以下は、「公共哲学ml」です。
転送歓迎ということですので、公開します。
小林正弥です。重複をお許し下さい。
今日は、NHK教育テレビ「ジャスティス」
の最終回が放送されます。
あまりにも反響が大きいので、NNKも
私も驚いています。
そして、あのような講義に参加したいという
声が多いので、以下のような企画
が試験的になされました。
これは、公共哲学ネットワーク
などが開催するものではないので、
一定の参加費が徴収されることに
ご注意ください。講義なので、
対話研究会とは異なって、主として
初学者向けの企画ですが、ご関心の方
がいるかもしれませんので、お知らせ
いたします。
なお、サンデル教授は8月末に
訪日する可能性が濃厚になっています。
転送歓迎
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武田です。
サンデル教授の思想ー授業仕方と思考方法には、わたしは、大いに異議がありますので、彼が来日されるなら、討論(質疑応答ではなく、対等な議論)の場がほしいですね。
ある言語概念を出発点にしてそこから思考するのは、【理論】(○○主義という思想)の次元に過ぎず、【哲学】(ことばの意味を人々の実際・現実に降ろし、立ち昇らせる)にはならないのです。
彼の論法(思考法)は、理論家=ソフィストのものであり、哲学者(=恋知者)のものではないのです。「公共哲学」が哲学を名乗りながら理論でしかない、というのでは面白くありませんよね。ハーバードの理論家ではなく、民の哲学者にならなければ、「新しい公共」をつくりだすことはできない、わたしはそう思っています。
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小林正弥です。
まず、サンデル教授の来日は公共哲学ネットワーク
などが招聘して実現するものではありませんので、この
情報は主催者側からの正式告知がなされるまでは、
このMLの内部にとどめておいてくださるように
お願いします。
そこで、武田さんのご要望に応えることはそもそも
できないのですが、私の考えを簡単に述べておきます。
そもそも、ハーバード講義は学生相手になされている
ものですので、哲学の問答型の探究スタイルとは自ずと
異なります。
あくまでも教育における対話型講義の試みとして
捉えるべきであり、それが日本の教育現場に大きな
衝撃をもたらしています。私の対話型講義も
同様の目的でなされていますので、
趣旨を誤解されることのないようにお願いします。
ちなみに、千葉大COEプロジェクトでは
対話研究会の試みを行ってきましたが、
対話型講義の意義には、サンデル講義に
よって目を開かされ、試み始めました。
対話研究会と対話型講義という性格の
違いも、重要であると思っています。
小林正弥
公共哲学ネットワーク代表
地球平和公共ネットワーク代表
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荒井達夫です。
武田さんの言っているのは、サンデルさんは、優秀な理論家ではあるが、本物の哲学者ではない、ということだと思います。
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小林さん
はじめの二つの段落の内容については、了解です。
下の二つの段落内容につてですが、
サンデル氏の討論授業はダイナミックであり、日本の大学のスタティックで面白みの薄い授業とは大いに異なりますので、彼の講義のある種の鮮やかさに大学教師が憧れを抱くのはよく分かります。学生も。
しかし、彼の授業を「哲学」だとしてしまうと、前記したように、理論的な知識の累積や、相手を論破することが哲学だと思う人が多く出てしまいます。勝ち負けのディベートや、言語=概念主義を超えた豊かな問答こそが哲学の核心なのにです。
言葉のもつ概念を先立て、そこを出発点にするのは、アメリカ人の生き方を見ると納得できますが、それは、哲学する(ことばの意味を人々の実際・現実に降ろし、そこから立ち昇らせる)こととはベクトルの向きが逆なのです。
小泉構造改革がアメリカを手本にしたためにどのような結果になったか、すでに皆が知っています。今度は、思考をアメリカ化してしまうとしたら、それは愚かさの上塗りとしかいえないでしょう。
どうか、よく考えて下さい。冷静によく考えて下さい。なにがほんとうによいことなのか?なにがほんとうに必要なのか?
見かけの華やかさに幻惑されずに、大きく、深く、考えて下さい。これは、わたしの切なる願いです。過たないように、どうか、お願いします。
(追伸)
サンデル氏の最終回の授業を見ました。
わたしは、彼の次元の相違を混同する思考・話し方には批判的ですし、アリストテレスの目的因の考え方には反対ですが、結論には同意します。
道徳的な問題・宗教的な信念の問題・善や正義の問題について、個人の自由の領域だから関与しない(無視する)のではなく、異なる互いの思想内容にまで踏み込んで議論すべし、というサンデル氏の主張は、哲学する者にとっての基本の態度です。それは、わたしがこのMLでやり続けてきたことでもあります(ただし、それをすると煙たがられるようですが)。
近代民主主義社会の原理とは、内容のある思想的な闘いを歓迎し、その営みにより社会を運営する、というものです。
幼いころからの「考え・語り・決める」実践教育がなければ、民主主義は形だけのものとなり、主権在民の原理をよく活かすことは不可能です。
武田康弘
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以下は、2005年7月のブログです。
ソクラテスが訴えられた原因は?以下の「発見」にあります。(『ソクラテスの弁明』(田中美知太郎・訳)より抜粋)
「アテナイ人諸君、誓って言いますが、
私としては、こういう経験をしたのです。つまり、名前の一番よく聞こえている人の方が、神命によって調べてみると、思慮の点では九分九厘までかえって最もおおく欠けていると私には思えたのです。これに反して、つまらない身分の人の方が、その点むしろ立派に思えたのです。
若い者が、自分たちの方から私についてきて、しばしば私の真似をして、調べることをしたのです。その結果、世間には、何か知っているつもりでも、その実わずかしか知らないか、何も知らないという者が、むやみにたくさんいることを発見したのです。
すると、そのことから、彼らによって調べられた人たちは、自分自身に腹を立てないで、私に向かって腹を立て、ソクラテスは実にけしからんやつだ、若い者に悪い影響を与えている、というようになったのです。・・
そこで彼らは負けん気だけは強いですから、組織的かつ積極的に、私について語り、猛烈な中傷をおこなって、諸君の耳をふさいでしまったのです。」