思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

文化庁が省庁として初めて京都に移転(祝)江戸城に住まう天皇一家も京都へが必須。江戸城占有は道徳に反します

2023-03-26 | 社会批評

文化庁が、省庁としてはじめて京都に移転は、すばらしいことで大賛成です。全部が霞が関村に集まってるのは気色悪いですからね。

日本の伝統文化は、京都が似合います。京都が本家の天皇さんも、明治政府により江戸城に拉致されたままではあまりも変ですよね。変すぎです。

太平洋戦争での敗戦後、新憲法で、主権者が天皇から国民へと180度変わったのですから、その時点で、江戸城占有はありえないことでした。

今なお、実家のある京都御所に戻らない=戻れないのは、おかしいのです。他者の城に居続けるのは、道徳的にもアウトです。

皇居と名付けられている江戸城跡地は、国民公園もしくは江戸公園として、みなに開放しないといけません。【天皇現人神(あらひとがみ=生きている神)】という明治政府作成の天皇カルト宗教は終わりにしたはずではないですか。今のままでは、われわれ日本人が新しい時代を切け開けません。政府関係者に理性はあるのでしょうか?


武田康弘



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極めて危険で愚かな岸田政権。支持政党に関わりなく、23日の山本太郎議員の質問をぜひご覧ください。

2023-03-25 | 社会批評

支持政党に関わりなく、ぜひ、みなさま、ご覧ください。

3月23日の参議院での山本太郎議員の質問⇒主張は、完璧なまでに正しいと言えます。

アメリカの意のままに戦争への道を行くのは、愚かの極みで、極めて危険です。徳も得もまったくありません。


武田康弘(参議院行政監視委員会調査室 元客員調査員)

 

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アメリカの言い方=態度には、ものすごい違和感がある。日本人のアメリカ追随・支持の異常さには、言葉を失う。

2023-03-25 | 社会批評

テレビも新聞も、アメリカは正しい、という風にしか聞こえない報道だが、

アメリカは、第二次大戦後、世界最大の戦争や陰謀を繰り返してきたことは、事実として知られているのに、なぜここまで一方的なのだろうか?  知らない人は、著名なアメリカのジャーナリストが調べ上げて書いた「アメリカ侵略全史」を読むといい。

2014年アメリカによるウクライナのクーデター政権2代目=ゼレンスキー大統領が善であるとなぜ言えるのか? 戦争前は極端なまでの低支持率だったゼレンスキーなのに、です。

ロシアのウクライナ侵攻が悪い(アメリカの挑発に乗せられてだが)とはいえ、日本がロシアを敵国扱いとする岸田政権は、われわれ国民にとり迷惑だ。制裁をする経済的利益はなく、道徳的善もない。双方の国の民衆を苦しめるだけの行為は、経済的にも道徳的にも悪でしかない。しかも危険だけは増大する。あまりも愚かだ。一体なんのために、敵国扱いするのか???

敵国をつくって得をするのは誰なのか、を考えることが必要だ。われわれ庶民は、損しかしない。徳も得もない。

全方位を心がけるのが正しい外交
であるのは常識の部類だが、常識が通用しない国と人になってはお終いである。


武田康弘

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大谷翔平の草野球に感動!! よろこびいっぱい。

2023-03-22 | 芸術

野球は、小学生のとき、子どもだけで草野球を毎日楽しんだ。
装備もなしで空き地に集まって人数も時々で変わる~~、とっても面白かった。
そんな純粋な楽しみと世界の大会がなぜか結び付いた。草野球でしか通用しないはずの二刀流=大谷翔平が世界最高の活躍!!全身からよろこびがいっぱい。
物凄い試合の連続に感動してしまった!
最高は何でも草○○なのでしょう。

武田康弘

 

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民主制に反する検察庁の思想・組織・人事。 検察の抗告権を廃止すべきだ。 (東京新聞一面)

2023-03-21 | 社会批評

以下の『東京新聞』一面、元判事・門野 博さんの主張は正鵠を射るものです。

日本の司法制度は、人事も組織も思想も民主主義の制度とはほど遠いもので、官僚独裁というほかありません。
法務省という役所が、裁判官など司法関係の人事を握っていますが、法務省の役人は、課長級以上はすべて検察官という驚くべき人事と組織です。

司法の独立などはじめからありません。三権分立がなく、行政権独裁の制度なのです。これでは、最初から民主政治は不可能です。民主制度ではないのです。



(『東京新聞』3月21日朝刊一面)


武田康弘

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内田卓志による武田哲学へのインタビュー 4(いったん完結)イデア論。哲学とは学問ではなく、端的に知的。

2023-03-20 | 恋知(哲学)

 

内田卓志による武田哲学へのインタビュー 4(いったん完結)

 

「つまらない顔はイヤ」からはじまったー武田哲学のルーツと質。

2016-01-04 | 恋知(哲学)

インタビューの続きです。

最近は、プラトンを30年ぶりに再読しています。ちょっとですが。納富信留教授の『プラトン―理想国の現在』も読んでみました。さすが納富教授、素晴らしいプラトン論のひとつと拝読しました。

そこで、質問します。プラトンが、『ポリテイア』で主張している「イデア」についてです。この著は、日本では「国家」と訳されていますが、かつては「理想国」と訳されていたようです。

プラトンは、武田先生に最も影響を与えた人ですね。そのプラトンの国家編でプラトンは、イデアについて主張します。イデアは、ある絶対的な超越性を言っていると思います。先生は、超越性原理を批判されますが、その文脈の中での「イデア」について教えてください。 その意味とその役割について。イデアを絶対的な超越と考えると武田哲学とは、相いれないことになるとおもうのですが、如何でしょうか。 

内田卓志

ーーーーーーーーーーーーー

内田さん、そう、「理想国」なのです。プラト ンは、「ポリティア」の最後に、今まで書いてきたことは紙の上の話である、と明言しています。まさに、紙の上の「理想」であり、思考実験 です。

また、「イデア」を絶対的超越と読むのは、キリスト教を常識とした16世紀に始まる近代の西ヨーロッパ人による読み方です。日本の学者も ずべてそれにならっていますので、同じです。

イデア論は、唯名論として見れば、現代では言語論の常識であり、すんなり理解できるとするのが、わたしの考えで、そのような読みにより武田思想は成立しています。

プラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」とは読めません。「絶対的真理」とは異なる「普遍性の探求」として捉えない と、古代ギリシャのフィロソフィとキリスト教ーー大きく異なる思想を同一のものとする愚を犯してしまいます。

そうなれば、近代の西ヨーロッパのキリスト教化された哲学の見方で、ギリシャのフィロソフィを知ることになるわけです。

なお、わたしとソクラテスの行為(プラトンの著作)との関係についてですが、
ソクラテスを知った後で、わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学 する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。

プラトンの著作を読んで、今のわたしの思想があるのではなく、いまに役立つように使用してきたのです。

プラトンの後期はピタゴラスの神秘思想の影響で難しいものとなっていますが、それについての解釈は別の人に譲ります。わたしの興味の埒外 ですので。


武田康弘

武田先生

『わたしのフィロソフィ(自分で自分の経験を基に考える営み)があるのではありません。小学生以来の考える=哲学する営みが先にあり、そのわたしの思考方法をサポートしてくれるものとしてソクラテスを見つけた、というのが事実です。』

先生の発言は、私には誠に羨ましいかぎりです。私には、このような体験が無いので最初は信じられなかったのです。まず本を読んで勉強した後に気づいたり、考えたりして、世界の見かたが変わる。つまり視線が変わることはあります。その上で考えてみて、実行したりします。私は、この繰り返しです。

私が、先生のような思考の訓練をしてこなかったせいなのか。理由は、分かりません。その意味で羨ましいのです。「哲学する営みが先にあり」との発言を信じるしかないのです。理由を少し述べます。

私は、10年以上白樺教育館の仕事を見ていますが、さて学問の研究家に「このような仕事ができるかな」といつも思うのです。教育論のところで詳細を語って頂きましたので、ここでは省略します。

ただ、一人で、40年こつこつと自らの思想に基づく教育活動により、生活を建てていることが凄い。このことは、特に強調しておきたい事実と思います。

私も優れた研究者の方々に接する機会がありました。研究者は文献を正確に読み緻密に解釈して、自らの考えを表現します。「初めに文献ありき」、ということでしょう。文献学的な知のあり方や使い方では、白樺教育館の維持は困難だとわかったのです。どちらが、優れているとかいっているのではなく、白樺の活動を行おうとすれば、そのような文献学的知の使い方は、むいていない、効力が少ないということです。「自分で自分の経験を基に考える」営みから導かれた、フィロソフィーに基づき子供に対峙し交わる。私は、その活動の成果を見ていますので、信じると申し上げるのです。つまり、学問の世界と具体的な経験の生活世界とでは、知のあり方、知の使い方が、異なるということでしょうか。

武田先生の主張するフィロソフィーは、学問ではないので、非学問的な知恵に支えられているのですね。

ーーーー

続けて、

次にプラトンのイデア論のこと、

先生のお立場は、「絶対的超越」と読むべきではない、イデア論は、唯名論として見れば理解できるとのことですね。そのような文脈の上に、武田先生の思想は成立していると理解しました。

プラトンのイデア論は、いまだに議論のあるところで学問的にどう理解すればよいのかは、分かりません。後期プラトン哲学は、先生もご存じの通りイデア論を否定しているとも解釈されます。この問題は、学者におまかせしましょう。

ただ、私もプラトンのソクラテス対話編は、「絶対的真理を求めるもの」と理解すべきではないと思います。自らの不知を最も自覚したソクラテスが、絶対的な真理を追い求めるのは、言語矛盾のようにも感じます。それよりソクラテスは、普遍性の地平を探求していたという先生のご解釈のほうが私には、「ピン」ときます。先生は、プラトンいうイデアは、あくまでも「理想」(追い求めても離れていく存在、どこまでも到達できない場所)を語っているので、それを絶対的超越とか超越性原理と考えることはできない、というご主張だと分かりました。

フェイスブック上でも、先生へのインタビューから対話が始まっているようですね。私も楽しみです。

 ※イデア=理想とは厳密には理解すべきでないとか、研究者の間では議論があります。納富教授もそのような見解ですが、結論は結構武田先生のプラトン理解ににも近いと感じます。その他プラトンのことで語りたいことは、つきません。戦前の南原繁の『国家と宗教』でのプラトン理解は、学者の良識の頂点のような勇気ある著作でした。 

内田卓志

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内田さんの実存的レベルの話が入ったので、とても分明で、優れたインタビューになりました。ありがとう!
武田康弘


7さいー小学2年生のわたし
 (撮影は、父)

なんで、皆、つまらない顔をしているんだろう?
楽しそう、とか、嬉しそうではなく、曇った顔をしている。
生き生きしている人は少ししかいなくて、かたい顔、濁った顔が多くて、魅力のある人は少ないな。

小学生のわたしは、学校でも街でも電車の中でも、つまらない顔をしている人が多いのが疑問でしたし、嫌でした。

それが人間の生き方を考える一つのキッカ ケとなりました。

どのように生きるのがよいのか?
何と、どう向き合って生きるのがよいのか?どんな態度で生きるのがよいのか?
楽しく、イキイキと、よろこびの多い生き方、意味の濃い、深く納得できる生き方、それは何か?どう考えればよいのか?

そう思い、悩み、、考え、試して、対話して、という人生は、そのようにして始まったのです。
幼いころから、父への質問は毎日のようでしたし、友人との話も、意味や価値を問う内容で、知らずに、フィロソフィの毎日だった、というわけです。

だから、書物もよく読みましたし、これは、と思う本は、書き込みをしながら熟読しました。中学2年生の時にお小遣いではじめて買ったのがヤスパースの『哲学入門』でしたが、感動しつつも、賛成できないと思うところもありました。

書物は書物としてしっかり読み、わたしが思考する訓練や手助けとしましたが、哲学書が真善美の基準になることはなく、ある考えが、【私の赤裸々な精神= 頭と心身の全体で感じ知る現実】に如何に応答するか、それが基準なのでした。
『聖書』などの宗教書は真面目に読むほどに、その独特の雰囲気=超越的思想に嫌気がさし、わたしの宗教(一神教)嫌いを決定的にしました。イエスその人への評価とは別の話ですが。

 
また、それと同時に、真理とは何か?どの ように考えるのが「正しい」のか?という純哲学的=学的追求も執拗なまでに(笑)行いました。認識論の原理としての現象学です。

簡単ですが、これが、内田さんの最初の質 問へのお応えです。

次に、フィロソフィの本質に関わる核心点についてお応えします。

内田さんは、思想や哲学について、【学問的・文献学的】と【非学問的知恵】という区分けをされましたが、大事なことなので、確認します。

ソクラテスは、話しことばによる問答的思考で、本を書かず文字を残しませんでしたので、彼の知的営みは、文献学的・学問的とは言えません。

またインドの釈迦の解脱、自帰依ー法帰依の思想も文献学とは無縁で学問的ではありませんでしたし、イエスの既存の世界の常識を覆して新たな世界を拓いた言辞行為も、少しも学問的ではありません。

近代の西洋哲学の始まりはデカルトですが、彼の有名な『方法序説』は、書物を捨てて体験に基づいて考えることを宣言した本で、まったく文献学的ではなく自説を述べた本ですので、少しも学問的ではありません。

また、『社会契約論』を書き近代民主政の原理を提示したルソーは、恋愛小説家として知られ、家庭教師もして生計を立てていた人で、社会思想の研究者ではありませんでした。『社会契約論』は、新しい社会原理のアイデアを打ち出した書で、文献学的ではなく、これもまた学問的著作ではありません。

それらはみな「文献学的・学問的」でないのですが、彼らの本を研究する今の学者の営みは、文献学的・学問的です。そうすると、人間の生き方を考察し、新たな人間観や社会観を示した人や書物は、非学問的で、彼らの本や人となりを研究するのが学問的だと言うことになります。

 
思想や哲学においては、「文献学的・学問的」というのは、過去の人や書物の研究ですが、それが思想や哲学という営みの中心・本体なのでしょうか。思想や哲学の中心・本体は、過去・既存ではなく、未来に向かう精神から生まれる知的営みではないでしょうか。飛翔するイマジネーションによる思考こそが思想や哲学の中心・本体ではないでしょうか。

わたしが思うに、思想や哲学の中心となる営みは、学問的というのでなくて、ストレートに【知的】なのです。

ここで、ひとつ大事な知識を披露しますが、知的という「知」とは、「知恵」という意味に限定されません。知識と知恵を分けてしまうのは、分類好き(分類趣味)のアリストテレスによるもので、ソクラテスとその弟子のプラトンには、知識と知恵を分ける考えはありませんでした。知的とは、よくみなが言う「知識」と「知恵」の双方を合わせた概念なのです。わたしの言う「知」とは、そういう意味の「知」です。また「主観性の知」であるざまな創造、講演や作文などは、最高度の知的作業です。

思想や哲学の営みは、【知的】なのであり、学問的なのではありません。過去に囚われた文献学ではないのです。過去は手段としてあり、中心・本体は、未来への豊かなイメージに支えられた今なのです。

以上は、核心中の核心(原理中の原理)と思います。

 
武田康弘

 

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内田卓志による武田哲学へのインタビュー3  「東大病」 「実存とは」

2023-03-19 | 恋知(哲学)

  8年前(2015年)の   内田卓志による武田哲学へのインタビュー3  再録

 

主観性の知への無知   日本の教育の病=「東大病」      内田卓志

 

  実例を多く示していただきありがとうございます。本来眼目であるはずの、主観性の知を育て、鍛えるべきことは二の次、三の次にしておいて、客観知を中心とする技術知、パターン知のみに優れた人間を創ろうとする逆立ちした教育が、いまだに日本では主流と言うわけですね。その象徴こそが、東京大学を頂点とするヒエラルキーにあり、この国の病(東大病)だというのが先生の長年のご主張でした。

 

 私がスエーデンの教育について、聴き読んだところによると先生の言われる通りで、全く日本の学校の勉強の仕方と違います。まだ江戸時代の寺子屋のほうがスエーデンに近いです。(笑)私も大学で学んだ教育原理とやらを思い出し、敬愛するジョン・デューイの教育哲学を考えながら先生のお話伺いました。私は、25年以上ビジネスパースンをしていますので、学校教育の現場はほとんど存じ上げません。そこでもう少し先生に現場を踏まえた教育のことを話して頂き、そこから哲学の使命について話をつないでいきたいところです。

 

武田先生                      内田卓志

    一休みしたところでインタビュー・質問の続きです。
  主観性の知について、語っていただいています。今までは、その認識論的・存在論的な側面についてのお話でしたが、次にその実存論的な側面について伺います。

  まず、実存という言葉について伺いたく思います。一般的には実存とは、古代ギリシャからある概念と言われていますが、20世紀の思想的・哲学的成果の一つと考えられています。実存主義とか、実存哲学とか言われます。サルトルやヤスパースは、自らの思想・ 哲学 にその名を与えました。日本でも実存的不安という言葉が流行したのはいつ頃だったでしょうか。評論家の山崎正和氏が、実存(主義)的分析を自らの評論、『不機嫌の時代』で見事に応用したことを想い出します。

  それでは武田先生の考える実存について語っていただき、その後、教育と主観性の知における実存の問題、近代と実存の問題、そして、社会と個人の問題へ話を展開できればと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 内田さん

 わたしは大学の哲学徒でもありましたから、実存(現実存在の略)の思想を哲学史の中におく見方も分かりますが、今は、それらはわたしの思索の肥料になってしまい、そのものとしては検討する必要を感じません。

 以下に、わたしの実存の定義やそこから得られる帰結についてお話します。

 わたしのいう「実存」とは、私は、一回限りの私の生を生きている、という自覚を意味します。ほかの誰でもない、ただ一人のこの「私」が生きる、という明晰な自覚をもった生を実存としての生と呼んでいます。実存の明晰な意識化は、必然に私の生の意味充実を目がけます。

 私は世界の中に生きていますが、世界の意味を汲み取るのは、私の意識です。何をどのように見、考えようと、私は私の意識を超えてその外に出ることはできません。私は外なる存在をはっきりと意識できますが、それも「私」の意識であるというパラドクスから逃れられません。この認識論の原理は、実存として生きる以外に人間の生はないことを教えます。

 したがって、私にとって意味のないことは認識の対象にはなりえません。他者が意味あるものとして遇する事象も、もし私がそう感じなければ私には存在しないも同然です。これは原事実です。人間の認識は関心がなければ成立しないので、関心が認識の出発点ですが、関心はこの一回限りの生をいきる「私」の関心ですから、実存としての生と重なっています。認識と実存が結び付いてることを知ること は、フィロソフィ(恋知)の原点なのです。

 主観と結び付いてしか客観はなく、客観それ自体を問うことが理に反するのは、現代ではすでに「常 識」になっていますが、 主観とは、抽象的な人間の主観ではなく、最後は必ずこの「私」の主観でなければなりません。それを離れれば主観は根付く場所を失い、ただの言葉=概念に陥ります。もしそうなれば、言葉や数字を概念としてだけ扱う精神疾患者(アスペルガーの一種)の意識と同じなってしまいます。 生々しい実感・ピントの定まったクリアーな意識を伴わない主観とは生きた主観ではなく、ただの言葉=概念です。要注意。

 人間の主観としての意識が、この世界を世界として定立させ、世界に意味を与えているので、各自の人間存在は、物の存在とは存在のありようが逆です。物はそれ自体で存在しますが、人間とは意識存在で、物やさまざまな事象を意味づけ価値づける主体者です。意識のない人間とは人間ではありません。ここで注意すべきは、前意識や無意識の存在ですが、意識されない意識としての無意識領域も、それが意識=自覚にもたらされた時にだけ現実的な意味をもつことです。検討・吟味(=意識化)されなければ意味をもちませんので、無意識領域を実体化させて物の存在のように見てはダメです。

というわけで、どこまでも「私」が見、感じ、想い、考え、生きるという根源的な事実から目を離さないこと、それを明晰に自覚することが「実存」という意識です。繰り返しますが、実存の明晰な意識化は、必然に私の生の意味充実を目がけます。

 この人間の生の原理が自覚された時にはじめて各自の私は協力や共同が可能となり、各自の実存は、 響存(響き合う存在)ともなります。各自の「対立」は、対立があるからこそ豊かな成果をあげます。対立は否定ではありません。必要不可欠な人間の生の要素です。 自己であれ他者であれ、否定したら元も子もなくなります。大事なのは「対立」で、それゆえに各自の実存は輝くのです。この話は、すでに教育論に移行していますね。では、また。


2015.9.30

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内田卓志による武田哲学へのインタビュー2 「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ。

2023-03-18 | 恋知(哲学)

8年前2015年の内田卓志による武田哲学へのインタビュー2  再録。

全体論についての回答、ありがとうございました。続けて質問します。 内田卓志

 

 先生の考えている全体論は、哲学の使命に関わる根源的な点だと思います。私の質問の前提とした全体論は、哲学の領域に関しての問いでした。
 存在論・認識論・価値論のように・・・。先生の問題意識を承知したところで、さて個別科学は、論理的、実証的な系統立った説明が必要になります。
つまり科学性ということでしょう。その科学的な知のありようを客観性という人もいますね。

 それでは、主観性の知の哲学は、ある種の科学性(皆が了解できる地平)を担保しなくて良いかとの疑問が湧きます。主観と主観の衝突ばかりでは、
 何が真なのか、何が善なのか、何が美なのかが分からなくなります。つまり好き勝手に利己的に考えることも主観性の知になってしまうのか、との疑問です。

 そこを解決する考え方が、ギリシャ以来の、哲学の本質的な意味と考えてよいでしょうか。つまり哲学的な原理についての問題です。そのあたりについて、
お話し頂けないでしょうか?

 

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「ほんらいの哲学=恋知」の核心について                武田康弘

まず最初に、
諸科学の「客観的」認識と言わるれるものも、誰か個人の頭の中で得られるものですから、事実としては「主観」です。ただし、その認識内容が、その領域に携わる人々の共通了解になれば「客観的認識」と呼ばれることになるわけです。

というわけで、主観と客観とは並立して対立する概念ではないのですが、言葉がつくりだすイメージが、「二項対立」を生み出します。要注意です。

では本題です。
フィロソフィ(直訳は「恋知」)は、主観の感情や想念ではなく、「主観性の知」ー「知」なのです。主観=私の直観や想いを絶対化するのとは対極にある営みです。

誰でも想いや直観から認識は始まるので、それは全く正当なのですが、そのはじめの直観を固定して絶対化するならば、自分勝手な思い込みに留まり、なんの普遍性もない「私的認識」に陥ります。

フィロソフィは、心身(五感)と頭(思考力)をフルに用いて「吟味」すること=疑い、試し、確かめる作業です。その自問自答を他者に示し、問答し、だんだんと普遍性の豊かな考えに鍛えていく営みですので、その限りでは個別科学と変わりません。それは、(1)宗教的信念のような絶対的「真理」ではなく、また、(2)みなが言うからという一般的「真理」でもなく、(3)腑に落ちる・深い納得という 普遍的「真理」を目がけるものですので、諸科学をその一部(手段)として含むのです。

ただし、諸科学は、認識対象を狭く限定することで細かな観察や実験が可能となり、質的相違を量的(数字)相違として表すことで、客観的と呼ばれる認識を得る努力をしますが、第一回目のご質問でお応えした通り、フィロソフイ―は全体的な見方や総合判断をしますので、頭の用い方が異なります。フィロソフイ は、諸科学における客観知を手段とする主観性の知であり、これが知の目的です。

人間の生の意味や価値を直接に問題とするのではなくとも、例えば、どのような家を建てるか、どのような音楽ホールをつくる か、それを思案するのは主観性の知であり、安全性という基本的要件のみならず、用途を満たす程度や、美しさの程度や、使い勝手の程度などが問題になりますが、それは客観知として測れるものではなく、全体知としての主観性の知による総合評価となります。

また、優れたセンス、企画立案能力、創意工夫や臨機応変の才、自由対話の力、作文力、問題発見と解決の能力、想像 力・・・・・・・などは、みな主観性の知であり、それらは受験知ーテスト知・客観知ではありません。繰り返しますが、人間の生きる意味や価値の問題を土台として持ち、含むこれらの主観性の知こそが知の目的であるわけです。そのことをわが日本人がほとんど自覚できていないのは、とても困った問題と言えます(東大病)。
わたしは、これに取り組んではや40年。時の経つのは早いもの、まだまだ頑張りますよ~~~~。全身 がだいぶボロくなっていますが(笑)。

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 なぜ主観性の知に無関心なのか          内田卓志

 

 続けて伺います。なぜそのような、想像力(構想力)の源泉ともいえる主観性の知について無関心なのでしょうか。それとも誤解しているのでしょうか。

 また、主観性を消去したほうが、誰かに都合がよいのでしょうか。かつては、お上、大日本帝国、今なら会社とか・・・・。

 私は武田先生とある高名な哲学者※との対話を隣で聴いたことが数回ありますが、このことを説得し理解してもらうのに、かなりの時間が掛かりましたね(その先生は、対話をはじめて二時間ほど経って、「武田哲学は、哲学の王道だ。」と言われていました)。

 デカルト以来の機械論的自然観批判、近代批判が哲学会でも流行ですので、主観性についての誤解は学者の間にも蔓延しているのかもしれません。

 私はデカルトやベーコンの機械論的自然観には与しませんが、近代の超克などは、たやすくできるものではないと思っています。後期ハイデガーは、ちょっと危険です。この話をすると長くなりそうなので、このあたりで武田先生にバトンタッチします。

(※ 山脇直司先生:ミュンヘン大学で哲学博士号、東京大学教授ー今は名誉教授。数年前に、武田先生と山脇先生との対話ー論争が幾度も行われた。)

 

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   「客観学」(手段)と「主観性の知」(目的)の混同と逆転のわけ   武田康弘

単に「学」の問題というのではなく、現代の人間の生き方・考え方の根源的大問題、それが、主観性の知こそが「知」の目的であり、読み書き計算にはじまる客観知(答えが決まっている知)は手段にすぎないことを知らないーその逆転に気付いていないことなのです。
  
  この逆立ち、価値転倒は、世界的な問題ですが、とりわけ日本は酷いと言えます。その原因は、幼いころから「想う→考える」という【対話による子育て】(表情やボディーランゲージの交感を含む)がなく、芸を仕込むようにして「読み書き」という技術を教え込むもうとする教育ならぬ強育が支配しているからでしょう。

    答えは決まっている=正解があるという思い込みは、日本の型の文化に、正解として輸入された近代欧米学問が接ぎ木されたことで、酷い歪みとなって、手段も目的も分からないままに「知」に接するという事態を招いている、というわけです。これは、小学校から大学院まで変わらずです。教える側も教わる側もこの逆転の事態を自覚していません。この問題を明瞭に述べたのは、おそらく公式には、参議院のわたしの論文がはじめてでしょう。

 キリスト教という唯一神への信仰がつくった「近代西ヨーロッパの学」は、ニュートンの力学・数学や宇宙論に至るまで神の偉大さを証明するためという宗教思想を背後に持ちますので、人間の主観を離れた「純粋な客観」(神がつくった完全な世界)があるという根深い(深層心理にまで入り込んでいる)思い込みから自由な人は、稀にしかいません。ここからの解放は、21世紀のいちばん重要な課題だとわたしは思っています。

 キリスト教文化圏※は、さすがに本家本元だけにこの弊害に気づくのも早いようで、オランダや北欧にフランス、それにイギリスのエリート族などの間では少し前から「正解」のない問い、フィロソフィの教育をはじめています(幼少期より)。絶対的な真理を求めるのではなく、普遍的な思考を鍛える教育です。いまだにテスト知のチャンピョン崇拝=東大信仰が揺るがない日本は、どんどん置いてけぼりですが、教育改革をするにも、政府関係者には、東大病の官僚と、アナクロニズムの国体思想のイカレタ学者しかいないのですからお手上げです。

(注)※なお、フィロソフィは、西洋ではなく、小アジア(いまのトルコ)で起こったもので、かつ一神教の思想ではない(紀元 後4世紀にキリスト教によりプラトンがつくったアカデメイアは廃校にされた)のですから、「西洋哲学」という言い方は、欧州 人の我田引水でしかありません。インドの釈迦(仏教)の思想と近親性をもちます。要注意です。

 なお、後期ハイデガーは、論外です。彼のように、詩的言語で語っても、それはフィロソフィにはなりません。詩作品として発表するなら分かりますが、それを哲学だと言うのでは、知的退廃というほかないでしょう。きちんと吟味、検討、批判のできない言葉の用い方は、論理ではありませんから。超論理(笑)。



(武田康弘・2015.8 式根島キャンプ&ダイビングで

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武田哲学の芯に迫るためのインタビュー  内田卓志

2023-03-17 | 恋知(哲学)

武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=内田卓志



8年前のものですが、再度投稿します。いっぺんには載せられませんので、3、4回に分けて。武田


 以下は、内田卓志さんからのメールです。
 内田さんは、早稲田大学で哲学を専攻し、プラグマティズムを中心に研究し、「京都フォーラム」での発題者の一人でした。石橋湛山の研究家でもあります。

 

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   武田哲学の芯に迫るためのインタビュー=質問       内田卓志

 

  もう武田先生と知り合って10 年以上になります。先生と私の出会いは、わたしが2000年12月に沖縄旅行で偶然にも出来たばかりの『白樺文学館』の小冊子(先生制作の豪華パンフレット)を手にしたことによりますね。実は、 それ以前の1990年に岩波の月刊誌『世界』に載った武田論文を読んでいて存じ上げていたのですが、その辺は、別途話すことにしまして・・・。 

 いつだったか、私の敬愛する哲学者の山脇直司先生は、武田哲学を称して、「エロースの哲学」と言っていましたね。武田先生に10年師事してきて、「そうなんだろうな」と思います。これから武田先生の哲学の芯についてせまりたいです。私がインタビューしますので、ご教示下さるようお願いします。いろいろ質問します。

 私は、武田哲学の柱には、哲学(恋知・愛知)とは何か、哲学的思考は、どのように行わるべきか、との問題意識と共に、哲学を現実の生活(世界)に活かす方法、哲学を役立てることについての、具体的な思索が常にあると思っています。それは別に、プラトンでもなければ、カントやヘーゲルでもない、ましてはハイデガーの哲学でもないでしょう。

 武田先生、それでは伺います。先生は、30年以上に渡り個人の<主観性>を強調されてきたと思います。そして、もう一つ大切な哲学的知としての<全体論>がありましたね。先生は、全体論について、以前たしか大工さんが家(建物)を建てるときの例?を使って説明されていましたね。これらのことから話題にしたいと思います。

 まず、全体論について、全体論は、哲学的には存在論の考え方として、<原子論>(アトミズム)に対して<全体論>(ホーリズム)として提出されることがあります。<主観性>は、当然に<客観性>に対する言葉で、主観性を「個」と考えれば、客観性を「全体」と考えられるし、「個人」にたいしては、「社会」との対比で論じることもできると思います。(実存に対しては、構造とか・・・)

 そこで質問です。私が思うには、先生の言われる<全体論>と<主観性>の関係です。普通に考えれば、全体論を強調するには、客観性を強調し、原子論を強調するには、主観性を強調するのが、すっきりと対応関係として考えられるのではないでしょうか?よく学校の先生から言われました。「物事を全体的・客観的に考えろ・・・・」と。

 この関係性について、どう考えればよいのでしょうか?哲学の考え方は、一般的に考えられているもの、言葉として一般的に使われている使い方とは違うのでしょうか?よろしくお願いします。

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  内田さん、よいご質問、とても感謝です。          武田康弘

 

   早速ですが、まずはじめに、
フィロソフィ(恋知)の土台とは、人生の意味や価値、生き方を考える営みですから、個別の学問(諸科学)とは異なり、部分を問題にするのではなく、全体を問題にします。生き方の部分とか専門というのは、ありえない話ですから。


個別学問(諸科学)は、対象を狭く限定することで、細かな観察や実験を可能とし、いわゆる「客観性」を獲得できるわけです。もちろん、何をどのよう認識するのかは、人間の欲望、関心や必要や目的という主観的な領域の問題です。

わたしは、木を詳しく観察するすることと、その木が生えている森全体を見ることはどちらも必要という考えですから、部分と全体の往復になります。

内田さんの言われるホーリズム(全体論と訳される)とは、現代哲学のクワインに端を発しますが、わたしは、それを主題化したのではなく、もっと広い意味(=日常言語の次元)で、部分と全体についてお話しています。

認識は、個別科学において客観性を目がけるという認識であれ、主観の欲望=関心・目的・必要により成立しますから、主観のありようを注視し自覚化することは、何より大切になるわけです。フィロソフィとは「主観性の知」です。

人間を惹きつける対象&惹きつける作用である「エロース」は、フィロソフィを成り立たせる動因であり、それなくしては、混沌と広がる世界を意味づける=秩序づけることはできませんので、エロースは、武田フィロソフィーというより、古代アテネのソクラテス出自のフィロソフィーそのものと言えます。

なお、「客観学」(知の手段)と「主観性の知」(知の目的)の日本における逆転については、参議院事務局から依頼された論文『キャリアシステムを支えている歪んだ想念』に記しましたので、見てください。この知の逆立ちを自覚している人は、学者を含めてほとんどいませんが、ここに「日本人の根源的不幸」(外の価値に呪縛され内からの生がない)があります。
http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori108.htm

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検察庁の役人のなんという醜さー袴田さん再審決定にまたも抵抗し、先延ばしをはかる。

2023-03-16 | 社会批評

検察庁の役人とは、頭が悪いだけではなく、心も歪んだ最低の人間の集まりのようだ。「東大病」(注)という精神の病の見事なまでの具現化に呆れ憤る! 袴田さんの再審決定にまたも抵抗し、先延ばしにかかる。証拠捏造は誰の目にも明白なのに。なんと酷い人間の集まりなのか!!

(注)
以前に、参議員調査室依頼の論文で解説したとおり、
明治以降の日本は、「天皇教・官僚主義・東大病」の三者一体による人間支配の国で、豊かな人間性あふれる国に変えるには、この構造をあらためる教育改革が必須なのです。客観学は知の手段にすぎず、知の目的は主観性の知の育成・開発にあるのです。

武田康弘

 

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『皇室新聞』 一斉に帰れコールに、紀子さんは、「平民ごときが高貴な私たちに逆らうな!」と絶叫。

2023-03-15 | 社会批評

皇室新聞(全文はクリックで出ます)

一斉に帰れコールで紀子さまブチ切れ

相も変わらず、国民から蛇蝎のごとく嫌われている秋篠宮ご夫妻ですが、このような不快感を抱いているのは、当然、参加者も同様です。

今回、ご夫妻が授賞式に参加された育志賞は、真面目に勉学や研究に取り組む研究者に送られるものであり、そうした授賞式に秋篠宮ご夫妻が参加されるのは、場にそぐわないと思われたか、授賞式の会場では、一斉に帰れコールも行われてしまったようです。

「今月2日に行われた育志賞の授賞式ですが、現場は大混乱でした。授賞式では、紀子さまが出席され、表彰式を行いました。しかし、授賞式の途中で、会場から一斉に紀子さまに向けて「帰れ!」という声が上がり、混乱が生じたのです。

紀子さまは、驚いた表情で退席しようとするも、周囲の取り成しで、一時は、なんとか場を収めることができました。ですが、その後も紀子さまは憤慨の様子を隠さず、会場を後にする際に“平民ごときが高貴な私たちに逆らうな!”と絶叫され、またしても現場は混乱することとなりました。
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皇族は、高貴な人の集まりで、平民=日本国民とは異なるそうです(笑愚)

※この皇室新聞は、SNS用で、事実ではありません。自宅の改築だけでも紀子さんの要望をふんだんに取り入れ、30億円以上かけた(これは事実)紀子さんという人間の本質を示そうとしたウソですが、「真実」でしょう。皇族というわけのわからない記号化された人間に頭を下げる
(少なくとも型式的には超超特別に扱う)日本人の愚かさは「面白い」までの次元に達しています。明治政府が拵えた天皇教に基づく天皇制(=内容はその時々の時勢に合わせて変転し、儀式・形式による支配を正当化するアイテムでしかない稚拙な国家カルト宗教をいまだに続けるおそろしいまでの愚かさ。

 

 

 

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信長は、婦女子もすべて皆殺し。一向宗(浄土真宗)自治区の思想・発想・不退転の態度こそ民主主義の源泉。

2023-03-11 | 社会思想

信長の野望ー天下統一。強い一神教=キリスト教擁護の信長は、欧州のキリスト教徒おなじく、戦いは残虐を極め、非妥協的で、従わない農民たち=南無阿弥陀仏を拠り所とした一向宗(浄土真宗)自治区との戦いにおいては、婦女子もすべて皆殺しの戦略でした。

従わない民は皆殺しの信長が偉人!!??と教える教育は、恐怖の権力者を称揚しているのです。武力で従わせるのがカッコいい!!??という思想を植え付けるドラマや映画やマンガ本は、とんでもない代物ではないでしょうか。

一向宗(浄土真宗)自治区の思想・発想・不退転の態度こそ民主制・民主政・民主性の象徴であることを知りましょう。
今年は親鸞生誕850年、茨城で浄土真宗が開宗されて800年の年です。

武田康弘



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灰色・艶なしから彩色の人生へ!  染脳・占脳ではなく、洗脳が必要です。

2023-03-11 | 恋知(哲学)

灰色・艶なし・
意味論のない事実学とそれがつくる事実人(犬でもサルでもなく人ではあるというだけ)・
仰々しい儀式主義=形式主義(天皇という記号が象徴)・
管理主義・厳禁の精神・学校化・病院化の社会。


わがニッポンに「私」に付き、「私」から旅立ち、伸び伸びと生きる魅力ある人は極小。人間になりたいですね。


受験知しか知らず、それに体制派・天皇教に知らずに占脳・染脳されたおじさん、あばさんが大勢いますが、気の毒で危険な人生です。脳を洗い透明にすること=洗脳が何より大切です。


武田康弘

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【魅力】とは人間とその営為の最大の価値 灰色から彩色の人間へ。

2023-03-09 | 恋知(哲学)

【魅力】とは人間とその営為の最大の価値。エロース(キューピット)が担います。わが日本人は魅力のない人の集合態(失礼)。人のマネ、一般的価値を追う、ブランド志向、何と魅力のないことか! 私の心身に正直に、オリジナルなことが、真の魅力の条件です。流行のツマラナサ。

天皇教=形式主義=集団同調主義は、灰色です。彩色世界への飛翔が大切です。あなたとわたし、ただ一人の私=人間が色づかない日本という国は、幸福をつくりません。それに気付いた人から幸福になりましょう~~~。小さな勇気を貫けばよいのです。宗教ではなく、周りの価値に合わせるでもなく、恋知する実存者として生きるのです。

一般的価値の海に沈む人は、永遠に不幸です。
一般的価値よ、さようなら。わたしはわたしの声をだす。



武田康弘

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「ベ平連」の思想と活動は正しかった=米軍と自民党政府の行為は巨悪そのものであった。プーチンの比ではない。

2023-03-06 | 社会思想


 小田実の提唱した「ベトナムに平和を」の市民活動に共鳴して、1968年、9年、わたしも高校生の時に、積極的に支持し、クラス委員と全学議長を務めていた高3の時に、わたしのクラスからは、多いときには半数(20数名)が集会とデモに参加しました。


 積極的に反戦平和を訴えましたが、今のウクライナへのロシアの攻撃を批判する日本政府やマスコミとはまるで逆で、米軍の残虐な戦争に協力したのでした。毎日、沖縄の米軍基地から爆撃機が飛び立ち、べトナムに無差別爆撃=残虐なナパーム弾こどもや女性まで無差別に殺害し北ベトナムの民間人だけでも300万人を殺しました。この破天荒な殺人行為にも、日本政府(佐藤自民党内閣)は、批判するどころか、米軍に協力していたのです。

 米軍の残虐さは、目を覆うもので、あらゆる手段でベトナムの全国土を破壊し、残酷な殺しを行う狂気の戦争を続けたのですが、それは、いまのロシアによるウクライナ侵攻=戦争とは全く比べ物にならない酷さでした。

 結局アメリカは敗北したのですが、夜郎自大な米軍と政府は、己の侵した悪行・罪を反省し、謝罪し、批判することを怠ったために、その後も幾度も他国を侵略し続けたのです。日本の自民党政府もベトナム戦争への協力を反省し、謝罪し、自己批判することをしないできたために、いままた戦前回帰の国体思想に戻る(保守派議員の大多数がウヨク団体「日本会議」のメンバー)という時代錯誤を演じています。

 書くのもいやになるほどの堕落、能天気、夜郎自大ですが、いったい理性はどこにあるのか!?

 わたしの高校生の時の考えと行動は、いま振り返ってのまったく正当ですが、米軍と日本政府の考えと行動は、明白に間違いでした。深い懺悔が必要なのはいうまでもありません。


武田康弘






 

 

コメント (2)
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