思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

第二回  安倍首相の「反人権宣言」

2012-12-26 | 社会批評

    安倍首相の思想的ブレーンの中心者・八木秀次さん(高崎経済大学教授・憲法学)は、「人権」という概念は、裸の個人という架空の存在を前提としてヨーロッパで誕生しものであり、制約の機能を持たず、「権利」に本来的に伴う「闘争」の論理だけが残されている、として、否定すべきものと結論づけています。

  彼の著書「反「人権」宣言」(ちくま新書)から引用しましょう。199ページから202ページです。

   「人権」の概念に本来的に欠けている、歴史・伝統、宗教的な戒律、共同体の中における相互の人間関係、こういったものに今一度目を向けて、それに照らし合わせて自己の主張の妥当性を検証してみなければならない。

   私たちはこれまで「人格」なしの「人権」主張を是認し、道徳教育なき「人権」教育に邁進してきた。しかし、そのために今日、社会が荒廃し、液状化を招いたのだと気付くべきではなかろうか。  
   私たちはもう「人権」という言葉に怯える必要はない。「人権」という概念が有しているイデオロギー性を正確に理解した上で、その問題の限界を知りつつ、付き合えばよいのである。

   「人権」という言葉に惑わされることなく、それぞれの主張の妥当性を歴史や伝統に根差した知恵、我々の社会の道徳や倫理、共同体における相互の人間関係、これらを総合したものという意味での【国民の常識】に照らし合わせて個々具体的に判断すればよいのである。  
   本書がその書名を「反「人権」宣言」としたのは、そのような意味で今日の私たちが「人権」の呪縛から解放され、【国民の常識】に還るべきことを説くためである。

   特に「子どもの人権」に振り回され、学校の秩序さえ確保することのできなくなった教育現場、・・・「女性の権利」を振り回して公然と家族の解体を唱え、母性を否定するフェミニストたち、これらに対する違和感はどこからくるのか。それを確かめたいというのが執筆の動機だった。」(八木秀次)

   わたしは、こういう思想―主張を後ろ盾にして「戦後民主主義を否定する」と言う安倍首相は、アメリカのオバマ大統領との会談や国連での演説で自身の思想信条を話されたよいと思います。政治はプライベートな領域ではなく、公共領域なのですから隠してはいけません。

   なお、1948年に採択された『世界人権宣言』は、エリノア・ルーズベルトさん(控えめだが芯が強く、夫のルーズベルト大統領に助言した)による起草です。その前年には、基本的人権を確立した『日本国憲法』(骨子は、日本の7人の民間人による)が制定されていました。近代市民社会に適合した「人権思想と近代民主主義」は、世界的な普遍性をもつ原理です。

武田康弘

 

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シリーズ「安倍首相の拙劣で危険な思想」第一回・「私」と「世界」が抜け落ちているのは、致命的な欠陥。

2012-12-23 | 社会批評

  元首相で次期首相でもある安倍氏のもつ復古的イデオロギーは極めて危険なものです。彼は、哲学する(本質に向けて思考する)という営みとは対極のイデオロギー先行型の人間ですので、ある意味で典型的な日本人とも言えます。そのため、安倍氏の言動の本質的な欠陥を明晰化することは、わが日本人のよき前進に資するという大きな意味があると思います。シリーズ【安倍首相の稚拙で危険な思想】を始めます。

 まず、第一回目は、安倍首相(当時)の国会での党首討論(2007年5月16日)を批判したわたしの書簡です。

これは、金泰昌(キムテチャン)氏とわたし武田康弘との「哲学往復書簡30回」の第3書簡で、『ともに公共哲学する』(東京大学出版会刊・2008年8月初版)の90ページから94ページの部分です。

 2007年5月16日 武田康弘
    『なぜ日本では「私」が肯定されないのか?へのお応え』

観想に過ぎない受動性の哲学ではなく、当事者としての能動性の哲学を、優れた「異邦人」であるキムさんと共に行うことに、私は深いよろこびを覚えます。「裸の個人」同士としての自由対話を存分に「楽しみ」たいと思います。

まず、【「私」は、なぜ否定されなければならなかったのか。「私」を肯定すると何がまずいのか。】というキムさんのご質問に応答致します。

この問題は、31年前、わたしが日本において新しい教育の必要を痛感して、独力で「塾」を開いた理由と重なります。

自分の頭を悩ませて考えること、「私」に深い納得が来るように知ること、という意味論としての学習ではなく、パターンを身につけるだけの「事実学」が支配する日本の教育は、最も反・哲学的であり、効率だけを追う教育は、人間を昆虫化させてしまう、と当時から私は考えていました。日本においては、上位者に従い、主観性を消去すること=「私」の否定、徹底した否定が「優秀者」を生む、というわけですが、人間が人間をやめない限り、ほんとうに「私」を否定することはできませんから、必ずおぞましい自他への攻撃か自閉に陥ります。個人性を豊かに開花させる哲学が育っていないために、人間愛・関係性のよろこびを広げられない情緒オンチの形式人間が増え、それが幸福を奪います。

いま(5月16日)国会での党首討論を見ていましたが、安倍首相は、声を張り上げて、「金や物の価値だけになった現状を変えていくために、家族・地域・国を愛する態度を養うという目標を持った教育を行う必要がある。そのために『教育基本法』を制定したが、これは戦後レジームからの脱却を意味する」と述べていました。

これは、「私」(実存)からの出発という哲学原理の否定ですが、家族・地域・国を先立てるイデオロギーによって背後に隠されてしまった自我は、深いエゴイズムに陥ります。「私」の欲望をよく見つめることで「私」を活かそうとする努力のみが自我主義からの脱却を可能にするのですが、「私」を越えた概念をつくり、それに従わせるという思想は、自我の不完全燃焼を起こし、自他に有害な言動を生みます。個人の頭と心の自立・主観性の深まりと広がりを育てる教育がなければ、上意下達のエリート支配に行き着くしかありません。ついでに言えば、「家族・地域・国を」と言い、「私」と「世界」が抜け落ちているのは、致命的な欠陥です。

この底なしの不幸から脱却するためには、「私」を深く肯定できる哲学による新たな教育が必要であり、そのための思想の創造と教育の実践に一生を賭けよう!子どもたちと共によろこびの多い人生を切り開こう!大きな困難が伴うことは端(はな)から承知だが、それこそが私が生きるに値する仕事だ、そう思って、独自の「塾」を始めたのが31年前のことです。それが発展して、いまは小学1年生から大学生、さらに成人者の「白樺フィロソフイー」には76才の方までが通う『白樺教育館』になったわけです。

では、いよいよ「私」は、なぜ否定されねばならなかったのか?についてですが、
わたしは、戦国時代末期以降の「封建制社会」における「上位者へ従うことがよく生きること」という道徳、及び島国・鎖国による閉じた世界が生んだ「様式主義の型の文化」の上に、明治の富国強兵のために西洋から「客観学」として輸入された学問体系が乗ることで、「私」の私性は、その根付く場所を失ってしまったのだと考えています。
西洋の学問体系の土台といなっているのはいうまでもなく哲学ですが、思想や哲学においては、いわゆる「正解」は無く、あるのは、有用で・豊かで・魅力ある「考え方」だ、という原理が知られずに、「真理として輸入された哲学」を東京大学の権威と共に学ぶ・暗記するという「官学=権威学」に陥ってしまったのです。人々の生活世界の問題を改善し、生を豊かにするための学問(その中心は哲学)は、反転して人々を管理し、権威に従わせるための道具にまで成り下がってしまった、といわけです。ひとりひとりの主観を豊かに育む「主観性の知」としての哲学までもが「客観学」化され、現代に至っています。

もちろん、中江兆民や植木枝盛など本来の知のありように忠実な優れた先達も数多くいて、彼らは「自由民権運動」を起こしましたが、明治の超保守主義者で「天皇教」による国家運営を行った山県有朋らによって徹底的に弾圧され、なきものにされました。明治政府は、1890年代(明治半ば)以降は、「国民教化」という名で、天皇現人神(てんのうあらひとがみ)の思想を「天皇史としての日本史」と共に小学生に教え込み、同時に、古来の「神道」の内容を大きく変え、新宗教―「神道の国家化」も完成させました。その総本山が『靖国神社』(明治2年に天皇のために斃れた人を祀る『東京招魂社』として政府がつくった施設を10年後に「神社」と改称)です。この明治の近代天皇制という「集団同調主義」に対する哲学次元における明晰な批判がなされてこなかったために、第二次世界大戦後の日本もなお、哲学の原理である「私」という実存からの出発=主観性を掘り進める営みがなく、歪んだ客観学である受験知に支配されてしまうのだと考えています。

詳しく論じればきりがありませんが、結論を言えば、国家の宗教的な最高権威者に天皇を据え、かつこれを主権者にした全体主義的な体制にとって、市民がそれぞれの感じ思うところにつき、考えをつくり述べるということは、極めて都合の悪いことであるがゆえに、「主観」とは悪であるかのような想念を学校教育によって徹底させた、ということでしょう。そのために従来の「様式主義の型の文化」の上に、新たに輸入した西洋学問の大元である哲学を「客観学」化させて結合し、ほんらい主観性の知である哲学からその魂を奪った、それが意匠を変えながら生き続けている、私はそう見ています。

「私」を肯定すると何がまずいのか? についても、以上の考察でご理解頂けるのではないでしょうか。答えの決まっている勉強・学問だけがあり、ひとりひとりの主観性を豊かに育て鍛える教育がない国においては、集団同調による同一の価値観が支配してしまいます。右派左派を問わず、「私」という主観を肯定し、そこから始めることは、予め定めた方針でものごとを進めるのにマイナスになると考えるのです。「違い」があるから考えは強く大きくなり、多彩な世界が開けるのだ、という自由対話に基づく思想の広がりと、それによる物事の決定という実体験がない世界で生きれば、「違い」=異論・反論とは非生産的なものであり、秩序を壊す悪いものとしか感じらません。「私」とは排除すべきもの、和を乱すものとなってしまいます。

相手の揚げ足取りと自我拡張の論争しか知らず、対話する愉悦や生産的討論の有用さを知らなければ、人間愛―関係性を広げ深めることのよろこびとは無縁な場所で生きる他なくなります。異があるから面白い、異があるから始めて和が生じるということは、「私」という中心をしっかりもった立体の世界を生きなければ分からないはずです。赤裸々な「私」から始めなければ、全ては砂上の楼閣だ、私はキムさんと共にそう考えています。
以上がお応えですが、いかがでしょうか?

武田康弘

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倫理なき生とは、人間なきヒトでしかありません。道徳律を強要する者は、反倫理の見本です。

2012-12-18 | 恋知(哲学)

以下は、白樺MLです。

倫理とは何か?についての対話篇です。

 

武田様

美味しいお店を予約して下さり、ありがとうございました。

ほんとうにお値段は「程々」でとても美味しかったです。 (我孫子市若松の和食レストラン『程々』は、食材も料理の腕も見事で、白樺派の「民芸」思想と通底する職人気質のお店です。驚くほど廉価ですー武田)

大満足です。

写真もありがとうございます!

教室に戻ってからのお話、「『倫理』的かどうかは『心』があるか否かである」ということ、とても良く分かりました。

最近あらゆるところで『心』のなさを感じます。『心』があればもう少し方向と結果が違っていただろうと思うことがよくありますね。冤罪の裁判でも、原発やトンネルの事故でも・・・

勿論政治全体でも。

反倫理的政府で「人間」とは言えない人たちがリーダーになれば、これからますます問題が顕著化しそうで心配です。

気付いた人から、何かできるところから行動を起こさなくてはいけませんね。

頑張りましょう。

楊原

―――――――――――――――――――――――――――――――

武田先生

『愉しい哲学の会』、今年最後の日に 最高に豊かな1日を戴きました感謝しております。

倫理について!良く解りました。

「道徳」とは社会的常識により「善い悪い」を判断して生きて行くことで、外にある基準で自分を律すること。でも、大切なのは内なる心の価値。それが「倫理」で、倫理は他人が対象などでなく、私自身の心の向かい方感じ方が深く豊かであり そこに思いやりや同情の優しさに満ちた心があること、という理解ができました。

また生きていくのが楽になりました 。

グランドグレートマザー「ヒイオバアサン」で、年をとって役に立たないことが恥ずかしくなっていたのに、まだ思いやりを持って生きていくのがいいのだと~楽な心になれました 。

先生のお言葉により  二回目の生きる力を戴きました。感謝して今年の締めくくりができます。有り難うございます。

先生は来年は飛躍の年を決意しておられますがお身体に気をつけて下さいませ、素晴らしい年をお迎え下さいませ。

清水光子

――――――――――――――――――――――

楊原さま 清水さま
よいメールをありがとうございます。感謝です。

繰り返しになりますが、

「道徳律」というのは、外なる基準によって善い悪いを判断していくことですが、
「倫理性」は他人の批評(他者からの承認)ではなく、私の心のありようのことです。自他(人間とは限定されない)へと向かう愛の心であり、思いやりや慈しみや同情や優しさに満ちた心、その程度が倫理的価値の大小ですが、それは、私の内部で私が感じ知るものであり、外から測ることは出来ません。私の内部に養うもの・養われるものであり、強要することは不可能です。この愛の心が、最も深い意味での「責任」という意識を生みます。

心が苦しいとか、心が締め付けられるとか、心がしみじみするとか、心が愉悦感で満たされるとか・・・という私の内部の経験は、私が機械的存在でなく、人間であることを告げ知らせてくれますが、外的価値(損得、勝ち負け、有名・無名、権威・非権威・・・)に従う生き方は、単なる情報処理マシーンのようであり、フッサールのいう「事実人」(犬でも猿でもなく、またロボットでもなく、ヒトではある)に陥り、人間としての生を営む存在にはなれません。

倫理なき生とは、人間なきヒトでしかない、と言えます。

「道徳律」をつくり他者に命じ、教育する人ほど「倫理性」に乏しいものです。そういう輩は真の自己反省を持ちません。なにかしらの【超越項】(国家とか天皇とか国民の常識だとか・・・)を掲げて自己から逃げる卑怯者・愚か者です。そういう人が政治権力を使って学校教育に介入するのは、許し難い悪事で、反倫理の見本です。

武田

 

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「みっともない憲法」安倍・自民総裁 ---「みっともないのはお前だ」山口次郎

2012-12-16 | 社会批評
以下は、Facebookでの友人の山口次郎さん(政治学者)の発言です。わたしも全く同感です。
 
 
「みっともない憲法」安倍・自民総裁 - 朝日新聞デジタルhttp://t.co/OPqCIrTq
みっともないのはお前だ。原子力村に手玉に取られ、福島第一原発を安全だといったことについて一言の謝罪も釈明もない。人と国の品格にとって、謝罪や反省が必要なこともある。
 
わたしは、安部自民党総裁に対して、今後、ブログ「思索の日記」で徹底した批判を展開していきます。
良心ある個人として、哲学者として、教育者として、彼の言動を許すわけにはいきません。
 
 
武田康弘
 
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「集団的自衛権」とはなんだろう? 日本の防衛とは全く無関係です。

2012-12-11 | 社会批評


集団的自衛権を認めるとは、

北朝鮮や中国やロシアの脅威に対して、アメリカ軍と共同で日本の防衛を進めること、と勘違いしている方や、そのようなムードを醸す報道がされていますが、これは「ああ、勘違い」で100パーセントの間違いです。

集団的自衛権とは、アメリカ軍が日本の防衛に協力するという話ではなく(それを日本の法律でつくることは不可能です)、アメリカ軍を助けるために日本の自衛隊が協力できるようにするという話です。

日本の国土の防衛にはまったく無関係な話なのです。

これは、アメリカ政府や軍がベトナム戦争のころからずっと日本に要求し続けてきたことですが、歴代の政府(ほとんどが自民党政府でした)は、『日本国憲法』を盾にして拒否してきました。

そのかわり、ずっと日本は巨額のアメリカ軍への資金提供(思いやり予算と呼ばれています)をしてきました。いまの5カ年計画では、毎年1900億円の資金提供です(計1兆円弱)。3.11の大震災の時にアメリカは「お友達作戦」として助力してくれましたが、その総額は60億円ですので、その1500倍以上の金額です。

ところで、アメリカ軍が攻撃された時にそれを助けるという法律(もちろん『日本国憲法』に反しますが)をつくることに何のメリットがあるのでしょうか?アメリカ軍は他国で戦闘をするから攻撃を受けるわけですが、それに加勢して自衛隊も闘うというのは、ふつうに考えればデメリットばかりでメリットはありません。しかし、実は、裏があります。対米追随をするといいことがあるのは、日本の政治権力者なのです。ふつうの市民・国民に利益があるわけではありません。これを具体的に知るには、外務省情報局のトップを務め、その後は防衛大学教授であった孫崎享(まごさきうける)さんの著書(「戦後史の正体」)を見てください。すでに大ベストセラーですが、読まれると「目から鱗」でしょう。

集団的自衛権というのは、わが日本にとってメリットがない、どころか、世界から非難を浴び、予算も喰い、危険性が増す(アメリカの戦争に巻き込まれる)だけなのです。集団的自衛権は、政治権力者たちが自分の身を守るには役立ちますが(アメリカ政府の保護を受けられ、検察庁特捜部から身を守れる)、わたしたちふつうの国民には、有害で損な話しでしかないのです。

いまの憲法では、主権者はわたしたちふつうの市民です。知性・理性を働かせて、よい社会・国をつくりましょう。騙されては損です。

武田康弘

 

 

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お応えしますーーソニーRX-100です。

2012-12-09 | 趣味

「35ミリフルサイズα99の先進性とツァイスレンズの魅惑」の記事に対して、価格も大きさも一般的でなく参考にならない、手軽で優れたカメラは何か、と問われましたので、お応えします。

常時携帯可能なコンパクトカメラで、ズームレンズの利便性と画質の魅力を併せもつカメラといえば、ソニーのRX-100です。潤いと色気のあるツァイスレンズは出色ですし、撮影素子もコンデジでは一番おおきなものです(1インチセンサー搭載ですが、驚くほど小型軽量)。画質は、少し前のAPS一眼レフを上回ってるのは?

アマゾンで46800円ですが、内容からすれば安すぎると思います。造りも素材もデザインも優秀で、「コンデジの革命」といえるのではないでしょうか。初心者からベテランまでみなが満足するカメラだと思います。気楽に持てる優れたカメラをお探しの方は、ぜひ、カメラ店で試してみて下さい。

武田康弘

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いま、わが日本人は理性を失おうとしているようです。国防軍・核武装・平和憲法の改悪を唱える「狂気」

2012-12-06 | 社会批評

私は思います。アメリカ軍と一体化して戦争をしたければ、したい人だけがすればよいのです。

こどもたち・青年たち・【反戦平和】を貫こうとする理性と勇気ある人まで巻き添えにするのは許し難いことです。

国家エゴイストや中国憎しの感情にとりつかれている人は、わが日本を恐怖の社会に陥れる悪者と断ずるほかありません。「ナショナリスト」こそが強権的で恐ろしい社会を生み、ふつうの多くの人々を不幸にすることは、歴史が証明しています。

 『白樺教育館』には、以下の標語が掲げられています。

平和主義を貫き、
人権と
民主主義を守り、
広げよう!

タケセン

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35ミリフルサイズ一眼、ソニーα99の先進性とツァイスレンズの魅力

2012-12-04 | 趣味

4年前の『CAPA』(2009年1月号)は、フルサイズ一眼レフの比較特集でした。キャノンEOS5DマークⅡ、ニコンD700、ソニーα900の三機種です。実写の大きな写真が数枚づつ載っていますが、画質のよさ・美しさは、ツァイスレンズの力が大きいようでソニーが優れていました。

それを見て、その時、わたしはソニーα900を買おうと思い量販店に行きましたが、ツァイス標準ズームを付けたカメラのあまりの重さと大きさに買う気をなくしました。これでは普段使いにならず、飾りカメラになってしまいます。やはり愛用のAPSサイズに利点が多いことを確認したのでした。

あれから4年、今またこの三社のフルサイズカメラが出揃いましたので、わたしは、実物を試しにカメラ量販店に出向きました。

α99のデザインは、α55-α77と同じくペンタプリズムがない利点を生かし、しなやかで丸みのある線が美しく新鮮です。未来的とも言えますが、柔らかみがあり親しみやすいので、よい意味での庶民性もあります。これ見よがしの威張った感じがなく、自然な美しさで好印象。重さも軽量化され、APSサイズの一眼レフ・α700と変わりません。ただし、ツァイスの標準ズームは1キログラム近くもあり、これを付けると重過ぎます。

ニコンのD600は昔ながらの武骨なデザインですが、標準ズームを付けても軽くて小さく、とても持ちやすく、流石だなと思いました。キャノンは中途半端なデザインで、持った感じもいまひとつでした。

操作性ですが、ソニーだけが右手側ですべて行え、液晶モニターも可変式でどのような角度からも見られます。これは撮影の時にとても便利で、様々なアングルで撮ることが可能です(α350とα55を使って実感しています)。しかし、ニコンとキャノンは旧態の固定式でした。

ソニーのファインダーは光学式ではないので、光を見る快感がないとも言えますが、実際に写る画像(撮影素子で受け止める光のありよう)を見ることができるので、この方式(EVF)は理にかなっていると思いました。ホワイトバランスの調整機構を通して色をファインダー上で確認できますし(ファインダーを見ながら自由自在に操作できるのは面白く有用)、露出の明暗、逆光時の光のありようや絞りによるボケ具合も確かめられますので、狙い通りの写真を撮るにはペンタプリズムを使う光学式よりもEVFの方が優れているといえます。今後さらに自然な見えと動体追随性を高めてこの方式を極めるのがデジタルカメラとしての正解ではないでしょうか。

最後に一番肝心の写りのよさですが、2400万画素と画素数を欲張らずにダイナミックレンジを2倍以上(α900比)に広げた新型のα99は、ヨドバシカメラのホームページの写真を見ると階調の豊かさがあり、進歩が実感されます。別のテスターの写真を見てもゆとりのある美しさを感じますし、ソニーが不得手としていた高感度も6400までは綺麗ですので、充分でしょう。

というわけで、先月20日にα99を購入し、いろいろ試しています。
画像は美しく余裕感があります。レンズは、ツァイス24mmF2と、ソニー50mmF2.8マクロと、ツァイス135mmf1.8の三本です。やはり単焦点の切れ味と軽さ(135mm以外)は気持ちがよいです。ミノルタ時代から有名なソニーのマクロは295グラムと軽く、レンズが奥にあってフードの必要がないので軽快です。また、ツァイスの24mmの色乗りのよい上質な美しさには改めて感動しますし、135mmの品位の高さと恐ろしいほどの解像力には、これまた改めて驚かされます。

35ミリフルサイズの優れたカメラが出て、ようやくデジタル時代にふさわしい写真―カメラ環境が整いましたが、レンズは、やはり単焦点の優れたものがほしいと思います。α用のツァイスレンズはまだ3本のみです(来春に4本目でようやくプラナー50mmF1.4がでる)ので、これからソニーは責任を持って充実させてほしいと思います。ツァイスレンズの色乗りがよく品位の高い描写には抗しがたい魅力があります。やはり「写真はレンズで決まる!」です。

わたしは、フィルム時代の愛用品―コンタックス645+ツァイスレンズ7本・RTSⅠ~Ⅲ+ツァイスレンズ9本に変わるカメラ環境を望んでいますが、645のシステムは重過ぎて閉口でしたので、デジタルは35ミリ止まりにしようと思っています。

 (α99の写真は、α700+ツァイス135mmF1.8で撮影したものです。スタンドの明りと窓からの自然光)


武田康弘

 

 

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