以下は、昨日のブログに対する「ミクシィ」内からのコメントです。
T
先生、質問ばかりで申し訳ないのですが、また質問させていただいてよろしいでしょうか?
何故日本では自分で考え・話す教育がなされて来なかったのでしょうか? 考えない国民の方が統治しやすいからでしょうか? 自分で考えさせる教育は時間がかかる教育だからでしょうか?
また何故、今、ナショナリズムの必要性が語られ始めているのでしょうか?単なる安倍晋三氏の意見だけではなく、ナショナリズムの動きがネットでも見られるような気がするんですが、何故この最近多いのか、私にはよく分からないのです。特に理由は無いのでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。
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2006年08月30日
21:22
タケセン
Tさん、お元気ですか?
大問題ですから、大雑把に書くしかありませんが。
?江戸徳川幕府による統一の少し前に、戦乱の続く中で、武将への盲従を説く規範が示され、物事の判断に自己の知力を使うのは邪悪の根源であり、上位者に仕えてこそ個人の生は価値あるものと言われました。この封建時代の思想は、「国学」運動(国文の古典の解釈)から明治の国粋主義へと受け継がれましたが、政治・社会の秩序も自然法則と同じものとされて、上位者の決定を合理的に批判する道は閉ざされてしまったのです。
明治の自由民権運動は、これとは異なる近代的な人間・社会像を示しましたが、山県有朋らの頑迷な保守派(天皇親政)はこれを根絶やしにするために、教育現場を押さえ、天皇崇拝と事実学による知の支配を1890年ころに確立しました。市民革命的な変革運動は弱く、その後に起こった大正デモクラシー運動もやがて15年戦争の荒波に沈み、1945年の敗戦をむかえました。自立した「民」の力が育つのは、これからかもしれませんね。「民知」運動が大事です。
?実存論的な自己の哲学やシチズンシップ=市民精神が弱ければ、人々は心の拠り所を国家や天皇との一体化に求めるほかありません。
不安の時代に、アイデンティティの手っ取り早い確保がナショナリズムというわけでしょう。ただし、この処方箋は、深い地点で個人からよろこびを奪ってしまいます。「得」も「徳」も得られません。
参考図書として、集英社版・日本の歴史17-日本近代の出発(佐々木克著)を揚げます。簡潔・明晰です。また、読み応えのある大著ですが、ウォルフレンの「日本権力構造の謎」は必読文献だと思います(すでに古典的名著)。
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2006年08月31日
11:15
T
先生、お久しぶりです^^。家庭の事情で少しだけ忙しくなっていますが、元気にしています。先生もお元気ですか?
いつも明解なお答えを下さってありがとうございます。自分で考える教育が為されないのには、長い歴史があるのですね。驚きました。自分で考えていく民知運動はこれからますます必要になってきそうです。それに、やはり今は不安の時代なんですね。なるほど、そうだったのかと思いました。
たまには自分の意見でも言えるといいんですけど^^;、いつも質問ばかりですいません。ありがとうございました。
(写真は、白樺教育館・屋上)