思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

『18枚の写真でみる白樺教育館』をアップ

2012-02-28 | 恋知(哲学)

白樺教育館のホームページに、『18枚の写真でみる白樺教育館』をアップしましたので、ぜひご覧ください。

なお、pdfファイルでご覧になると、とても綺麗です。

外面的な美・金満的な豪華ではなく、
内側からのよさと美しさ、人間味豊かなよさと美しさ、という意味でのお洒落な空間を、
安全性の高い堅ろうな建造物としてつくる。
それがわたしの根本理念でした。

受験主義というツマラナイ勉学(頭が悪くなる)ではなく、意味をつかむ有用な勉学、内発的で豊かな人間力を目がける『白樺教育館』の営みを、視覚的にも感じられるようにと思い、18枚の写真集としました。

武田康弘











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国家主義(天皇尊敬)の教育を進めるために「維新の会」と安倍元首相が連携。

2012-02-27 | 社会批評

いよいよ、元首相の安倍氏は、大阪の『維新の会』と連携し、【天皇中心思想に基づく国家主義教育】を目指すとのニュースが流れました。

以下は、安倍氏の主張ですが、山県有朋らの明治の保守政治家がつくった「近代天皇制=国体思想」の焼き直しです。

「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタスペトリーだ。日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。・・一つの家系が千年以上の長きにわたって続いてきたのは、奇跡的としかいいようがない。・・特攻隊の若者たちは、自らの死を意味あるものとし、自らの生を永遠のものにしようとする意思もあった。それを可能とするものが大義に殉ずることではなかったか。彼らは「公」の場で発言する言葉と、「私」の感情の発露を区別することを知っていた。死を目前にした瞬間、愛しい人のことを想いつつも、日本という国の悠久の歴史が続くことを願ったのである。」(安倍晋三著『美しい国へ』)

そして、彼の思想に合うように教育を改革するために、教科書を変える、と主張します。

安倍氏のこの本(文春新書)は、『靖国神社』の売店に平積で売られていたのですが、同じく売店の一番前にうず高く積まれていたパンフレット『靖国神社を考える』(小堀桂一郎=東京大学名誉教授)には、以下のように記載されています。

 「『私』というものを『公』に捧げて、遂には命までも捧げて『公』を守るという精神、これが『忠』の意味です。この『忠』という精神こそが、日本を立派に近代国家たらしめた精神的エネルギー、その原動力にあたるものだろうと思います。ですから、『私』という存在を『公』の為に捧げて働き、遂に命までも捧げて『公』を守る、この精神を大切にするということは少しも見当違いではない。その意味で、靖国神社の御祭神は、国家的な立場でから考えますと、やはり天皇の為に忠義を尽くして斃れた人々の霊であるということでよいと思います。
 出征する兵士たちにとっては、自分たちがたとえ戦死してもあのお社(靖国神社)にまつっていただける。あのお社は天皇陛下も御神拝になるきわめて尊いお社である。微々たる庶民的存在にすぎない自分が命を捨てて国の為に戦ったというだけで天皇陛下までお参りに来て下さる。つまり、非常な励みになったわけです。・・・国の為に一命を捧げるということが道徳的意味をもつのは万国共通です。人間にとっての普遍的な道徳の一項目なのです。」(小堀桂一郎)


また、安倍氏のブレーンの中心者である八木秀次氏は、ちくま新書の『反「人権」宣言』で次のように書いています。

 「人権の概念に本来的に欠けている、歴史・伝統・宗教・共同体といった要素、に目を向けて、それらに照らし合わせて自己の主張の妥当性を検証してみなければならない。・・わたしたちは、道徳教育なき「人権」教育に邁進してきた。そのために今日、社会が荒廃し、液状化を招いたのだと気付くべきではないだろうか。
 私たちはもう「人権」という言葉に怯える必要はない、・・「人権」という言葉に惑わされることなく、それぞれの主張の妥当性を歴史や伝統に根差した知恵、我々の社会の道徳や倫理、共同体における相互の人間関係、これらを総合化したものという意味での『国民の常識』に照らし合わせて個々具体的に判断すればよいのである。
 本書がその書名を「反『人権』宣言」としたのは、そのような意味で今日の私たちが「人権」の呪縛から解放され、【国民の常識】に還るべきことを説くためである。」(八木秀次)



上記の彼らの思想(国体主義)を知れば、彼らが、明治天皇に捧げられた『君が代』を歌うことを執拗に強制する理由がよく分かります。わたしたちふつうの市民は、彼らのアナクロニズムの国家主義を終わらせ、「一人ひとりの人間存在の対等性」と「一人ひとりの自由と責任」を前提とする【人権思想】を深める教育を進めるために、【非暴力不服従の闘い】を開始しようではありませんか。わたしは、「愚か者」たちによる支配を許さないために、断固として不退転で闘います。


武田康弘
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どうして天皇だけが特別?人間は誰もが対等な存在であるはずです。

2012-02-23 | 恋知(哲学)

わたしは、天皇制には明確に反対です。
千代田区に生まれ育ったわたしは、日本人として、よき日本をつくるために、天皇制はだんだん弱めていくべきだ、という考えを少年時代からずっと持ち続けてきました。

したがって、明治天皇(現人神)に捧げられた『君が代』は、主権者が国民に変った日本の国歌としては適さないと確信していますので、歌いません。(国歌は「さくら」か「故郷」がよい)
半世紀前ですが、わたしの通った小学校(越境入学で文京区の誠之小学校)でも、『君が代』は歌いませんでした。民主主義の考えとあわないから、という説明がありましたが、小学生のわたしは、深く納得して、その通りと思いました。

生まれながらにして特別な敬語で遇される存在が正当だというならば、人間は生まれながらにして対等で自由な存在である、という人類がつくった最良の思想と制度=人権思想を絶対の基盤とする民主主義は影が薄くなり、ボヤケテしまいます。

わたしは、一人の人間としての天皇や皇室の人々に対してイヤな感情をもってはいません。みなの税金(天皇家の生活費は年6億円)で生活している一家は、個人の自由がなく、気の毒だな、と同情しています。ダメだ、と確信しているのは、天皇制という制度=精神風土です。

わたしにとっての至高の価値は、【哲学でいう「自己の良心」であり、釈迦の言う「自己帰依・法帰依」】です。外にある制度や他人ではありません。外なる価値を絶対化する精神風土こそが、個人としての人間を幸せにしない元凶なのです。


武田康弘
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「一神教」でも「世俗主義」でもなく、「恋知(納得)の生」こそが価値です。

2012-02-21 | 恋知(哲学)

1.キリスト教やイスラム教のような唯一絶対の神へ帰依をする「一神教」。
オウム教や天皇教のように生きている人間を神格化する「歪んだ一神教」
に基づく生き方。

2.世俗の価値意識―外的価値(東大信仰に象徴される「東大病」―知識量・財産量・履歴量を競うことが人生だとする所有主義)に基づく人生。

どちらもよくないな~~~、と昔からわたしは思ってきました。というより、ずっと【確信】してきました。


他者に従うのではなく、【私】の内奥に深い納得がもたらされる考えと生き方をしたい、それが少年時代からのわたしの思いでした。それを「恋知(哲学)の生」と呼びます。わたしは、その生き方・考え方には、深く大きな普遍性がある、という不動の確信を持ち続けてきました。

わたしは、教育を仕事とする哲学者ですが、その理念は、一人ひとりが自分自身の座標軸をもてるように=みなが恋知者(哲学者)になれるように、というものです。すでに35年が経ちました。

知歴財の【所有】競争から、【存在】のよさ(魅力)を価値とする生き方への転換ーー
ーーこれは、日本のみならず、これからの人類が最も必要とする考え方=生き方であるはずです。
われわれ人類の生き方・価値観のコペルニクス的転回が求められるはず、それがわたしの確信です。

権力や権威という外的価値に頼る人間は、害毒をまき散らす存在でしかなく、それらを必要とする【「私」=内面世界の乏しい人間】には、存在のよさ(魅力)がありません。


武田康弘
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マーラー:交響曲第8番  壮年の小沢征爾指揮・ボストン交響楽団による演奏。

2012-02-18 | 趣味
アマゾンにわたしの感想を書きました。

繊細で濃やか、憧憬に満ちた得難い高揚感

2012/2/18
By 武田康弘 "タケセン" (千葉県我孫子市)

マーラー:交響曲第8番 (CD) 小沢征爾指揮・ボストン交響楽団

初出時から聴いてきました。数多くの8番を持っていますが、この小沢盤は、他に変え難い美質があります。繊細で優しさに満ち、実に濃やかです。終楽章の人間味に溢れた高揚感は独自の世界で、全身が痺れます。欧米人の豪気さとは対照的ですが、傷つき易いマーラーの心を体現した音楽で、この曲の本質を照らす演奏の一つであることは間違いないと思います。大編成の音響的な興味よりも、内なる心の音楽を聴きたい人には大いなるよろこびです。このような憧憬に満ちた演奏は、今後は出ないのではないでしょうか。わたしは今は小沢ファンではありませんが、これはお薦めです。
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「一神教」的な思考を破り、恋知(哲学)の生を始めたい。

2012-02-13 | 恋知(哲学)
以下は、昨年、ある人にあてたメールの一部です。


哲学書読みの専門家や哲学マニアではない人にとって求められる哲学とはどのようなものか?
自分の生に深い価値を生み、悦びを広げ、生活世界を豊かにする哲学とはどのようなものか?
わたしは、それをつくりだしたいと思っています。

哲学とは何か?の「イメージ」をうまく提示できれば、強烈な広がりをもちますー「イメージ」とは、人の意識に直截に与えられるものですから。
ソクラテスの偉大さは、多くの人間にとって最も切実な「恋」の作用や力動として「考えることの意味と価値」を説明(問答的対話)したところにあります。それによってつくられた「イメージ」は、一般的かつ普遍的な広がりがありますので、その後に現れた一神教の世界(キリスト教)においてさえ大きな力を発揮したわけです。ただし、それゆえに、プラトンがつくった学園『アカデメイア』は、キリスト教を国教としたローマ帝国によって禁止=廃校にされたのですが。「以後、何人も哲学を教えてはならぬ」と。

話しを戻します。
恋の比喩による「イメージ」の創造・提示、そこに東洋思想がギリシャ出自の恋知に敵わないゆえんがあるのです。そして、この恋のもつ【至上性への憧れ心】は、一神教のもつ絶対性・唯一性への要求とも符合します。ただし、恋はそれが恋だと自覚されている至上性への憧れですが、一神教の神概念はその至上性を観念を超えた現実であるとする点で、根本的に異なります。
歴史的にも現実的にも、絶対的な神への信仰は、恐ろしい結果を招いてきました。哲学における「普遍的」なよきものへの憧れと、「絶対性・超越性」を求める宗教とは、根本的に違うのです。

信仰ではなく、よきもの、美しいものへの憧れ心をもつ恋知(哲学)の生を歩みたいと思います。


武田康弘
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主体者であるとは? 自分の体験と人の体験の区別。

2012-02-11 | 恋知(哲学)

わたしの体験から、わたしが感じ、想い、考えたこと、
と、
○○さんの体験から、○○さんが感じ、想い、考えたこと、
は、ちがいます。

わたしが、わたしの生活の中から見い出し、考えたこと、
と、
○○さんが、○○さんの生活の中から見い出し、考えたこと、
は、ちがいます。

これは、当たり前のことのようですが、
それをきちんと区別している人は案外少ないようです。

「・・・・・・なのだ。」と自分自身の経験を踏まえての確信のような話しぶりをする人の話しをよく聴くと、実は、
「情報知」や
「人伝えの話」や
「誰かの体験からつくられた考え方」であることが多いのです。

とくに、書物などに書かれていない「ある人の経験から得られた確信」の話は、出所が分からない為に、自分自身の力で獲得したように話しても、バレません。
だから、平気でウソ(言説内容がウソでなくとも、そのような話し方=生き方は基本がウソです)をつく人が多いのには呆れてしまいます。

「情報知」または人から教えてもらったことと、自ら獲得した「体験知」の区別さえできない、また、あえてしないことで「自分の株をあげる」ことをするような人間は、【民主的倫理】のない人と言えますが、それでは、その人の「考え方・生き方」が深まることは決してないでしょう。存在そのものが「軽い」としか言えませんが、そんな「優秀人」や「有名人」が大勢います。


武田康弘
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民治主義ー民治国家 Democracy

2012-02-09 | 社会思想


リーフ(♪)

タケセンさんの言われる【民治国家】
(【主権在官】(「東大病」者による支配)の官治国家から、【主権在民】による民治国家(自分で考える人々による統治)に変えていく)は、
民主主義を明確化している。
民治国家は、私には、民主主義と同じ意味に
さらに、
民が治めると言う視点を強調している点で、
民治主義と感じた次第です。

---------------
タケセン

リーフさん、どうもありがとう。

Democracy(デモクラシー)
とは、もともと、「DEMO=民衆」と「cracy=・・による統治」の合成語ですので、そのまま正確に訳せば、「民主」ではなく、「民治」なのですが、こういう翻訳語に時代的な限界を感じますね。

ーーーーーーーーーーー
リーフ(♪)

【軍人】でない、
と言うだけの【文民】政治では、
官僚も文民であり、
主権在民は、主権在文民にとなり、
すなわち、主権在官となり、
民が主役の主権在民からは
程遠い国家となることが、
証明されました。

民衆のベクトルは、今、
民治国家を希求しています。

官僚主義と言うのは、
誤りを犯しても、国民の批判で誤りを改めない主義。

民主主義を検証する委員会のようなシステムは、
民治国家となるためには、
是非とも必要な制度だと思います。

ーーーーーーーーーーー
タケセン

まったくその通りですね。
第三者機関(オンブズマン)が必要ですね。

ーーーーーーーーーーー
リーフ(♪)

タケセンさん
コメントありがとうございます。
民治国家。民治主義。ここに、日本の未来があると思います。この用語を日本に敷衍すべきと。


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土肥先生と一緒にみんなで進もう。先生 負けるな!私たちがついている。

2012-02-07 | 社会批評

官僚主義(エリート主義)的な論調が目立つ『朝日新聞』でさえも、不当な、否、あまりにも不当な東京地裁の判決を「社説」で厳しく批判していますが、土肥元校長の裁判の判決内容は、石原都知事と都教育委員会の役人の独裁的権力行使をそのまま認めるという驚くべきもので、常識をもつ人なら誰であれ呆れ果てたことでしょう。

驚天動地というべき判決で、民主主義の否定・民主主義の自殺行為としか言えません。近代民主主義国家を肯定する人で、この判決を「正当だ」と思う人は誰もいないと思いますが、もし、このブログの読者で、そう思う方がおられるなら、ぜひその理由をコメント欄にお示しください。

この裁判官は、丸暗記の司法試験に合格し、上司の顔を見ることを学んだ官吏に過ぎず、「民主主義国家とは何か」という本質については何も知らない愚かな人間という他ありませんが、こういうところに受験主義(=東大病・東大教)の恐ろしさが現れます。意味を問わない事実学の累積は、社会を元か腐らせ、破滅へと導いてしまいます。不毛なイデオロギーの闘い(ウヨクとサヨク)ではなく、民知という健全な知(ソクラテス的な問答による知)に基づく言動、生き方が求められるゆえんです。

リンク先は、土肥元校長から送られてきた「支援する会」の案内ですが、読者のみなさん、ぜひ、拡散をお願いします。直接民主的な言動がなければ、民主主義は絵に描いた餅・お題目に過ぎなくなります。この下の『東京新聞』にもありますように、【主権在官】(「東大病」者による支配)の官治国家から【主権在民】による民治国家(自分で考える人々による統治)に変えていくのは、わたしたち一人ひとりの小さな能動性によるはずです。ぜひ共に!

※なお、土肥校長は、東京大学農学部卒業ですが、東大病・東大教とは、無縁な人です(笑)。(「東大病」についての対話をご参照下さい。)

武田康弘
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東京新聞、一面5段抜き「主権在官」打ち破れ (官僚によるメディアコントロールの恐ろしさ)

2012-02-05 | 社会批評

今朝の東京新聞トップ記事は、5段抜きで【「主権在官」打ち破れ】です。

正鵠を射る見出しと内容で、マスメディアの責任を果たしています。原発事故以来『東京新聞』の記事はますます冴え、その内容の的確さと深さで『朝日』、『読売』を大きく引き離し、独走です。販売部数も大幅に増えているとのことですが、当然でしょう。われわれ市民は、ほんとうの情報と確かな見識が欲しいのであり、官僚によってコントロールされた「ウソ」を読むためにお金を払っているのではありません。

この記事は、憲法の国民主権を骨抜きにする「主権在官」構造と闘う日隅一雄(ひずみ・かずお)さんへのインタビューです。ひずみさんは、弁護士で元産経新聞記者、末期の胆のうがんと闘う49歳。

以下は、要旨です。

「原発事故での会見で、情報を隠そうとする姿勢には、国民主権の理念などまったく感じられなかった。細野豪志さんなど政治家は割ときちんと答えようとしていたが、問題は官です。官僚は匿名、だから責任を取らない。彼らに有利な情報しか出さず、メデイァをコントロールしようとする。日本の民主主義は上っ面だけ。「主権在民」ではなく「主権在官」なのです。三年前の政権交代を経ても、その構造は生き延びている。

鳩山さんも菅さんも官僚の抵抗でつぶされてしまい、野田政権になり、結局は自民党時代と同じ官僚主導の政策決定となってしまった。官僚は強いのです。民主主義を実のあるものにするためには、国会内に【民主主義を検討する委員会】をつくるべきです。

いま、国民が官を疑い、主権者として考える兆しがある。インターネットという道具を使い、官僚お任せシステムを打ち破れる可能性は出てきた。情報をきちんと伝えれば、国民は関心を持ちます。マスメディアも変わらざるを得なくなる。わたしは、病気になっていま、伝える活動に専念していることに因縁を感じる。これがわたしの果たすべき役割なんだな、と自分を納得させている。」


また、「審議会」という名の詐術(官僚が政策決定を握る為のシステム)を変えるためには「透明性の確保」が必要ですが、それを阻むのが【事務局】であることが指摘されています。この「事務局」の問題は、昨日の東京新聞・こちら特報部でも詳しく説明されていました。

事務局の数名(実際は特定の一人か二人)が人事を握るシステムは、官僚の集合意識(自分たちの利益を守る)により支えられています。この不透明さ、というより【完全な闇】の人事が、官という組織を動かしています。主権在民を意識している官僚などまず誰もいません。国民の税金で雇われているという意識も皆無です。

わたしは、2年前に、2期(1年間)にわたり参議院の行政監視委員会調査室で客員調査員として働きましたが(仕事は『日本国憲法』の哲学的土台についての問答式授業を行うこと)、上記のことは、わたしの体験によっても真実です。

官僚人事が不透明=まったくの闇、これがまかり通っている日本という国家は、どう考えても主権者不在という他ありません。官僚の集合意識(無意識を含む)がわが国を漂流させているのです。

われわれ市民が、主体性をもち、惰性態を変えていきたいと思います。『東京新聞』が一面トップの大見出しで、民主化のために【「主権在官」を打ち破れ】という記事を載せたのは、まさに民主的メディアの真骨頂です。みなでエールを送りましょう~~。

追記
昨年、5月の8日に、参議院「行政監視委員」の24名(30名中の24名で、過去最多の参加者数)が【最高検察庁】に視察に入りましたが(日本の歴史上はじめてのことです)、マスコミは何も報道しませんでした。国会からの行政監視という民主主義を担保するための大仕事、冤罪が続く検察の不祥事の元を正すための国会議員たちの勇気ある行動(ほんらいは当然ですが)を伝えないマスコミ。なんというテイタラクでしょうか。


武田康弘


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コメント(mixi)


2012-02-06 12:59:43
リーフ(♪)2012年02月05日 22:03

リンク先(武田康弘さん・金泰昌さんらの参議院におけるパネルディスカッション)の
自由対話を拝見し
橋下市長の競技ディベートと
随分違うものだと思いました。
こうした
自由対話なき政治と言うのは
主権在民封じ込めの大きな重石になってますね。
――――――――――――――――――――
タケセン2012年02月05日 23:11

権力をもって議論するのでは、議論=自由対話にはならず、卑怯対話(対話ではなく押し付け)にしなりませんよね。
民主的倫理に基づく「対等な立場での自由対話と議論」に依拠するのが民主制社会を動かす原理なのですが、それが分からず、民主主義とは多数決のことと考えている人ばかり(愚)。最後の手段の多数決を本質と考えるのでは、民主主義は、ひどく歪んでしまいます。
人権まで多数決で縛れると思う人まで出てきます(呆・憤)。
「自由対話なき政治と言うのは主権在民封じ込めの大きな重石になってますね。」
は、まことにその通りと思います。
――――――――――――――――――――
リーフ(♪)2012年02月06日 11:20

タケセンさん、

日本人は、
多数決=民主主義と思わされてますね。

形式的な対話、
権力を背景にした対話で、
一気に多数決に行く。

自由な対話により、
少数意見が忌憚なく言論で多数意見を
追及し、攻撃し、
少数意見が多数決に成長する可能性を保障する制度が、
民主主義。

ことに行政の審議会なり
行政委員会なりでは、
政党色を離れて
権力色を離れて

自由対話が必須だと思います。

審議会、行政委員会に限らず、
司法、行政、立法、
学校、その他、
民主主義を前提とする
多くの場で、

日隅さんが提案されてる
【民主主義を検証する委員会】なり、
そうした、
民主主義をチェックするシステムが
制度として存在することが必須ではないか、
と、私は思えます。

政党色、権力を振りかざし、
競技ディベートでやりあっても、
意味がない。
セレモニーとしての質疑応答では、
意味がない。

自由対話を保障した環境下で
社会科学的なシステムを提案し、
検証することは、
必要ですね。

それを、
権力を背景に、
当選は民意によると、権力を振りかざし、
公選されたと言う公選権力を振りかざし、
基本的人権まで多数決で制限したり、
縛り上げる規範を作るのは、
もはや、
民主主義じゃない。

民主主義の土台をぶち壊す多数決は、
もはや、
民主主義ではない。

(追記)

橋下市長、大阪維新の会の
人事監察委員会などと言う、
職員の5段階相対評価の実施がしっかり行われているかを見張り、
密告で監察する委員会などは、

日隅さんの提案する
【民主主義を検証する委員会】とは真逆。
【ファシズムが行われていることを検証し、強制する委員会】に
ほかならない。
―――――――――――――――――――
タケセン2012年02月06日 12:32

リーフ(♪)さんの上記のコメントは、完全に正しいと思います。

「民主主義は開かれた自由対話に依拠する」というのは、特定の意見ではなく、原理中の原理ですから、家庭と学校教育の中で実践されなくてはなりませんね、その実践なくしては、絵に描いた餅にしかなりません。 対話による考える頭の育成が必要ですーその意味でも受験主義の勉学は最悪です。

核心は、われわれ一人ひとりが、日々、「民主的倫理」に基づいて考え・生きることの実践です。それが人として生きる(=愛情と内面の豊かさをもって生きる)上での幸せ・充実をつくるのですから。

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『仏教、本当の教え』(植木雅俊)ー釈迦の【自帰依とダルマ(法=普遍性)帰依】

2012-02-02 | 恋知(哲学)

植木雅俊(まさとし)著『仏教、本当の教え』(中公新書・840円)


インド→中国→日本
本書は、「伝言ゲーム」により釈迦の思想が大きく変わった様が分明に説明されていて、読んで得する書です。サンスクリット語の原典に戻っての緻密な分析に基づく叙述は説得力に富み、優れた比較文化論となっています。

釈迦の思想は、神という絶対者を置かず、現実の人間対人間の中に生きる論理です。ドグマ・占い・迷信・呪術の徹底した否定の下に、絶対平等思想により権威主義的な発想を排除しました。人の貴賤は「生まれ」によるとする見方を批判し、その人の「振る舞い・生き方・行為」によるとしたのです(仏教には女性差別は全くなかったのですが、中国において「儒教」の影響で女性蔑視となり、それが日本にも伝わりました).

絶対神を認めない仏教は、キリスト教やイスラム教という「一神教」とは根本的に異なり、「哲学」であることが分かりますが、その哲学は、天皇家を尊重し特別な敬語で遇するというわが国の「生まれ」「血筋」の重視という考え方とは、全く相いれません。人類史上に輝く根源的な民主主義思想だと言えます。

釈迦の思想は、他者に帰依(きえ=すがる・服従)することを戒め、【自帰依とダルマ(法=普遍性)帰依】を生き方の根本としました。世俗の価値に従い「他者の視線」を通して自らをとらえる生き方を批判し、自らのダルマ(法=普遍性)に目覚め、それを拠り所とする生き方を説いたのです。
「この世において自己という島に住せよ。自己という帰依処(きえしょ)は真の帰依処である。ダルマ(法=普遍性)という島に住せよ、ダルマという帰依処は真の帰依処である」(『ディーガ・ニカーヤ』第二巻、100頁)ーーーこの【自帰依・ダルマ帰依】は、入滅間近の釈迦による遺言のごときもの。

まさに、「内」からの生き方、内発的生き方そのものです。[一神教]とは根本的に異なり、「上」や「外」(絶対者≒神)からの見方の根源的否定ですので、これからの新しい世界が必要とする哲学と合致しています。

新書版で読みやすいですので、ぜひ。


武田康弘
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