほどの音場が再生できるとは驚異としか言いようがありません。
これは素晴らしい買い物だ。


さて、次は私の番。
実は、真空管アンプ(Triode TRV-88SE)とCDプレーヤー(マランツSA8003)はすでに購入済みなのでこれらに合ったスピーカー探しということなのです。
タケセン推薦の真空管KT88を使ったアンプは、結構音がドンドンと出て来るタイプでエネルギーがあります。でも音自体は柔らかいです。音楽を聞かせるアンプです。
それとGX100を組み合わせるとどうなるか?良くないとは聞いてたけど、ちょっとドキドキワクワク。なぜって、あれだけ素晴らしい音出してたスピーカーですもん。でも・・・
なんだこりゃ!? 音が分離しない、ごにょごにょ固まった音魁が出てくるだけ。あきれ果てる。ガックリ!相性悪いとかではなく、まったく互いに受け入れない感じ。

それから店員さんお勧めのスピーカーをいくつか聞く。最初はJBL。えー!JBLってこんな情けない音だったっけ?モコモコして音の切れが悪い。確かに大きなキャビネットで鳴らせばそうなるよね。ちょっとがっかり。
それからElac。少し期待したのだけれど、これも今一ピンと来ない。
そこでタケセンが一言。ウィーン・アコースティック(ViennaAcoustic)はどう?
なるほど。音楽を聞かせようとする音、柔らかく訴えかけてくる。色艶たっぷりの音を奏でます。ジャズ・ヴォーカルなんかいいですねえ、これ。
でも、これじゃちょっとヌルくて飽きるような気がするなあ。音そのものに力も余りない感じ。悪くないんだけど、コルトレーンやカサンドラ・ウィルソン聞くには辛いなあ、と思っていると・・・

店員さん、いきなり作業を始める。これ、どうでしょう?と奇妙なスピーカーの接続を始める。幅は10cm程度、えらく細長い華奢な感じのスピーカー。音を入れる。
何じゃこりゃあ!?
低音域がえらいしっかりしている。見た目とのあまりのギャップの大きさに大笑い。でも足腰しっかりして芯がありながら色艶もしっかり出てる。音楽を奏でてるんだなあ、これが。パワーもある、音にエネルギーもある。まったくのドンピシャリ。これで決まりだな、とタケセン。

実は私も同感。ジャズボーカルもアコースティックもエレクトリックもいける。でも、ちょっと待てよ、こんな色艶出しててクラシックはちゃんと鳴るのかいな?ベートーベンを流して10秒。はい、決まり。まったく問題なし。
新製品導入のために展示品を処分する必要のあった店員さん、あまりにドンピシャなので、勧めた本人も驚いている様子。

私のシステムは真空管アンプ(Triode TRV-88SE)とCDプレーヤー(マランツSA8003)それにピエガ(Piega スイス)TS5となりました。
展示品特別割引(約4割引き))でした。

また、タケセンのアドバイスで、オーディオのアクセサリーやホスピタルグレードの電源コンセントなども購入してきました。裕太君は、SPコード、ピンケーブル、電源コードも揃えましたが、すべて組んで鳴らすのが楽しみでしょう。タケセンはまたチューニングが大変(笑)。御苦労さまです。

裕太君のシステム(GX100)も私のシステム(TS5)もどちらも素晴らしい音を奏でてくれます。でも内実はまったく異なります。
GX100のシステムはどこまでも原音を忠実に再生しようとします。まだ音楽の志向がこれからも変化する可能性のある若い裕太君にとって、良い音楽を良い音で聴き自らの感性を鍛え上げていくには、GX100のシステムは最高のチョイスでしょうね。

一方、ある程度歳を取り、音楽の志向も定着している私のような人間にとっては、その音楽を音楽らしくエネルギッシュに鳴らしてくれるKT88真空管アンプとTS5の組み合わせは音楽を聴く喜びを与えてくれます。私にはぴったりですね。
『人生いろいろ』とアホなことを言う人もいます。でも、それとは意味が違って、『良い』には質の違いがありますが、その一つの『良い』を生み出し、発見することは手間がかかり、また、よいアドバイサーの力が必要です。しかし、「一つのよい」を見い出したときには、言葉にならぬ大きな喜びが得られます。
というわけで、今日は二つの良い音を発見することが出来、とてもエキサイティングな一日となりました。(古林治)

参考:
http://www.fostex.jp/p/sp_index/ Fostex GX100
http://www.piega.jp/products/ts5_01.html Piega TS5
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武田(タケセン)です。

古林さん、ピッタリのスピーカーに出会ってよかったですね。
お誘いしたかいがありました。

「『人生いろいろ』とアホなことを言う人もいます。でも、それとは意味が違って、『良い』には質の違いがありますが、その一つの『良い』を生み出し、発見することは手間がかかり、また、よいアドバイサーの力が必要です。しかし、「一つのよい」を見い出したときには、言葉にならぬ大きな喜びが得られます。」(古林)

ここが核心ですね。

同じオーディオシステムという枠内でも「よい」は実にいろいろ、多種多様で、目眩がするほど(笑)。
でも、ダメ・悪い、と ピッタリ・よいはハッキリしています。
このピッタリ~~を見出すのは、実はとても難しく、雑誌やネットという情報を頼りにうかつに手を出すと、酷い目に合います。時間とお金を持て余し、音楽経験も十分にある人でないと出来ません(笑)ホントウです。多くは、「主観主義」に陥り、オタク化してしまいます(独りヨガリ)。コード一本、置台ひとつで音はコロコロ変わりますので、座標軸が定まらないと、無限地獄!!(笑)

というわけで、音楽の愉悦に浸りたい方、音の魅力を味わいたい方は、この道42年のタケセンにご相談ください(笑)。ただし、総予算の最低限は25万円ですので、それ以上でお願いします(なんだか商売みたい?)。

音楽を聴く装置=オーディオは、主観性の「よい」の探求で、まさに哲学です。

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染谷裕太です。

こんばんは、染谷です。すみません、ちょっと遅くなりましたが今度は僕のオーディオ体験談を。

古林さんの体験談にも出てますが、数ヶ月前(就職する前)、タケセンにオーディオのシステムづくりをお願いしました。僕の場合、古林さんと違って元々オーディオをやっていたわけではなかったので、本当に何も分からない状態からのスタートでした。

元々オーディオをやっていたわけではなく、クラシックの生演奏を聞いたことがあるわけでもなく、むしろ小学校の頃は音楽だけは毎学期必ずABCの「C」をとるくらい(笑)で、音楽を積極的に聴き始めたのも大学に入ってからという、音楽体験の乏しく、まさかオーディオに20数万もかけるようになるとは思えない人生送ってましたが、それでも買ってしまったのは恐らく、というより間違いなくタケセンの家にあるオーディオで音楽を聴いたからでした。自分の家にあるしょぼいミニコンポでも聴いていれば「良いな」と思ったり、感動のようなものを感じることはありますが、本物のオーディオで良い音楽を聴いた時には心臓を打ち抜かれたような感動を覚えます。その世界を知ってしまったらやっぱり欲しくなりますし、程度の低いものを持っていると、自分の程度もその程度みたいで、そのこと自体嫌になってきます。そんなわけでオーディオが欲しくなったのですが、機材やセッティングに関しては自分では「何が分からないのか分からない」状態なので、それ関してはもう完全にタケセン任せで、とりあえずなるべく早く最低ラインと言われた金額まで貯金するのに勤しんでました。

それで16日、お金も貯まった所で秋葉原へ連れてってもらい一式揃えたわけですが・・・
オーディオの世界は自分が思っていたよりもずっとずっと奥が深くて際限がない世界でした。
実は秋葉原に行く前に、一度タケセンと柏の「オーディオユニオン」という所へ行って、その時に今回購入したスピーカーGX100ともう一つどこか(どこのでしたっけ?)※注のスピーカーを聞き比べていました。価格差は2万円くらい(GX100の方が高い)だったのですが、その音の差は僕でもハッキリと分かりました。これは全く比較にならない、この値段の差でこれだけの違いはありえない、と。
GX100の方はあの小さな箱から出ているとは思えないくらいに音に密度があってクリアに聞こえて「聴きたい!」という欲求に十二分に応えてくれると感じましたが、もう一つの方はBGMで流す程度ならむしろ良いかもしれないけど、「聴きたい!」と思ったら完全に欲求不満になるような音でした。

秋葉原のダイナミックオーディオではGX100にデノン、トライオード、パイオニアのアンプとの組み合わせで何度か繰り返して聴いて、正直色々な組み合わせを次から次と聴いて途中わけがわからなくなったのですが、最後の方、改めてデノンを聴いた時に「あ、やっぱりこれだな」と思いました。
真空管アンプは音がこもって明らかに合ってない。パイオニアの方は最初聴いた時は「キレイ」という印象を持ちましたが、何度か聞き比べていると落ち着いてじっくり聴くにはなんだか軽くて飽きる感じでした。

最初、自分なりに理解するためにオーディオを自転車に当てはめてスピーカーがフレームでアンプがホイールかなぁ、などと考えていたのですが、全然当てはまらない!ということが分かりました。音に影響する要素は本当に沢山あって、僕はまだアンプとスピーカーの組み合わせで変わることくらいしか体験してませんが、電源コードで音が変わる、置く台で、置き方でも音が変わる、それもかなり変わる。さらに難しいのは高級品で全て揃えたからといって最高の音が出るわけでは全くなく、逆に最悪な音になるかもしれないということ。さらにはどんな部屋でどのように聴くかなど、様々な要素を同時にまとめて、引いて見ることが必要で、ものすごく骨の折れる作業だということを、タケセンに任せきりながらもヒシヒシと感じました。一個一個、部分部分だけを追っていたら本当に大変なことになりますね、これは。

最後に今日とりあえず線つないで聴ける状態にしてみたのでその感想を。
自宅で改めて聴いてみると、やっぱり良い!です(笑)。
今まで聞いていたコンポとは音の存在感が全然違います。雑音も照明も音に対して凄く邪魔に感じます。暗くして一人で静かにじっくりと聴いたら相当楽しそうです。
面白そうなのでクラシックだけじゃなく、モーニング娘のCD(僕のではないですよ)も聴いてみましたが、なんと下品なことか!ポップスの音としての質がこんなにも酷いものだとは思ってませんでした。他のJ-POPも聴いてみましたが同じでした。前にタケセンがクラシックは音として高級だと言っていた意味がよーく分かりました。ポップスしか聴かない人は良いオーディオを買ったらイケナイですね(笑)。分かりすぎてしまって全然聴いていられません。
とりあえず一通りは揃って聴けるようになったので、これから色々とやっていくのが楽しみです。

(※注 このスピーカーは、KEFのIQ30です。)
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裕太君

「タケセンの家にあるオーディオで音楽を聴いたからでした。・・本物のオーディオで良い音楽を聴いた時には心臓を打ち抜かれたような感動を覚えます。」

なにかを欲するのは、何であれ「感動」が出発点ですよね。感動なしに(ただ外にある世間の価値に従って)何かをする人が多くなったのが現代ですが、それでは人間の芯が豊にならず、硬直し、紋切型のエロースに乏しい存在にしかなれません。いろいろな「感動」がこの裕太君のメールには溢れていて、読んでいてとても気持ちがよいです。今度はコンサートホールにも足を運んでくださいね。

「今日とりあえず線つないで聴ける状態にしてみたのでその感想を。
自宅で改めて聴いてみると、やっぱり良い!です(笑)。」

おー、おめでとう!スピーカーはじめ、すべての機材(コード類も)は鳴らしこむと音がよくなります。毎日聞いて下さい。大きめの音量で鳴らさないとエージングが進まないので、おやすみの日は近所迷惑で~(笑)。来週チューニングに行きます。

つづく。
コメント
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