これは、覆しようのないことです。
社会生活は、言語使用と同じく、「一般化」されなければ成立しません。これは原理です。
しかし、「一般化」を目的にしてしまうと、個人は個人としてのエロースを失います。
役所や学校(幼稚園~大学院)や会社(もちろん新聞社や出版社なども含む)の仕事は、「一般化」しなければ成立しませんが、それと、個人のよき生の問題は、次元が異なる話なのです。立体としてみる、さらには時間軸も入れて四次元世界として考察することが必要です。
現代の学的世界は、哲学史の専門家も含めて、立体視ができず、平面の緻密化・正確化でしかない知を広げることが進歩だという錯覚にとらわれているように見えます。
これは、個人の個人としてのかけがえのないエロースを、「一般化」の中に閉じ込めようとする個人支配の哲学や思想の蔓延と軸を一にします。
社会の考察や言語の使用は、「一般化」しないと成立しないために、どうしても二次元化しがちなのですが、ここに大きな落とし穴があります。個人のよき生=深い納得・豊かな意味を生みだすのは、立体的な知(ほんとうは四次元的な知)による他ないのですが、それを「公共性」(社会や言語)の概念の下に抑圧してしまう知(一般知・客観学)が支配的になると、人間は個人のエロースを開花させることができなくなり、内的には生きる意味が消えます。「私」の目はくもり、心は歪み、頭は不活性化していきます。「一般化」の海で個人は溺れ死ぬのです。
考えてもみてください。「私」の生の意味が、ただの「一般化」の深化・拡大にあるのなら、その固有の善美が鍛えられる=「普遍的なよさ」を獲得することにはならず、生の悦びが得られるはずはありません。
「私」は、どこまでも私の存在のよさを掘り進めることで公共性を獲得する、「私」の世界をより広く豊かに楽しくするために「公共世界」を拓くというという発想によらなければ、社会性・公共性は、個々人の心の中に根付く場所を持ちません。
「一般化」とは、どこまでも枠組みに過ぎず、生の実質・内容ではありません。人間の生の最大の問題は、「私」が何をし、どのように生きるか?ですが、それに一般的な答えを出すことはできません。深い納得・意味充実=「普遍性」の追求ではなく、「一般性」を先立てれば、人間も哲学も死んでしまうのです。
近代市民社会とは、ただの「ルール社会」ではなく、「流動的で主体的なルール社会」です。そのルールを決め・変えるのは、日々、立体的な生を歩んでいる一人ひとりの人間です。先立つのは、主体知・立体知・実存知であり、「一般化」をつくる一般知は、ほんらいは、実存知を育て・支えるためにのみ存在するのです。くりかえしますが、個人の努力は、「一般化」の海に溺れるためではなく、どこまでも「私」から逃げずに、主観性を鍛え、豊かにしていくこと、管理化・序列化・権威化とは逆の「エロース化」にあるのです。「一般化」という枠組み次元の話(=手段)を目的に転化させると、個性の魅力は消え、仕事や努力は味気のないものとなり、世界は色を失ってしまいます。
くれぐれも用心したいものです。
武田康弘