わたしは、高校生(1967~69)の時まではカラヤンが指揮する演奏をLPでよく聞いていましたが、聞き込むにつれ、流麗で演出臭いカラヤン節が「作品への深い理解→了解」を妨げるので、嫌気がさし聞かなくなりました。
当時、高校のブラスバンドの仲間も、カッコいい演奏だけど、ちゃんと聞いていると白けてくる、というので、不評でした。
どうも音楽の内容に入り込もうとする主体的な構えを持つ人はカラヤン嫌いで、そこそこクラシック好きの人は支持する、というのが実情でした。ただしレコード批評家はいろいろいで、絶賛派も結構いましたし、今もいるようです。
先日、所沢のアークホールでゲルギエフの「悲愴」(チャイコフスキー交響曲6番)を聴き感動したのを機に、CDでの聞き比べを白樺教育館の「大学クラス」でやりました。その時の四種類の演奏には、わざとカラヤンのものをいれませんでした。
カラヤンは、「悲愴」が得意で、7回も録音しています。実に見事な「音響美」を誇ります。快調なテンポで乗りがよい演奏です。音は美しく磨き抜かれています。流麗で、きらびやかで、旋律線は流れるようなレガートでとても気持ちがよく、ウットリです。快感が得られます。「音が楽しい」と書いて音楽ですから、言うことなし!
冴え冴えとした精神、心からの叫び、慟哭、死との面接、そのような「ダサい」ものはいらないのです。音楽に余計なものを持ち込ませない、いかに聴衆やレコード愛好家が喜ぶか、快感を得るか、気分がよくなるか、高揚するか、それにすべてをかけるカラヤンは、そのイデーを見事なまでに具現化しています。
聞いているわたしは、固有の私ではなく、「一般的」な聴衆になり、楽しめばよいのです。しかし、それぞれの作品に現れている独自のよさを聴きとろう、とか、その曲がもつ意味や価値を感じ知りたい、というような主体的な構えを持つと、途端に「入り込めなくなる」というのがカラヤンの演奏の特徴です。
カラヤンの流麗で絢爛豪華な演奏を楽しむコツは、富士急ハイランドのジェットコースターを楽しむのと一緒です。
スリル満点の遊園地の乗り物を楽しむには、能動性(自分からする)をなくし、身を任せることが必要で、もしも自分でコントロールしようとする(出来ないことをしようとする)と、恐怖感ばかりで少しも面白くありません。バイクやクルマを運転するときは、周囲をよく見、カーブでは腰を使い、身体を倒し(バイクの場合)、ハンドル操作をしなければなりません。能動性が求められるわけですが、その態度のままに富士急ハイランドのジェットコースターに乗れば、恐いだけで楽しいどころではありません。何もしないで、手にも体にも力を入れず、機械に身を任せよう(完全受動で安全につくられた游具なのですから)という心になる。そうすると、とっても面白く楽しく遊べます。
それと全く同じで、カラヤンの上手な演出に身を任せ、受動態になると「音響美」と「快感」を存分に味わえます。感動ではなく、快感です。
受動的に生きる、という現代人にはまことによく適合するのがカラヤンの演奏ですので、いまだによく売れるのではないでしょうか(実際のところは知りませんが)。
人生や事象の意味や価値やを志向し、能動的に生きる人。なにがほんとうかを考え、善美を求めようとする人。裸の自分に向き合い、精神的=思想的自立心をもつ人は、眉をひそめるでしょう。
ただ、たまには身を任せて、なにも想わずに、音響的快感だけに浸る、という時間があってもよいかもです。精神を用いずに音を楽しむのです。でも、たま~~~~にだけにしたいよな、というのがわたしのホンネです。精神を使わない時間が長くなるとかえって疲れる(苛立つ!)ので。
武田康弘
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光子 清水彼処まで、ハンサムで、格好いいと、文句いいたくありません!
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武田 康弘ははは、そういう見方もあるんですね。聴き方じゃなくて見方ね。
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黒田 宗之確かにおっしゃるとおりカラヤンは耽美的品がいい印象でした。真逆なのがギルギエフなのでしょうか?
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武田 康弘
黒田さん、
カラヤンの演奏は、チャイコフスキーに限らず、ワーグナーでもベートーヴェンでもモーツァルトでもみな「快感」をつくりだす(聞く人がいかに酔えるかを考えて演奏をつくる)ものです。
身も心も任せれば(=受動態になれば)酔えるし、快感がやってきます。
少し前までの女性が多く支持したのは、カラヤンの顔形や瞑想するような仕草のみならず、「受け身」でいると気持ちよい、という音楽づくりにあると思います。「酔わせるサービス」に素敵!となるわけです。
でもそれは、音楽の深い「感動」とは異なります。
音楽に対して、主体性=能動性をもった聴き手は白けます(わたしの音楽仲間でカラヤン党はいません)。
ゲルギエフは、チャイコフスキーに責任をもった演奏(作曲者の精神を具現化するための努力)をしますので、深い感動が得られます。
楽譜をよく・面白く読む、というのではなく、楽譜に表されている作曲者の精神を音にしようとします。その点では、マレイ・ペライアと同じです。
ただし、そのように真正面から曲を受けて解釈すると、どのような名曲でも途中で「退屈」する場面が出ます。作曲者の苦心や心の内の複雑さが現れるからですが、それを避けて流れるような演奏(=誤魔化し)をすると、快を超える感動の世界にはいきません。
以上は、わたしの見方(主観性の知)ですので、誰にも強要するものではありません(笑)ー念のため。 -
Osamu Furubayashiきれいなだけ。魂のない音楽。ああいやだ。
私のカラヤン評。
というわけで武田さんのコメントに深く納得(笑) -
武田 康弘
古林さん、
「深み」の世界、「真実」の追求、「魂」の叫び、とは無縁で、
スマートで、カッコよい「音響美」があります。この美は、善のイデアとは無縁の美と言えます。
「善」に裏打ちされた美ではなく「美」だけを追求すればよい、「快」が与えられればよい、というのは、現代社会を象徴しているようです。
ナチス時代に同じくドイツで、リーフェンシュタールのベルリンオリンピックを記録した「オリンピア」における「美」の自己目的化とダブります。
何のためを問わない「美」がいかに危険かを知らねばなりませんが、どうも20世紀の帝王であったカラヤン美学を論じると、話はどんどん深くなります。
また、感じ、想い、考えましょう。 -
染谷 裕太タケセンの言う「カラヤンの聞き方」、この間の大学クラスで聞いて本当にそう思いました。意識的に聴きにいこうとすると苛立ちを覚える演奏で、楽しむには身を任せるしかない。聴き方を強制されているようで、それもまた腹立たしい。感動ではなく快感というのも本当にそう思いました。そういったものを求めてないと逆に不快になる(笑) -
Osamu Furubayashiそうそう、リーフェンシュタールにある怪しい快楽を思い起こさせます。
魂(善のイデア?)の欠落した美、支配欲を隠し持つ美はおぞましいものです。
染谷さんのコメント、とても鋭く大いに共感!
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武田 康弘
裕太君の、「そういったもの(快)を求めていないと逆に不快になる」は、名言と思います。
古林さん、確かに、「支配欲を隠し持つ美」ですよね。
自己の見方・考えを主張するというのではなく、他者を支配する(酔わせて判断停止に追い込む)ための「美」は、白樺「民芸」の《健康な美》とは逆です。
話は飛びますが、《自己の見方・考えを主張する》という能動性を嫌い、周囲に合わせる生き方をするのが多くの日本人で(思想の左右も職業の違いもなく)、他者承認に怯えて堂々と生きられない(それが「正しい」かのごとくに)。肩書人は、堂々とではなく、慇懃無礼の威張りで生きる(笑)
《自己の見方・考えを主張する》ことはしないで、《他者を支配する言動》を磨くことに精を出すので、日本人ほど政治的な国民はいない、と言われる。
健康で真っ直ぐ、爽やか晴れやか、のびのび楽しい、とはずいぶん違いますし、悲劇のもたらす「カタルシス」とも違います。
音楽に戻れば、マゼールが面白いのは、臆面もなく堂々と、《自己の見方・考えを主張する》からですし、ゲルギエフが感動的で楽しいのは、作曲家に対して演奏者の【責任】を果たしているからでしょう。《責任を持った上での堂々たる自己主張》でなければ、真の感動は生まれないのですね。
そういえば、ゲルギエフの実演を聞いている時に、なぜか、サルトルの「浄化的反省」という言葉が思い出さたと書きましたが、【個人の自由と責任の哲学】であるサルトルと通底するのですね。