思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

旧い勢力の復活と、不安定な政治状況は、日本の民主政の危機を招きます。

2010-06-29 | 社会批評

歴史的にも言えることですが、民主化の後には、国家主義が台頭し、民主主義を脅かします。日本の場合は、明治の超保守主義者・山県有朋らがつくった近代天皇制=国体思想に郷愁を感じる人々が、ニッポン主義を掲げ、外国人差別をすることで、現状への不満を逸らそうとします。

教職員が会議することを否定し、教育委員会の言う通りに従えばいい、という東京都の石原都知事の思想は、戦前の天皇制政治やドイツのヒトラー政治と同根であり、近代民主主義社会において許される範囲を大きく超えています。
良心をもった人間味あふれる先生、土肥元校長は、東京都からスケープゴードにされ、酷いイジメにあっています。これは思想統制そのものですが、強権による一方的な方向付けの学校教育を行う自由など政治家にあるはずがありません。民主主義では、親や子どもや教師らが望むことを中心にして学校は運営されるべきであり、強面の政治家とその陰で恣意的な権力を振るう役人=官僚による統制は、ほんらい許されていないのです。主権在民=国民主権の原理に反するからです。

女性の参政権も敗戦後までなく、明治の半ば以来、上意下達の「封建道徳」で人々を縛り上げる国家主義による教育が長年続いたわが国は、守旧派が台頭しやすい素地があります。政治状況が不安定になると一番困るのは、わたしたち多くのふつうの市民です。民主的勢力が不安定になれば、まだ極めて不十分なわが国の民主主義社会は、強権による国家主義の政治に脅かされやすいのです。山県有朋と共に、厳禁の精神の持ち主であり、官僚主義の権化のような政治家であった35代総理大臣・平沼騏一郎(現在の検察庁絶対のシステムをつくった人物)に郷愁を持つような政治家は、近代市民社会の民主主義国家には適合しません。


武田康弘
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ハーバードの教授が「現代のソクラテス」!?―呆れるNHKの無教養。

2010-06-23 | 趣味

ソクラテスとは誰か?

夢想家のように、ボーッと自身の想いに沈潜することがしばしばで、

酒はいくら飲んでも酔わないほど強く、
軍人としての耐える力はギリシャ軍随一と言われた屈強の男であり、

善美のイデアを求め、
アテネから生涯離れず、街の中でたえず問答的対話をしていた人。

そして、その結果、思慮(ものごとの本質を考え・知ること)の点では、学者や弁論家や劇作家など名前のよく聞こえた人の方が、つまらない職業と思われている人よりも九分九厘劣っていることを発見した人。

そのソクラテスを真似て、青年たちも有名人を調べたところ、みな知識だけは豊富だが、ほんとうのことは何も知らないことを知った。それによって、ソクラテスは青年たちに悪い影響を与え、ギリシャの神を信じない男だと訴えられ、陪審員制(500名)の裁判で死刑になった人。


ハーバード大学のサンデル教授は、人間のタイプも生き方も立場もソクラテスとは全く異なりますが、その思想内容も、ソクラテスとプラトンの哲学の核である【イデア論】を否定し、その代りに【目的因】を導入したアリストテレスの哲学につくわけです。

「サンデル教授は、現代のソクラテスである」とする千葉大学の小林正弥さんの解説を繰り返し放映するNHKは、極めて非見識だと思いますが、違いますか?

小林正弥さん、NHKの番組担当者の方、ぜひ、反論をお願いします。



武田康弘


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24日(木)参議院で「新しい公共」をテーマにパネルディスカッション

2010-06-22 | その他

24日(木)に、参議院の行政監委員会調査室と内閣委員会調査室の主催で、「新しい公共」をテーマにパネルディスカッションが行われます。

これは、立法府の官僚(国会議員をサポートする人たち)の意識を高めるために行われる会ですので、一般の方の参加はできませんが、極めて公共性の高い催しですので、後日、情報公開されると思います。

以前にご紹介した通り、2007年にわたしと金泰昌氏との「哲学往復書簡」が『公共的良識人』紙に連載されましたが(これは7月に東京大学出版会から本として出ます)、そこでの論争が注目され、わたしは金氏と共に、2008年1月、参議院でのパネル「公共哲学と公務員倫理」でパネラーを務めることになったのです。
金氏とわたしとの忌憚のない厳しい討論は、【主権在民】の意味を深め【官】の位置づけを明確にしましたので、以後わたしは、「公共哲学論争を巻き起こした人物」(参議院・荒井達夫論文)と評されることにもなりました。

そのようなわけで、今回も再びパネラーとして発言するように求められたのです。

以下は、その案内です。わたしに送られてきたものを転写します。


「新しい公共」について考えるパネルディスカッション

行政監視委員会調査室
内閣委員会調査室

○趣旨

前鳩山内閣では、「これまで官が独占してきた領域を公(おおやけ)に開き、新しい公共の担い手を拡大する社会制度」の構築に向けた検討が進められ、本年6月4日、「新しい公共宣言」がとりまとめられた。この施策は、現在の菅内閣でも引き継がれており、「新しい公共」の思想は、今後の我が国の国家運営の全般にわたり影響を与えることになると予想される。
しかしながら、「新しい公共」が真により良い社会の実現につながるためには、行政において主権在民=国民主権の理念が徹底されることが不可欠である。行政において主権在民=国民主権の理念が徹底されることなく、単に「官」の組織・業務のスリム化を目的として「新しい公共」に関する施策が実施される場合、「官」の役割が曖昧になり、責任の放棄となる可能性が高く、また、活躍が期待されるNPOは、天下りの多い公益法人のように、「官」が自分たちの独自の利益を図る下請け機関に過ぎなくなるおそれがあるからである。
「新しい公共」の実現のためには、「官」の意識改革が必須となる。そこで、「公共」の思想と実践に詳しい4名の有識者の方々にお集まりいただき、「新しい公共」の意義と問題点についてパネルディスカッションを行い、その成果を「立法と調査」で公表することとしたい。

○パネリスト

・郷原信郎(名城大学教授・総務省コンプライアンス室長)

・竹田青嗣(早稲田大学教授・哲学者)

・武田康弘(白樺教育館館長・哲学者)

・福嶋浩彦(中央学院大学教授・「新しい公共」円卓会議構成員)


○日時等

・日時:6月24日(木) 13:30~15:30
・場所:調査室7F大会議室
・司会:荒井達夫(行政監視委員会調査室首席調査員)



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サンデル教授の授業ー小林正弥さんからのメールと武田の批判的コメント

2010-06-21 | 恋知(哲学)

以下は、「公共哲学ml」です。
転送歓迎ということですので、公開します。



小林正弥です。重複をお許し下さい。

今日は、NHK教育テレビ「ジャスティス」
の最終回が放送されます。

あまりにも反響が大きいので、NNKも
私も驚いています。

そして、あのような講義に参加したいという
声が多いので、以下のような企画
が試験的になされました。

 これは、公共哲学ネットワーク
などが開催するものではないので、
一定の参加費が徴収されることに
ご注意ください。講義なので、
対話研究会とは異なって、主として
初学者向けの企画ですが、ご関心の方
がいるかもしれませんので、お知らせ
いたします。

 なお、サンデル教授は8月末に
訪日する可能性が濃厚になっています。

転送歓迎
―――――――――――――――――――――――

武田です。

サンデル教授の思想ー授業仕方と思考方法には、わたしは、大いに異議がありますので、彼が来日されるなら、討論(質疑応答ではなく、対等な議論)の場がほしいですね。
ある言語概念を出発点にしてそこから思考するのは、【理論】(○○主義という思想)の次元に過ぎず、【哲学】(ことばの意味を人々の実際・現実に降ろし、立ち昇らせる)にはならないのです。彼の論法(思考法)は、理論家=ソフィストのものであり、哲学者(=恋知者)のものではないのです。「公共哲学」が哲学を名乗りながら理論でしかない、というのでは面白くありませんよね。ハーバードの理論家ではなく、民の哲学者にならなければ、「新しい公共」をつくりだすことはできない、わたしはそう思っています。

―――――――――――――――――――――――

小林正弥です。

 まず、サンデル教授の来日は公共哲学ネットワーク
などが招聘して実現するものではありませんので、この
情報は主催者側からの正式告知がなされるまでは、
このMLの内部にとどめておいてくださるように
お願いします。

 そこで、武田さんのご要望に応えることはそもそも
できないのですが、私の考えを簡単に述べておきます。
そもそも、ハーバード講義は学生相手になされている
ものですので、哲学の問答型の探究スタイルとは自ずと
異なります。

 あくまでも教育における対話型講義の試みとして
捉えるべきであり、それが日本の教育現場に大きな
衝撃をもたらしています。私の対話型講義も
同様の目的でなされていますので、
趣旨を誤解されることのないようにお願いします。

 ちなみに、千葉大COEプロジェクトでは
対話研究会の試みを行ってきましたが、
対話型講義の意義には、サンデル講義に
よって目を開かされ、試み始めました。
対話研究会と対話型講義という性格の
違いも、重要であると思っています。

             小林正弥
         公共哲学ネットワーク代表
        地球平和公共ネットワーク代表

―――――――――――――――――――――――

荒井達夫です。

武田さんの言っているのは、サンデルさんは、優秀な理論家ではあるが、本物の哲学者ではない、ということだと思います。

―――――――――――――――――――――――

小林さん

はじめの二つの段落の内容については、了解です。

下の二つの段落内容につてですが、
サンデル氏の討論授業はダイナミックであり、日本の大学のスタティックで面白みの薄い授業とは大いに異なりますので、彼の講義のある種の鮮やかさに大学教師が憧れを抱くのはよく分かります。学生も。
しかし、彼の授業を「哲学」だとしてしまうと、前記したように、理論的な知識の累積や、相手を論破することが哲学だと思う人が多く出てしまいます。勝ち負けのディベートや、言語=概念主義を超えた豊かな問答こそが哲学の核心なのにです。
言葉のもつ概念を先立て、そこを出発点にするのは、アメリカ人の生き方を見ると納得できますが、それは、哲学する(ことばの意味を人々の実際・現実に降ろし、そこから立ち昇らせる)こととはベクトルの向きが逆なのです。
小泉構造改革がアメリカを手本にしたためにどのような結果になったか、すでに皆が知っています。今度は、思考をアメリカ化してしまうとしたら、それは愚かさの上塗りとしかいえないでしょう。

どうか、よく考えて下さい。冷静によく考えて下さい。なにがほんとうによいことなのか?なにがほんとうに必要なのか?
見かけの華やかさに幻惑されずに、大きく、深く、考えて下さい。これは、わたしの切なる願いです。過たないように、どうか、お願いします。

(追伸)

サンデル氏の最終回の授業を見ました。
わたしは、彼の次元の相違を混同する思考・話し方には批判的ですし、アリストテレスの目的因の考え方には反対ですが、結論には同意します。
道徳的な問題・宗教的な信念の問題・善や正義の問題について、個人の自由の領域だから関与しない(無視する)のではなく、異なる互いの思想内容にまで踏み込んで議論すべし、というサンデル氏の主張は、哲学する者にとっての基本の態度です。それは、わたしがこのMLでやり続けてきたことでもあります(ただし、それをすると煙たがられるようですが)。

近代民主主義社会の原理とは、内容のある思想的な闘いを歓迎し、その営みにより社会を運営する、というものです。幼いころからの「考え・語り・決める」実践教育がなければ、民主主義は形だけのものとなり、主権在民の原理をよく活かすことは不可能です。


武田康弘
ーーーーーーーーーーーーーーー

以下は、2005年7月のブログです。


ソクラテスが訴えられた原因は?以下の「発見」にあります。(『ソクラテスの弁明』(田中美知太郎・訳)より抜粋)


「アテナイ人諸君、誓って言いますが、私としては、こういう経験をしたのです。つまり、名前の一番よく聞こえている人の方が、神命によって調べてみると、思慮の点では九分九厘までかえって最もおおく欠けていると私には思えたのです。これに反して、つまらない身分の人の方が、その点むしろ立派に思えたのです。

 若い者が、自分たちの方から私についてきて、しばしば私の真似をして、調べることをしたのです。その結果、世間には、何か知っているつもりでも、その実わずかしか知らないか、何も知らないという者が、むやみにたくさんいることを発見したのです。

 すると、そのことから、彼らによって調べられた人たちは、自分自身に腹を立てないで、私に向かって腹を立て、ソクラテスは実にけしからんやつだ、若い者に悪い影響を与えている、というようになったのです。・・そこで彼らは負けん気だけは強いですから、組織的かつ積極的に、私について語り、猛烈な中傷をおこなって、諸君の耳をふさいでしまったのです。




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知の目的=主観性の知を育成するためには?

2010-06-18 | 教育

事実学や客観知に対して、
意味論としての知=「主観性の知」とは、総合する知であり、創造する知であり、生と深く結びついた知だ、と言えましょう。したがって、それは、問題解決の知であり、創意工夫の知であり、臨機応変の知なのです。企画、立案し、設計する知であり、自由対話を支える知でもあるのです。

主観性の知は、
何よりもまず、自分の五感で「感じる」ところから始まります。
したがって、主観性の知を育成するためには、
さまざまな事象を「感じ取る」練習が基盤となるわけです。たえず、生活の中で、直接経験につき、そこから「感じ知る」という営みを習慣化することが求められます。

それと同時に、
感情の多彩さ・豊かさの育成が欠かせません。そのためには、日々の豊かな対話と共に、詩や物語、音楽や美術、映画、ドキュメント・・・をよく味わい知ることが大切です。偏った感情や激情ではなく、こまやかで深く、共感性と生命愛に満ちた感情の育成が、人間のよき生の基盤となるからです。

また、
センスを磨くことは極めて重要です。数学の問題を解くにも、研究課題を見つけるにも、ことばを扱うにも、論争するにも、ものを選ぶにも、センスが悪ければよい成果は得られません。
センスは、自分から積極的にものごとに関わり、そこで失敗と成功を繰り返すことではじめて磨かます。他者の判断に従うのではなく、己を賭けて選択することがないと、センスはほんものにはなりません。センスとは情報ではなく、自分自身の内から湧き出る「よきもの」だからです。

意味論としての知=主観性の知が知の目的であり、それは人間がよく生きることに直結している知なのです。人間を幸福にするのは、主観性の知の力だと言えます。

ところが、日本の教育はこのことについて全く理解していないために、ただ事実学・客観学を集積することが価値だとしています。「客観神話」に深く侵されているのです。これでは、知は競争(勝ち負け)にしか過ぎなくなり、生の豊かさを育むものにはなりません。


武田康弘                                   
※このブログは、2009年2月に出したものですが、doブログから移行するときに消えてしまいましたので(mixiにはあります)再録します。



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警察オンブズマンが必要です。

2010-06-17 | 社会批評

ミクシー内でのやりとりです。


痴漢で息子自殺「冤罪」と訴え
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1243979&media_id=2

「尚美さんは平日の夜ごとに新宿駅構内で情報提供を呼びかけている。ボイスレコーダーを再生したところ、原田さんが警察官に「目撃者を探して」と何度も訴え、「大学生に『触っただろう』と腕を引っ張られて暴行を受けた。絶対やってない」と主張する様子が録音されていたからだ。」


まったく、警察のずさんさ、横暴さ、思い込みの絶対化には言葉もありません。
戦前からの、権力主義的発想を変えさせるためには、市民とマスコミの監視が不可欠です。『警察法』の遵守を全警察官に徹底させると共に、警察を監視する【警察オンブズマン】をつくる必要があります。

タケセン

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コメント

智子 2010年06月16日 20:45

記事を読んで『それでも僕はやっていない』という映画を思い出しました。「痴漢だ」と訴えられると、潔白の証明ができないまま有罪になってしまう映画でした。警察を監視する機構が本当に必要ですね。
-------------------

はりやー 2010年06月16日 21:02

タケセンさん、こんばんは^^

このニュース、自分はよく知りませんでしたが
昨日の記者会見、そしてmixiで問題を追及するブログを読んで感じたのは

普通に見れば酔っ払ったクソガキが気弱な人へ因縁を付けて暴行
警察は被害者面する加害者の言い分だけを聞いて本当の被害者を自殺に追い込んだ
警察はその失態を隠すべく、自殺した原田さんに罪を着せて一件落着…

警察が組織保全の為なら冤罪でも何でもやると言うヤクザと同じだなと改めて思いました

気弱な人は、この手の事件になるといつも泣きを見る
警察は善良な市民を守る組織じゃないのか?と感じてしまいます

これは岩手で起きた小原事件と同じです

日本中でこのような事が起きているのかと思うと
警察官の立場を守る意味も込めて警察オンブズマンを作る必要が本当にあると思います

失礼しました。

-----------------------------------------

タケセン 2010年06月16日 22:41

智子さん
はりやーさん
コメントありがとうございます。

市民を守るのではなく、警察の組織を守る!?

この手の事件は頻繁に起きますが、公務員倫理に反するこの最大の不祥事に対しては、政府が責任を持たなければなりません。人権を守るために、われわれ市民が政府をつくっているのですから、官僚の判断にゆだねずに、断固たる行為をとらなければならないのです。

また、民主主義を貫くためには【警察オンブズマン】をつくることが必須です。これは論を俟ちません。政府と政治家はこのような問題にこそ真っ先に取り組まなくてはいけないのです。


武田康弘




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原理的思考(哲学)と原理主義(絶対化)とは全く異なります。

2010-06-14 | 恋知(哲学)

昨日のブログへの質問とお応え

Sam
2010年06月13日 19:33


理想はイデオロギーを招来し、原理はそのイデオロギーを断ち切り健全な思考の礎となる。
確かに!

改めて一つ確認させてください。
『原理』とは、とことんまで考え抜いた挙句、誰もがそう考えざるを得ないという根源的な考えのこと、ですね。私たちはその基本的な考え(原理)を基礎に思考を積み上げ合意形成していく。そうでないと、すべての思考が砂上の楼閣と化してしまう。
(ただし、それは絶対的な正しさとか理想とは異なるものである。)

実は当初、私も原理という語に戸惑いを覚えました。多分多くの方が同じような感じを持っていると思うので少しそのことについて触れます。
原理という語は日常ではまず使われることはありません。初めてお目にかかるのは中学以降ではないでしょうか。物理学の授業だったように思います。(数学では確か公理という語が使われましたが、これも同義でしょうか。)
不幸なことに、私は物理の授業で、原理とは(絶対的)真理に近いものとして教えられました。おそらく多くの方が似た経験を持っているのではと想像します。
「正しいのはこれだ!」と押し付けられれば、誰しも能動的に学ぼうという気がそがれてしまい、ウンザリしてしまいます。日本人の理数系離れもこのあたりに理由があるかもしれません。
科学の世界でいう原理も絶対的な正しさではないはずですが、教える側がすでにかなり混乱していますね。
原理を踏まえる思考を妨げる原因の一つはこのあたりにもありそうです。

また、「原理」と似て非なる「原理主義」という厄介な語もあります。こちらは書かれたものを文字面通り絶対的な正しさとして捉える考えですね。「原理」の意味をわかりにくくさせる困った概念です。

以上、「原理」の意味についての確認でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

タケセン
2010年06月13日 22:34

あらゆるものは、すべて幾つかの原子から成る、と古代ギリシャのデモクリトス(ソクラテスと同年)は言いましたが、この説明仕方は、極めて「原理」的です。それは、宗教的な物語や特定のイデオロギーではなく、人間の自然な推論の仕方であり、異なる文化に生きる人でもそれを追って考えることができるからです。そういう説明の仕方には普遍性があるわけで、その大元の鍵&出発点となる概念を「原理」と呼ぶわけです。だから、「原理」も絶対的なものではなく、より優れた原理が提示されれば、変わります。

原理的思考とは、優れた思考の別名です。
それとは反対の絶対を置く考え方(ロマンや理念の絶対化)を「原理主義」と呼ぶわけですが、それは現実次元の中に宗教的絶対性を持ちこむもので、原理的思考とは対極です。

例えば、近代の「法治国家」とは優れた原理ですが、なぜなんのために法があり、法による支配が必要なのかという意味が了解されないと、文脈・現実を無視した法律文の形式的な解釈が横行し、おそろしく窮屈で非人間的な管理社会を生んでしまいます。
しかし、だからと言って、法治国家という原理をなくすべきだと考えたらひどいことになります。

言葉が似ているから同じようなものと考えたら大間違いですよね。「言語中心主義」というレベルを超えて、言語の意味を知らない、ということでしょう(笑)。

よいコメント、ありがとう。

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理想をもつことと、原理を知ることは、根本的に異なります。

2010-06-12 | 社会思想

武田さんへ
人権という思想を「理想」として措定することは出来ないのでしょうか?

――――――――――――――――――

Kさん

そうです。出来ないのです。「理想」と考えてはいけないのです。合意(=公共のルール)としての人権も、絶対的(カント的)人権も、どちらも「理想」ではなく、「原理」として措定するのです。

あるべき姿(=理想)だとすると、必ず、(1)別のあるべき姿とのイデオロギー闘争になるか、(2)妥当を導く議論を回避し、複数の理想を並べたてることになるか、そのどちらかにしかならず、不毛です。

社会(公共や政治も)の在り方の問題は、「理想」を置くことを禁じ手にしなければなりません。個人の領域で「理想」や「夢」をもつのはよいのですが、社会、公共、政治思想においは、どのような「原理」の上に社会をつくるのか、と問わなければならず、「理想」を置く考え方は、必ず「宗教」的な絶対性に行きつきます。そのために(1)か(2)のどちらかの不毛な世界に陥るしかなくなるのです。

「原理」とは、例えば信号機のようなものです。そのシステムがなければ困る、信号を互いに守り合わなくては自他共に困る、そういうシステムは、個人の損得や趣向を超えて、普遍的に妥当するものです。信号機のシステムを「理想」といったら変ですよね。

武田

――――――――――――――――――――
武田さんへ
では、人権を「理想」ではなく、社会を構成する「原理」と考えればよいのでしょうか?

――――――――――――――――――――

Kさん

その通りです。
近代民主主義社会成立の根拠となるもの=「原理」が、人権思想なのです。
「理想」を置くという考え方と、「原理」は何かを問う思考は、根本的に異なるのです。「理想」という発想をしてしまうと、問題の解決は不可能になります。「原理」を知ることは、宗教的な絶対・超越や○○主義という政治イデオロギーから縁を切り、「民主的な公共性をもつ近代社会思想」を追求するための核心なのです。

武田


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愉悦の極みーアルゲリッチ&フレンズ・ルガノフェスティバル2009

2010-06-10 | 趣味
毎年6月にスイスのルガノで行われているフェスティバルのライブで、3枚組のCDです。


いや~、なんという遊び。

愉しく豊かな悦びの音楽です。

力が抜けきって、時間が踊りだす。

シューマンから始まり、ショパン、メンデルスゾーン、リスト、グリンカ、ラフマニノフ、ラベル、バルトーク、ファリャ、ブロッホ。

どれもこれも、しなやかで、艶やかで、生き生きとして、

時間を忘れてしまいそう。


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悪意あるリーク。些細な問題を突き、政治を混乱させるのは、何のため?

2010-06-09 | 社会批評

贈収賄でも、悪質な違反でもないのに、些細なことで、政治と金の問題だ!と声高に叫び、新閣僚を非難する。こういうことをして一体誰のため、何のためになるのでしょうか。

いま、大きな課題、困難な問題が山積する中で、強力なリーダーシップが何より求められる状況にあります。その中で、市民派の代表のような政権が誕生したのですから、みなが協力して強い政権にしていかなくてはならないでしょう。

荒井大臣への事務所費は、郵便代などであり、違法ではないはずですが、些細な記述上の問題を取り上げて、大きく報道する。まったく「異常」としか言えません。元検事の郷原信郎さんが言う『思考停止社会』そのものです。

歪んだ情報をリークする「特定グループ」と、それに乗り報道してしまう「マスコミ関係者」には猛省を促します。一体誰のため、何のためにこのような行為をするのでしょうか?


武田康弘
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学問と生活世界

2010-06-08 | 恋知(哲学)

学問は人生を豊かにします。面白いですし、有益です。わたしは、知的興味から学問を好みます。

けれども、学問は、それを含んだもっと広く大きな世界の中の一部でしかありません。
日々の生活、日々の経験、生活世界の広大な海、その豊かさの中ではじめて学問は、色づくのです。それは、美しい小島です。


わたしは、書物を読んで哲学します。
しかし、それ以前に、それ以上に、
出来事や人やものや自然を、見て、触れて、感じて、哲学します。音楽を聴いて哲学します。
言葉以前の広大なイメージの世界を豊かにすることで、哲学します。


心豊かな日常、鋭敏な感覚と豊饒な感情世界・・・生活世界の広がりと充実があってはじめて学問は有用性を獲得します。
人に優越するための知、己の疎外感・不全感を糊塗するための知であれば、生きた学問とはならず、人生を豊かにしません。かえって自他に有害な知の羅列にしかならないのです。学問が、自他を抑圧する知の体系となるならば、これほど愚かなことはありません。

学問をその一部として含み、至上の価値を蔵する「生活世界」という広大な海を知ろうではありませんか。善美とは、生活世界の中にあるのですから。


武田康弘
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すごい絵師がいたもんだ! 片山楊谷と島田元旦

2010-06-06 | 趣味

いま、NHK「日曜美術館」で、片山楊谷(1760~1801)と島田元旦(1778~1840)という江戸後期の二人の画家の展覧会(鳥取博物館)を紹介していました。

自由で大胆、細密でありながら強烈なパワーを持つ片山楊谷の屏風絵を見て、仰天しました。また、画風は異なりますが、島田元旦の伸び伸びとした艶やかな色彩にも魅了されました。

伝統的な流派(狩野派や土佐派など)とは異なるところに、すごい絵師がいたのですね。ほんとうにビックリし、また嬉しくなりました。

鳥取博物館のホームページには、
「楊谷の生誕250年にあたり、本展はその画業をまとめて紹介する初の試みとなります。一方、蝦夷地の調査などによってもその名を知られる元旦にとっては没後170年にあたり、二人はともにその画業を再評価・再認識する時期を迎えたといえるでしょう。」
とあります。

地方の方が凄いですね。でも、東京でもぜひ見たいです。「国立博物館」で特別展をすべきです。


武田康弘
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「特捜の病理」を改善するために。 魚住昭

2010-06-06 | 書評

以下は、古林治さんからのメールです。


『g2(月刊現代後継ノンフィクション新機軸メディア)vol.4 2010.june』という見慣れない月刊誌に検察に関する興味深い記事がありましたので紹介します。

『特捜解体論』を書いたのは、ジャーナリストの魚住昭氏で、小沢一郎元秘書の「獄中日記」を取り上げながら日本の検察制度誕生の歪んだ経緯と、その結果暴走し続ける現在の検察を健全化するための処方箋について触れた内容です。
その最後の部分を引用します。


『 すでに読者もお気づきのように村木元局長の事件には”特捜の病理”が凝縮されている。それは石川衆院議員らの陸山会事件にも共通することだ。検事たちは事前に組み立てたストーリーを関係者に供述させて架空の犯罪をつくりあげようとする。ストーリーの誤りを内部チェックする仕組みはないに等しい。
 今のように検察が逮捕や起訴、保釈、さらには量刑にまで事実上の裁量権を握っている限り、同じようなことはこれからも繰り返されるだろう。上村元係長のケースのように、再逮捕の脅しや早期保釈の誘惑で虚偽の事実を認めさせるのはたやすい。検事たちは出世の糸口をつかむため、あるいは独りよがりの正義感を満足させるため、無意識のうちに冤罪をつくりだすだろう。


特捜解体への道筋

(1)それを防ぐには、まず被疑者から参考人に至るまでのすべての取り調べを可視化することだ。被疑者調べの可視化は欧米や韓国ではすでに実現されている。弁護人の立ち会いも多くの国で認められている。捜査過程が検証可能になれば、供述の押しつけは難しくなる。

(2) 可視化とともに”人質司法”の問題も解決しなければならない。無罪を訴えつづけると一年も二年も勾留されるという恐ろしい現実が日本にはある。すでに触れたように、その原因は刑訴法九二条にある。裁判所の保釈決定に対する検察官の介入を排除すれば、江副氏のように保釈されたい一心で身に覚えのない罪も認めざるを得ない人間は大幅に減るにちがいない。

(3)さらに重要なのは、刑訴法三二一条一項二号(検事調書の特信性)を見直すことだ。検察が警察の捜査した事件をチェックする役割に徹するならともかく、特捜事件のように独自捜査で、外部のチェックも受けない検事調書が法廷で特別扱いされる理由はまったくない。調書ではなく、法廷での証言が有罪・無罪を決めるという司法本来のあり方に立ち戻るべきだろう。

 以上の三点が是正されれば、特捜部の捜査のあり方は大幅に変わるだろうが、根本的な解決策ではない。特捜検察システムの最大の問題点は審判(公訴官)がプレーヤー(捜査官)を兼ねていることだ。

 その弊害をなくすには、犯罪捜査権を警察に全面的に委ね、検察は捜査のチェックと公判に専従する体制をつくるしかない。つまり戦後の司法制度改革でGHQが示した「検事は法廷の外に出るべきではない」という原則に立ち戻ることだろう。

 警視庁や大阪府警の捜査二課(知能犯や汚職などの担当)の機能を強化すれば、特捜部の代わりは十分につとまる。何より重要なのは、犯罪捜査は警察に、起訴は検察に任せることによって、検察と警察の責任を明確に区別することである。そうして初めて双方の間に良い意味での緊張感が生まれ、冤罪を防ぐシステムが作動する。

 そうなれば、一握りの検察官僚の思惑が政治や経済を左右するような事態も回避できる。ライブドア事件や一連の小沢氏をめぐる事件のような”粉飾捜査”もなくなるだろう。

 冒頭に堀江貴文さんが指摘した通り、特捜部はもういらない。検察が強大な権限を独占する制度を変え、「検察官王国」を解体しなければ、司法再生への道は開けない。』


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「新しい公共」とは

2010-06-05 | 社会思想

「新しい公共」とは、

戦後の新憲法の理念を具現化するものであり、民主的倫理・民主的人間観に基づく自治的な公共性です。そこでは、生まれによる差別・金品による差別・知識量による差別・学歴や職歴による差別を排し、権威に頼まず、対等な自由対話に基づく共治が目指されるのです。

 公(おおやけ)と公共を分けるという「三元論」的な発想とは全く無縁であり、封建制~近代天皇制の下で「公」と呼ばれてきた領域を「人々の公共」に開き、「公」という独自の領域があるとする思想を元から否定するのものです。

 政府や官僚組織はあくまでも「人々の公共」を具現化するための機関・組織・人であり、公共の僕(しもべ)です。この原理を、現実政治の場面・学校教育の場面・社会生活の場面で徹底させ、現実のものとするためにはどのように考え・行為したらよいかを探求するのが、【民主主義社会における公共の哲学】の使命であるはずです。したがって主役は人々=住民・市民です。専門家はあくまでもサポート役に過ぎません。

「新しい公共」にふさわし菅首相の誕生を心より歓迎します。


武田康弘



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庶民・市民の中から生まれた日本初の首相の誕生を祝します。

2010-06-05 | 社会批評

市民運動として、理想選挙と女性の権利拡張のために闘った高潔な市川房江さんを支え、自民党、及び、国家主義・官僚主義思想とは無縁の総理大臣が誕生したことは、日本の民主主義にとって大きな前進です。

敗戦後65年、天皇主権から国民主権へのコペルニクス的転回を果たした『日本国憲法』施行から63年、わが国にもようやく「ふつうの人」が首相になるというという本来は当然のことが実現しました。ほんとうに素晴らしいことです。

国会議員中の最大実力者の小沢一郎さん、
ぜひ、彼を陰で支えるという仕事をしてください。それをすれば、あなたは歴史的な大政治家として名を残すでしょう。しかし、万一9月の代表選挙で、菅降ろしなどをしたら、政権交代を成し遂げた偉大な業績まで泥にまみれ、すべて水泡と帰してしまいます。それでは、民主党、否、民主主義が終わってしまいますので、ありえない話だとは思いますが。

新首相の菅直人さん、
人事は公平であることが何より大切。特定の人を外すというのでは、民主主義ではありません。ぜひ初心を貫いて下さい。


武田康弘




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