思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

お上が与える憲法=「自民党改憲案」=「大日本帝国憲法」への退行=頭の悪さの証明!

2005-10-29 | メール・往復書簡

民主制社会の原理(ルソーの社会契約論に代表される)もわきまえず、「日本は契約社会ではないから、社会契約説を取り入れたらダメだ」!?(現場の関係者の証言)という平面・低レベルの頭脳=自民党議員と取り巻きの法律家がつくった改憲案が出ましたが、早速、民知者の高城久さんからメールが入りました。

なお、社会の原理とは、「経験的事実」とは次元を異にする「理念的構築物」です。この両者の立体構造が分からない平面的な頭脳は、自民党議員のみならず、おおくの日本の学者にも共通する欠陥ですが、この二次元頭(「東大病」)を克服しないと、日本人は永遠に不幸です。民知(恋知)という全体知=立体的に事象の意味を知る頭を育てる努力が必要です。 「民知―恋知と公共哲学」(10月号の「公共的良識人」紙巻頭論文―武田著)をぜひご覧下さい。


では、以下に高城さんのメールを載せます。

高城です。

今、新聞に載った自民党の憲法草案を見ていて思ったのですが
さすが「自民党」ですね。
憲法とは公権力から国民を守るためにあるものと私は認識していますが
自民党の方々は、時代劇で出てくる
お上が下々に言い渡す「下」の感覚がよく出ている、と感じるのは私だけ?
そう言えば、自民党総裁らしい首相であった森喜朗氏が言っていましたね。
天皇を中心とする”かみ”の国、と
神道関係者の会合での発言だったのでかみ=神と思っていましたが
お上の”かみ”も入っているようです。
そう考えると天皇教信奉者のイデオロギーは「かみの国主義」といえますか?

日本の左右って「9条主義」と「かみの国主義」ってことですか?
なんだか悲しいです(T_T)

9条主義の人々もかみの国主義に洗脳されているから
靖国反対は言っても天皇制には何にも言わない。
55年体制下では、お互い憲法と天皇についてはタブーという暗黙の了解があったのでしょうが
55年体制が崩壊し、
憲法は論議されても天皇制はまだタブー
おかしすぎますね!

朝っぱらから長々とすいませんm(__)m




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「靖国参拝おおいに結構」への批判的コメントから、「千人のソクラテス」へ。

2005-10-28 | メール・往復書簡

以下は、ブログ「メタフィジカルな気分」のlucienさんの記事=『小泉靖国参拝おおいに結構』に対しての私のコメントと、lucienさんのコメント返しです。

小泉靖国参拝おおいに結構 = lucienさんの記事[ 19:23 ]

靖国神社が日本の英霊を祀る資格がありなおかつ正統的な施設であるのかを保留した限り、小泉総理の靖国神社参拝はおおいに結構なことだ。もし戦没者が禅宗の寺や真言宗の寺に葬られているのであれば、そこに参拝やお参りに行くのにやぶさかではない。クリスチャンの故大平総理も靖国神社に参拝した。
民主党の前原代表は、「A級戦犯が祀られている神社に参拝したことは残念」とコメントしていたのだが、死んでもまだ罪人なのだろうか。絞首刑という罰を受けた死人の罪は消滅し、篤い弔いの対象になると考えるのが日本人なのではないだろうか。前原とは日本人なのだろうか。笑。

中国やら韓国がどうして靖国参拝を批判するのか、もうネタはばれているのだからいくら批判声明や恫喝を繰り返しても効果はない。やりたければ勝手にやればよろしい。なんなら国交を断絶しても良い。だいたい中韓などまったく行きたいとは思わない。

もちろん国際外交とはそんな幼稚な論理で動くものではないだろう。そう、もっと日本は中国を批判するべきなのである。核ミサイルの照準を合わせ、反日教育を熱心にやる中国の行政方針、国家運営を口やかましく批判するべきなのだ。日本はあまりにも人が良すぎやしないか。国際的な常識では、「核ミサイルの照準+反日教育」という事実だけで、日本が核開発に入ったとしてもまっとうな理由になるはずだ。
アメリカなどは、性能の悪いテポドンミサイルが、アラスカやカリフォルニアのほんの一部を射程圏に収めただけで議会で大騒ぎである。

どうして韓国が反日に燃えるのかを検証したサイトがある。

韓国は“なぜ”反日か?

このサイトに書かれていることが全部正確であり、史実に照らして十分に信用できるものなのであるかどうかはわからないのだが、読んでいるとかなり腹が立つことは確かだ。果たしてどうなのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


[タケセン] [2005/10/18 01:23]
武田です。以下は、以前の私のブログからです。 「国体」という極めて特異なイデオロギーを今日でも堂々と主張し、展示し、宣伝映画を毎日エンドレスで流している靖国「神社」にいつまでも戦没者を「まつって」おくとは一体どういうことなのですか?「答える」ことができる人はいますか? 明治政府が政府側に立った兵士だけをまつるために作った施設、戊辰戦争や西南戦争で「反・政府」の側に立った人間はまつらないという日本の伝統を否定したこの「神社」(国家神道という明治政府が作った新・宗教の総本山)にまつっておくことは根本的な間違いです。現代の日本人は、よほど特殊な人でない限り「靖国思想」に賛同する人はいないはずです。政府は一刻もはやく兵士だけでなく全ての戦没者を鎮魂するための「公共墓苑」の創設に着手しなければいけません。これは現代の政治家の義務です。論を待ちません。


[lucien] [2005/10/18 17:55] [ MyDoblog ]
武田先生こんにちは。確かに靖国神社にまつわる問題点は多いと思います。この問題を扱った先生のブログを読ませていただいた時に、公共墓地を作る必要があると思いました。筋とか理論的にはその通りなのですが、靖国神社に堆積している「歴史性」の重みには、新しい追悼施設はかなわないでしょう。公共墓苑を作っても、そこにお参りに行く人がいるのかどうか疑問です。130年くらい前にかけ間違えられたボタンのまま歴史が降り積もってしまい、戦犯分祀もできず、にっちもさっちも行かない。この問題を解決できるウルトラCを望みます。


[タケセン] [2005/10/19 01:24] [ MyDoblog ]
大丈夫です。
日本人はよくも悪くも一夜にして変われるのです。
論理的に「当然」のことを、愚直に断固として行えば、それでいいのです。それ以外はありません。簡明な話です。後は実行あるのみです。


[lucien] [2005/10/20 20:27]
公共墓地の案は出ては消えてという繰り返しですが、作れるんでしょうか。。
逆に、中韓との取り引きのネタに使えるかもしれません。笑。
靖国参拝やめて公共追悼施設を作るから竹島返せとか。
もしかすると小泉首相はカードを作っているのでは、と思えないこともないです。


[タケセン] [2005/10/20 23:42] [URL]
「天皇教」の呪縛は、凄いのです。
とりわけ現在、70歳以上の人の多くは、この序列宗教(東大病と天皇教はひとつです)から抜けられません。靖国思想はしつこく人の心を縛っています。
靖国=国体思想の廃棄は、われわれ日本人自身がよく・楽しく生きるための条件です。
天皇、靖国、東大、官僚、はひとつの思想です。日本人を個人として自由にさせない=エロースを消去して集団主義に貶めるシンボルです。
多くの人は、このシンボル操作に引っかかって、狭い想念の中で生きています。
わざわざ努力して不幸を選択するのは、ほんとうに愚かです。自由と悦びを共に生み出しましょう!


[lucien] [2005/10/22 11:41]
実存的なもの以前に国体的なものがあるというのは確かに奇形だと思います。実存から国体的なものが生まれるのであれば自然なのですが、たぶん、国体という物語にすがりつく人たちは基本的に「弱い」人たちなんでしょうね。これは自分の内面を見ていればよくわかります。何かにすがりつきたいですから。実存から出発して、何かの意味や物語を創造する才能はまったくないですし。ですから、時代遅れの官僚や東大主義、国体主義みたいな連中の奇形性の本質は、「国体→実存」という転倒なのだと思います。しかし、手っ取り早く「意味」という薬を飲んでしまえば楽なので、これからはそういう人が増えるかも知れません。


[タケセン] [2005/10/25 00:16] [URL]
その通りですね。
いま、私の生徒(社会勉強中のN君と大学生のN君)が、ミクシーというブログで、大胆にも「千人のソクラテス」という名称の(これはサルトルが学生時代に大変な自負をもって仲間たちとそう呼び合っていたようです)「コミュニティー」を立ち上げようとしています(笑)。
合言葉は、情報から思考へ、でしょうかね。
私は、「民知協会」を立ち上げ、各地に支部をつくれたらいいな~、と思っています。
「実存の生」をサポートし合う面白・元気の活動で、日本社会をおおもとから変えてゆくというわけです。


[lucien] [2005/10/25 19:08] [ MyDoblog ]
「情報から思考へ」、
素晴らしいですね。そういう人たちが少しでも増えてくれればわたしだって今の日本に希望が持てるってもんですよ。ちょっとでも考えてみれば、小泉政権はおかしいことに気が付くはずですからね。

===================================
それにしても、「現人神」というおぞましい規定からは外れても、21世紀のいまなお、宗教儀式を生活の中心とする天皇を日本国民統合の象徴とする政治を私は容認しません。容認しない人も大勢いると思いますから、はじめから「象徴」という規定は破綻しているのです。簡明な原理です。


以下は、上記のやりとりを受けて、ブログ「ミクシー」内でおこなわれた対話です。

2005年10月27日
01:02
まきと

大学生のNです(笑)
まだ作ってないですねー。
早く作ります。とりあえずでもイイかなぁ

「実存よりも国体という思想が先立つ」なんとも悲しい話ですね。
大学には実存よりも情報が先立ってる人が多い気がします。。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
2005年10月27日
10:25
タケセン

とりあえずで、どんどこやりましょう!
大学だけでなく、日本中みんな情報中毒ですね~。
自分で「考える」という作業の復活は、道が険しいですよ。
大学教授もみな「省エネ頭」になっていますから。
人間が「感覚ー反射型生物」になったのでは、悦びーエロースが消えてしまいます。
主観性を広げ深める「思考力」のための対話コミュニティ=「千人のソクラテス」、いいですね~。ぜひ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
2005年10月27日
17:12
aBeBe

いいですねー、「千人のソクラテス」
私もその一人に加わります。

省エネ頭がエライ!?あまーい。
わざと省エネしないのがエライんだっ!!!
電気じゃないんだからね(笑)

--------------------------------------------------------

2005年10月28日
09:06
タケセン

教育・マスコミ・政治・権威・・・に誘導されないで、自分の頭で考える人が千人も出たら、日本初の市民革命ですね~(笑)
それにしても「小泉草劇場」に感心しているような日本人では悲しいですね。こんなことでは、また日本ナショナリズム=天皇教=靖国・国体主義、という形式ー儀式が支配する紋切り型の社会に戻ってしまいます。21世紀になっても、未だに「昭和」だ「平成」だという天皇の生死による時間・時代区分をしているよう国ではダメです。
「天皇を中心とした神の国」(森・前首相)!?はもうたくさん、ごめんこうむりたいですね~。
ふつうの人々=私たち民の力で、哲学(恋知)の時代を切り開きましょう!




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女性天皇報道で思うこと/天皇制をソフトに強要する「刷り込み教育」は不健全

2005-10-26 | 社会思想

天皇は全国民統合の象徴である、というわが国のイデオロギーについて、議論そのものをさせない空気をつくり、学校もマスコミもそれを当然の「真理」として人々をソフトに誘導=洗脳する社会は、どう考えても「健全」ではありません。

 1億2千万人の全ての人間を統合する象徴である、という規定について何も考えずにこれを受け入れるというのは、ひどく不可解です。私は、千代田区神田須田町に生まれ育ちました(学校は越境入学で文京区でした)が、幼いころから皇居前を通るたびに、何か言い知れぬ「違和感」を持ち続けてきました。

 主権者であるふつうの人々が政府の行為を縛る「日本国憲法」という最高法規の第一条に、世襲の一人の人間が全ての国民を統合するシンボルである、と書かれていたのでは、人間の自由と平等を理念とする自立した市民による民主制社会など築けるはずがないと思います。その人間の死によって時代名まで変わり、その時代区分を強要されるのでは、まさしく「天皇を中心とした神の国」(森・前首相)になってしまいます。古代国家の時代=時間管理を21世紀になっても続けている社会は、ひどく不健康です。

 こういう「神権政治」?を守ろうとするから、戦争責任問題についての思索が封じられ、「昭和天皇のご聖徳を顕彰し後世に伝えるための記念館」(クリック)なる新たな伝説づくりのための施設が建造されるという事態になるのです。

 なぜ、新しい市民社会にふさわしい皇族のありようを皆で考え、議論しないのか? まったく不可解です。天皇を様々な任命の儀を中心とする「国事行為」からは解放して、もともとの住居である京都御所で日本の旧家として自由に生活してもらうのがいいのではないか、と私は思いますが、みなさんはどうお考えでしょうか? 「皇族の人権と市民精神の涵養」(クリック)もぜひ見てください。

 ともあれ、「天皇制」について議論すること自体がタブー視されるような社会は、どういう視点を持つにせよ明らかに間違っています。間違いを正すのは、民主制社会のふつうの市民の責務のはず、私はそう確信しています。

10月26日 武田康弘



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小泉草芝居政治を支える「感覚主義」を真に超えるのは「民知」です。

2005-10-25 | 社会思想

劇場型政治といわれますが、
小泉劇場という草芝居の見せ物を「面白い」と感じる愚かな日本人では、哀れですね。
実人生を劇場化する逆立ちは大変に危険です。装いを変えた現代の「天皇教」や「ナチズム」だと言えましょう。

瞬間の快感をつないでいくだけの「感覚人間」。
うっぷん晴らしか、ちゃらちゃら目立ちの言動しかできない「能天気人」。
ずいぶん昔に流行った、とっくに終わっている「左翼権威主義者」。
国家神道=天皇教の洗脳神社=「靖国」に参拝を繰り返す「国体主義者」。
既成の価値意識に深く囚われ、「情報」にピクピク反応するだけの従順な「会社人間」。
どれもいやですね。

濃(こま)やかな抒情や、思索力(沈思)のない「外面人間」だらけの現代の日本には、悦び・エロースがありません。その場しのぎの言説、感覚的な好悪、形式優先のタテマエだけの人生には、生きる意味―価値が乏しいです。

こういう底の浅い「不幸」な社会にピッタリ適合するのが「小泉草芝居」でしょう。
まったく実力がないのが大成功!の最大の要因。従来の「臭くてダサい頭脳派」に対するレジスタンスが「個人的信念と感覚絶対主義」です。

どちらも先がない行き止まりの道です。
これを打開するのが「民知」です。
現代の問題は「改革」では解決不能です。現代人の「知」のありようそのものを変更する営み=発想の根本的変革なくしては、永遠のもぐら叩きなのです。
≪勝手に民知≫の運動をぜひ共に!!

?民知宣言(9000字)「公共的良識人」紙7月号
?民知ー恋知とは?(1000字)「柏市民新聞」8月号
?民知ー恋知と公共哲学(11000字)「公共的良識人」紙10月号

10月25日 武田康弘



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靖国思想は2000万人以上の自国・他国の人間を殺しましたー誰も反論できない冷厳な事実です。

2005-10-23 | 社会思想


天皇教=靖国思想=国家神道は、アジアの国で、史上比較を絶した猛威を振るいました。
殺害したアジア人の人数は、2000万人を優に超えます。2千人ではありません。2万人でもありません。20万人でもありません。200万人にでもありません。東京都の全人口の2倍です。千葉県の4倍です。ナチスドイツの比ではありません。
こうした桁違いの殺人を行うには、恐ろしいほど巨大な「観念」が必要です。合理的理由ではこれほどの人殺しはできません。
これは、全国民を「教化=洗脳」した「教育=狂育」によります。エリート官僚と政治家が、綿密に計画し編み上げた「天皇制国家主義」(その総本山が「靖国神社」)による洗脳教育の成果がこの未曾有の大量殺人です。

しかも、いまなお、日本社会はこの「天皇教」の呪縛の下にあります。「天皇」と呼ぶ一人の人間の死で時代名まで変えてしまう古代王政そのままの「元号」制度をはじめ、多くの理不尽な思想=制度がそのまま残っています。
保守政治家(小泉チルドレンも含まれる)たちは、こうした前時代的なイデオロギーに呪縛されているために、「靖国問題」はいつまでも解決しないのです。

戦死者を「靖国」に「国体の神」として祀っておいたのでは、死者の魂は永久に浮かばれません。徹底した洗脳教育によって加害者となるべく仕立て上げられた彼らは、天皇教=靖国思想=国家神道の犠牲者です。こんな単純な「真理」も分からない人間が国会議員とは、ただただ呆れ返るだけです。「愚か者集団」と言う他ありません。

靖国思想=国家神道=天皇教の犠牲者と彼らによって殺害されたアジアの民を鎮魂する施設をつくることなしには、まっとうな社会をつくることはできません。これは、立場を問わず全国民の責務です。論を待ちません。この問題を解決しない限り、日本人は永久に不幸です。靖国神社が主張する天皇教=国家神道と民主制とは根本的に背反する思想です。両立は不可能です。国体思想(天皇を中心とした神の国)にもどることは、根源悪です。


「チャンコロの首を切るとどんな音がするか?」という「皇軍」の犯罪ーもと日本兵の体験談(東京新聞記事より)は、クリックしてください。

10月23日 武田康弘 

今日は「白樺教育館・ソクラテス教室」の子どもたちを連れて多峰山と名栗渓谷にハイキングに行ってきました。最高のお天気ー快晴無風、自然の中で、のびのび・自由に・思いっきり楽しく遊んできました。お土産はおいしい湧き水です。いま玉露をいれましたが、同じお茶とは思えません!!
一人ひとりの子ども=人間はみな平等です。「皇族」と呼ばれる人々が特権をもつ社会は、根本的に間違っています。よき・新しき・美しき日本をつくりたいもの。

上記の文は、一昨日書いておいたものに、いま加筆しました。

以下の文書もご参照下さい。
? 靖国「神社」とは何でしょう。
? 日本の政治家は、国という言葉の意味も知らない
? 皇族の人権と市民精神の涵養




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小泉首相へーー本当の改革とは?(N.O.さんからのメール)

2005-10-22 | メール・往復書簡

以下は、N.O.さんからメールで寄せられた意見です。みなさま、ご検討下さい。

小泉首相へ -本当の改革とは- N.O.

 19日の記者との談話で『覇王の夢(津本陽著)』、『信長の棺(加藤広著)』の織田信長本を読んでいたく感動されたご様子が伝えられています。また、現代の信長などとおだてられると脂下がっている様子がテレビでも度々放映されています。

織田信長の行為で私が評価するのは、比叡山の焼き討ちです。大量殺戮行為だと非難もありますが、比叡山の焼き討ちがなければ寺社勢力の武装解除がなされるのがずっと遅くなっていたことでしょう。いいかえれば戦国時代がもっと長引いたと思います。

さて、小泉首相が織田信長のように本気で時代の針を先に進める気があるのならそれは靖国神社の焼き討ちならぬ解体です!

 税金で給与が支払われていない郵便局員を公務員改革の象徴として無理矢理民営化したあなたなら軍国日本の精神的支柱である靖国神社をそのままにしておくのは道理に合わないと思います。

 その跡地には、国立墓苑や国立の追悼施設などではなく、謝罪反省施設を建てれば良いのです。追悼、鎮魂は各家々で遺族の方々が気の済むようにして頂くようにお願いするしかないと思います。理不尽な殺人にあった方の遺族が正式な謝罪もせず、墓参をさせてくれといっても受け入れないことからも明白でしょう。(心から反省し、謝罪するのは自虐的行為という人たちは、精神構造がまともではないと思います。)
 
そうすれば、自国の行為を謝罪せず正当化する中国や米国が国内から日本を見習えという機運が自ずと高まり、日本が尊敬される国になり真の友好が始まると私は思います。


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仏教教団の靖国思想と侵略戦争加担への反省の現状(民知者・高城久)

2005-10-22 | 日記

以下は、民知者の高城久さんが調べてくれたものです。
( ?出会いと民知宣言(9000字) ?民知ー恋知とは?(1000字) ?民知ー恋知と公共哲学(11000字)をご覧下さい)

真宗大谷派(東本願寺)以外の日本の侵略戦争に加担した罪を反省・自己批判した仏教団体についてネットで調べられる範囲で調べてみました。

■浄土真宗本願寺派(西本願寺)
 浄土真宗本願寺派(西本願寺)は1981年から毎年9月18日に国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑において「全戦没者追悼法要」を勤めている。なぜ、9月18日に行うかといえば、15年にわたる「アジア・太平洋戦争」につながっていった「満州事変」の発端である「柳条湖事件」が1931年に起こったその日だからだそうです。
 1995年4月15日に本願寺で厳修された「終戦50周年全戦没者総追悼法要」において浄土真宗本願寺派大谷光真門主は、「宗祖の教えに背き、仏法の名において戦争に積極的に協力していった過去の事実を、仏祖の御前に慚愧せずにはおれません」と、戦争にかかる責任を明らかにしました。
 2004年5月24日、不二川公勝総長、出口湛龍総務が記者会見を行い、15年にわたる先の戦争に関して発布した「消息」などを「今後これを依用しない」とする「宗令」などを発布したことを発表。
http://www.hongwanji.or.jp/info/general_if/info_040524.htm

■真宗教団連合
 首相、閣僚の靖国神社公式参拝にたびたび要請文を出していますが、中でも2001年8月3日の要請文では、「悲しいことに、かつて私たちもその(宗祖・親鸞の)教えに背き、自己を正当化し、国家が起こした戦争行為を無批判に容認し、多くの人びとを戦地に送り出し、また、諸外国の人びとに言語に絶する惨禍をもたらしました。」と批判の前に自らの懺悔も行っている。
これまでの要請文はこちら
http://www.shin.gr.jp/kyodan/yosei/yindex.html

■臨済宗妙心寺派
 2001年9月27日の臨済宗妙心寺派第100次宗議会の宣言文の中で
「かえりみますと、かつて我が国も聖戦の名のもとに戦争を遂行し、彼我各国に多大の苦痛と損害を与え、たとえ国策とはいえ結果として、戦時の高揚した国民感情の中で、我が宗門が砥柱のごとく反戦を貫くことが出来得ず協力して来たことに対し誠に遺憾に思うものであります。まずこの過去の過ちに対する懺悔と反省の上に立って、諸民族の多様な生活や価値感、信条、宗教を尊重しつつ、日々の教化活動において我が禅門の宗旨を宣揚し、世界の平和のために一層努力しなければなりません。」
http://www.myoshin.com/shuumu/sengen.htm

■曹洞宗
 1992年11月20日、戦前・戦中に宗門が国家権力に迎合し、アジア地域で「日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた」とアジア諸国に謝罪する宗務総長名の懺謝文(さんじゃもん)(懺悔文)を公表した。

 
 調べた感想としては、一部の方を除いて靖国神社へ合祀の取り下げを訴えていないのには、驚きました。特に真宗系の教団は、現世での死を意味する「往生」とは現世から往き、浄土に生れると解釈されているのに靖国の神様?として祀り上げられている事に抵抗はないのだろうか?と疑問に思います。

 また、特定の政治的イデオロギーを持つ団体と深く結びついた僧侶たちが、過去を懺悔し、不戦の誓いをしても大きな意味がないような気がします。イデオロギーではなく、自身の魂(親鸞はご内仏と言っています)からの声で過去を懺悔し、不戦の誓いをしなければ親鸞の教えに反すると私は思うのですが、如何でしょう?

以上、高城久(10月21日)



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中国問題、女の子、生の哲学、自他との闘い、教育の核心 (白樺メール公開)

2005-10-21 | メール・往復書簡

以下は、10月16日・17日の「白樺ML」内のやりとりです。

古林です。

「読解力とは、端的に言えば批判力のことである。」、
昨晩の「哲学の会」でのこんな会話で思い出したことが一つ。

姪(中一女の子)が社会科の教師の度重なる中国批判に耐えかねて、
異議申し立てをしました。
『クラスに中国人の子もいるのに、配慮が足りない。それに、(虐殺の)数が問題
なのではない。起きたことが問題なのだ。』と。
その日、仲のいい中国人のCさんと話をしながら帰ってきました。
Cさん:『中国人も国が嘘の写真や大げさな数字を使って大げさに言い
 立てていることは皆知ってる。でも実際にあったことは事実なのだから・・・・
 それに靖国の問題もなんか変。』
姪:『そうだよね。そのことをはっきり言ってる面白い人がオジサンの知り合いにいるよ。』
という会話があって、タケセンのブログを何人かの友達に紹介して広めているそうです。

後日、Cさんからおじいさんの背中の写真を見せてもらったそうです。
旧日本軍兵士から受けた鞭のあとです。
『でも、日本人が皆悪い人というわけではなかった。だから私は日本に住んでいる。』
おじいさんはそう言っているそうです。
姪はこのちょっとした体験を通じて改めて今話題になっている社会問題をとても身近に
感じているようです。

が、教師を含め大人からは、反抗的で問題のある子だと見えているようです。
問題がないわけではありませんが、その内実を見ようとしない大人が多く姪は孤立
するばかり。
そうならぬよう、私が毎週のように実家へ通う日々です。

『○○について自分の考えを客観的に述べよ。』
自分の考えは主観なのだから客観的になど書けないと、テストでは白紙で出してしまう
姪に問題なしとは言いませんが、正統な批判力だけは育ててあげたいと思います。

以上でした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

古林さん、皆さん。
武田です。

周りからどう見られようと、自分の内なる声に従って生きる。気張らずに自然体で自己のエロースを追求する。他者の評価は他者の評価でしかない。愉しみ・悦びは、自分自身の内なる声ー内なる「よろず神」からしかやってこない。この原理を明晰に自覚しなければ真の人生は始まりません。逆にこれが了解できれば、人間は真に「救われる」というわけです。

面白い人という捉え方では、まだまだ自分自身から逃げている証拠です。自分の心身全体で真正面から受け止めなくては何事も始まらないのです。自分から始まる真の人生は、自己の持つ暗黙の「イデオロギー」を退治しないと永遠にやってきません。
裸の自分を見つめる「勇気」を養うように努力すること、というのが武田からのメッセージです。お伝え下さい。

もしかすると、これをお読みの白樺MLのメンバーは、タケセンは、中学生の女の子に「キツイ」こと言うな~と思われるかも知れませんが、私の生徒にはもっとキツイことを日常的に言っています。存在の中心をしっかりと突かなければ教育は成立しないのです。人間が上っ面のお体裁ではなく、「存在そのもの」として進化するためには、本質的な厳しさが必要です。本質的な「厳しさ」とは、実は奥深い「優しさ」なのですが。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

<武田様>古林です。

丁寧なアドバイスありがとうございます。
お説ごもっとも、です。
自覚できないままに、強固な殻を作り上げてしまった12歳の女の子と
最近、ようやく突っ込んだ話ができるようになりました。
周りをあまりにも気にしなさ過ぎる異様さは自己防衛本能から来たものと
見ていますが、本人には当然のことながら自覚はありません。
真正面から受け止めることをどうやって気づかせようかと頭を抱えています。
環境を変えることと、もっと時間をかけることも必要に感じています。

ただし、中国の問題に関しては、本人自身の内なる声に率直に反応して
行動したようです。タケセンのブログを見ていたらもっと早くに行動していた、
とも本人は言っていました。見せたのは無論私ですが。

取り急ぎ、お礼とコメントでした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

古林様
武田です。

そうですよ。姪御さんに限らず、女の子の自己防衛の強さは、「ものすごい」ものです。まあ、それが人類を存続させてきたのかもしれませんが(笑)。その自己防衛の強さが、逆に環境に合わせて変幻自在に(いい例がーウソですー小池百合子)自己を変える柔軟さ?にもなるわけです。私も中学生(時に小学生も)の女の子と話すときは、断固として・徹底的に・一歩も引かずにという気力を維持するために、全身疲労困ぱいの闘いになります。合わせているだけなら楽しく気楽でいいのですが、歪みを矯正しようとすると「命がけ」になります。女性という人間の「内なる自然」に挑戦することになるからです。ほどほどにしないと間違いなく死にますよ(笑)。

でも実は、これは、「既成秩序」の刷り込みのせいです。男性中心社会の思想と価値意識を「よく」受容する女性が、自己の内なる心身の発する声との軋轢(あつれき)に悲鳴を上げる「ヒステリー」が、いろいろな意匠で出る、というわけです。だから、理屈主義ではない、ほんとうの哲学(恋知)・思想を強く必要としているのは、女性です。男性は単純に頑固に「会社・組織価値」で生きてしまえる、逆の意味で「哀れな」人が多いですから。

ともあれ「文明社会」というウソが組織化された社会の中でエロースの生を営むには、さまざまな創意工夫、発想の転換、「賭け」、が必要です。

話がそれましたので、戻します。
「中国問題」でこの右翼的な教師と闘うのは、姪御さんにとっても、よいことだと思います。中途半端ではなく、徹底的に闘うことー授業ボイコットを含む断固たる抗議の言動を取る覚悟が必要だと思います。おかしなイデオロギー教育は許さないという意思を示す勇気は、自分と他者への深い愛を育てます。
それにしても非・教育者の中学教師が多いですね。それを許すようなテイタラクな大人が多いからですが。人間、理不尽なものと闘わなくなったらお仕舞です。都知事の石原に代表される国家主義者の思想とほんらいの人間教育とは二律背反です。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
武田様。
古林です。

話を聞いて、納得というより背筋が寒くなりました(笑)。
心して腹をくくらねば。

ありがとうございました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

このブログの愛読者・中一の古林さんの姪御さん、いつも見てくれて、ありがとう。
なんでもいいですから、感想や意見、異論・反論等々、ぜひメールでお寄せ下さいね。
タケセンの意見、ちょっと厳しいところもありますが、参考にしてみてください。エールを送ります。
メールは、白樺教育館ー武田康弘
電子メール アドレス :
takesen@mtj.biglobe.ne.jp




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昨日のブログ一部訂正/「天皇教」に縛られた日本宗教者のテイタラク

2005-10-20 | その他

浄土真宗・大谷派(東本願寺)以外でも,1995年以降には、「天皇制国家主義」による日本の侵略戦争に加担した罪を反省・自己批判した宗教がいくつかあるようです。

民知の実践者=「民知者」の高城久さんがいま調べてくれていますので、しばらくお待ち下さい。

武田康弘

なお、浄土真宗・大谷派(東本願寺)は、2004年に以下のような、声明文を出しています。「教育基本法『改正』に反対する決議」(全文はクリック)

教育とは、一人ひとりの人間の自己形成を促進し支援する営みであり、国家が特定の人間像を押し付け、その形成を図るといったものであってはなりません。まして、子どもたちは国家のために存在するものでは決してありません。
 私たち真宗大谷派は、過去において、仏教者としての本分を忘れ、宗祖親鸞聖人の仰せになきことを仰せとし、無批判に国策に積極的に協力した自らの戦争責任を深く懺悔して、1995年、宗議会において「不戦決議」を採択して「惨事を未然に防止する努力を惜しまないこと」を誓いました。
 平和憲法「改正」の道を開き、国際紛争を解決する手段として戦争をも辞さない国を支える人づくりを目指すとともに、強者の論理に立つ能力主義で人間を分断することを推し進めようとする教育基本法「改正」に、私たちは真宗仏教者として断固反対することを、ここに決議するものであります。

2004年6月8日 真宗大谷派 宗議会」

 私は全面的に賛同します。武田康弘





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天皇教⇔わが国宗教界のテイタラク→例外は親鸞を始祖とする浄土真宗

2005-10-19 | 社会思想

天皇現人神(あらひとがみ)という狂気の国家宗教に支えられた近代日本の皇軍(天皇の軍隊)によるアジア侵略は、どれほど反省しても、どれほど謝罪しても、許されるようなものではありません。時間的には、少なくとも1世紀(100年)が必要、ということを皆が肝に銘じるべきです。

この認識を深く明晰にすることは、われわれ日本人全員にとって必須の営為であり、「自明の前提」でなければなりません。自民党の一部能天気な政治家や石原都知事などの偏執的イデオロギーの持ち主が幅を利かせているようでは、日本はおしまいです。「天皇教」(その総本山が靖国神社)による戦争政策をすすめたエリート官僚と政治家と軍部の所業を反省し、その思想をおおもとから消去することなしには、戦後は終わりません。これは原理です。

「天皇教」による戦争政策に加担したわが国のほとんど全ての宗教教団は、戦後ずっと自身の罪業を知らぬ顔をしてやりすごしてきました。何の反省もしないで、世界平和などを唱えているその白々しさには言葉もありません。「無責任性」イコール「天皇制」とも言われますが、まさにどの教団もみな天皇制なのでしょう。

「日本キリスト教団」(プロテスタント系)を除けばほとんど唯一の例外が「浄土真宗」です。浄土真宗という日本最大の教団が戦後40年以上たってからではありますが、深い反省の行動をとったのは「救い」です。

浄土真宗・大谷派(東本願寺)は、1987年に、皇軍(天皇の軍隊)に殺されたアジアの人々を含む全戦没者(2000万人を越える)たちのための「追弔法会」を催し、そこで侵略戦争に加担した教団の罪を謝しました。――「戦時中、わが宗門は戦争を〈聖戦〉と呼び、『靖国神社』に祀られたる英霊は、皇運扶翼の大業に奉仕せし方々なれば、菩薩の大業を行じたるものと仰がる」といったのであります。このこと自体が深い無明であり、厚顔無恥でありました。今そのことを憶うとき、身のおきどころがないような慙愧の念におそわれます。わが宗門は聖人(親鸞聖人)の仰せになきことを仰せとして語ったのであります。私たち僧分の者はその罪をおもうとき、ただ皆様の前に沈黙の頭をたれる他ありません、と。 (親鸞についてはクリックして下さい)

兵士としての戦死者を、洗脳教育に支えられた「天皇教」の総本山=「靖国神社」に国体の神(クリック)として祀っておいたのでは、死者の魂は永久に浮かばれません。一人ひとりの人間が何よりも大事にされ、尊ばれる新しい民主制社会にふさわしい「公共墓苑」の創設が急がれます。このことは論を待ちません。直ちに着手すべきなのです。

10月19日 武田康弘




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小泉・安部のネオ国体思想にノーを!常識のある日本人は靖国=「天皇教」を認めません。

2005-10-17 | 社会思想

戦没者鎮魂ための「公共墓苑」創設を凍結し、天皇現人神(あらひとがみ)の洗脳の施設であった明治の国家主義の中心施設=「靖国神社」を現代の日本政府が認めることは、市民精神に基づく民主制社会に対する挑戦です。社会常識のある日本人の私は、決して容認できません。

おかしなイデオロギーに呪縛されていないふつうの人は、みなそう思うのではないでしょうか。

靖国に象徴される国体思想は、近代日本社会の一番根っこにある欠陥です。エロース豊かな社会ーよき未来を切り開くためには、この間違った日本主義=天皇教の思想をきちんと清算しなければならないでしょう。

「昭和天皇記念館」なるものを、現在国土交通省が建設中です。天皇教の世界を強要する自民党政府にはほんとうにウンザリです。この驚くべき記念館とは?クリックして下さい。


以下の私の文書をぜひご覧下さい。
? A級戦犯が合祀されているから靖国が問題なのではありません。
? 靖国「神社」とは何でしょう。
? 日本の政治家は、国という言葉の意味も知らない?
? 皇族の人権と市民精神の涵養




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恋知者になろう!

2005-10-16 | 恋知(哲学)

みんな、恋知(哲学)者になろう。

お金も資格も要らない、「自分の頭」で考える作用を強める練習だけでよい。

固い・重い・暗い=権威者や復古主義者が最も恐れる「恋知(哲学)者」に皆がなろうとすることは、自分と社会をおおもとから変えていく素敵な営み。

情報以上の価値は、心身全体で会得する知。エロース溢れるドキドキ・ワクワクの世界です。

ちょっと長い(11000字)ですが、「民知ー恋知と公共哲学」をぜひご覧下さい。クリック

武田康弘




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「労働組合と天皇教」(Aさんからのメール)

2005-10-15 | メール・往復書簡

「1989年11月21日、東京厚生年金会館で日本労働組合総連合会の結成大会を開き、初代会長に情報通信労連委員長・山岸章を選出。 総評系単産を加えて78単産、組合員800万人を結集させ、労働4団体の統一を完成させた。 なお、初代会長・山岸は“労働戦線統一の功績”により2000年4月に勲一等瑞宝章を受章した。」

労働組合のトップが、労働戦線統一の功績で勲章をもらっているとは!!!

天皇教はこんなところにも及んでいるのですね。 (A)

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Aさんから以上の趣旨のメール(「労働組合と天皇教」)が届きました。以下は、私の返信です。

A様。
武田です。

「なお、初代会長・山岸は“労働戦線統一の功績”により2000年4月に勲一等瑞宝章を受章した。」

知りませんでした。勲一等瑞宝章を辞退したのではなく、受けた!とはあきれますね~。

「日本人は三人寄るともうそこに天皇制が始まる」、と言われますが、実存のエロースという恋知(哲学)の原理と、思想の内容や程度とは無関係の「序列宗教」=天皇教とは、二律背反です。人間を幸福にしない、形式主義という思想=システムを消去するのは、私たち一人ひとりの思想・生活仕方・態度にあると思います。

メールどうもありがとうございました。




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エロース論 (公共哲学MLメール公開)

2005-10-13 | 恋知(哲学)

山脇直司です。

平和と芸術と哲学を愛するお二人(Hさんと武田さん)の一連のやり取りをみて、現代社会において公共世界を創出するのは、武田さんが強調するエロースだけでなく、ショーペンハウアーが強調したコンパッション(Mitleiden、共苦)が必要に思いました。連帯の絆を形成するコンパッション、実践的パワーとしてのエロース、そして(武田さんがお嫌いな?)アリストテレスのプロネーシス(状況に基づく賢慮)こそが、トランスナショナルな市民的公共性を創出しうると思います。これは、先日、国連大学の招きで来日したオーストラリアのケビン・クレメンツ(英国のNGOインターナショナル・アラート前事務局長)と話していて、再認識した次第。彼はその他に、モラル・イマジネーションの重要性をも指摘していました。
あと、この3月末に行われた国際宗教史学会での報告を基にした本が出版されたので、紹介します。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901916068/ref=pd_pym_rvi_6/249-4362774-9478742
――――――――――――――――――――――――――――

山脇さん、メールありがとうございます。
今日は、2時間の準備時間を入れて、朝から12時間授業!でした。頭がなくなりそう!(笑)。

「コンパッション」とは、大元はキリスト教の「あわれみ」ですか? 共感・共苦ということは、私の場合、日々の仕事はその感情抜きにはありえないのです。さまざまな境遇の子どもたちと交わるとき、コンパッシは必然です。ただしそれは論理以前の「「自然と湧き上がる情動」です。

「プロネーシス」も、対話(広義の政治)を支える実践的な知と捉えれば、市民的公共性をつくりだすものとなるのは、当然です。
また、「モラルイマジネーション」にしてもその重要性は仰るとおりだと思います。しかし、それは人間の生の原理としてのエロース論とは、次元を異にする話です。

両者は、次元がちがう話ですから、ぶつかりません。エロース論は哲学(恋知)の原理の話ですが、コンパッションは、自然な人間的感情のレベルの話、プロネーシスやモラルイマジネーションは、「公共」を生み出す手段の話です。

以下に、生の原理としての「エロース」について簡潔に書きましょう。

激しいエロースの力が創造を可能にし、生の高揚を生み出します。だからそれは別名「狂気」なのです。ただし、「聖なる狂気」(ソクラテス)ですが。
「恋」の欲望は、人間的なよきものの源泉です。この「狂気」」に手綱をつけるものは、「道徳」ではありません。その「狂気」を自身の中で「肯定」しつつも「配慮」へと向かう意思ですが、その「配慮」は、要請(ないし命令)されるのではなく、より上位の「よき・美しき」世界へ向かおうとする「欲望」が生み出すもの。

エロースを高めるのは、エロースの徹底です。よく・美しく変貌していくのは、「貫く」ことによります。愚直にこの「原理」を見つめることでしか実存としての意味充実の生は始まりません。自己と他者への配慮も、モラルイマジネーションも、対話へと向かう実践知も、トータルな社会像への希求も、そして何より大切な「生あるものを慈しみ・いとおしみ・愛する心」も、すべては広大なイマジネーションの世界が支え、可能にしていますが、その源泉は、エロースという人間的「狂気」なのです。

 私は、何かに惹きつけられ・魅了される人間の心のありようを、エロースと呼んでいます。だから、さまざまなよき公共を生み出す概念とは少しもぶつかりませんが、両者は次元の違う話です。私のいう「エロース」とはあくまで「原理」の次元。したがって、「実践的パワーとしてのエロース」という山脇さんの捉え方は、私の考えとは似て非なるものです。また、「モラルイマジネーションは、ソフィアの属性であり、その中でエロースも輝くのだ」というHさん捉え方も、上記の私の考えとは逆になっていますが、それは、この言葉の定義―使用法が異っているからでしょう。私の用法はご説明した通りです。人間の「生きる」を直接支える力がエロースです。


武田康弘

――――――――――――――――――――――――――

以上は、一月近く前に、山脇直司さん(東大大学院教授)のメールでの問題提起を受けて、「エロース」の概念―意味について返信したものです。ブログに出すにあたり一部手直ししました。

アカデメイアの主祭神のエロースについては、クリックしてください。



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本紹介ー「多神教と一神教」本村凌二著(岩波新書)

2005-10-11 | 書評

「多神教と一神教」本村凌二著(岩波新書) 2005年9月21日刊(税抜き740円)

人類最古の文明=メソポタミアの宗教は、人生肯定の快楽主義であった。そこで生まれたさまざまな豊穣と多産の地母神は、やがてイシュタル(原義は、女性器・天)という女神信仰へと収斂されていった。イシュタルは、豊穣と愛(愛欲)と戦争をつかさどる大いなる女神であった。

イシュタル信仰は、フェニキア人のアシュタルテ女神、ギリシャのアフロディテ女神、ローマのウェヌス(ヴィーナス)女神信仰に連なるもの。

この女神像に代表される「多神教」が人類文明の「ふつう」の姿であったのだが、
?ソクラテスが「パイドロス」の中で指摘した文字=書き言葉の発明・普及と、?社会的抑圧が「一神教」へのとびらを開いた。

一神教の成立は、単一神への個人崇拝が、集団崇拝になり、さらに他の神々に対して排他的になるときに誕生する。一神教とは、人類の歴史にとって極めて特殊で例外的な現象であるのだが、現在キリスト教とイスラム教は、世界宗教として地球人口の大半を覆っている。例外が通例になったといえる。このことは、今日の地球世界に最大級の緊張を強いている。

以上が本書のおおざっぱな輪郭線です。古代史研究家による巨視的な人類の「心性史」は、閉塞感に支配された時代にはとても有益だと思います。ご一読をお勧めします。

武田康弘



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