追求したいことがある、好きなことを研究したい、
という己の欲望に従って学者の道を選ぶのは分かりますが、
なかには、学者と言う職業は偉い!?と思って学者になる人もいるようです。
そういう人は、「学者は偉い」→「自分はその一員である」→「したがって自分は偉い」、と思い込むわけです。
そうなると、
現実の仕事に現実的に取り組んでいる人は、自分よりも一段下の存在である、という心を暗黙のうちに持ちます。
それが人間・社会・思想関係の学者だと、酷い話になります。
日々の具体的経験を生きている生身の人間を「言語で整理」すれば理解できるという逆立ちした観念に囚われた人は、生きている人間・現実の人間を「具体的経験の中で掬いとるように見る」能力をどんどん減らし、既成言語の意味の牢獄に人間の生を閉じ込めてしまいます。
言語が先立ち、現実の人間存在を「理論」で説明し、その観念で生身の人間を縛ろうとする愚かな「概念主義」から抜けられない自分を、かえって他者に優越するものと思うまでになれば、もはや救いがありません。
ほんらい、生きた人間存在のありようを言葉で規定することは不可能です。それは、ただ感じ知ることができるだけなのです。言葉は、それをブキッチョにようやく分節化するのみです。だから、感受する能力を豊かにし、言語に先立つ広大なイマジネーションの世界を拓くことが何よりも必要なのですが、脅迫観念を植え付けられた不安神経症の人は、固い概念=言葉の中に自他の赤裸々な存在を封印してしまうのです。
閉じた絶対を求める心は、不幸しか生みません。「きめの粗い大地に戻れ」!
武田康弘
という己の欲望に従って学者の道を選ぶのは分かりますが、
なかには、学者と言う職業は偉い!?と思って学者になる人もいるようです。
そういう人は、「学者は偉い」→「自分はその一員である」→「したがって自分は偉い」、と思い込むわけです。
そうなると、
現実の仕事に現実的に取り組んでいる人は、自分よりも一段下の存在である、という心を暗黙のうちに持ちます。
それが人間・社会・思想関係の学者だと、酷い話になります。
日々の具体的経験を生きている生身の人間を「言語で整理」すれば理解できるという逆立ちした観念に囚われた人は、生きている人間・現実の人間を「具体的経験の中で掬いとるように見る」能力をどんどん減らし、既成言語の意味の牢獄に人間の生を閉じ込めてしまいます。
言語が先立ち、現実の人間存在を「理論」で説明し、その観念で生身の人間を縛ろうとする愚かな「概念主義」から抜けられない自分を、かえって他者に優越するものと思うまでになれば、もはや救いがありません。
ほんらい、生きた人間存在のありようを言葉で規定することは不可能です。それは、ただ感じ知ることができるだけなのです。言葉は、それをブキッチョにようやく分節化するのみです。だから、感受する能力を豊かにし、言語に先立つ広大なイマジネーションの世界を拓くことが何よりも必要なのですが、脅迫観念を植え付けられた不安神経症の人は、固い概念=言葉の中に自他の赤裸々な存在を封印してしまうのです。
閉じた絶対を求める心は、不幸しか生みません。「きめの粗い大地に戻れ」!
武田康弘