思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

大晦日のご挨拶ー愚直は人間の条件

2005-12-31 | その他

大晦日のご挨拶!?です。

理由はともかく、平和運動をしなければならない自分がいる。
理由はともかく、教育改革運動をしなければならない自分がいる。
理由はともかく、○△改善・変革の営みに取り組まざるをえない自分がいる。
・・・・・・・・・・・

そのあなた(わたし)の「思い=主観」に共感し、感動し、エロースを感じる人=主観が多くなれば、そのことは成就する。
その「思い=主観」に魅力がなければしぼんでしまう。これは単純な原理です(「客観」とは背理ですからね)。

深く人の心を捉える豊かな主観をどう形成できるか?戦略や戦術ではなく、本体の無垢の思想にどれだけの魅力があるか?

一見いかにも「正しい」、しかし何かしら白々しい、自己防衛=理論武装のイデオロギーで生きれば、その思想はふつうの多くの人の心を感動させない、したがって何も変わらないでしょう。人がどう言おうと、内面から湧き上がる「思い」に正直になること、それなくしてはすべては砂上の楼閣です。

生のまま・正直・愚直・「バカ」がほんとうの人間の条件だ、と思っています。なかなか難しい課題ですが、私は来年も引き続きこの本道を歩みつづける決意ですので、どうぞよろしく。

武田康弘





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「強者ー弱者」・「美ー醜」、発想と価値意識の転換。

2005-12-29 | 恋知(哲学)

kです。

今日、フィギュアの日本選手権を観ました。
世界トップレベルの女子選手の演技は、非常に見応えがありました。
それにしても・・・(私も含めて)大衆は美しいもの強いも
のが好きですね。

小泉劇場はまさにそれ。
強者は美しい。
だから弱者は醜いということになる。
自分はそうなりたくないから、強者と一体になろうとするわけですね。
「自分は無力だ」という深層心理が伺えます。

「それは違う」と言っても、そういう声はなかなか広まらない。
体制が打ち出してくるものとは違う強さ、美しさを提示する必要がある
のかな。
どう思いますか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

武田です。

人間は地球上の他の生物を次々と滅ぼしてきました。人間という大型哺乳類が60億以上存在しているのは、生態系としては無理がありますね。

バランスが取れないと自他共に滅びますが、超難題です。

ある意味で「自然性」から外れた文化・文明を生み出した人類は、それを徹底させるしか生き続ける道はないと思います。生物界の弱肉強食・適者生存という掟を、「強い」ことの意味と価値を問う思想の構築、という高次のエロース追求にまで徹底させることで越えよう、というわけなのです。

「弱者」も楽しく自分を肯定して生きられるような環境をつくる実践努力ーさまざまな創意工夫と共に、新たな善美をそこに読み込む高度な知性(例えば白樺の柳夫妻による民芸思想・運動=価値意識の逆転)が必要だと考えて、そのために思索と実践を続けてきました。

個人の内的なエロースの豊饒化=存在の魅力化は、外的価値にすぎない知・歴・財の所有を色あせた意味のないものとするでしょう。
民知(クリック)は飄々(ひょうひょう)と制度知の価値を越える!

ちょっと脱線しましたが、思いつくままに一言しました。

(以上は、公共哲学ML内メールの一部です。)



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点数とお金?手抜きして成果を上げる?(掃除をしながら考えたこと)

2005-12-27 | 日記

勉強も仕事も、「やらされている」という気持ちしかもてないのでは不幸ですが、「点数」と「金額」が第一目標であるなら、そうなるのは必然ですね。目掛けるのは内容ではないのですから、「手抜き」して「成果」!?を上げるのがよいわけです。

机上の空論―言葉上の理屈しか分からないのは「愚か者」でしかありませんが、テストで高得点を取るだけの「点取り虫」を頭がよい?と優遇しているようでは、鼻持ちならない人間しか生みませんし、実力=「人間力」はつきません。

日々の生活世界の仕事(家事)=この最も大切な仕事がどの程度できるのか?
今さっきまで、教室掃除を子どもたちと一緒にしていましたが、掃除をするための「基本的な動作」ができている子は少ないのです。基本が身についていなければ、「ごまかし」の仕事しかできませんし、その場の変化に対応する力がなければ、バカとしか言えません。「上っ面の勉強」ができる「イイワケ」に長けた人間を育てても誰の得にもなりません。

「知る」とは何か? 深く知ることのできる人間の育成は、なかなか大変です。私の教育実践も来年でもう30年になりますが、掃除(クリーニング・ディ)もその大事な一環!!
さあ、一休みしてから今度は授業です。

武田康弘



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子どもと一緒に勉強することは楽しいことーそれ以上の教育はどこにもありません。

2005-12-24 | 教育

ほんらい知ること・学ぶことは楽しいことです。
受験とか試験を念頭におかず、意味をつかむことー納得をつくることを第一に考えて下さい。ほんらいの知とは、心身全体で五感を使って会得するものなのです。
知るとはクイズの知や丸暗記の知ではなく、体験と結びつけて感じ知ること、意味を了解すること、自分の頭を悩ませて考えることなのです。

保護者の方や教師の方は、ゆっくり「思い」をこめ、「情景」を思い浮かべながら国語の教科書を読んであげて下さい。ところどころ分かりにくい言葉には、即興でいいですから例を挙げて簡単に説明を加えて(イメージが伝わればよいので不正確でもかまいません)音読をしてみてください。なかなか楽しい作業ですよ。時間は10分か15分でいいのです。

算数の計算を教えながら一緒にやってみてください。ボケ防止にもなり一石二鳥です。一緒に「ヨウイ・ドン」は面白いですよ。それらは何よりも心の通い合いを生み、心の教育になるのです。何かを一緒に学びながらの対話こそが心を育てるのです。保守主義の「愚かな頭」のおじさんー文教族や保守的な評論家ら国家主義者のいう「心の教育」などは、真っ赤なウソです。心だけに特定した教育などは不可能で、それをやるなるイデオロギーを注入する「洗脳教育」にしかなりません。

いっしょに教科書を中心に、ゆっくり(時間ではなく気持ちのこと)勉強を楽しいで下さい。何より情緒が安定し、人間的に通い合う心が生まれ、面倒見のよい人間に育ちます。もちろん勉強ができるようになります。おかしな情報、金儲けの受験塾産業に騙されていては、永久に不幸です。親は勉強が苦手でもいいのです。一緒に一から学び直す気持ちでやれば、子どもとの関係はとても優しく柔らかなものになります。それ以上の教育はどこにもにありません。

子育て、教育のデタラメな「構造計算」―馬鹿げたイデオロギーから解放されないと、一人ひとりの人生に幸福がくることはけっしてないでしょう。せいぜい他人に「勝つ」一時的快感をつなぐあわれな人間になれる!?だけです。

私の考え―方法を守り、実践すれば、皆ハッピーになります。29年間、「ミニ奇跡」を数え切れぬほど起こしてきましたが、その原理は簡単です。あわてず騒がず、上記の原理・原則を愚直に実行すればいいだけです。私はそのためのサポーター、アドバイザーを続けてきました。

武田康弘




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強い一神教とその変奏の「客観的真理」との決別ー「民知を高めると『哲学』とは別次元の愉悦になりそう」

2005-12-21 | 恋知(哲学)

以下は、12月12日のブログー「なぜphilosophiaの訳語を変えるのか?ー『哲学』から『恋知』へ」(クリック)へのaBeBeさんのコメント(ミクシィ内)とそれへの応答です。

12月20日
10:34
aBeBe (阿部憲一)

哲学と民知では、出発点が違うんですね。

哲学を平らげれば民知になる訳ではないということですね。
民知を高めると哲学とは別次元の愉悦になりそうです。

近年「哲学」という名のもとに行なってきた事は壊す対象として、出発点の一神教=イデオロギーがいつも関わっていたように思います。

民知は、出発点が自分ですから、あらかじめの答えがない、よって、イデオロギーの枠もない、「生きた知」でいられるのではないかと思います。

民知の会の始まる4月が楽しみです。


2005年12月21日
11:56
タケセン(武田康弘)

いい指摘ですね~。その通り!!ありがとう。

主観性から出発し、目指すのも主観性、ただし、深まり、大きくなり、強く、豊かに、透明になった主観性です。

「民知」を高めるとは、「生活世界」そのものを愉悦となすことです。

イデオロギーの枠も、予めの真理や決められた到達点もありません。一切の形式主義ー権威主義とは無縁となり、真に自分自身を中心に生きることの始まりです。「なぜ?どうして?何のため?」というエロースの探求が始まる、というわけです。

強い一神教のつくる騙(だま)しの安心や強い自分ではなく、冷厳な現実認識と自由で豊かな自己の想念が織り成すほんものの安定と充実の世界が開けます。

客観主義や権威的な硬さとは対極にある、柔らかくしなやかな人間味溢れる思索の開始!です。従来の知の枠組みそのものを変更する最高に面白く有益な知のはじまり~、はじまり~です。

武田康弘



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私の決断ーエロースを生むための「民知」という革命

2005-12-16 | 私の信条

私は、都立高校の2年~3年生の時(1968年―69年)、全校生徒の代表として高校改革を成功させて以来、いま具体的には書きませんが、37年の間に幾多の社会運動・文化運動を手がけ、成就させてきました。
しかし、「根本的な地点から見直す」という私の基本姿勢・言動は、おおきな成果を上げると同時に、修復不能な人間関係の亀裂をも生みました。残念なことです。
しかし、人間関係の悪化や断絶は望ましいことではありませんが、ほんとうの改革、新しい希望を生み出す営みを成就させるためには、愛を基盤とした厳しさが必要です。勇気と決断なくしては何事もなしえません。軋轢(あつれき)恐れて受動性の想念に縛られていては、個人の輝きー悦びは消えてしまいます。

私は、来年2006年4月よりまた新たな取り組みー日本社会の中心にある問題を解決するための地道なしかし恐ろしく大きな実践に乗り出します。「民知」のつどい、民知というほんらいの知を広げる活動ですが、その「私の信条」を書いたブログに対して成毛君のコメント(ミクシィ内)がありましたので、私のコメントと合わせて以下に載せます。

まず、「私の信条」を見て下さい。
クリックで出ます。



コメント成毛

俺もそうなれるように、焦らずにゆっくりと着実に努力します。なれるよね?なります!


武田

民知、恋知に王道なし。 努力と時間が必要。
現代のマスメディアが象徴する下劣な価値観と、天皇制が象徴する権威主義の双方を己の深部から消去することが、絶対の条件。
タケセンももう53才。そろそろ「曲がった根性」や「狭い損得勘定」や「非・協力」と思われる人々と付き合う無駄はやめます。
自我主義者・政治屋・既成道徳に縛られた偽善者とは、きっぱり縁を切り、成毛君のような真っ直ぐな精神の人間だけと付き合うようにしようと思っています。

2006年4月から「民知の会」をスタートさせます。
1987年以来の「哲学と市政の会」は廃止です。内容、名称ともに変え、本丸の民知、恋知の拡大・深化に集中します。 移行するために1月より内容を変えます。

人間の問題、社会の問題は、従来の「知」の枠組みでは捉えることができません。
「制度知」でしかない今までの「知」を乗り越えて、私たち「民知者」から始まる新しい人生と世界を築き上げようではありませんか。共に!
一神教的・超越主義的発想を元から断ち、内的に、自分自身として、深い納得を生み出しつつ生きるほんものの人生=エロースの生を広げていきましょう。

民知、恋知については、この下のブログにあります(クリックで見ることができます)。

武田康弘



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生き方の構造欠陥 (建築の偽装・偽造問題は、「構造」の一部にすぎません)

2005-12-14 | 恋知(哲学)

形式と儀式の国。
試験知に乗った外的価値の国。
個人から出発する内的な悦びのない国。
知・歴・財の所有だけを目がけ、存在のよさ=魅力のない人々の集合。

生き方ー考え方の構造欠陥は、知のありよう、その歪みに深因があります。
情報の整理ではなく自分の頭で考える、体験と結びついた会得という知、深い納得をつくる心身全体での確かめ、というほんものの知とは無縁な「受験知」しかない日本という国に未来はありません。私は、おおもとからチェンジしていきたいと思います。

?知るとは?
?白樺文学館建築の体験
をぜひご覧下さい。(クリック)


?民知宣言(9000字)7月
?民知・恋知とは?(1000字)8月
?民知ー恋知と公共哲学(11000字)10月

武田康弘




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手作りジャムー「民知の会」立ち上げの理由

2005-12-13 | 恋知(哲学)

[ 民知、恋知についてはこの上のブログで項目をクリックしてください 

果物のジャム、
メーカー製のものもいろいろ工夫されています。砂糖を使わず果物の甘味だけを生かしたもの等々、
でも、長い流通経路での事故を考えて、いろいろ対策が施されています。それが味を死んだもの=造花のようなカタチだけのものにしてしまいます。
自家製のジャムや農家の手作りのものを食べるとそのあまりの違いに愕然とします。
一つ一つの細胞が生きている!味がピッと立っています。
まったく別ものです。

これはなんでも同じ。
マスプロ教育、進学塾、こどもたちの顔も頭も死んでいます。メーカー製のジャムのように造花でしかありませんが、親たちは造花の方がよいと思っているようです。
構造欠陥、インチキがほんものの顔をする社会です。
まっとうなものが日陰者にされる逆転。
死んだものー管理され、鋳型にはめ込まれた世界が、生きたものを支配する逆立ち。
これを直していくのは私たち大人の責務のはずですが、反射的な言動と、外見や即物的な価値に縛られていては何もできません。

本質的に「受動」でしかないような言動=人生に幸福はありません。
手作り、自分で考え、自分でやってみること以上の価値はないのです。発想の転換が必要です。序列主義―権威主義の発生する元を断つことはそのための基本条件です。

民知という知とは、手作りの発想です。知をほんらいの知、人間のよき生のための知=生活世界の有用性に返すことを目的とする運動です。
外見の立派さ、形式的な善、本性を隠した誤魔化しの人生、表層的な知しか持たない人間がつくるエロースに乏しい上げ底社会をおおもとから変えていくのが民知です。

さまざまな日々の体験から意味をくみ出す能力を鍛えることが核心ですが、そのためには、人間や自然の観察=体験、文学・音楽・美術体験、衣食住全般についての思索が必要。知とは生活世界の中からしか生まれないのです。だからほんらい知はすべて民知なのですが、制度化され権威化された知(メーカー製のジャム)の方が偉いという「ああ、勘違い!」の価値判断がまかり通っているために、わざわざ「民知」という言い方が必要になる、というわけです。

昨日書いた「恋知」という生きた問答的思考は、そのための知の基盤です。現実=生活世界の中で恋知を応用し現実化すること、それが民知なのです。
来年、2006年4月に「民知の会」を立ち上げ」ます。ふるってご参加下さい!

武田康弘




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なぜphilosophiaの訳語を変えるのか?ー「哲学」から「恋知」へ

2005-12-12 | 恋知(哲学)

1860~70年代(幕末から明治)に日本が西洋から取り入れた思想の体系は、西周によって「哲学」と訳され、今日に至っていますが、この固く厳しい響きを持つ言葉は、近代ドイツ観念論にはピタリと合う訳語でしょう。ドイツの文化と学問を学びとる「逸学協会学校」の初代校長・西周にふさわしい術語だと言えます。

しかし、今日必要とされているのは、もっとおおきくかつ明晰な思想です。生活世界の具体的体験につき、それを原理に戻して考えてみる営み=疑い・考え・試し・確かめる思索と実践です。活字や情報によってのみ判断するのではなく、心身の全体で深く知る=会得する知だと言えるでしょう。制度化され権威化された知とは無縁な「生きた納得の知」を生み出すことです。キリスト教という強い一神教(いっしんきょう)が誕生する前に古代ギリシャでつくられたプィロソプィア(philosohia)を素直に訳した「恋知」が必要、そう考えています。

私は、堅苦しく特殊な「知」を連想させてしまう「哲学」を「恋知」へ変えることを提案していますが、それは名称だけの問題ではありません。対象を限定した個別学問や技術的な知も、すべては人間の生きる意味と価値の問題をその根底には持っているのですから、なぜ?どうして?何のため?という意味論(恋知)は、あらゆる知を貫いて存在していなければなりません。どこかで一神教(いっしんきょう)の信仰との整合性を探ろうとする無理な営みを隠し持った「哲学」では、主観性を豊かにすることで、真に普遍的な了解を生み出そうとする「恋知」にはなりにくいのです。

おおもとに戻して考えるという営みは(フッサールの言葉では「純粋自我」、サルトルの言葉では「非・反省的自己意識」)、考えるという働き=主観性それ自体を豊かにすることであり、経験的な意味での自我意識(「おれは太郎だ!」)とは全く異なります。
強い疎外感が生み出した一神教の下で生じた反動形式としての「自我」ではなく、思考する作用=「意識」のことです。

そもそも歴史的には、ギリシャの恋知(哲学)とは、インドの仏教(無神論)と近親性をもつ言葉=概念であり、一神教のキリスト教とは対極にある思想です。ほんらい日本には「恋知」を花咲かす土壌があるはずなのですが、欧米の脅威から身を守ろうとして明治政府(下級武士の山県有朋ら)がつくった「天皇制」というイデオロギー(擬似一神教)が、自由に思考する土壌を奪ってしまったのです。予めの真理や権威を設け、タブーをつくる社会では、「恋知」は死んでしまいます。自由に、大胆に、伸び伸びと思い・考える「恋知」を広げ実践することが、自分の生を豊かにし、人間と社会の問題を現実的に解決するための基本条件だと思います。

自分の内側から、内在的に、主観性を豊かにしつつ生きる=「善美に憧れる」生き方を基本にもつことが「恋知」の基盤であり目的です。「超越的な真理」という発想とは無縁なのです。強い一神教や特定の主義が作る思想ではなく、無理なく自分の内側に納得がやってくるような思想を育てつつ生きることです。

来年4月より『民知の会』を始めますが、今日は、民知とは?を説明する前に、その前提で核となる「恋知」のことを書きました。

武田康弘




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※驚愕※空前絶後の音楽―1968年・クレンペラー・ウィーンフィルのライブ

2005-12-10 | 趣味

巨大で無垢。
どこまでも見通せるように透明で、深い。
微動だにしない磐石の世界、
悠然としているが、見事なリズム感。
ロマン横溢する演奏だが、「ロマン主義」のかけらもない。
クレンペラーのつくる音楽は、おそろしく現実的であり、同時におそろしく形而上的。
まったく比較するものがない。
フルトヴェングラーなど彼と同時代の巨匠たちがみな小粒に見える。

このウイーンフィルとの8枚のライブCDには、心底打ちのめされた。
私の40年間の音楽人生で、これほどのアルバムを聴いた=体験したのは初めてのこと。
空前絶後の音楽を前にして、私は呆然自失。全身が痺れて総毛立つ。
とても一曲ずつの感想は書けない。
一生の宝になる人類の至宝、まったく比肩するもののない「超絶の世界」にぜひ浸ってほしい。音楽観どころか人生観まで変わってしまうのではないか?

ドイツレクイエム以外は、ステレオ録音で音質も大変よい。ほんとうにありがたい。

http://www.hmv.co.jp/news/newsdetail.asp?newsnum=506100001
(クリック)

クレンペラー賛も見てください。

武田康弘





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底なしの不幸を強要される日本を変えるためには?

2005-12-09 | 恋知(哲学)

自分の心の内側から呼びかける声に従えず、外なる価値に隷属し、強迫されて生きる日本人ほど不幸な人々はいません。

不幸が常態になっているために、不幸の自覚もないのです。「型」の強要という手法による日本的洗脳は、無自覚なまま人の心の奥底を縛ります。
自分がほんとうに望むことが何か?の自覚がなく、自動機械のように型通り生きるのです。

集団同調が当たり前になり、どこにも深い悦びの個人がいません。
既成秩序の「ドレイ人」とその反動形式としての「ワガママ人」では、人間として生き意味がありません。

目先の効果、利益、見栄えだけしか追求してこなかった日本は、底なしの「構造欠陥人間」で溢れています。内的悦びー意味充実の世界とは程遠い、儀礼とお世辞とタテマエのウソで固めた人生に幸福がくることはないでしょう。

外見だけを取り繕ったインチキ人生をやめるか?つづけるか?それは一人一人の決断です。
「靖国思想―天皇制、東大病―官僚制」という一元的な価値観(世俗の価値を神とする擬似一神教)の支配から脱することができるか否か?は、あなたのこころ次第です。

自分の得だけを考える「自己中心」と皆のためを言う「自己犠牲」という思想は、本質的には同じものです。ひとつメダルの裏表でしかありません。どちらも深い心の声を偽る不幸の意識です。どちらも他人を不快にし、どちらも自分の幸福をつくりません。協力、創造のエロースを消去して、即物的な死んだ世界を生むだけです。先がありません。

損得計算なしに、自然に深い心が望むことをし、してあげることは、自他のエロースを広げる基本です。基本がなければ何ごとも始まりません。自我主義は自他を共に不幸にするだけなのですが、形式主義で生きるわが日本人は、この簡明な原理を身体化できません。

底なしの不幸を変えるのは、人が生きる価値意識ですが、それを生み出すおおもとが「知」のありようなのです。
わたしは、恋知(哲学)を基盤とするの「民知」の実践に集中したいと思います。
そのために、来年4月「民知の会」を創設します。1987年以来の「哲学研究会」と1994年以来の「市政の会」は廃止します。その理由はまた明日書きます。

?民知宣言(9000字)7月
?民知・恋知とは?(1000字)8月
?民知ー恋知と公共哲学(11000字)10月

武田康弘

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エレーヌ・グリモーが創った「愛」の音楽

2005-12-07 | 趣味

音楽・自由自在、人間・自由自在、
感性と知性と身体性、その全てから上質の香気が漂うような魅力的な女性、エレーヌ・グリモーの創った「愛」をテーマにしたCDの紹介です。

思索的にして行動的、豊かで鋭く、アグレッシブにして上品、
美しく強い信念の持ち主=グリモーの「愛」の文書をこの下のブログで紹介しましたが、このCD冒頭は、「シューマンのピアノ協奏曲」です。激しく強い打鍵から始まり、メランコリー、瞑想、可憐、しなやか、強靭、憑かれたような想い、音楽がまるで「肉体」そのものの豊かさを持つに至っています。

グリモーの言う「熱病のようなひらめき」としての愛という見方は、シューマンの真髄を明かしました。つづくシューマンの妻クララの歌曲を歌うのは、最高のメゾ・ソプラノ歌手の一人、フォン・オッター、ブラームスのチェロ作品のチェロは、いま話題独占のトルルス・モルクですが、共にグリモーの「愛」の理念の共同の体現者として、見事に「歌って」います。最後のラプソディの独演は、深く美しい!うならざるを得ません。

完全に身体化した心-観念は、「魂」と呼ぶにふさわしい、心身の区別は消える、そんなことを感じ知ることができる素敵な音楽です。眼差し、語り、抱擁、すべてが一体となった美。

グリモーは、まだまだ「進化」しそうです。目(耳)が離せません。もし、彼女の想念にさらに深く強靭な思想が生じれば、アルゲリッチも成しえなかった「人間美」の世界に飛翔できるでしょう。

武田康弘

「ユニバーサル・クラシック」のホームページに紹介されているのを今見つけましたので、リンクしておきます。(12月8日)



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愛とは? 選ばれた限りある魂の中で無限の夢を体現させること=エレーヌ・グリモー

2005-12-04 | その他

11月23日に、「愛」をテーマにした一枚のCD(シューマンとクララとブラームス)の新譜が発売されました。企画し、演奏しているのは、エロース豊かな女性=ピアニストにして恋知者かつ野生のおおかみ保護の活動家でもある天才エレーヌ・グリモーです。

そのCDジャケット冒頭に、グリモーが書いた愛についての見事な文章が載っていますので、ご紹介します。

「愛は、絶対的な意味としては存在しないものです。それは常に あなた という存在と 私 という存在の間で、激情によって別々の存在だと明かされるふたつの魂の間で交わされる作用です。
愛するということは、この明瞭な意味において、私たちにとって最も固有な存在という掟に従って繰り広げられます。
ですから、愛は極限の苦しみの叫びでも完全な喜びの予感でもなく、熱病のようなひらめきです。それはもっとも強烈な精神的体験であり、最も深い知識の様相であり、迷宮に入り込み嵐に打ちのめされても人が最後まで持ち続けられるのかどうかが問われる魂の透明さを、経験することによって引き出してゆくことなのです。
したがって、愛するとことは、求める気持ちがもつ充足感、人と共に新たに経験する充足感に目覚めること、そして目覚めることで、選ばれた限りある魂の中で無限の夢を体現させること以外の何物でもありません。
・ ・・・・・・
リルケはその詩『鎮魂歌』の中でその掟についての秘密を明かしてくれました。

もし過ちというものがあるならば、それこそが過ちだ。
自らの中に見出すあらゆる自由の中で
愛する者の自由を増大させないことが過ちだ。
私たちは愛し合う時、そのことだけに執着すべきだ。
つまり私たちは互いにあるがままでいるということ・・・」

エレーヌ・グリモー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

抜粋の文責・武田康弘


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われわれ日本人の生は、はじめから失敗している/世俗価値を神とする疑似一神教は、人間を生かさない

2005-12-03 | 恋知(哲学)

「表層的な正しさ=外見のよさ」に縛られた本質的に受動的でしかない人生は、
はじめから失敗しているのです。
いつも自分の内側の声を聴くことができず、外なる価値と規範に合わせる人生は、必ず権威主義・序列主義に陥ります。深く自分の頭で考え、自身の存在を開拓しつつ生きることができないからです。

私の見るところ、世間的に通りのよい名前を持っている人で、このことから免れている人は、ほとんど存在しません。
己の存在の深部からの呼びかけ=実存の声に従う訓練をしなければ、たえず、「外部価値」の注射をしなければ生きられない「強迫神経症」者としての人生しか与えられないのです。

内からのエロースの泉は、外的価値や既成道徳からは生じず、意味論的人生=深層的誠実の言動からしか湧出しません。これは人間の生の原理です。

一般的な「正しさ」を求める人生は、永遠に不幸です。深い意味充実の悦びは、己の深くから呼ぶ声にどこまで愚直に従えるか?にかかっているのです。
逃げずに己の存在に向き合うことが、よき、深き、おおきいエロースの生の絶対条件です。

多くの日本人の生は、はじめから失敗している、と言えます。内的に自分自身として生きることができず、たえず外的価値に強迫され、それに従うか、裏返って過激に走るか、という不毛な二者択一を迫られる精神風土の中に閉じ込められているからです。

「天皇教」や「東大病」という言葉に象徴される一元的な価値信仰は、外的価値で生きている証拠です。洗脳を解くのはなかなかやっかいな作業です。
私は、気長にこの「世俗的価値を神とする擬似一神教」の退治に精を出すことを続けます。
豊かなエロースを生み出すために。

武田康弘




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なぜ私に分かることが「一級建築士」には分からないのか?(白樺文学館建築の体験)

2005-12-02 | 社会思想

私は、『白樺文学館』の内容のみならず、建築についても、ゼネラルマネージャーとして、コンセプトから細部仕様の決定まですべてに責任をもって取り組みましたが、その経験から言えることは、「一級建築士」たちは、おどろくほど建築に対する知見(というより愛情?)と責任感が乏しいことです。どのような意味と価値を持つ建造物なのか?という最も大事な点についての関心が薄いのです。費用と見栄えのことばかりを気にしていました。

『白樺文学館』の建築についてはたくさん報告したいことがあるのですが、今日はいま問題になっている構造強度に関する話だけに留めます。

「構造計算書」の偽造は論外ですが、
コンクリートの配合比・水分の量・かく拌・養生などの相違によって出来上がるコンクリートの強さは大きく異なり、一つ手抜きがあれば全く別物になってしまうこと、及び正常に施工させるためにはどうしたらよいか? これを提言したのは私のみでした。資料を示して新たな体制の下に建築を行ったのですが、コンクリートミキサー車の一台一台について監視するように指示し、数人の建築士たちには自らコンクリートの型枠への流し込み作業を手伝うよう要望しました。水分量の正常なコンクリートはかなりの粘性をもっているため、角や複雑な形の箇所には、巣ができてしまいがちです。奥までしっかりコンクリートが入るように一級建築士たちも総出で作業をしたのです。。

机上での計算やデザインだけではなく、実際に自分の体と感覚をフルに使って取り組まなくては、ほんとうのことは何一つ分からないのです。(「知る」とは何かについては、11月29日のブログをご覧下さい)

では、建築の素人の私に、なぜ上記のようなことが可能だったのでしようか?

それが民知の威力(笑)です。18~19歳のころ、私はオーディオに懲り、さまざまな工作をしましたが、そのときハウリング防止の為にコンクリートでレコードプレーヤーのケースをつくったのです。ところが最初の作品?は、恐らくはかく拌不足と水分が多かったために、ぶつけたら簡単にヒビが入ってしまいました。再挑戦!こんどは水分を減らし、よくかき混ぜてつくりました。コンクリートは、たたいてもぶつけてもビクともしません。見た目もまったく違います。艶やかで美しい地肌です。(余談ですが、ハウリング防止にはその後に造った砂入り箱の方が優れていました)

このような話を毎週開いた「建築会議」で次々と披露したところ、「松田平田」や「大成建設」の建築士たちは、「とても勉強になる、ほんとうに面白い」と言って、参加しなくてもよい人まで毎回参加され、会議はおおいに盛り上がり、私が主宰する「哲学研究会」の分室とまで言われるようになったのです。

大事なことは、ほんとうに「知る」ということなのです。
「受験知秀才」とは別名「表層知人間」のことでしかありません。表層知のチャンピョンの「官僚」と「金コロガシ」が威張るわが日本は、このままでは終わってしまいます。

武田康弘



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