思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

書き言葉に冷淡なのはなぜ? 活字が生きた現実の軽視を招きませんように。

2006-01-31 | メール・往復書簡

武田 様

 金先生のお話、身に染み入りました。以前、武田先生と[対話と文字(書かれたもの)]についてメールのやりとりをしたことがありました。あの時、対話を重視する必要からなのかしらと思うほど、書くことに冷淡なご意見を見て、違和感を持っていたのですが、金先生の靖国問題に関するお話はスーと身に浸みました。つまり[ 百聞は一見に如かず]、つまり「見」は文字も含むのかもしれないと思いました。でもこういうこともあります。見た目もパーとしないし、話し下手、ところが書いたものを読んではじめてそのひととなりがわかったなんてこと、あります。その人の自己表現はその人にいちばんふさわしいあり方があるのではと思うのです。見た目の好感度高く、書いたもの、話もよくできる、しかし、こういうことをする人とは思わなかったということもありますものね。五感、第六感などということ大切にしたほうがよいということをフィロソフィする必要があるのでしょう。
 ではまた USAKO
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
USAKOさま。
武田です。

私は、たしかに書くことに「冷淡」かもしれません。どうもすみません。ただし、毎日書いています(笑)。
もう少していねいに言えば、書くことで逃げを打つことは許さないぞ!(きつくて失礼)という意味での「冷淡」な姿勢です。
この社会が、日々の生きた生々しい具体的経験を軽んじ、「書かれたもの」に権威を与えていることは事実だと思います。その中で、全身で感じる力が鋭く強くても、文字的思考や表現を得意としない、または嫌う人の声は不当に低く評価されてしまいます。書き言葉を、いまの生きた現実よりも上に置くという価値意識があるとすれば、不健全だな、不幸だな~、と私は思っているわけです。書き言葉を権威化させてしまうと生の悦びを押さえてしまい、損だ。悦びを広げるように、上手に書き言葉を利用しようよ!書き言葉を現実の生を助けるよきアイテムになるように、「得」を生み出すように遇するようにしようよ。私は、そう考えているわけです。
書くことを得意とする人、または、書くことでしか自分を表現できない人を尊重しない、というのではありません。今までの社会では「書き言葉が偉い」という価値観が強いために、わざとその「危うさ」を強調している、というに過ぎません。
書き言葉の方が優れている点も多々ある、また書く作業によって思考が明晰になることも確かだと私は考えています。だからこそ皆に「書かせる」授業もし、書くことを奨励してもいるわけです。
私も「思索の日記」をはじめ、いろいろ(頼まれ原稿を含めて)書いている、毎日、メールも書いているわけです。
ただ問題は、書くことで解決したと思い込んだり、またさらに、批判的ないしは弁証法的思考の訓練をして、そういう種類の言い方ー言語使用をすれば、何事かがなし得るという信仰は困ったものだなあ~、かえって納得をつくること、合意や妥当を生み出すことを阻害してしまう。広い意味での「考える」というエロースが消されてしまい、みんなが民知や恋知のよさ=面白さを体験しつつ社会(世界)をつくっていくことにはならない、そう思うのです。
それでは「よい」ことをしようとして、かえって不幸を生みだすことになってしまう。自他のありのままの意識を掬い上げる方法は、試行錯誤で少しづつ互いの納得のもとに絶えず変容させていくもの、そうした臨機応変、当意即妙の自在の精神に支えられてはじめて「人間的なエロースの生」は可能になる。特権者はいない、、おっと、
話がズレてきましたので、このへんでお仕舞いにします。失礼。

いつもよいご指摘をありがとうございます。
------------------------------------------------------------------
武田 様
USAKO

 お忙しいのに、あれだけ書いていただいて、恐縮いたしております。自分のを読んで、舌足らずであったと気がつきました。

 文字(書かれたもの)は、「百聞は一見に如かず」でいうと、「聞」にもなるし、「見」にもなるということを言いたかったのです。文字(書かれたもの)に対する気迫溢れるお言葉(書かれたもの)はよく伝わりましたよ。なにか、私が書いて済ましていると思われているのかなと思ったり
するくらいにネ。

 人が恋をしたとします。そのことを人に話したり、書いたりしても「ゴチソウサマ」と思われるだけの場合があります。しかし、すぐれた文学作品に接したとき、その想いが自分の実感と重なって共有できることがしばしばあります。文学というジャンルには、(書かれたもの)のなかにこのような魅力をもっているものがあります。この(書かれたもの)をそのようにしてしまう力量のようなものをフィロソフィに求めることはむりなのでしょうか。こんなことを考えてしまいます。

 お返事は今後の先生の作品のなかに反映していただければうれしいかぎりです。

 お風邪など召しませんように。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

USAKOさま。
武田です。

具体的にことが進んでいるとき(成果が得られているとき)、そこでの思考―言葉の進展は、なかなか「作品」にはならないですね。恋愛も、関係がうまく進んで愉悦の時間が流れているときには、その有様は「文学作品」にはなりません。終わったあと、挫折した時にはじめて「作品」成立の可能性が出てくる。

作品ならざる作品の新しい世界を開拓する、従来とは異なる異次元の領域を拓くことができれば確かに面白いし、有益だと思います。それは図ってできることではないでしょうが、新しい知や学を生み出す実践の中で、常識を打ち破る作業の中で、もしかしたら思いもよらない文字―活字世界がつくられるかもしれません。そうなったら凄いですね。ワクワク・ドキドキ、ウルトラC、D、E、F、G・・・恋知のエロースが天上より降り来たる!!!!
分かりやすくて、面白くて、カジュアルなのに高品位、親しみいっぱいで、華があり、精緻にしてラフ、優美にして最強、、、、、

どんどん脱線していきそうですので、このへんにしておきます。

では、また。失礼。




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男女共同参画講演会ー講演・小西聖子(精神科医)さんのお知らせ

2006-01-30 | その他

今度の日曜日―2月5日、「男女共同参画講演会」が開かれます。
場所は、我孫子市民会館(市役所のとなり)
時間は、13:30~15:30。
講師は、小西聖子(精神科医)さんです。

上記の案内をブログに出してもらえませんか、というメールがカワイ・スミエさんからありましたので、喜んでお引き受けしました。カワイさんは、このブログにコメントを寄せてくれている方で、元、竹田青嗣さんの生徒さん。西研さん夫妻とも親しくされているようです。現在二児の母で、「あびこ女性会議」に所属しているとのことです。私も昨年暮に「白樺教育館」でお話をしました。

『 2月5日に男女共同参画講演会が市民会館であります。児童虐待及びDV問題を被害者支援の視点からの講演です。お忙しいとは思いますが、ぜひ、来て頂きたい!と思います。
男女共同参画というとどうしても女性がクローズアップされますが、これは男性にとってもとてもイイ!施策と思ってるのですが、それをわかってる男性は少ない…伝える方がへたくそなのだ、というのも一理あると思うのですが、人の話しを聞けない男性が多いのもまた事実。タケセンからの意見をぜひお聞きしたいですし、ブログでこの問題を扱っていただけるととても嬉しいです。』(カワイ・スミエ)

私も参加します。講演者の小西聖子さんは、だいぶ前ですが、福嶋さん(現・我孫子市長)と私の二人で出していたミニコミ誌―『緑と市民自治』(我孫子市内全域に新聞折込で配布・4万部)にご登場願った方で、とても感じのよい女性です。お時間に都合のつく方は、ぜひどうぞ。

武田康弘


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サルやイヌの属性を示す人間!?/キムテチャン氏・来館

2006-01-29 | 教育

サルに芸を仕込むように、犬を躾ける様に人間の子どもを教育すれば、サルのような、犬のような属性を示す人間しか育ちません。
芸・型・パターンを仕込むことを目的とする教育は、人間をその深部で殺します。
思い・悩み・全身で思考すること(私の教育実際を知ったキムテチャンさんはそれを「身考」・「身想」と名付けてくれました)なくしては、人間は人間になりません。
人間になるとは、自分から始まる人生を生きる存在になるということです。

その核心は、「あそび」です。特定のスポーツ競技の訓練ではなく、「あそび」は「人間力」を育てます。人間ならざる人間=機械的な紋切り人ではなく、自由な広がりと輝きもったエロース人をつくるのが「あそび」です。仕込まれた「型はまり人」ではなく、自分からはじまる不定形な世界をあそぶことができる能力―この人間に与えられた最高の能力は、技術主義的なステレオタイプの教育では、全く育ちません。消去されてしまいます。

「あそび」とは、身体と頭脳の双方-心身全体の最高の「トレーニング」であり、ほんものの教育(知育・徳育・体育)への鍵です。
「考える」ということも広義の「あそび」です。あそび心がなければ、考えることはできませんし、考えることはあそび心を広げます。厳禁の精神や技術主義な知に陥れば、人間はエロースを失い、人間としては死ぬしかありません。


金泰昌(キムテチャン)さん、来館

昨日午前10時40分にわが我孫子の「白樺教育館」を訪れた金泰昌(キムテチャン)さんは、福嶋市長と私との三者会談に引き続き、大学生・社会人の「恋知」(哲学)の授業に参加され、深い共感と大きな喜びを表されました。
一週間ほど前に、私が30年間続けている子どもたちの式根島「キャンプ・ダイビング」の様子をビデオで見られたキムさんは、「いや~、凄い!素晴らしい!これは通常の言葉では言い表せない教育であり、それを支える思想だ。身育―身考ー身想という言葉を創ってみました。」と電話で話されていましたが、昨日、授業に参加されても同様な感想を述べられていました。
大変うれしいことです。深く感謝します。
それにしても71才のキムさんは、大阪から来館され、食事も取らずに9時間休みなく(おやつをつまみながら)、話し続けたのでした!!!!

武田康弘

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官僚独裁国家では、ただの「事実人」(フッサール)しか生きられない。

2006-01-27 | 社会思想

どうして行政を中心とする不当な権力行使に対して、マスコミをはじめ多くの人は、自己規制して黙っているのでしょうか?
ふつうに見れば明らかにおかしいこと、それも個人の思想信条に関わる重大な問題への侵害に対してなぜ見て見ぬふりをするのでしょうか?
自衛隊宿舎のポストにビラを入れた反戦市民グループの人が、ただそれだけの理由で何ヶ月間も拘留された、ということが、なぜ、政治の重要問題にならないのでしょうか?
私は、そのビラの内容には賛同できませんでしたが、ビラを入れたことで何ヶ月間も警察署内に拘留されて自由を奪われるということが、民主制社会で許されることでないことは、自明の話だと思います。極めて重大な人権侵害を公務員(警察官)が白昼堂々と行い、それがまかり通る国が、民主制国家? 私にはどういうことなのか全く理解できません。
嫌がる人にまで、歌を歌うことを強要する(明治天皇に捧げられた天皇賛歌「君が代」斉唱の教育現場での強制)というのも重大な人権侵害ですが、なぜふつうの多くの人は黙っているのでしょうか?
一昨日「無罪判決」が出た幼児殺害事件でも、一つの物的証拠もないのに起訴した検察庁の役人は、議論の余地無くただのバカ(かつ冷血漢)でしかありません(私は教育者として責任をもって断言します)。憲法にはっきり規定されている原則(第38条―何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない)さえ守らない人間が司法官憲・検察官だとしたら、外国から「官僚独裁国家」と規定されても当然ですね。こんな判断しかできない人間でも司法試験に合格する、これもひどい偽装・偽造問題です。
個人の感じ方―思いー考えを最大限尊重することが民主制社会の基本原則であり、そうであるからこそ、社会には豊かなエロースが広がり、エネルギーが漲るのです。法律を行政権力に都合のよいように解釈・運用して、「思想および良心の自由」を押さえ込む国、気の弱い口下駄な人間を「殺人者」にしてしまう国、
それに対して「ノー」という意思表示を皆がしなければ、間違いなく日本はおおもとから腐ってダメになります。思想信条が管理され、統制されれば、まともな人は窒息死し、後にはただの事実としての人=事実人(フッサール)しか残りません。
「主観を消去する日本というシステム」(クリック)を見てください。
以下は、ヴォルテールの有名な格言―民主制社会の屋台骨を支える言葉です。
小学5年生の時に、この言葉を『社会のしくみ』という本の中で見つけたときの痺れるような感動を、私は53歳の今でも鮮明に記憶しています。
「私は、あなたの言うことには一言も賛成できない。しかし、あなたにはそれを言う権利がある。私はその権利を死を賭けても守るつもりだ。」


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日本は、検察と警察による独裁国家!?!?

2006-01-25 | 社会思想

新聞、テレビの報道を見る限り、「東京拘置所」は、人権侵害の問題で国連から改善勧告をうけるような状態にあると言えるでしょう。
鈴木宗男氏の証言を見るにつけても、容疑者を裁判を受ける前に「犯罪人」と決めつけ、外も見えない(小さな曇りガラスの窓)非人間的な環境に閉じ込めるという「東京拘置所」の実態を知ると、わが日本という国は、「野蛮な後進国」にすぎないとつくづく思います。
経済だけを追求し、人権という民主制社会の基本前提について本気では考えない非道で非人間的な国家、それがわが日本という国なのですね。
法務省のお役人さん・検察庁のお役人さん・警察庁のお役人さんには猛省を促したいと思います。
下の再録ブログにもあるように、私は、ホリエモンの生き方ー思想には根本的に反対ですが、人権を蹂躙する人間とその組織は、明らかにホリエモン以下だと確信します。
東大法学部卒の官僚が支配する「愚か者」国家から早いところ脱却したいものです。
(「日本社会を本気でよくしていきたいと思っている人にとって、ウォルフレンの「日本権力構造の謎」クリックは今なお必読の名著です。)

武田康弘


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太ったベジーター「ホリエモン」再録

2006-01-24 | 社会思想

以下は、昨年の3月7日のブログのコピーです。

2005/03/07のBlog
同じ穴の狢―ホリエモンと旧・経営者―べジータが偉い!?



「何のため」はないーただイチバン強いことを求める、というのが『ドラゴンボールZ』のべジータでした。

一番金持ちになること、一番大きな会社になること、自分または一族が覇権を維持すること。それが目的!?!? ニーチェが描いた超人・ツァラトゥストラの「ライオン」段階(両者ともかなりみすぼらしいライオンですが)に留まる人たちの「学芸会」にはエロースが乏しいですね。

「真実はなくても、金さえあれば皆がついてくる」というのが、彼らの本音のようです。

「点数」それ自体、「貨幣」それ自体、「権力」それ自体、「腕力」それ自体、「性交」それ目体が目的!? 目的ならざる目的の世界。理念やロマンのない人間が幅を利かせる世の中には「ニヒリズム」しか与えられませんね。

「点数」も「貨幣」も「権力」も「腕力」も「性交」も、豊かな理念やロマンの世界に支えられた日常を《地》として持っていないと意味を失います。人間を幸福にしません。これは原理です。

何よりも人間に必要なのは、真・善・美に憧れるロマンの心です。美しいこと(人)・よいこと(人)・真実なこと(人)に憧れ、それを求める心です(哲学???を見て下さい)。

ソクラテスが二千数百年前に看破した人間の生きる意味と価値=善美のイデアという幻想価値だけがあらゆる人間の営みを支えるという「実存の原理」が忘れられ、貨幣いう幻想価値が、善美という幻想価値を上回ると、人間―社会は死んでしまいます。

ベジータではなく、悟空がいいですね。そう、あの超人・ツァラトゥストラは、「駱駝(らくだ)」から「ライオン」、そして「子ども」へと進化したのでした。


リヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラ』(小澤征嗣・ボストンso)を聞きながら。


2005/03/07 武田康弘



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イギリスからのコメントー「主観を消去する日本というシステム」

2006-01-23 | メール・往復書簡

1月11日のブログー「主観を消去する日本というシステム」クリック)を読まれた森下さん(イギリス・ロンドンの大学院で社会学を学んでいる方)からコメントがありましたので、以下に貼り付けます。


1月17日森下

日本では学術論文を書くとき「私は」(I)という主語を使ってはいけないと指導されました。学術論文は客観的なものでなければならないという観点からです。

欧米でももちろん「客観的な真実」という伝統は残っていると思います。でも、社会学の分野に限っていえば、その伝統は既に大きく崩れています。おそらくポストモダンとか(その言葉自体はあまりすきではありませんが)そんなことが影響しているのでしょうが、逆に「私」を前面に出して書くことが奨励されます。学術論文であっても、論文を書いている「私」の存在を無視することは出来ないし、それを前面に面と向かって読者に暴露した方が、下手に隠すよりは親切だし、自分のやっていることへの責任感のあらわれにもなるということです。

博士課程をこちらで始めた当初、ボクも「私」を極力さけながら論文を書いていました。でも、ある時それを指導教官に指摘されました。「自分が論点を引っ張って行くんだし、自分が利用する理論や文献を選択するわけだし、それはきちんと書いておいた方がいいのです」と言われ、なるほどと思いました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1月20日武田

ロンドンからの貴重な生証言!、どうもありがとうございます。
たいへん参考なり、感謝しています。
これからもこのような話をぜひお聞かせ下さい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「主観」を消去する詐術、それが「人間を幸福にしないシステム」をつくっている深因だと思います。
よろしければ再読してみて下さい。クリック


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なぜ民知」の運動をするの?30年前の覚醒。

2006-01-20 | 私の信条

(以下は、私からUSAKOさんへの返信メールより、その一部です。)

自分自身の日々の経験と照らし合わせて、なるほど、と深く納得できるように知るのが、ほんらいの勉強でしょう。
私は、そのようにして知ったことの集合を「知」という名詞形で語っているわけです。
それは、今さら言うまでもなく当たり前のやりかたであり、その結果として知ったことやその方法をわざわざ「ほんらいの知」=「民知」だ、と言うこともないのかもしれません。
ところが、学校で、あるいは進学塾で、勉強がよく分からなくなってしまった子に、その子が納得できるように教えようとすると、数字や文字の世界と具体的な経験世界の結びつきが著しく弱いことに気づかされます。
記号化された世界がそれ自身「自立」してしまっているのです。
実は、このことは、どうやら文字や数字等の記号操作を得意とする人間にも共通する問題(私自身を含めて)であり、しかもより深く、当の本人が自覚出来ぬまでに身体化してしまっている、とある時子どもたちによって気付かされたのです。
だから、事象や物事の知り方やそこで得られた知そのものを問題にしなければいけない、と思った私は、自己改造をはじめたわけです。30年近くやってきてようやく少し自信がもてるようになったので(遅くてどうもすみません)、打って出ようか!というわけです。
したがって、そのような問題をはじめからクリアーしている人にとっては、意味のない運動ということになりますが、、、。

「知る」とは?=土門拳の言葉をヒントに
を見てください。(クリック)


武田康弘




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主観性の学を始めよう! 客観学と主観学

2006-01-18 | 恋知(哲学)

「民知」対「制度知」という対比に対して、もう一つ、別の対比が「主観学」と「客観学」です。
読み書き計算や幾何とその延長線上にある勉強・学問は「客観学」で、これは知の基礎です。
「主観学」はその基盤の上にあるもので、解釈、批評、総合判断、創意、コンセプトづくり・・・・・などの知のことです。知の基礎に対して知の目的とも言えるのが「主観学」ですが、これには「正解」や客観的な「答え」はありません。優劣の基準は、それが扱う対象に関心をもつ人々にどれだけ深い納得や共感を与えることができるか?です。「魅力価値」が基準だと言ってもよいでしょう。

日本社会では、小学校から大学院まで、著しく「客観学」に偏り、「主観学」が育っていません。というよりも、「主観性の学」」が知や学として自覚されていないというのが現状です。あらかじめ「正解」が決まっている「客観学」だけを学知だとしています。

「民知」は客観学、主観学の双方を含むものですが、われわれが立ち上げる成人者の「民知の会」は、そうした現状を踏まえて、「主観学(知)」を主に追求することになるでしょう。

武田康弘



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最悪の独我論とは「客観的真理」を信奉する主観から生じます。

2006-01-12 | 恋知(哲学)

以下は、公共哲学MLに出したメールですが、昨日の話(この下のブログのつづきです)


私は、自分の主観をあっけらかんと話すことのできない精神風土、客観神話に囚われ、「正解」への強迫観念の下で根源的な不幸の生を営む私たち日本人の問題を主題にしてきました。それは、政治的な左右というレベルの話をはるかに超えている問題です。

その解決には、従来の客観学の深化・拡大では到底不可能で、新たな主観性の学が必要だ、と考えています。それが従来の「哲学という学」の枠組みをおおきく越えて、広くふつうの人々の生活世界の中から昇り来る声(黙せるコギトー)に答える民知(その核になる自覚性の強い知的営みが恋知)だ、というのが武田の思想です。しかもそれを誰か(知的エリート?)が代弁するのではなく、誰でもが実践するーできるものにしていこう!という知の運動―私が30年間細々としかし圧倒的な自信をもって(笑)遂行してきた当のもの、それを「民知」と名づけた(命名は数年前にすぎませんが)というわけです。

客観主義と主観主義という双方の不毛性を越えていくためには、わざと徹底して主観に就きそれを掘り進める営みが必要で、独我論からの脱却には、それ以外の方法はないという見切り(それは認識論の原理です)があるのです。ついでに言えば、独我論が困った問題なのは、それが客観的な不正解!?だからではなく、生の悦びが減じてしまうからです。

最悪の独我論とは、「客観的真理」を信じる主観だ、というのが私の見方です。どのような思想も原理上「主観」にすぎない、という深い自覚が普遍的な納得をつくるための「はじめの一歩」であり、この原理を手放さずに思索を重ねることが必須だ、そう考えています。

はっきりと堂々と「主観」(主観しかないのですから)を主張し合う面白さは、体験的にしか学べません。権威によって強要される客観学という神話に縛られていては何事も始まらないのです。絶対者―特権者がいないのが民主制社会です。民知(恋知)は、民主制を支え・つくり、民主制は民知(恋知)を保証するというわけです。

「宗教」や「学の権威」を超えた世界的な普遍性を生み出す営みを私たちの生きる場―日本から始められたら素敵だと思います。

2006年1月12日 武田康弘





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主観を消去する日本というシステム 武田康弘

2006-01-11 | 恋知(哲学)

封建制の武家社会と符号した「型の文化」は、明治に輸入された近代ヨーロッパ出自の「客観学」と織り合わされて日本的な様式主義・権威主義・序列主義を生みました。

山県有朋らが明治半ば(1880年代後半)に固めた天皇神格化による政治は、主観の対立が起こる前に主観そのものを消去する様式道徳を植えつけることによって可能になったのです。

近代天皇制とそれを支える東大法学部卒の官僚支配の社会は、型の文化と客観学の融合がつくり出した「個人を幸福にしない世界に冠たる!システム」だと言えるでしょう。

豊かな「主観性」を鍛え育てる古代ギリシャ出自の恋知(哲学)や古代インド出自の討論は無視され、「主観性」とは悪であるかのような想念が広まったのです。曰く「君の意見は主観に過ぎない!」(笑止ですー主観でない意見とは意見ではありませんから)。

したがって日本の勉強や学問とは、パターンを身につけ、権威者(出題者)に従い、人の言ったことを整理して覚えることでしかありません。決められている「正解」!?に早く到達する技術を磨くこと、エロースのない苦行に耐えることが勉強だ、というわけです。
 
これで主観性―主体性が育ったら奇跡です。自分の意見を言ってはならない、これはわが国の基本道徳です。主観とは悪だ、という恐ろしい国で自説を主張する人は、数えられるくらいしかいません。日々の具体的経験から自分(主観)の考えをつくり、情報知や東西の古典に寄りかからないで話すことのできる学者が日本に何人いるでしょうか?

自分から始まる考えと生=主観性のエロースを育成することが抑圧され、集団同調の圧力が日本ほどひどい国は、一部の独裁国家を除いてはありません。個人の思いは「考え」として表出されること自体が「悪」とみなされるのです。和を乱すな!です。

客観学に支配され、まっとうな「知」-(官知ではなく民知)が育つ土壌がないのですから、型はまりの紋切り人、先輩の言を守るイエスマン、古典を引用するだけの暗記マンしか出ないのは当然です。

このように同じ土俵で右派と左派が対立しているだけという不毛性から脱却するための基本条件は、「客観」とは背理であることの明晰な自覚に基づいて、主観を鍛え、深め豊かにしていくことです。皆が納得する普遍了解的な言説は、魅力的な主観からしか生まれないはずです。のびのびと楽しく「主観性」を表出することができる環境をつくること、それが日本社会をよく変えていくための第一条件なのです。エロース豊かな魅力ある個人の育成なくしては何事も始まりませんから。


おぞましい主観主義やヒステリィクな自己絶対化は、「自由の行き過ぎ」が原因ではなく、あらかじめの「正解」を強要する客観主義の想念に個人を閉じ込めておいた上で自分の意見?を求めるという矛盾した要求―虐めのような主観消去の詐術が生み出すものです。

個人の輝きを発揮させずに元から消してしまう「人間を幸福にしない日本というシステム」(ウォルフレン)は、主観をその深部で殺す仕掛けによってつくられています。その中で弱い一人のわたしが入手できるのは、ただの「わがまま」だけということになります。

客観神話が支配する精神風土の中では、「わがまま」(自己絶対化)の領域拡張に精を出す以外に個人の生きる術がありません。制度によって自己実現が保証された一部の「エリート」を除いては。

「わたし」(主観)の感じ方、心、思い、考えが尊重されずに、制度知の示す「正解」・権威的な人や組織が与える「正解」を日々暗黙のうちに強要される環境のもとでは、ひとつメダルの裏表=「主観主義」(自己絶対化)と「客観主義」(官知・制度知・権威知)が交互に提示されるだけという不幸で愚かな不毛性の世界からの脱却は困難です。

客観神話=あらかじめの「正解」に呪縛された社会の中では、はっきりと堂々と「主観」を述べる個人が出ないのは当然の話です。主観が主観として存在しないことーそれが日本社会の最大の問題なのです。いま一番必要なのは、上下意識やありもしない「正解」(客観)に脅迫される観念を払拭する思想的、実際的努力です。恐ろしいことに、私たちの社会では、主観は主観になる前に消去されているのですから。

(2006年1月10日) 


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目次ー7 その他(番号をクリック)

2006-01-10 | 目次(番号をクリック)
目次7(番号をクリック)

その他

 1.2005年 迎春
 2.推薦ー感謝です。
 3.「哲学」へのトラックバック
 4.ありがとう!バイオフィリアの心 (トラックバック)
 5.トラックバック批判ー他者の意見と自分の意見の区別をつけること
 6.ブログ「思索の日記」の特質―白樺教育館ホームページの出窓
 7. 「りこうの壁」3月13日―武田康弘・講演会のお知らせ
8. 「チャンコロの首を切るとどんな音がするかわかるか?」元・特攻隊員の話
9. 「変身」した梅原猛さんにエールを贈るー靖国と愛国教育について
10. 「公共哲学」編者ー金泰昌さん来訪・会談ー『実存として生きるー民知の理念』
11. 「青年将校」小泉首相、「寝返り常習」小池百合子-政権交代を!
12.未来のための過去ー白樺派・創造の地ー我孫子
13. 「東大病」についての説明です。誤解なきように
14.私の原点ー小学生の「政治クラブ」と胃潰瘍
20.私の一番好きな相撲取りは、朝青龍。6連覇!実にうれしいです。
21.中2の西くんのブログー「大日本帝国憲法」-まっすぐな心と頭です
22.哲学とタケセンのこと (塾で哲学をマイペース♪で学んでいますー楽しいですよ)
23.ちょうど一年・4万件感謝です。民知の運動をぜひ共に!
24.愛とは? 選ばれた限りある魂の中で無限の夢を体現させること=エレーヌ・グリモー
25.大晦日のご挨拶ー愚直は人間の条件
26.民知は希望!「学者の頭の中から外に出ることのなかった日本の哲学とは違って、、」
27.男女共同参画講演会ー講演・小西聖子(精神科医)さんのお知らせ
28.写真で見る-5.14民知の会・シンポジューム
29.「友人たちの学校」での対話的思考ーキムさんとの対話
30.あだ花―亀田現象、現代日本の象徴=マナーのない下品な若者が英雄!?
31.いま式根島から帰りました!
32. 「パウル・クルー創造の物語」展ー川村記念美術館
33.9月9日ーソクラテス的対話の実践ー「哲学するふつうの市民」と「山脇教授」 in 白樺教育館
34.山脇論文に対する荒井さんの反論文ー昨日9.9の討論会資料 ]
35.10月8日―『靖国神社「解放」論』を巡っての討論会―民知の討論会を広げよう!
36.私は日本を応援しません=バレーボール世界大会
39.12月9日(土)山脇直司VS武田康弘・討論会―速報
40.父の親友・植木等の死に想う。「愚禿」親鸞







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主観、客観論争ー第2弾です。今本(哲学者)・武田(恋知者・教育者)・平野(ホリスティック教育)

2006-01-09 | メール・往復書簡

この下のブログの続きです。
(公共哲学ML内でのメール対話)


武田 様
今本秀爾@哲学者です。
以下、現象学的意味論を前提として書かれていることを承知のうえで、若干コメントさせていただきます。

「 論説文を、「部分」に拘らずに「全体」の意味を「文脈」に沿って読み取ること。
算数―数や図形の問題を、身の回りの物や出来事と結びつけて、意味として捉えること。」(武田)

以上は拙著でカントを引用し、「分析的判断」に対する「総合的判断」能力と対応させてみたものです。
日本の国家官僚やエリート学者は「分析的判断」は優秀ですが、「総合的判断」は大の苦手のようです。

「概念にすぎないものを、体験=直観として、目に見えるように、手に触れるようにつかもうと努力すること。」(武田)

まさに「直観なき概念は空虚」ということですね。

「こういうほんらいの知の基本を自覚的に追求するー愚直に手間ひまをかけてやる。何事も心身の全体でつかむ練習をする。それが民知(ほんらいの知)の実践で、何より必要とされるものだと思っています。」(武田)

ホリスティック教育(あるいは全人教育)という分野があり、一部で流行しているようですが、それとの関連性はどうなのでしょうか?
また最近「体験学習」という言葉もよく耳にしますが、それと「民知」の相違点があればお聞かせください。

「思考―言論の訓練といえば、欧米に倣って「ディベート」と言いますが、それは古代ギリシャでソフィストたちが実践し、教えていたもの。そうではなく、思考―言論を鍛えるのは、何がほんとうなのか?善美なのか?を目がけて行う「ディアレクティケー」(問答法=対話法)であり、そのことは、アメリカでもマシュー・リップマンが実践(「6歳からのソクラテス教室」)しています。」(武田)

以上も拙論に引用した、重要な指摘です。
ハウツー本が書店の新刊コーナーに氾濫する昨今、「How?」ではなく「What?」への問いが忘れられつつあります。
自然ー社会科学的思考はHow を問うだけで満足しますが、哲学的(形而上学的)思考では What の問いこそが基本です。
××評論家にせよ、御用学者にせよ、昨今の論壇はソフィストたちばかりなのでしょう。

ちなみに私は大学学部時代より、ヤスパースという哲学者の書いた書物の現代的意義を究めようとしてきた者ですが、教育論の文脈において、こうしたディアレクティケーによる「ソクラテス的教育」という方法論を最初に提唱したのは彼であったように聞いています。(『教育の哲学的省察』以文社、1983年)

―――――――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

はじめに、
私の立場についてちょっと説明します。
若いころ私は、サルトルやメルロ・ポンティーの訳者で哲学者の竹内芳郎氏に師事していました(一番弟子といってもよいでしょう)。
しかし、私ははじめから研究者になる意思はなく、思索の実践者として生きてきました。
大学という閉じたフィールドで思索する?とは、私にとっては無意味なことです。
音楽を比喩とすれば、私は作曲家であり、音楽学者や批評家ではないのです。
したがって、考えることは、実践的な課題・問題(思考対象や内容がどんなに抽象度の高いものであれ)についてであり、しかもそれは、いつも実践・行動と織り合わされています。

ご質問にお答えしますが、
民知とは、生活の中の具体的経験に照らして、意味としてつかむ知のことです。
ホリスティック教育については、その実態を私は知りません(京都の平野さんが取り組まれているとのことです)。
体験は、学習の原理的な基盤であり、ほんらい全ての学習は体験に基づかなければならないはずです。

「ディアレクティケーによる『ソクラテス的教育』という方法論を最初に提唱したのはヤスパース」、ということは知りませんでした。

また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています。
また、ゆっくり語ります。

では、今晩はこのへんで。
―――――――――――――――――――――――――――――

武田さん、今本さん、みなさん 平野慶次@京都です。

 ホリステッィク教育の日本での普及の推進者の一人ですが、全人教育というと少し
誤解があると思っています。

 武田さんの言う「民知」もいわば、知の全体性に及ぶと感じているのですが、全人
教育と言うのは、歴史的な経緯で特殊なカテゴリーを形成してきたと思っています。


 本来の全人教育と言う言葉から発すれば、正にホリスティック教育だと思いますが、
教育哲学の歴史から言えば違うと言わざるを得ません。

 未だ出版されていない本ですが、「モンテッソーリ教育小辞典」が学苑社から出る
予定ですが、その中に項目執筆させて戴いたのが、ホリスティック教育でした。ご要
望があれば、DMで送らせて戴きます。

 明日は、フィロソフィア京都で盛り上がる予定ですので、あさってには送ることが
できると思っています。

> また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界
> を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で
> 普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています
> 。

 この点は、全く同感です。本当にまずいと思います。「客観性」というレトリック
を信じることはできないです。あるのはただ主観ないし、想像し得る主観だと思って
います。
―――――――――――――――――――――――――――――
武田さん、平野さん、皆様
 
今本秀爾@哲学者(としての立場で語っている)です。

> > また、私は「客観的真理」という言い方はまずいと考えていますが、それは現実の世界
> > を変えていくための思想上の核心点だからです。これは実におおきな問題で、この点で
> > 普遍的な了解性をうまくつくり出せれば、思想の世界は一変するはずだと考えています
> > 。
> > また、ゆっくり語ります。
>
> この点は、全く同感です。本当にまずいと思います。「客観性」というレトリック
> を信じることはできないです。あるのはただ主観ないし、想像し得る主観だと思って
> います。
 
恐らく武田さんの言われる文脈とさほどズレてはいないと思うわけですが、以上は単なる
「主観的真理」を「客観的真理」と偽って主張し、相手に強要しようとする「主観性の暴力」という文脈においてあてはまる批判に相当するだろう、ということです。(=独裁者やカルト教祖などの常套手段)しかもそれらが単なる「主観的真理」にすぎないことを暴くのは、「批判的-客観的」思考です。

一方で、「客観性」という言葉の使用法の歴史としては、吟味も承認もなく「客観的真理」を最初から公然と主張する思想は真の客観的真理ではない、「疑似客観性」である、という言い方が正論だろうということです。
この点では、哲学も諸科学も「客観性」(=検証や実証、承認を経たものという意味)という価値を歴史的に重視(尊重)してきましたから、この概念自体がレトリックではありませんし、ネガティブな印象を持たせるのはよくないでしょう。
たとえば世界平和という普遍的目標においては、普遍的なルールとなりうる国際法や条約、ないしはその理念が「客観性(普遍妥当性)」にあたります。いわば客観性に到達することは私たちの目標であり、それを成立させるための基礎条件だからです。

また個人の発話レベルでも、思うに任せた「主観的な発言」と他者を意識した「客観的な発言」とは区別可能でしょう。「客観性」とはこの場合、極力自分の主観を相対化し、最大公約数的な真理を求めて述べようとした発言内容ないしはその発言姿勢をさすわけです。これは発言内容が中立的観点を踏まえた自己批判を経たものであるかどうかで区別されます。

たとえば私たちの会話のやりとりが今ぎくしゃくせずに成立していますが、これは互いの話者が「主観性」の領域にとどまらず、自分の主観的信念をいったん括弧でくくり、そこから距離をおいた「客観的志向」に則ってできるだけ中立的に語ろうとする努力(志向)していることの成果だといえます。
これと正反対な態度が、自分自身の思想(思考)をひたすら正当化し、相手にただ共感や同意だけを強要し、いかなる批判や異論をも受け付けようとしない「主観性の暴力」に則った態度です。これが昂じると、他人の人格に対する誹謗中傷や感情論、やがては紛争や戦争にまで発展していくということになります。

そこで現実の世界を変えていくための思想上の核心は、ただの主観ないしは主観性の延長ではなく、(「客観的真理」と区別された)「客観的思考(志向)」ないしは「客観性」という最大公約数的な普遍的・客観的基準を実現できるよう、模索し努力していくという英知であると私は考えます。

これは「主観性(モノローグ的語り)の暴力=イデオロギー」に対する本来の哲学的-対話的思考を意味します。
ディアレクティケーが成立するためには、その話者が自分の思想や発言に対する自己批判・自己省察の仕方、すなわち基礎的な論理学や論理的思考を習得できており、相手の批判を受け入れるキャパシティを備えていることが不可欠の条件となるからです。ソクラテスに「そうすると君の考えは成り立たなくなるね」と言われて、むきになったりカッとなってしまえば、そこでディアレクティケーは成立せず破綻します。
互いがどこまで「理詰め」の思考に耐えられるかが、ディアレクティケー成立の条件です。

伝統的に「理屈」を軽蔑してきた私たち日本人は、相手の感情から意見の中身を「客観的に」汲み取る作業が大の苦手ですが、その結果、主観の数だけ真理があるという価値相対主義が容易に成立し、どんな小さな組織やグループの中においても小競り合いや相手の人格中傷を起こし、大きな目標をことごとく見失い、自暴自棄を繰り返してきたのが、日本の(とくに戦後の)市民運動の歴史といえるのではないか、とも私は分析しています。

繰り返しますが、日本社会を改善するうえでの最大のテーマは、伝統的な「主観的相対主義」をいかに克服するか、すべての個人が「合理性」や「客観性」をいかに尊重し、フェアで公正な観点をいかに想像=創造していこうと努力できるか、偏にそのことに掛かっているとみています。
こうした物事の合理性や客観性を尊重する教育はこれまで日本の社会ではまったくなされてきませんでした。
その結果、実際には主観性のかたまりとなったリバタリアン的自由主義観の謳歌と、モラル・ハザード、公衆倫理の喪失、公共性の崩壊・・・・という「主観的相対主義」さながらの世界が闊歩しています。

現実を変えるための社会の改革、民主主義や平和の実現においては、少なくともその主役となるであろう担い手の人々の間には、「理屈」を尊重しようとする姿勢こそが重要=ただしそれが無内容な「ヘ理屈」であってはいけない、という但し書きで=ないしはキーワードだと私は考えており、その正当性は昨今の社会の病理現象をみるにつけ、ますます実証されているという確信すら拭えないものがあります。
そこで、私は最低限、公共の場では自らあえてソクラテス的に発言する・・・・つまり、自分の主観的見解を極力おし殺して、相手との「理詰めの対話」を最優先し、徹底して追求するという営みをあえて実践しているわけです。
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm

以上、長くなりましたがこのへんで

――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

私は宗教者ではなく、世俗主義者でもなく、科学主義者でもなく、哲学の学者でもなく、いつも『恋知者』として語っています。

恋知の基本は、己の主観性のありようを深く知り、それを吟味することを通して共通の水脈を見出す努力。論理的に不成立の「客観」という概念を持ち出すと、最も大切な普遍性のある共通了解を生み出す可能性がなくなってしまう。

そう考え・言った方が、差異の尊重に依拠した「活私開公」の公共世界をつくるにはよいのではないでしょうか? 啓蒙や独白や演説ではなく、対話的思考を育成するためには、自他の主観を深めて自由で豊かなものにする努力が必要。

私の主観は「客観」に近い!?というような妄想=客観的真理を信じる主観が最も危険です。どのような考えも「主観」であることを明晰に自覚することが、ディアレクティケー成立の第一条件。そう考えないと議論・対話は生産的にはなりません。

何よりも求められるのは、主観をしっかりと主観にしていく努力。主観を鍛えたら客観になるではなく、エロース豊かな主観になる、そう考えた方が「得」と「徳」が得られるのではないですか?

今本さんの言わんとすることは分かりますし、賛同しますが、あなたの思いを成就させるためには、スタンスを変える、メタバシスさせることが必要だと思います。

よい議論ができて感謝です。



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主観と客観、哲学、教育、民知、、、メールでの思想対話公開ー今本・武田・山脇

2006-01-07 | メール・往復書簡

以下は、昨日まで1月3日から6日にかけて行われた「公共哲学ML」内での思想的なやりとりです。(表記の3名以外は匿名に変えました)。
このブログにも繰り返し出している私・武田の主張=「客観」とは背理であり、「主観性」を深め豊かにするほんらいの「哲学」=「恋知」の営みを核とした「民知」をひろめよう!ーに対しての今本さんの批判から始まった思想対話の全文です。


武田康弘様、皆様へ

MLに参加しております、今本秀爾と申します。

私は元来哲学者ですが、昨日の武田さんの主張とはまったく反対に、
今日ほど客観性が喪失し、主観性ばかりが横行している社会はない、
(その結果あらゆる地球規模での弊害が発生している)、したがって
客観的真理の回復こそが、今日私たちがもっとも努力すべき最大かつ
最重要目標である、という見解に与するものです。
(同様の趣旨で、数年前一冊本を書き下ろしたことがあります)
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm

参考までに、以前書き下ろした短い概要文を載せます。

客観性喪失の時代

今本 秀爾(哲学者、社会評論家)

21世紀を迎えた今日の世界ほど、これほど「客観性」が軽視され、喪失している時代はない。個人のレベルでは、個人は己の主観的真理ばかりを追求するあまり、他者の主観性はいっさい度外視されて互いの主観に共有化される最大公約数=公共的真理や利益はますます形骸化される。

それぞれ個々の組織も己の利益だけをますます追求し、己の都合にだけあわせた主観的論理を正当化し、己の行動原理ないしはルールとしてすべてに適用させようとし、自分以外の環境すなわち外部環境=「他者性」を無視して我が物顔に振舞う。このような主観性が国家・政府レベルにまで発展する結果、戦争も暴力もまた激化する。

哲学史上では自然科学の発展と中世の教会・宗教的権威からの解法と同時に「近代主観性」ということがテーマになり、主観性の解放(呪縛からの解放)ということが共通のモチーフとなってきた。その後「形而上学」が崩壊した20世紀以降、現代に至っては再びポスト構造主義以降の思想的流れが、形而上学批判とあいまって、あらたな主観性のモチーフを強調し、個人史的体験やポジティブに賞賛しているかのように見える。

だがしかし、この結果、見忘れられてしまい喪失してしまったのは「客観的真理」であり、より普遍的・全体的・公共的な真理を追求しようという、古来からの人類普遍の共通意志(一般意志)である。
ヘーゲルの唱える「客観的精神」、ホルクハイマーのいう「客観的真理」、ポパーのいう「客観性」といった普遍的価値は近代資本主義の高度化と高度産業化によってますます失われ、自らの利益や私欲の成就だけを目的とする技術的・道具的理性による主観的真理の追求ばかりが謳歌するようになった。

この主観的真理は、ときにはあたかも自らが普遍的・客観的真理であるかのように理論武装することにより、他者を排除し、他のあらゆる真理を否定ないしは破壊し、傷つけても当然のごとく横暴に振舞い、かつ自己弁護する。

しかしそれが単なる詭弁であるにすぎないことを看破できるのは、個人によって多様でばらばらな主観的思考や判断力ではなく、最大多数の利益にかなうルールをよしとする論理の客観的思考であり、客観的判断力である。
主観同士の「神々の争い」であるあらゆる戦争や暴力を調停し、仲裁するのも国際法上のルールや法廷の前提を形成する客観的思考であり、公正な裁きや解決手段をもたらす中立的・客観的価値観である。
それがあらゆる教育の場において、また人生のさまざまな労働や学びの場においてますます形骸化され、喪失しているのである。

この主観的真理の横暴は、国家権力や大規模な組織の権力側のみならず、対抗権力となる草の根的な市民運動の担い手側の思考や行動原理にも深く浸透している。つまり熟慮せず、客観的・論理的な思考を尊重せず、権力を敵視し、主観的感情や思いつきのままに行動するという致命的な過ちを犯すことにより、自らが「主観的権力」として自分たちの外部である「他者」を知らず知らずのうちに傷つけ、あるいは無視していることに盲目になるという「主観性の横暴」である。このような主観性は、己自身の立場のみをよしとし、己自身の立場にのみ共感し、もしくは共鳴を寄せる勢力とだけ結びつき、行動を共有化しようとするイデオロギーそのものであり、一種のカルト主義に走りやすくなる。このような主観性のイデオロギーから脱するには、あらゆる個人が客観的思考を学習し、あらゆる事象や考え方を、つねに客観的態度で受け入れるという誠実な姿勢が不可欠である。この個人や組織の客観的態度が成熟した社会ほど、民主主義や多様性、非暴力・平和や公正な社会が実現しやすくなるのは、当然の帰結である。

なぜならば民主主義や平和とは、単なる個人の主観性を超えたメタレベルの公共的価値であり、自分と相容れない異質の多様な価値観といかに共存・共生できるかという課題を解決する方法論だからである。そのためには客観的・普遍的な共通のルールや真理を遵守すべし、という客観的真理基準を立てることが前提条件である。この条件が崩れ、互いの主観性がむき出しになるか、カオス的な放任状態になるや否や、一方の価値観の強制的押しつけや詭弁による説き伏せ、果てには暴力や戦争といった事態が日常横行するようになる。主観性の横暴の結果、力のある者となき者との格差が露骨かつ無秩序的に出され、貧困や飢餓といった不自由な生存状態があらゆる場面で現出しているのが今日の世界の姿である。

日常的な客観的思考の訓練、客観的真理への志向性、客観的真理基準の設定と遵守、これらが今日のボーダレス化した国際社会に生きる私たち現代人ひとりひとりにとって、最大かつ最重要な緊急要件であることは最早疑いようがない。

****************************************
持続可能な社会のための政策ネットワーク
「エコロ・ジャパン」代表 
今本 秀爾 Imamoto Shuji
imashu@kcn.ne.jp
ecolo-japan-owner@yahoogroups.jp
☆エコロ・ジャパンのホームページ
http://lp.jiyu.net/ecolo.htm
★個人ホームページ
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/index.htm
◆ダメな日本社会を斬る! 連載中
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/damejapan02.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

今本さんがここで言われている「客観」とは、「共同主観」のことですか? もしそうならば、全く賛成です。

共同主観性=普遍了解性をつくり出すためには、予めの「真理」を措定してはならず、各自のありのままの主観=具体的経験から始める以外にはないこと。その明晰な自覚こそが何よりも大切で、それが思考ー思想の原理。というのが私の主張です。

私がここで使っている用語(主観・客観)の意味は、フッサールの「イデーン」などの著作によりますが、フッサールの本は読みにくいですから、私の友人の竹田青嗣さんの本、「現象学入門」(NHKブックス)及び「現象学とは思考の原理である」(ちくま新書)をご覧下さい(私と竹田さんでは思想を異にする部分もありますが、現象学解釈については強く支持しています)。

以上、簡単ですが、お答えです。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
武田 様
今本です。

武田さんが、現象学的コンテクストにおいて「主観性」を読み解かれていることをようやく理解できました。

> 「共同主観性=普遍了解性をつくり出すためには、予めの「真理」を措定してはならず、各自のありのままの主観=具体的経験から始める以外にはないこと。その明晰な自覚こそが何よりも大切で、それが思考ー思想の原理。というのが私の主張です。」(武田)

これにはまったく賛成で、異論はありません。
安易に「客観的真理」を持ち出すのは、かつて「自分の主張が定説」と述べていたカルト教祖と同様、詭弁(ないしはドグマ的思考)そのものであり、哲学的思考がもっとも批判の対象とするものです。

>「 私がここで使っている用語(主観・客観)の意味は、フッサールの「イデーン」などの著作によりますが、フッサールの本は読みにくいですから、私の友人の竹田青嗣さんの本、「現象学入門」(NHKブックス)及び「現象学とは思考の原理である」(ちくま新書)をご覧下さい(私と竹田さんでは思想を異にする部分もありますが、現象学解釈については強く支持しています)。」(武田)

ちくま新書のほうは昔読んだ記憶があります。
以上、ご回答ありがとうございました。

――――――――――――――――――――――――――――――――
今本様。
武田です。

お返事、了解しました。

私は、
ありのままの自分の思いをはっきり話すという基本姿勢が育たず、たえず上位者の顔色を伺うという不健康な精神をその大元から変革していくためには、イデオロギーの次元を超えて、「知」のありよう、その形と中身そのものを変更する必要がある、と考えています。

客観主義に陥らず、理論を先立てずに、共同主観=普遍了解性をつくり出すためには、おそろしく地道で深く厳しい営みが必要。ただ新しい思想を提示する、というような次元ではとうてい不可能な課題だ。
そういう思いが、新たな手づくりの思索ー裸になってゼロから始める思索の営みー方法も内容もすべてやりなおしの「知」を私自身に要請している、という訳です。

「民知ー恋知と公共哲学」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori65.htm
は、その思いから書いたものです。金泰昌(キムテチャン)さん(山脇さんが紹介者)が、その私の心情と思想に共鳴して1月から連続で「白樺教育館」(我孫子市)を訪れ、新たな思想の運動=民知の実践に乗り出そうとしています。
5月14日(日)には、『民知協会』(仮称)の設立記念会を我孫子で行う予定です。19年前より私の哲学研究会の主要メンバーで親友の福嶋浩彦(現・我孫子市長)は、この「民知」の思想で11年間市政の改革に取り組んできました。

我孫子を拠点にしていた白樺派の柳宗悦が中心となって始めた「民芸」運動を一般化し、より普遍化する「民知」運動を再び我孫子の地から始めたいと考えていますので、ご支援をよろしくお願いします。

日時 : 2006年1月4日 23:16 武田康弘
―――――――――――――――――――――――――――――――――

武田様
今本です。

ご丁寧なご説明ありがとうございました。
なお5年前に書き下ろした拙著『リベラル・パワー ~日本病理社会・再生の条件~』(郁朋社刊)
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm では、以下の武田様のご指摘について、

「私は、ありのままの自分の思いをはっきり話すという基本姿勢が育たず、たえず上位者の顔色を伺うという不健康な精神をその大元から変革していくためには、イデオロギーの次元を超えて、「知」のありよう、その形と中身そのものを変更する必要がある、と考えています。」(武田)

日本人的思考の伝統である「型」の文化(あるいは「水平的」思考)にその根本原因を見出し、それを哲学的思考法(批判的・「垂直的」思考)によって克服すべきことを提唱しています。まさに「知」の方法論、思考方法を再編しないことには、ご指摘のような一種の権威主義的態度は超克不可能といえます。

教育の現場でいえば、すでに幼稚園時代からこういう「不健康な精神」は養成され、中学入学以降に完全に定着してしまっている(人前で不適当な意見を述べると笑われるので恥ずかしくて意見を言えない)のが日本の学校教育の実態といえます。(それ以前に小学校は授業崩壊しているわけですが)

制度的な解決策としては、義務教育課程から基礎的な論理学の勉強とディベート、ディスカッションの実践、およびロールプレイング教育の導入およびシェアを拡大させること、個人別評価制度の導入などが挙げられますが、これとて形式主義的マンネリズムに陥る危険性がありますので、もちろん指導者がこれらの制度をいかにうまく運用できるか、その力量も大きなファクターとなるでしょう。

「仏造って魂入れず」とならないよう、まず「魂」を伝えられる指導者を養成するのに1世代、さらにそれらの指導者に指導された新しい思考に根ざす人材を育てるのにもう1世代かかることとなるでしょうが、願わくば「白樺教育館」が、「松下政経塾」などに取って代わる、新たな日本の知材の拠点となることを期待しております。

私も何か協力できることがあれば、協力させていただきたいと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

武田様、今本様、k様、ほか皆さま

山脇直司です。
2006年最初のメールを出します。今年もよろしく。

さて私も、現代日本を蝕んでいるの大きな要因に、「教育」と「メディア」の問題があると思っています。

教育に関しては、武田さんのいう「東大病」や今本さんのいう「没批判的思考」の再生産が大問題でしょう。
そうした中、私の方、6日の昼に仙台で、宮城教育公務員弘済会理事長の高橋道郎さん(東チモールでも活動中の方)の依頼で、授業改革に熱心に取り組んでおられる先生方を前に講演してきます。「現代を如何に生きるか:公共哲学の視点から」という題を与えられ、気恥ずかしい限りですが、武田さんたちの考えも参考にしながら、持論を呈示して、先生方の反応をみてきたいと思います。

また、日本のメディアの病理とも今年は本格的に取り組みたいと思いますが、kさんやhさんが呈示した朝日新聞記者問題は、それなりに深刻だと私は思っています。ここ20数年間の書評委員の顔ぶれの奇妙さ(特に政治関連書担当委員の保守性)は理念無き人脈主義の産物でしょうし、アエラのくだらなさ(真に考えるべき事柄を呈示せず、大して重要でないことを大げさに記事にする無内容性)と、そのノリで夕刊の文化面を書いて平然としている高慢な記者(小林さんたちの平和集会も一度そうしたノリで記事を書かれて大迷惑したことは記憶に新しい!)たちは、その「非政治的政治性」が問われて然るべきです。この点で、武田さんが前に話していた東京新聞の方がずっとすぐれているように感じます(たとえば、http://www.tokyo-np.co.jp/tokuho/ など)。
しかし、私自身は朝日の購読を止めるつもりはありません。このMLの11930(12月21日)で流したように、問題提起型の良い記事が時折出ますし(ちなみのこの編集委員N氏からは私の前原批判に賛同する旨の返事をもらいました)、働きかけ次第ではまだ希望がもてると思うからです。じっくり様子をみたいと思う次第です。ではまた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――

今本様。山脇様。皆様。
武田です。

「民知」のために、少し私の一番基本の考えを書いてみます。

テキストを読み問題集をやることは、必要です。しかし、それは「知」の土台ではなく、中心でもありません。

※物語文を適切な「感情」を持って音読すること。
※論説文を、「部分」に拘らずに「全体」の意味を「文脈」に沿って読み取ること。
※算数―数や図形の問題を、身の回りの物や出来事と結びつけて、意味として捉えること。 ※概念にすぎないものを、体験=直観として、目に見えるように、手に触れるようにつかもうと努力すること。
※観察し、体験して、そこから意味をくみ上げる練習をすること。
※どんどんチャレンジして、失敗を重ねること。・・・・・

こういうほんらいの知の基本を自覚的に追求するー愚直に手間ひまをかけてやる。何事も心身の全体でつかむ練習をする。それが民知(ほんらいの知)の実践で、何より必要とされるものだと思っています。

やり方の暗記で済ませたり、権威ある人や書物に頼ったり、「こうあるべきだから、こうすべきだ」というイデオロギーによるのではなく、真に自分自身の内側から深い納得を得る本物の知ためには、上記の基本を身につけることが絶対の条件になります。

現代の受験塾の効率よくテストで点を取らせる勉強法は、上記の基本(「民知」)と全く正反対の方法=見栄えのよい構造欠陥建物をつくるのと同じです。そういう勉強の仕方を身につけた「優等生」!が東大を頂点とした有名大学に入り、彼らを「知者」だと誤認しているのが今の日本という国、といわけです。
壊して建て替える以外はないですが、人間は建物と違いますから恐ろしく難しいですね。

思考―言論の訓練といえば、欧米に倣って「ディベート」と言いますが、それは古代ギリシャでソフィストたちが実践し、教えていたもの。そうではなく、思考―言論を鍛えるのは、何がほんとうなのか?善美なのか?を目がけて行う「ディアレクティケー」(問答法=対話法)であり、そのことは、アメリカでもマシュー・リップマンが実践(「6歳からのソクラテス教室」)しています。

ディベートによって経験的な意味での「自我」を鍛える(これが松下政経塾)のではなく、考える働きそれ自体=純粋意識(フッサール)=非反省的自己意識(サルトル)を鍛えるのが、白樺教育館―ソクラテス教室の「民知」です。自我は弱く小さく、意識は強く大きく、といわけです。

5月14日(日)には、「民知協会」(柳の「民芸」から「民知」への発展です!)を立ち上げたいと考えていますので、ぜひご協力をお願いします。

東日本代表は、私が責任者になるしかありませんが、西日本代表には金泰昌(キムテチャン)さんになってもらいたいと思っています。どしどしご参加を! 山脇さんにもぜひご加入をお願いします。今本さんも・・・・・・・・みなさんよろしく。

武田康弘


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民知は希望!「学者の頭の中から外に出ることのなかった日本の哲学とは違って、、」

2006-01-04 | メール・往復書簡

以下は白樺MLメールです。
楊原泰子さんからの大変うれしい年賀です。



武田康弘様

武田さんに出会って何年になるでしょうか?
お話を伺うようになって、“哲学”に対する思いが180度変わりました。
ほんとうは決して難しくない、生活に根ざした、生きるのに必要な、
役立つ学問だったのですね。

学生時代の「哲学」、「宗教哲学」のつまらなかったこと!
今思えばこちら側の受け止める力もなかったのだけれど‥
“哲学”嫌いな若者を大量生産していたのですねえ。
あれ以来すっかり敬遠していました。

そういえば、最近いろんな集会に行っても若者が少なくて心配です。
私より上の人ばかりが目立ちます。私、間もなく1/6で還暦ですよ~(~_~;)
若者たちはみんな社会のこと政治のこと自分たちの未来のことを
考えることをやめてしまったのかなあ?
若者の純粋で真直ぐな気持ちは社会を浄化する力があるのに‥

平凡な我々でも心で感じ、受け止めることができる>「民知」なら、学者や
一部の人だけが理解し、机上や学者の頭の中から外に出ることの
なかった日本の“哲学”と違って、誰の心にもスーッと落ち、納得し、
日々の暮らしに活かすことが出来ます。
素直な子どもや若者たちには、さらに良い形で受け止られるでしょう。
教育によって深く考えることを遮られてしまった子どもや若者たち
生き生きと自分の言葉で意見を語れるような社会になってほしいです。

時々歩みを止め、何が最善かを考えてから進む。一人ひとりが知るを喜び、
考えるを愉しみ、「自らの意見」を持ち、豊かな議論を重ねていく。
そんな余裕のある社会にしたいですね~
時間とお金という狭い価値観に囚われた社会に、最近起きた多くの事件が
警告を与えてくれていると思います。

一人ひとりの心のうちから社会を変え、平和な未来につなげていくことが
出来る「民知」を、これからどう広げていくかが今年の大きな課題ですね。
頑張らなくっちゃ!!
今年もどうぞよろしくお願い致します。

楊原泰子

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返信ー1月5日

[「民知」を、これからどう広げていくかが今年の大きな課題ですね。](楊原)

その通りです。5月14日(日)には、柳宗悦らの「日本民芸協会」を越えて、遥かに広い新たな思想運動の全国組織ー「民知協会」を設立したいと考えています。
イデオロギー次元ではなく、「知」のありようそのものをチェンジしていく営みを始めます。1976年ー「ソクラテス教室(旧称・我孫子児童教室)」設立以来の30年間の実践と思索を下敷きにして、考え方ー生き方の大元を変更する新たな時代の建造を始めます。キムテチャンさんとの全面的な協力体制を築きつつ。

武田康弘



コメント
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