以下は、昨日まで1月3日から6日にかけて行われた「公共哲学ML」内での思想的なやりとりです。(表記の3名以外は匿名に変えました)。
このブログにも繰り返し出している私・武田の主張=「客観」とは背理であり、「主観性」を深め豊かにするほんらいの「哲学」=
「恋知」の営みを核とした「民知」をひろめよう!ーに対しての今本さんの批判から始まった思想対話の全文です。
武田康弘様、皆様へ
MLに参加しております、今本秀爾と申します。
私は元来哲学者ですが、昨日の武田さんの主張とはまったく反対に、
今日ほど客観性が喪失し、主観性ばかりが横行している社会はない、
(その結果あらゆる地球規模での弊害が発生している)、したがって
客観的真理の回復こそが、今日私たちがもっとも努力すべき最大かつ
最重要目標である、という見解に与するものです。
(同様の趣旨で、数年前一冊本を書き下ろしたことがあります)
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm
参考までに、以前書き下ろした短い概要文を載せます。
客観性喪失の時代
今本 秀爾(哲学者、社会評論家)
21世紀を迎えた今日の世界ほど、これほど「客観性」が軽視され、喪失している時代はない。個人のレベルでは、個人は己の主観的真理ばかりを追求するあまり、他者の主観性はいっさい度外視されて互いの主観に共有化される最大公約数=公共的真理や利益はますます形骸化される。
それぞれ個々の組織も己の利益だけをますます追求し、己の都合にだけあわせた主観的論理を正当化し、己の行動原理ないしはルールとしてすべてに適用させようとし、自分以外の環境すなわち外部環境=「他者性」を無視して我が物顔に振舞う。このような主観性が国家・政府レベルにまで発展する結果、戦争も暴力もまた激化する。
哲学史上では自然科学の発展と中世の教会・宗教的権威からの解法と同時に「近代主観性」ということがテーマになり、主観性の解放(呪縛からの解放)ということが共通のモチーフとなってきた。その後「形而上学」が崩壊した20世紀以降、現代に至っては再びポスト構造主義以降の思想的流れが、形而上学批判とあいまって、あらたな主観性のモチーフを強調し、個人史的体験やポジティブに賞賛しているかのように見える。
だがしかし、この結果、見忘れられてしまい喪失してしまったのは「客観的真理」であり、より普遍的・全体的・公共的な真理を追求しようという、古来からの人類普遍の共通意志(一般意志)である。
ヘーゲルの唱える「客観的精神」、ホルクハイマーのいう「客観的真理」、ポパーのいう「客観性」といった普遍的価値は近代資本主義の高度化と高度産業化によってますます失われ、自らの利益や私欲の成就だけを目的とする技術的・道具的理性による主観的真理の追求ばかりが謳歌するようになった。
この主観的真理は、ときにはあたかも自らが普遍的・客観的真理であるかのように理論武装することにより、他者を排除し、他のあらゆる真理を否定ないしは破壊し、傷つけても当然のごとく横暴に振舞い、かつ自己弁護する。
しかしそれが単なる詭弁であるにすぎないことを看破できるのは、個人によって多様でばらばらな主観的思考や判断力ではなく、最大多数の利益にかなうルールをよしとする論理の客観的思考であり、客観的判断力である。
主観同士の「神々の争い」であるあらゆる戦争や暴力を調停し、仲裁するのも国際法上のルールや法廷の前提を形成する客観的思考であり、公正な裁きや解決手段をもたらす中立的・客観的価値観である。
それがあらゆる教育の場において、また人生のさまざまな労働や学びの場においてますます形骸化され、喪失しているのである。
この主観的真理の横暴は、国家権力や大規模な組織の権力側のみならず、対抗権力となる草の根的な市民運動の担い手側の思考や行動原理にも深く浸透している。つまり熟慮せず、客観的・論理的な思考を尊重せず、権力を敵視し、主観的感情や思いつきのままに行動するという致命的な過ちを犯すことにより、自らが「主観的権力」として自分たちの外部である「他者」を知らず知らずのうちに傷つけ、あるいは無視していることに盲目になるという「主観性の横暴」である。このような主観性は、己自身の立場のみをよしとし、己自身の立場にのみ共感し、もしくは共鳴を寄せる勢力とだけ結びつき、行動を共有化しようとするイデオロギーそのものであり、一種のカルト主義に走りやすくなる。このような主観性のイデオロギーから脱するには、あらゆる個人が客観的思考を学習し、あらゆる事象や考え方を、つねに客観的態度で受け入れるという誠実な姿勢が不可欠である。この個人や組織の客観的態度が成熟した社会ほど、民主主義や多様性、非暴力・平和や公正な社会が実現しやすくなるのは、当然の帰結である。
なぜならば民主主義や平和とは、単なる個人の主観性を超えたメタレベルの公共的価値であり、自分と相容れない異質の多様な価値観といかに共存・共生できるかという課題を解決する方法論だからである。そのためには客観的・普遍的な共通のルールや真理を遵守すべし、という客観的真理基準を立てることが前提条件である。この条件が崩れ、互いの主観性がむき出しになるか、カオス的な放任状態になるや否や、一方の価値観の強制的押しつけや詭弁による説き伏せ、果てには暴力や戦争といった事態が日常横行するようになる。主観性の横暴の結果、力のある者となき者との格差が露骨かつ無秩序的に出され、貧困や飢餓といった不自由な生存状態があらゆる場面で現出しているのが今日の世界の姿である。
日常的な客観的思考の訓練、客観的真理への志向性、客観的真理基準の設定と遵守、これらが今日のボーダレス化した国際社会に生きる私たち現代人ひとりひとりにとって、最大かつ最重要な緊急要件であることは最早疑いようがない。
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持続可能な社会のための政策ネットワーク
「エコロ・ジャパン」代表
今本 秀爾 Imamoto Shuji
imashu@kcn.ne.jp
ecolo-japan-owner@yahoogroups.jp
☆エコロ・ジャパンのホームページ
http://lp.jiyu.net/ecolo.htm
★個人ホームページ
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/index.htm
◆ダメな日本社会を斬る! 連載中
http://www1.kcn.ne.jp/~imashu/damejapan02.htm
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今本様。
武田です。
今本さんがここで言われている「客観」とは、「共同主観」のことですか? もしそうならば、全く賛成です。
共同主観性=普遍了解性をつくり出すためには、予めの「真理」を措定してはならず、各自のありのままの主観=具体的経験から始める以外にはないこと。その明晰な自覚こそが何よりも大切で、それが思考ー思想の原理。というのが私の主張です。
私がここで使っている用語(主観・客観)の意味は、フッサールの「イデーン」などの著作によりますが、フッサールの本は読みにくいですから、私の友人の竹田青嗣さんの本、「現象学入門」(NHKブックス)及び「現象学とは思考の原理である」(ちくま新書)をご覧下さい(私と竹田さんでは思想を異にする部分もありますが、現象学解釈については強く支持しています)。
以上、簡単ですが、お答えです。
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武田 様
今本です。
武田さんが、現象学的コンテクストにおいて「主観性」を読み解かれていることをようやく理解できました。
> 「共同主観性=普遍了解性をつくり出すためには、予めの「真理」を措定してはならず、各自のありのままの主観=具体的経験から始める以外にはないこと。その明晰な自覚こそが何よりも大切で、それが思考ー思想の原理。というのが私の主張です。」(武田)
これにはまったく賛成で、異論はありません。
安易に「客観的真理」を持ち出すのは、かつて「自分の主張が定説」と述べていたカルト教祖と同様、詭弁(ないしはドグマ的思考)そのものであり、哲学的思考がもっとも批判の対象とするものです。
>「 私がここで使っている用語(主観・客観)の意味は、フッサールの「イデーン」などの著作によりますが、フッサールの本は読みにくいですから、私の友人の竹田青嗣さんの本、「現象学入門」(NHKブックス)及び「現象学とは思考の原理である」(ちくま新書)をご覧下さい(私と竹田さんでは思想を異にする部分もありますが、現象学解釈については強く支持しています)。」(武田)
ちくま新書のほうは昔読んだ記憶があります。
以上、ご回答ありがとうございました。
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今本様。
武田です。
お返事、了解しました。
私は、
ありのままの自分の思いをはっきり話すという基本姿勢が育たず、たえず上位者の顔色を伺うという不健康な精神をその大元から変革していくためには、イデオロギーの次元を超えて、「知」のありよう、その形と中身そのものを変更する必要がある、と考えています。
客観主義に陥らず、理論を先立てずに、共同主観=普遍了解性をつくり出すためには、おそろしく地道で深く厳しい営みが必要。ただ新しい思想を提示する、というような次元ではとうてい不可能な課題だ。
そういう思いが、新たな手づくりの思索ー裸になってゼロから始める思索の営みー方法も内容もすべてやりなおしの「知」を私自身に要請している、という訳です。
「民知ー恋知と公共哲学」http://www.shirakaba.gr.jp/home/tayori/k_tayori65.htmは、その思いから書いたものです。金泰昌(キムテチャン)さん(山脇さんが紹介者)が、その私の心情と思想に共鳴して1月から連続で「白樺教育館」(我孫子市)を訪れ、新たな思想の運動=民知の実践に乗り出そうとしています。
5月14日(日)には、『民知協会』(仮称)の設立記念会を我孫子で行う予定です。19年前より私の哲学研究会の主要メンバーで親友の福嶋浩彦(現・我孫子市長)は、この「民知」の思想で11年間市政の改革に取り組んできました。
我孫子を拠点にしていた白樺派の柳宗悦が中心となって始めた「民芸」運動を一般化し、より普遍化する「民知」運動を再び我孫子の地から始めたいと考えていますので、ご支援をよろしくお願いします。
日時 : 2006年1月4日 23:16 武田康弘
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武田様
今本です。
ご丁寧なご説明ありがとうございました。
なお5年前に書き下ろした拙著『リベラル・パワー ~日本病理社会・再生の条件~』(郁朋社刊)
http://lp.jiyu.net/liberalpower.htm では、以下の武田様のご指摘について、
「私は、ありのままの自分の思いをはっきり話すという基本姿勢が育たず、たえず上位者の顔色を伺うという不健康な精神をその大元から変革していくためには、イデオロギーの次元を超えて、「知」のありよう、その形と中身そのものを変更する必要がある、と考えています。」(武田)
日本人的思考の伝統である「型」の文化(あるいは「水平的」思考)にその根本原因を見出し、それを哲学的思考法(批判的・「垂直的」思考)によって克服すべきことを提唱しています。まさに「知」の方法論、思考方法を再編しないことには、ご指摘のような一種の権威主義的態度は超克不可能といえます。
教育の現場でいえば、すでに幼稚園時代からこういう「不健康な精神」は養成され、中学入学以降に完全に定着してしまっている(人前で不適当な意見を述べると笑われるので恥ずかしくて意見を言えない)のが日本の学校教育の実態といえます。(それ以前に小学校は授業崩壊しているわけですが)
制度的な解決策としては、義務教育課程から基礎的な論理学の勉強とディベート、ディスカッションの実践、およびロールプレイング教育の導入およびシェアを拡大させること、個人別評価制度の導入などが挙げられますが、これとて形式主義的マンネリズムに陥る危険性がありますので、もちろん指導者がこれらの制度をいかにうまく運用できるか、その力量も大きなファクターとなるでしょう。
「仏造って魂入れず」とならないよう、まず「魂」を伝えられる指導者を養成するのに1世代、さらにそれらの指導者に指導された新しい思考に根ざす人材を育てるのにもう1世代かかることとなるでしょうが、願わくば「白樺教育館」が、「松下政経塾」などに取って代わる、新たな日本の知材の拠点となることを期待しております。
私も何か協力できることがあれば、協力させていただきたいと思います。
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武田様、今本様、k様、ほか皆さま
山脇直司です。
2006年最初のメールを出します。今年もよろしく。
さて私も、現代日本を蝕んでいるの大きな要因に、「教育」と「メディア」の問題があると思っています。
教育に関しては、武田さんのいう「東大病」や今本さんのいう「没批判的思考」の再生産が大問題でしょう。
そうした中、私の方、6日の昼に仙台で、宮城教育公務員弘済会理事長の高橋道郎さん(東チモールでも活動中の方)の依頼で、授業改革に熱心に取り組んでおられる先生方を前に講演してきます。「現代を如何に生きるか:公共哲学の視点から」という題を与えられ、気恥ずかしい限りですが、武田さんたちの考えも参考にしながら、持論を呈示して、先生方の反応をみてきたいと思います。
また、日本のメディアの病理とも今年は本格的に取り組みたいと思いますが、kさんやhさんが呈示した朝日新聞記者問題は、それなりに深刻だと私は思っています。ここ20数年間の書評委員の顔ぶれの奇妙さ(特に政治関連書担当委員の保守性)は理念無き人脈主義の産物でしょうし、アエラのくだらなさ(真に考えるべき事柄を呈示せず、大して重要でないことを大げさに記事にする無内容性)と、そのノリで夕刊の文化面を書いて平然としている高慢な記者(小林さんたちの平和集会も一度そうしたノリで記事を書かれて大迷惑したことは記憶に新しい!)たちは、その「非政治的政治性」が問われて然るべきです。この点で、武田さんが前に話していた東京新聞の方がずっとすぐれているように感じます(たとえば、http://www.tokyo-np.co.jp/tokuho/ など)。
しかし、私自身は朝日の購読を止めるつもりはありません。このMLの11930(12月21日)で流したように、問題提起型の良い記事が時折出ますし(ちなみのこの編集委員N氏からは私の前原批判に賛同する旨の返事をもらいました)、働きかけ次第ではまだ希望がもてると思うからです。じっくり様子をみたいと思う次第です。ではまた。
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今本様。山脇様。皆様。
武田です。
「民知」のために、少し私の一番基本の考えを書いてみます。
テキストを読み問題集をやることは、必要です。しかし、それは「知」の土台ではなく、中心でもありません。
※物語文を適切な「感情」を持って音読すること。
※論説文を、「部分」に拘らずに「全体」の意味を「文脈」に沿って読み取ること。
※算数―数や図形の問題を、身の回りの物や出来事と結びつけて、意味として捉えること。 ※概念にすぎないものを、体験=直観として、目に見えるように、手に触れるようにつかもうと努力すること。
※観察し、体験して、そこから意味をくみ上げる練習をすること。
※どんどんチャレンジして、失敗を重ねること。・・・・・
こういうほんらいの知の基本を自覚的に追求するー愚直に手間ひまをかけてやる。何事も心身の全体でつかむ練習をする。それが民知(ほんらいの知)の実践で、何より必要とされるものだと思っています。
やり方の暗記で済ませたり、権威ある人や書物に頼ったり、「こうあるべきだから、こうすべきだ」というイデオロギーによるのではなく、真に自分自身の内側から深い納得を得る本物の知ためには、上記の基本を身につけることが絶対の条件になります。
現代の受験塾の効率よくテストで点を取らせる勉強法は、上記の基本(「民知」)と全く正反対の方法=見栄えのよい構造欠陥建物をつくるのと同じです。そういう勉強の仕方を身につけた「優等生」!が東大を頂点とした有名大学に入り、彼らを「知者」だと誤認しているのが今の日本という国、といわけです。
壊して建て替える以外はないですが、人間は建物と違いますから恐ろしく難しいですね。
思考―言論の訓練といえば、欧米に倣って「ディベート」と言いますが、それは古代ギリシャでソフィストたちが実践し、教えていたもの。そうではなく、思考―言論を鍛えるのは、何がほんとうなのか?善美なのか?を目がけて行う「ディアレクティケー」(問答法=対話法)であり、そのことは、アメリカでもマシュー・リップマンが実践(「6歳からのソクラテス教室」)しています。
ディベートによって経験的な意味での「自我」を鍛える(これが松下政経塾)のではなく、考える働きそれ自体=純粋意識(フッサール)=非反省的自己意識(サルトル)を鍛えるのが、白樺教育館―ソクラテス教室の「民知」です。自我は弱く小さく、意識は強く大きく、といわけです。
5月14日(日)には、「民知協会」(柳の「民芸」から「民知」への発展です!)を立ち上げたいと考えていますので、ぜひご協力をお願いします。
東日本代表は、私が責任者になるしかありませんが、西日本代表には金泰昌(キムテチャン)さんになってもらいたいと思っています。どしどしご参加を! 山脇さんにもぜひご加入をお願いします。今本さんも・・・・・・・・みなさんよろしく。
武田康弘